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遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて

現代詩を中心に短詩系の文学についてあれこれ書いていきたいとおもいます。

大手拓次再読ー『藍色の蟇』

2018-12-23 23:32:17 | 近、現代詩人論
大手拓次再読ー『藍色の蟇』




 夢想とは夢の中に神仏の示現のあること、心に思うあてのないこと。だから夢想は一瞬の儚い揺らめきを、あるいは一連の恒久的持続を要求したりするものなのか。わたしには他愛ない空想からとびだす希有な歓喜の一瞬さえも、他人のことばでしか見えない世界があった。ひさしぶりに大手拓次の詩集を読んで、もう三十年前に初めて呼んだ頃とは違って全くつまらないと思って通過していものが、急に足止めにあう。あの頃はなぜか、萩原朔太郎の詩と比べても内閉的で特異な情感と意味の通らないグロテクな感覚についていけなかったのかのしれない。
大手拓次が詩を書き始めた頃の同時代的、世相をふりかえると、昭和七年いわゆる「坂田山心中」が社会的な話題になり、慶応大学理財科三年在学中の調所五郎が恋人の湯山八重子と大磯の通称八郎山で心中した。当時の新聞によると心中事態の報道は扱いも小さくひともめを引くものではなかった。ところがその翌日、大磯法善院に火葬された八重子の死体が盗まれ墓地から少し離れたところから全裸のまま砂まみれで発見され、事件は一転して猟奇な様相を呈する。犯人は橋本長吉という火葬人夫。結末は女性が処女のままであったことが証明されプラトニックラブとして新聞紙上で大きく取り上げられることになる。東京日々新聞は見出しに「天国に結ぶ恋」となづけ、坂田山心中として社会的に映画や流行歌となった。また昭和十一年には阿部定事件がおこりこれも大きな話題として報じられた。ところが映画は後年になってから制作されたが、歌や映画の世界では無縁であった。また坂田山で同じ心中した人々は二十組もあった。昭和四年から自殺者が急増していることは統計がしめしている。その背景には世界不況に巻き込まれた不景気が影響している。東北地方にみられた飢餓状態、子殺し、娘売り、または都会での失業者の行き倒れなど深刻な問題が起き起きていた時代である。

 大手拓次は同時代の世相など関係なくひたすら、ボードレールを読み、北原白秋の「ザムボア」「地上巡礼」などに作品を発表し続けていたのだろうか。昭和十一年十二月、アルス社から刊行された『藍色の蟇』は、やはり粘着的な感覚の故にか注目を浴びたという詩集である。

森の宝庫の寝間に
藍色の蟇は黄色い息をはいて
陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。
太陽の隠し子のやうにひよわの少年は
   美しい葡萄のような眼を持って、
行くよ、行くよ、いさましげに、
空想の狩人はやはらかいカンガルウの網靴に。 (「藍色の蟇」全行)

 この詩は萩原朔太郎との感覚的な類似を思い起こす。あえていえばこのことは朔太郎自身が自らの詩集『黒猫』には彼からの啓示によるところが多いことを認めている。この「藍色の蟇」のスタイルの特異性は作者の特異性というか、内面の生活自体の特異性に基づいているようである。他人との接触を好まないという性格は、終生なおらなかった模様だ。

 「藍色の蟇」では、森はたしかに動植物にとっては宝庫といえるだろうか。藍色という発想も詩人らしい。藍色の蟇は、作者の想像物だと思うが、蝦蟇という一見、背中がぶつぶつ突起した気味の悪い生物と一般的には嫌われやすい生物と思うがその「蟇」に何を夢見ようとしたのか。黄色い息を吐く、ということで、視覚が嗅覚へと写り「ひつの絵模様をかく」とふたたび視覚の世界を呼び覚ます。それはまた「暗い暖炉」に火をつけて暖をとるといったほのぼのとした安堵感をもたらす意味につながっていく。この詩の主人公である「太陽の隠し子のようなひよわな少年」は、作者のことと受け止めることも出来るが、行くよ行くよと勇ましくではなく、いさましげである。「空想の狩人」をひ弱な少年はひきつれて狩り出かけるというのか。太陽の隠し子である少年は「美しい葡萄のような眼を持つ」といわれて、ふと短歌の春日井健の「未成年」が脳裏をよぎった。

 童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり         春日井健
旅に来て惹かれてやまぬ青年もうつくしければ悪霊の弟子     右同じ

大手拓次より四分の一世紀後の歌人が二十歳の時に発表し三島由紀夫に絶賛されたという短歌を振り返える。大手拓次が生涯妻を娶らなかったということが、童貞という春日井健のみずみずしい歌をふりむかせた。だがこの歌は大手拓次はしるよしもない。私の勝手な想像でしかないのだが、白秋を深く敬愛し、白秋の歌誌に作品を発表し続けた十五年という歳月、おどろくことには、ただのいちども訪れたことがないという極端に顔みしりなのか、内気な性格が、憂鬱な幻想の世界で夢想にみちびかれ、ただひとり詩を書き続けることに何の悔いるところがなかったのだろう。逆に言えば詩作しつづけることの強靱な意志の強さを感じることになる。大手拓次の詩の世界を鮎川信夫は次のようにのべている。

「性的抑圧者に特有の官能への執拗なもだえを秘めており、そこに純血なものに焦がれるストイシズムと奇怪な耽美主義とが同居していて、その世界をいやがうえにも特異なものにしている」。

 つまり「純血に焦がれるストイシズムと奇怪な耽美主義」が同居しているということである。
大手拓次の詩的世界は、病的な異常感覚の世界に見えるということだろう。だが異常の世界を異端者として非難するつもりはまったくない。
 それどころか閉ざされた幻想の世界でじっと耐えるように自らの詩的世界をつむぐ。耐えるということばをつかったが、大手拓次は耐えることが苦痛ではなく、ひとり孤独の部屋でたとえば、美しいみどりの蛇の妄想とたわむれていたというまえに、大学を卒業するまで美少年を愛し続けたと云うことと無関係ではないのだろうか。

  陶器製のあをい鴉
  なめらかな母音をつつんでそひくるあをがらす、
うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。        (「陶器の鴉」)

  神よ、太洋をとびきる鳥よ、
  神よ、凡ての実在を正しくおくものよ、
ああ、わたしの盲の肉体よ滅亡せよ、       (「枯木の馬」)

ある日なまけものの幽霊が
  感奮して魔王の黒い黒い電動の建築に従事した。          (「なまけものの幽霊」)

かなしみよ、
なんともいへない、深いふかい春のかなしみよ、
やせほそつた幹に春はたうとうふうはりした生き物のかなしみをつけた。 (「春のかなしみ」)

もじゃもじゃとたれた髪の毛、
あをいあばたの鼻、
細い眼が奥からのぞいてゐる。                   (「笛をふく墓鬼」)

灰色の蛙の背中にのつた死が、
まづしいひげをそよがせながら
そしてわらひながら、                    (「蛙にのつた死の老爺」)

わたしは足をみがく男である。
   誰のともしれない、しろいやはらかな足を磨いてゐる。  
   そのなめらかな甲の手ざわりは、      (「足をみがく男」)

  にほい袋をかくしてゐるやうな春の憂鬱よ、
なぜそんなに あたしのせなかをたたくのか、
うすむらさくのヒヤシンスのなかにひそむ憂鬱よ、        (「つめたい春の憂鬱」)

(未)

立原道造ノート(2)

2018-12-22 10:32:35 | 近、現代詩人論
立原道造ノート(二)習作期の短歌のころ



 立原道造が四季派の詩人と喚ばれることもあるがこの系統は、鮎川信夫によれば「永年にわたり伝統詩によってつちかわれた私的情操を基底としたものだが、本質的な隠遁主義だとおもう。」隠遁というのは俗世界から逃れるという意味もあるのだろうが、「なるべく『人間臭くない』方向、あるいは『人工的文明から少しでも遠ざかった』方向へと向かっていこうとする傾きがみられる。」ということだが、一般にいわれる詩の純粋性の譬えか、それとも時代の風の影響によるものだったのだろうか。ここに四季派といわれた詩人の作品をならべてみる。この詩に至るまでの立原道造の詩的出発が短歌であったことからはじめたい。

   あはれな 僕の魂よ
   おそい秋の午後には 行くがいい
   建築と建築とが さびしい影を曳いていゐる
   人どほりのすくない 裏道を            〈立原道造「晩秋」より〉

   高い欅軒を見上げる
   細かい枝々は空を透き みずのやうに揺れている

  断崖から海をのぞくやうだ
   高い一本の欅を見上げ 私は地球玉に逆さにたつている 〈田中冬二「欅」より〉

  山青し巷の空
かの青き山にゆかばや

朝夕は雲にかくろひ
  かの山に住める人々 (三好達治「山青し」より)

 四季派の詩意識は、海や山、田園といった空間的にも自然のほうに傾き時間的には過去の方に逃げ込むような特徴を見ることができる。過ぎ去ったものへの愛着、郷愁、ときには羨望となって、現在形で書かれているが、過去への風景が現前する形式で書かれている。
 立原道造が第一高校に入学(昭和六年)一年間は寮生活を送るが、苦痛で、二年目からは自宅から通学する。その頃文芸部に属しながら一高ローマ時の会員ともなる、中学三年の頃に国語教師に伴われて、北原白秋に会い、詩稿を示している。ここの頃また詩歌にたいする意思がが高まり前田夕暮の主催する交互短歌詩「詩歌」に四月号から翌六月までほとんど毎号、山本祥彦の筆名で短歌を発表。、石川啄木の『一躍の砂』『悲しき玩具』を愛読し、模倣する者でもあった。と同時に天体観測にも夢中になっていた。
 前田夕暮の短歌は、口語歌の先駆者であり、どちらかといえば物質的存在感に訴える技法があったといわれている。

  向日葵は金幅油を見にあびてゆらりと高し日のちひささよ  (『生くる日に』より)
自然がずんずん体のなかを通過する――山、山、山    (自由律第一歌集『水源地帯』より)

両方の短歌には形式上は大きな違いがあるが、自然の物質的存在感に訴えかける技法には変わりがないだろう。この前田夕暮の短歌から学んだものもあったにちがいない。
 しかし、石川啄木の三行分かち書きの短歌を模倣することから後の詩作への道をあるきはじめた。当時は啄木に共鳴した若者は多いと思うが、立原道造の共鳴現象は、たんなる共鳴というよりは本人の内面に反響する資質的な同致というものがあったからだろう。大多数の読者の生活経験を超えた文学的な共生感を生み出したもの、それは短歌的抒情というほかない日本特有の伝統的言語規範といえよう。

いたく錆しピストル出でし
砂山の
砂を指もて堀りてありしに


啄木の右の短歌を本歌どりした石原裕次郎の「錆びたナイフ」は有名な譬えでもある。この例をもちだすまでもなく、同時代的には「啄木の短歌を媒介とする文学的空間の磁場が形成されたのである」「啄木の短歌が多数の読者を獲得したのは、それが日本語の言語共同対に深く根ざしていたためであって、その逆ではない」(郷原宏『立原道造』より)いったん短歌にふれた道造も当然のめり込んでいったのも以上の理由からといってもまちがいないであろう。
 昭和三年から翌年にかけて、「硝子窓から抄」「葛飾集」「葛飾集以後」の歌ノートを三種を残している。

 
そらぞらしい楽しさでもいいや。もうすっかりうれしさうに口笛吹いてみた
ひら??光る草の葉、積みきって唇にあてた。撫子の花が黙つてみていた

右の詩は少年期の初恋への葬送の歌であるが、自ら立ち直ろうとして打ち立てた虚無的な碑でもある。
また山本という筆名が初恋の少女の名前からとったものということである、ともかく儚く終わったものであったという過去の評伝からの引用はここでは省きたいが、この短歌にいたるまえの歌をかかげておきたい。


あのとき、ちょっぴり笑った顔が感傷をたきつけるのだ、白い歯並び!
小さな白板のような歯並びがちょっぴり見えたんで、僕は今日も淋しい
「お修身」があなたに手紙を受け入れさせなかった、僕は悪い人ださうです
朝の電車の隅で会釈し返したあなた、其時の顔が其のまゝ僕をあざける
何か思いつめてた――ばかなばかな僕、今草にねて空を見ている

 「詩歌」(昭和六年発行)に新人作新として掲載されたうちの短歌五首である。ある少女との失恋の直後の歌である。このように活字化し自己を客観化することで自意識を少しは克服したことがうかがえよう。
 「第一高等学校校友会雑誌」三三五号に「青空」を発表。友人と同人誌「こかげ」創刊、四号で廃刊。夏休みには自宅にこもり、読書にふける、このころから三好達治の詩集の影響で四行詩を書き始める。
なぜ短歌から詩へと移り変わり、というか詩に戻ったという方がっただしいかもしれないが、啄木に遭遇した体験はナルシシズムであり、青年期特有の自己顕示欲と、逃亡へのあこがれ、というきめつけに疑問を投げかけるわけではないが、虚弱な体質であったことと、建築家の勉強についての想像力は詩作に何の影も落としていないのだろうか。当時、習作期の短歌をみても、単なる青年期特有の感傷、青春の感傷ではないかといえそうだ。特に感傷に新たな意味をみつけることはない。たとえば「〈感傷〉とは単なる甘いったるさを脱して 冬の日に凍える氷柱のようにな厳しい鋭角。それは、感覚の奥に秘めら
れた知的意味。真の感傷には 理知的な培いをうながすものが多くありはしないか。」(大城信栄)と、〈感傷〉を賛美のするかのような思考の衣につつむ必要など要しない、そんな特別の意味を付加することはないともうが、啄木の短歌のように当時の読者に受け入れられたということも〈感傷〉だったと思うと、複雑である。

夭逝詩人につきまとう幻影が短歌の世界での感傷であったのかもかもしれない。だがあえて唐突ながらここで、キルケゴールのことばを記しておきたい。
「青年が人生並に自己自身について並外れた希望をだいているときは、彼は幻影のうちにある。その代わり老人は老人でその青年時代を想起する仕方でしばしば幻影にとらえられているのを我々は見るのである」(『死に至る病』より)




 短歌を始めた頃とは限らないが、道造も短歌に希望を見いだしていた頃は幻影の中にいたということがいえるし、私もいままた幻影の中にいても不思議ではないといえるだろか。

  
何事かうれしきことの
ある如く歩きて見き。
淋しさのためか。 (「硝子窓から抄」)

   
我が息はさびし。
はためく草の葉よりさびし。
涙ぐむ       (「葛飾集」)


をとめあり
麻雀の牌もて座り居し
かの姿をば我は忘れず      (「葛飾集」)

 
右の短歌は習作のそれぞれのノートから引いたいたものだが、いずれにも「我」が書かれている。この「我」は石川啄木の短歌から受けとったものであり、近代から取り残されたような存在の「我」である。近代と「我」に対する違和については次の郷原宏の優れた指摘がある。
 
「その歌の基本的な情動が、近代に対する違和とそこからの自己救済にあったかぎり、それは結局のところ「我を愛する歌」のかたちととらざるをえなかった。歌の中で彼らは彼らの「我」を愛した。あいされることとで「我」は彼らの白鳥の歌になった。そして自己愛の純一さが多くの読者を引きつけた。言い換えれば、彼らはひたすらに「我」を愛することによって、多くの読者に愛される存在になった。これはおそらく近代詩史の大きな逆説のひとつである。」

彼らが「我」のほかに信じるものがなかったからこそ「我」を歌い「我」に執着せざるを得なかったはずであろう。近代への違和が彼らに「我」を作り出したのである。それは歌の中でしか存在しえないものであった。つまり歌の中に封じこめられてはじめて詩人の自己表現の核になる、といえるだろう。

「我」と歌を歌う私との乖離。読者にははかりしれないこの奇妙か関係は、短歌という詩型がもつ現実における逆説として受け止めることになる。立原道造の出発が青春の素直な感情の吐露であるという短歌的抒情の世界にはまった、という言い方には素直にうなずけないが、かつて菅谷喜矩雄は「現代詩読本」のなかで立原道造の詩について「何よりもことばが不安であり、詩が、ことばの不安にたえずさらされているごとくである。」と、してさらにはその詩のスタイルは、錯叙とでもよぶべき語法をひとつの個性として持っている。とゆうわけである。たとえば、 
                                
光っていた……何か かなしくて   
空はしんと澄んでいた どぎつく       (「魂を沈める歌」より)

立原の詩の骨格ともゆうべき実体が、この錯叙の語法なのだと菅谷は論述している。この錯叙の護法は、私は短歌を通してえたものと主張したいのだが直感であって論理的にはまとめられえない。
(未)


立原道造ノート1

2018-12-19 06:05:46 | 近、現代詩人論
 *以前の頁で書いていたものです。あらためてここに再掲しました。(田中勲)

立原道造ノート(一)  



 立原道造の詩に初めてふれたときに感じた「哀切」なもの。その裏側には滅びの予感が漂っていて、死のにおいに敏感な若い頃は、一時夢中で読みながらもいつしか離れていった。時間に縛られた読者の身勝手さは誰にも咎める事は出来ないが、あらためて詩集を読んでみることはけっして無駄な行為ではないだろう。あの頃には感じなかった詩の裏側にはりついている死のにおいや残酷な生の苦悩について、ここで見つめ直してみたいと思う。
 それは一編の詩のまえで立ちすくんだかつての不本意な意志が重なり合って囚われるものかげであれ、いつかは消えゆく儚い現象のものかげであれ、その喪失の輪郭を抱きしめるというのではない、しかし、夭折した詩人の短期間に開花したまぶしい光芒を感じるとき、己の失った若さをいとおしむこともあれば、いきがかりのように忘れるために思い出す記憶の残滓もあるだろ。
 立原道造にはじめてふれた頃は「哀切」や「憧憬」といったことばが組みあわさって作り出す詩、その「風景の造型」感に心を強く引かれるものが合った。だから詩の底に張り付いている陰画としての死さえも、それとなく甘美に感じていた気がする。記憶のなかから生まれて、記憶のなかに還っていく詩。それはまるで幻の構造物、その建築力が読者のこころに強く響いたのだろう。作者の意識は常に「風」のように詩の中を擦過していくだけで、意味の実りなどに見向きもしないかのようにおもえた。

 立原道造が子供の頃に東京日本橋の実家を関東大震災で奪われているのだが、災害や自然の暴力の恐怖などの畏れをどのように感じていたのか、知りようもない推測があるだけである。その詩にかぎったことではないが、一編の抒情詩といわれるもののなかには読者を、甘美であれ、憂鬱であれ、それとなくさそっておきながら心が徐々に昂ぶる高揚期に至ってぽいとほうりだし、読者を置き去りにすることがある。作者のせいではない。詩がひとつの深みに接近する(神の領域とは云わないが)あの恍惚感は、なんであったか、いまあらためて立原道造の詩について読みかえしてみたいとおもう。
第一詩集『萱草に寄す』(昭和一二年)の発刊の前に母堂にささげらえた詩集『日曜日』(昭和八年)がある。これらにおさめらえた詩集は当時彼が読み老けたと思われるコクトーやアポリネールの影響が見られる。青春の詩人立原道造の出発期の消息を充分にうかがうにたりる作品群といえよう。

《 風敏局で 日が暮れる
   《果物屋の店で 日が灯もる

    風が時間をしられて歩く 方々に (「風 が ……」全行)


    裸の小鳥と月あかり
郵便切手とうろこ雲
    引き出しの中にかたつむり
     影の上にはふうりんそう
     太陽と彼の帆前船
    黒ん坊と彼の洋燈
    昔の絵の中に薔薇の花
    
    僕は ひとりで
夜が ひろがる (「唄」全行)

まだまだ習作期を脱してはいないが、当時の詩的雰囲気がつたわってくるだろう。
中村真一郎は、『立原道造詩集』のあとがきに次のように書いている。(吉本隆明の「『四季』派の関係」からの孫引き)

  「ぼくは、今まで、数人の詩人に会ったことがあるが、彼だけは、どの詩人とも異なって、まったく物語の中の詩人のやうにーー彼の書き続けた奇妙な抒情的小 説の人物のやうにーー こちらをも、その独自な夢想の中へ、いや応なしに誘い込んでしまふような、この世のものとは思われない何かを、周囲に匂いのやうに保っていた。」

独自な夢想の中にさそうという不思議な力はどこからわいてきたのか。それは「追憶」という甘美な書き方にあると思われる。鮎川信夫は自らの著書の中で((「日本の抒情詩」)立原道造に触れて、彼の詩は〈純潔な美への期待〉によって〈現在という時を、何か、自分が未来にいてふりかえったような心持ちで描く〉といった詩的方法を記していた。それは現在を過去にいてふりむくように過去にダブらせて書く書き方が甘美さを誘うということであるのだろう。私の考えでは「懐かしい明日」への憧憬といった時間的な錯誤の方法が甘美へと転化される、この詩的方法を彼は何処で手に入れたのか、もっぱらそのことに関心が集まるのだが、結論はみだせないまま、堀辰雄との出会いによって、あの軽井沢の地を吹き抜けるみどりの風のように決して無縁ではないといった不思議な出会いに収斂していくのだ。

  堀辰雄が主唱した雑誌「四季」の同人は、三好達治によれば〈ほぼ交友関係になる雑然たる集合〉であったという。さらに「四季」派には〈一般に自然感傷的態度と理念的奈新抒情につこうとする傾きが見られた。同時に邦語に対する破壊的よりは開拓的建設的な努力がみられた。その傾向はやや古風に平穏にみえるものではあったが、当時にあっては他にこれに努める載らす意味に努めるものがほとんどなかったから、それは決して無意味な企てではなかっただろう。〉と記して、立原道造の詩を掲げている。




   夢はいつもかへって行つた 山の麓のさびしい村に
   水引草二風が立ち
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへつた午さがりお林道を

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
ーーそして私は
   見てきたものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
   だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた

   夢は そのさきには もういかない
   忘れつくしたことさえ 何もかも忘れ果てようとおもひ

   夢は 真冬の追憶おうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 静寂のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう  (「のちのおもいに」全行)

右の詩を掲げて、三好達治は〈当時の立原の詩である。彼の誤報語彙の繊細幽趣は前後に陽がなかった。〉さらに〈専らひたむきに無心にまた無鉄砲に身を投げかけた清純な高さ鋭さをもっていた。〉この詩形は後のマチネ・ポェチックの定型詩運動にもしかすると示唆を与えたもの〉であったかも知れないと記している。

 立原道造の文学の出発は、短歌であり、短歌における「感傷」にあった。雑誌「未成年」の編集後記には、立原道造が初めて編んだ歌集「ガラス窓から抄」より七、八年の後に書かれたものだが〈青春の感傷を美しき文学の沃野に思いっきり氾濫させることこそ ぼくらの誇りである。感傷を怖れる所に誠実真摯はない。〉と「感傷」をなんの憶面もなくさらけだす。このことは文学的志向の青年であればなおさらのこと、一応は敬遠するはずの言葉ではないかとおもうが、堂々と宣言する。それが立原道造の純粋さであろう。感傷の奧に秘められた知的な意味を考えるとき、真の感傷とは常に理性を伴わずしてあ
りえないことを理解していたものの言ではないかとおもう。

短歌では、山本祥彦のペンネームで各作品を発表。その頃愛誦していたのは石川啄木であったといわれている。私が最初に感じた「風景の造型」感もこの辺りに主な祖型があったものといえよう、

 ここで、大正初年に日本橋界隈に生まれた立原道造の幼年期を振り返ってみるとき、道造を言葉の世界に導いたとされる誘因はなんなのか、全集等の年譜を参照しながら簡略な年譜をえがいてみよう。

  ・大正三年(一九一四年)
七月三十日、東京市日本橋区橘町に生まれる。(家業は荷造り用木箱の製造業)
  ・大正八年(一九一九年) 五歳
   八月二十二日父貞治郎死去。道造は家督を相続し、三代目の店主と成る。
・大正十二年(一九二三年) 九歳
   九月一日、関東大震災。橘町の家は焼失四、一家は千葉県東葛飾郡新川村の親戚宅に批難。
  ・昭和二年(一九二七年) 十三歳
   四月、府立第三中学校に入学(芥川龍之介、堀辰雄の母校である)この頃から文学書を読み始め、雑誌部発行の「学友開始」に「ある朝の出来事」を寄稿する。
・昭和三年(一九二八年)十四歳
   同級生金田敬の妹久子(小学校六年生)を識りひそかに思慕をよせるようになる。このころから盛んに短歌をつくるようになる。
・昭和四年(一九二九年) 十五歳
   三月下旬、精神衰弱のため震災時の避難先であった千葉の親戚方に赴いて静養する。中学三年の一学期は休学して、転地先の東葛飾地方の方言を採集・調査したり、蛙るに取材した短歌や俳句を集めたりする。夏期休暇中は主として奥多摩の御岳ですごす。口語自由短歌の創作、パステル画の制作が、ますます盛んになる。将来の進路について思い悩み、美術学校に進学することを希望するも、母親の反対にあい、のちに大学で天文学を専攻するというように方針が定まる。そのため家業は弟の達夫がつぐことになる。

 立原道造のような夭逝の詩人にあっては以上のような略年表の中に既に自己形成のひな形をおおかたかたどっていると云っても過言ではないかもしれない。数年後の道造は大学での天文学ではなく建築学を学び、卒