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Editor’s Museum 「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

父の言葉をいま・・・その464

2025-06-25 | ことば

   2006年12月26日付の朝日新聞の“惜別”の欄。
 論説委員でいらした大野博人さんが、11月23日に亡くなられた灰谷健次郎さんへの追悼の文章を寄せられていました。
 大野さんは教師時代の灰谷さんの教え子でいらしたのです。
 「あそびにいきたいよ、せんせい」───。
 そう結ばれた文章が私の心にずっと残っていて、いつか「うの花忌」にお招きしたいと思っていました。
 その願いが叶ったのは、2018年、第11回の「うの花忌」でした。

 フランス人のジャーナリスト、クロード・ルブランさんが突然このミュージアムにいらしたのは、2021年だったでしょうか。
 退職されて白馬村に住まいを移された大野さんを訪ねての帰りでした。
 クロードさんが山田洋次さんの評伝を書き上げられたこと、フランスでの「男はつらいよ」の上映会に協力されていること、寅さんの絶大なファンでいらっしゃることを知りました。

 ちょうどその日、小諸にあった「寅さん会館」の資料がここに持ち込まれたのです。
 あまりにも偶然でしたけれど、クロードさんは、とても喜ばれて資料のひとつひとつをカメラに収められていました。
 「寅さん会館」が閉館になったあと、行き場を失っていた大切な資料です。
 寅さん映画の上映会を小諸と上田で長く続けていらしたグループの方々が保管されていたものです。

 昨年、評伝『山田洋次が見てきた日本』の邦訳が刊行されました。
 クロード・ルブラン著・大月書店、そして──、大野博人、大野朗子訳と記されているではありませんか。大野さん夫妻が訳されたんだ!。
 大野さんはパリ支局長(2000年5月)、ヨーロッパ総局長(2007年9月)を歴任されていました。
 クロードさんとの出会いがあったのですね。

 今週末、6月28日(土)に『男はつらいよ 第47作 拝啓車寅次郎様』の上映会が行われます。
 それに併せて、このミュージアムの一角に、「寅さんに会える部屋」を開設しました。

 お知らせのチラシです。

   企画展 寅さんに会える部屋  vol.1

 日時:6月21日(土)~8月17日(土)まで開催。 11時~17時
    休館日: 毎週火曜日・7月16日(水) 入場料300円
 場所:〒386-0025 長野県上田市天神1-6-1 若菜館ビル3階
    Editor's Museum (小宮山量平の編集室)

 ≪開催にあたり≫
 戦後「理論社」を創業(1947年)、95歳で亡くなるまで生涯編集者であった小宮山量平の“めぐりあい”の歴史をたどることができるミュージアムを設立しました。(2005年)
 その一角に山田洋次さんとの“めぐりあい”を物語るコーナーがあります。
 1987年、モスクワへの旅を同行して以来、試写会に必ず父を呼んでくださった山田監督は、父の感想を心待ちにしてくださっていました。
 父に会うのを楽しみに何度かこのミュージアムへもお越しくださいました。「寅さん」をこよなく愛していた父。
 この場所で「寅さん」を甦らせることができたらきっと喜んでくれると思います。

エディターズミュージアム代表 荒井 きぬ枝

 小諸市に「寅さん会館」がありましたが、15年前に惜しくも閉館してしまいました。
 私たちコモロ寅さんプロジェクト(ココトラ)は寅さんを伝え残して行こうと上映会を行ったり、寅さんの写真を展示し、寅さんの想いを伝える活動をしています。

コモロ寅さんプロジェクト(ココトラ)代表 渡辺 広昭

<特別イベント>
 *「かつくんのハーモニカ演奏」
 今から9年前、東京柴又で「寅さんサミット」が開催され、“コモロ寅さんプロジェクト”もブースを広げました。その店先になんと監督が立ち寄ってくれたのです。
 そしてメンバーのかつくんの「男はつらいよ」のハーモニカ演奏を聴いてくださったのです。翌年にも聴いていただく機会がありました。
 そのかつくんの演奏を会場でぜひみんなにお届けしたいと思います。

 予告:7月12日(土) 14:00
    7月13日(日) 15:00 から会場内で演奏します。
 *FMさくだいらで毎週金曜日の午後4時からの番組の紹介をします。
 *「オルガニート男はつらいよ体験コーナー」(レインボークローバー提供)
 ・問い合せ先: 090-4180-6214(渡辺)
 ・メール:  komoro.torasan@gmail.com

  先月、また突然クロードさんが来てくださいました。
 “寅さん談義”と、“山田作品談義”に花が咲きました。
 (クロードさんは日本語が大変お上手です)
 ミュージアムについて、「この場所、すきです」───と。
 「寅さんに会える部屋」の期間中にまたお会いできたらな、と思っています。

                  
                          2025.6.25  荒井 きぬ枝


父の言葉をいま・・・その462

2025-06-04 | ことば

   いせひでこさん作の絵本『ルリユールおじさん』は、2006年に刊行されました。
 いせさんが描かれたパリの風景にひかれました。
 「あっ、あそこの広場!」──。
 古い建物に囲まれた小さな広場。
 パリでいちばん好きな場所です。
 そこからカルチェラタンへと続く道。
 ルリユールおじさんをさがす女の子ソフィーと一緒に私もなつかしいパリの風景の中を歩きます。

 2023年2月20日付の朝日新聞の記事。

 「ルリユールおじさん」(理論社、2006年、11年から講談社、累計10万部以上)
 わたしの大切な植物図鑑がこわれちゃった。ルリユール(製本職人)のところへ行ってごらんと教わったソフィー。路地裏の小さな窓の奥におじさんはいた。目の前で何十もの作業を経て本をよみがえらせてくれたのは、おじさんの魔法の手だった。

 そしていせさんが語っていらっしゃいます。

       パリの小窓出会った工房

 パリのカルチェラタンを歩いていて、小さな窓にひかれたのが物語の始まりです。2004年10月、長女と旅をして帰る前日。窓辺に金箔を施した本の背表紙がだーっと並んでいて、おじさんが何か縫っているのが見えました。規則正しく手を動かす老人の美しいたたずまいがずっと忘れられず、東京に帰っても夢に窓が出てきたのです。

 おじさんはアンドレ・ミノスさん。ギリシャからの移民で、もうすぐ80歳だと聞きました。仕事は父の代からパリで本を修復するルリユールでした。 
 
 400年以上前のヨーロッパの本には表紙がありませんでした。ルリユールが注文を受けて個々に表紙を作ってあげていたのです。
 もう一つの意味を教えてくれたのもおじさんです。「もう一度つなげる」という意味があるんだよと。人と本をつなげる。人と人をつなげる。その意味の深さに目からうろこがおちました。   (後略)

 2009年に刊行された『日本児童文学』誌。
 <児童文学この半世紀>という特集が組まれていました。

 2009年は日本の「現代児童文学」が出発してちょうど50年目にあたります。
 (中略)
 そこで、本誌ではこの「現代児童文学」の50年を再考する企画の第一弾として、理論社の創業者小宮山量平さんにお話をうかがうことにしました。
 10月の美しく晴れた土曜日、信州は上田駅前「若菜館ビル」3階のエディターズミュージアムへお邪魔しました。以下、聞き手は私、西山です。
  (注)西山さんは、当時編集長でいらした西山利佳さんです。

 父が『ルリユールおじさん』を語りながら「児童文学」を論じています。

(前略)
 たとえばこの伊勢英子さんが描いた『ルリユールおじさん』(理論社 2006年)。
 フランスでは本は仮綴じで売られる。なぜかというと、その本を本当に気に入ったら、それを生涯の宝ものとして、我が家の本という紋章を入れて、気に入った題を入れて革装にする。その本作りがルリユールという仕事。それをやっているのがフランス。
 だからフランスの家庭にはその家の蔵書というものがあるのです。皆皮装で。だからフランスでは、それを誇大に宣伝されて読め読めと言われたものじゃなくて、アンドレ・ジイドが言っていますが、おまえは12歳になったから、お父さんが12歳の時に読んだ本を譲るよと言って譲る。これが、本だ。本の歴史だ。これが本当の成長小説だ。私の蔵書、私が子どもへ残したい本、というのは、これがほんとの出版だ。
 そういう中で、児童文学は生きていけるか、生きていけるような作品を残した作家がいるかどうか。これが児童文学の正念場だと思う。     (後略)

 椎名其二さん。
 1960年に理論社から刊行された『出世をしない秘訣』(ジャン・ポール・ラクロワ)の訳者です。
 ちなみに1935年(昭和10年)に「叢文閣」から発行されたファーブルの『昆虫記』。
 その第一巻目の訳者は大杉栄、そして第二巻から第四巻までの訳者が椎名さんです。
 その椎名さんについて『改訂新版出世をしない秘訣』(2011年こぶし書房刊)の“まえがき”で、父はこんなふうに語っていました。
 まず、いせひでこさんの『ルリユールおじさん』にふれています。
 そして、──。

 題して『ルリユールおじさん』と呼ばれる本書は、あたかも椎名さんその人のパリでの生活が、どんなふうにして成り立っていたのかを、つぶさに物語ってくれるような絵本そのものなのです。一般に「本」といえば、ハードカバーのりっぱな表紙本と、柔らかい紙表紙の並装本とに大別され、後者の多くは「フランス装」と愛称されます。
 と申しますのは、フランスの読書家たちは仮とじめいた並装本を入手して親しむのが通例で、さて、それを読み終えての挙句「これぞわが家の本」と子々孫々に伝えるほどの名著名作ともなれば、改めてわが家独特の上製本とし、家紋などを押捺して書架に飾るのが通例だといわれております。
 わが椎名基二さんこそは日本的な職人的技能を身につけ、いつしかフランスでも格別の評価を受けるほどの「ルリユールおじさん」となり、気の向くままの仕事に打ち込むことで、魂の自由を束縛されることもない暮らし向きを持続していたようです。
 そんな自由な職人芸こそが、正に『出世をしない秘訣』のキイの一つであったに違いない、と、そのことが次節のテーマを支えるはずだと思えるのです。

 6月11日、5年ぶりのパリへ旅立ちます。
 いせさんが描いていらしたあの小さな広場にたたずんで、「また来ましたよ」と心の中でつぶやいて、それから、カルチェラタンへ向かいましょうか。
 「RELIURE」と書かれた工房が見つかるかもしれません。
 そんな数日を過ごしてきます。
 ルリユールのもう一つの意味、「もう一度つなげる」。
 人と本をつなげる、人と人をつなげる、──。
 そのことを胸にきざみながら、──。  

2025.6.4 荒井 きぬ枝

 

地図では広場ではなく、“フェルステンベルグ通り”と記されています。
一角に「ドラクロワ美術館」があります。


父の言葉をいま・・・その430

2024-10-03 | ことば

 『千曲川ーそして明日の海へ』(1997年刊)。
 巻頭に父はこのような感謝の思いを記しています。

 戦後すぐ1947年に私は理論社を創業して出版人としての歩みを始めました。以来五十年、このユニークな社業を支えつづけてくれた多くのスタッフたちが、この《千曲川》の出版を、理論社創業五十周年記念事業の一つに加えてくれるとのことです。こんな形で新しい出版の激流に参加させてもらったことは最大の喜びです。

 父はこの作品で「路傍の石文学賞特別賞」をいただき、「続編を」という多くの方々の声に励まされて、1990年に第二部、2000年に第三部、そして完結編となった第四部を2002年に書き上げました。

 その第一部から第四部までの書評を辰濃和男さん(元朝日新聞論説委員)が書いてくださっています。(「週刊金曜日」2002年7月26日号)
 辰濃さんは13年間「天声人語」を担当されていました。ご自身と父との関係についてはこんなふうに記されています。

 (前略)
 もう四十年も前になろうか。私は当時、東京商大(一橋大)の学生で、一橋新聞の編集部に属していた。当時、一橋新聞の編集部室は神田の如水会館わきにあった。国立に通うことはめったになかったが、この神田の部室にはこまめに通った。
 そのころ、理論社は神田神保町の長門屋書店の二階にあった。小宮山さんは大学の大先輩である。当然、後輩である私たちは遠慮なくいりびたることになる。理論社はいつか、私たち学生仲間のたまり場になっていった。後輩たちの一橋新聞部室が直線距離にして二百メートルそこそこのところにあったのは、小宮山さんにとっての不運、であったろう。何かといえば、私たちは「コミヤマサンとこへ行こう」となって、勝手に押しかけたものだ。 (後略)     
   (「飛ぶ教室」1951年5月 “理論社の仕事”)

 その書評です。
 “ぬくとい人が持つ靭さ(しなやかさ)”と題されています。
 信州を訪ずれて「ぬくとい」という言葉に接した辰濃さんは、父について、その「ぬくとい」の代表選手に思えたと書いてくださっています。

 (前略)
 私にとって、というよりも私たちジャーナリストの仲間にとって、小宮山さんは超人的な先達だった。
 その先達が80歳で自伝的大河小説にとりかかった、という話を聞いたとき、小宮山さんなら当然のこと、と思った。小宮山さんでしか書けない「青春」を読むのがたのしみだった。
 誕生した第一部を読み、みずみずしく細密な筆致に打たれ、志の深さに打たれた。さらに、この長編の主題の一つが「ぬくとさ」であることを強く感じた。(ぬくといと温もりではちょっぴり語感が違う。そのことは承知のうえでこの拙文ではあえて、ぬくとさ=温もりとして書く)。
 小宮山さんは書く。
 「1930年代に生きた『同時代人』の織り成した縦糸と横糸の組み合わせの木綿にも似た温もりこそが21世紀を受けつぐ人びとへの最上の贈りものではあるまいか」
 時代の過酷な変転が人びとの暮らしを凍らせようとしても凍ることのない温もりがそこにはあった、と小宮山さんは体感にしたがって書く。留置場で「国賊」とののしられ、殴打されて、ボロ雑巾になったからだを抱きかかえてくれた同房の人の温もりを、少年のこころはしかと受け止めている。
 こんど四部までを通読し、いたるところに温もりという鍵ことばが織り込まれていることを知った。
 人はだの温もりは人のこころをあたためて尽きることがないし、その言葉は生きて、未来人のこころをあたためつづける。温もりは、いのちそのものなのだ。青春そのものだといってもいい。 
 (中略)
 小宮山さんの描く青春の姿は、縦軸が「ぬくとさ」で、横軸が「靭さ(しなやかさ)」だ。
 その靭さは、たとえば《戦陣訓》への反逆となる。
 ひたすら死に向かうことを「悠久の大義」と説き、「生きて虜囚の辱めを受けず」と説いた《戦陣訓》は、強力な掟となって若者を縛りつけた。小宮山さんは当時のことを書く。
 「親たちだけではない。子どもたちだけではない。妻から夫を、夫から妻を、ただひたすらに人間を物量的に戦力化することだけが求められる宣言(戦陣訓のこと)が、昭和16年(1941年)1月8日に単に陸軍大臣東条英機一人の名において発せられ、今やこんなにも重く、一時代の現実と化しつつある」
 私的制裁の横行する軍隊の中にあっても人間同士の温もりを大切にしてきたフクスケは「一億玉砕」の思想を否定し、「死ぬんじゃないよ、生き抜くんだよ」と説く。
 「自分という魂の奥底に、母たちの願いが生きている。父たちの誇りが、ぼくらに語りかけているのは、生きろ、生きろ、決して死ぬな、生きて生きて生き抜くんだ・・・・・そういう祈りじゃないの」といい、さらに「せめてぼくらは生き抜いて、虜囚の辱めを受けるほどの覚悟をすべき時を迎えたような気がする」と説きつづけるのだ。
 戦時中の軍隊内でこういう思想を持ちつづけるには稀有の靭さ、志、批評精神を要するだろう。
 (中略)
 『千曲川』では再三、青春とはなにかが問われている。いま多くの若者がどんなに早く「生ける屍」と化しているか。あの戦中にもまして、いまの青年たちは死を急いでいるのではないかという作者の厳しい問いかけは私たちを刺激する。
 (中略)
 青春は青年のものではないと小宮山さんはいう。青春というのは、人間から人間へ、世代から世代へと不屈な魂の輝きを継承するための熱い炎だ。それはときには、炎というよりも温もりといえるものであるだろう。
 80歳を過ぎてなお「魂の輝き」を書きつづけた小宮山さんはいまも青春のただなかに生き、この大作で私たちに「青春の新生」を呼びかけている。


 かつてこの国の多くの若者のいのちが失われた戦争がありました。
 そして、今、世界の各地で戦争が続いています。
 “国のために捧げるいのち”があってはなりません。
 「生きて、生きて、生きぬくんだ」───、今でも父がそう語りかけてきます。

2024.10.3  荒井 きぬ枝


父の言葉をいま・・・その383

2023-09-20 | ことば

 父が手がけた本が並ぶこのミュージアムの棚に、ずっと気になっていた一冊があります。題名が気になっていたのです。
 『タスケテクダサイ』。
 1970年に刊行されました。“仁保事件”に
ついて書かれた本です。
 その年(1970年・昭和45年)の5月9日付の中国新聞が残されています。

   ─仁保事件─ 
  岡部被告の無実訴えた長編ルポ近く出版
  徳山の童話作家 金重さん

 【徳山】山口市仁保で十五年前に、一家六人が殺害された仁保事件で死刑の判決を受けた岡部保被告の無実を訴える長編ルポを書き上げ、最高裁の口頭弁論が開かれる六月上旬に出版する青年が徳山市にいる。
 この青年は徳山市都町二丁目、童話作家の金重剛二さん(27)。
 児童文学の出版元である理論社(東京都新宿区若松町、小宮山量平社長)に岡部被告の長男・通保さん(25)が「事件の真相をマスコミに訴えたい」と訪れた。小宮山社長が地元出身の金重さんを推薦したのがきっかけ。
 金重さんは、この事件を調べているうち、あまりにもずさんな捜査で岡部被告が犯人に仕立てられているのに驚き、留置場で被告と面会し、昨年末、筆をとることを決心したという。
 題名はカタカナで「タスケテクダサイ」。現場写真や見取り図を入れた四百字詰め原稿用紙四百三十枚の長編で、五章に分かれ、岡部被告が大阪に移ったときの生活から一変して別荘で逮捕され山口に護送されるまでが第一章、続いて拷問による取り調べ、公判の場面、事件当時三歳だった長男通保さんの“父の無実”の運動から、各地にできた「仁保事件を守る会」(全国十一団体)の活動ぶり─ がドキュメンタリー風に、法律知識のない人にもよく理解できる文章で書かれている。     (後略)
       
 棚にある『タスケテクダサイ』の横には、父あてに届いた金重剛二さんの書簡、そして岡部保さんからの書簡のファイルが置かれています。
 おふたりの当時の思いが伝わってきて、胸が熱くなります。

 父が書いた“まえがき”です。
 冤罪事件と向き合う編集者の姿がそこにあって、一行たりとも省略することができず、ここにそのまま掲載します。

           刊行のことば
                  小宮山 量平
 「タスケテクダサイ」──それは獄中の岡部さんからいただいた手紙の中に、いつも必ず記されていることばでした。誰に対しても、何ひとつとして、タスケル・・・・・・というような役割をになうことなどできるはずもない非力な私にとって、それは、きびしく、つらいことばでした。
 いつしか、私自身も岡部さんに成り代わって、誰彼にとなく、「タスケテクダサイ」と、頭を下げないではいられない気持ちになるばかりだったのです。
 本来なら、眉を逆立てて怒るべきすじあいなのかも知れません。しかし、そんなゆとりさえもない岡部さんのめぐりあわせの不運は、今ではもう、私にも、わがことのように分かるのです。この日本国の中で、かくべつ肩肘怒らせて生きるのでなく、他人を押しのけて先んずるのでなく、堂々と生きるべくして生きる諸人にとって、岡部さんの不運は、まことに身近な隣人のつまづきとして理解できるのです。
 岡部さんは、不甲斐ないとも思えるほどに、まことに、「犯人」に仕立てられやすい立場に立っていたのですが、あの敗戦後の数年の歩みをふり返ってみれば、岡部さんとほど遠くない立場に、私たちの多くは立っていたのでした。私も、あなたも、あっという間に「犯人」に仕立てられる危険を分担しながら生きてきたのです。
 だから、つらいのです。そして、心配なのです。こんなゆきがかりで、こんな不十分なあしらいで、こんなにあっさりと「死刑」が宣告され、一人の人間がこんなにも心細くタスケテクダサイとの叫びをあげ、しかも、その声のとどきようもない孤立を強いられるとしたら・・・・・私には、このような絶望こそ、救いようもない絶望だと思えるのです。
一人の弱者があっけなく葬り去られることは、一人の英雄が衆目を浴びていけにえとなることよりも、はるかにはるかに救いのない深淵をのこすことでしょう。
 国家の裁判の威信が、ほんとうに崩れ去るのは、このような深淵を、私たちが暗い心でみつめねばならないときだと思うのです。
 まだ、最高裁での裁判に希望を托しうる時点で、絶望を語ってはならないはずです。
しかし、いわゆる《仁保事件》と、無実を叫ぶ死刑囚・岡部保さんとに関して、私たちの周辺は、余りにも無関心なのです。政治と絡んだフレームアップなどに関しては、堂々たる気勢は揚がりましたが、もっとも身近な岡部さんの悲運に関しては、わが身にふりかかる火の粉として振りはらおうとする気勢が、まだまだ弱いのです。
 私たちが、深淵のような絶望に陥らないための歯止めが、この事件とこの被告のめぐりあわせを見守ることのなかにはっきりとひそんでいるはずなのに、そこにわが身の問題を感じとる連帯感は低調だと申さねばなりません。
 もちろん、まず責められるべきは、安易に「犯人」をつくりだすわが権力の救いがたい機構的な暴力でありましょう。また、疑わしいままに極刑を科するわが裁判のあり方も、不信のまなざしを避けられないでしょう。しかし、もしも岡部さんへのこの極刑が看過されるようなことがあったならば、いちばん責められるべきは、私たち自身の無関心そのものではないでしょうか。国家への絶望も、裁判への不信も、私たち自身への絶望や不信にくらべれば、何ほどのこともありません。
 無関心という凶器によって、われとわが手で絶望の深淵をきりひらくことこそ、いま、もっとも恐ろしいことだと、おののきをおぼえるのです。
 そんなおののきが杞憂にすぎないものかどうか──それは、本書をお読みくだされば、おのずから明らかになることでしょう。私自身は、冤罪と思われる数々の事件に関して、いささかでも真実をみつめることに役立つための出版を、出版人としてのささやかなつとめとして、何冊か積み重ねてまいりました。すでに、松川事件は無罪となりました。
 鹿地事件も、実体は明らかとなりました。八海事件も無罪の主張がつらぬかれました。
その他にも、松山事件があり、免田事件あり、狭山事件あり・・・・・と、私たちが凝視すべき事件は、私たちの前に並んでいます。そんな中で、仁保事件の被告・岡部保さんの場合などは、一目瞭然とでも申すべき冤罪の様相を示しているのです。
 ただ、岡部さん自身は、余りにも「犯人」に仕立てられやすい弱者でありました。余りにも、ないがしろに扱われてきました。タスケテクダイ・・・・・という切迫した声だけに、すべてがかけられねばならないめぐりあわせでした。どうか、その声をきいてください。   (後略)

 刊行直前、父あてに届いた岡部さんからの手紙にはこんなふうに──。

 先生、どうか一日も早くりっぱな本を作ってくださいませ。
 先生と金重先生の正義と真心、そして私のほんとうの無実は、これによって必ず皆さんが知ってくださると信じています。
 真実はひとつです。太陽はひとつです。
 必ず勝利します。     (後略)
    1970年4月3日    理論社社長 小宮山量平先生 
                       岡部保
 
 調べによると、“1972年12月14日、広島高裁が殺人での無罪判決を下す。12月27日、検察が上告を断念。事件発生から18年、被告の逮捕から17年を経て、無罪が確定” とあります。

 “まえがき”の父のことばを今、心の中でくり返しています。
 「もしも岡部さんへのこの極刑が看過されるようなことがあったならば、いちばん責められるべきは、私たち自身の無関心そのものではないでしょうか」

 父のこのことばが胸にささります。
 この国の政治を変えられないでいる今の状況、責められるべきは私たち国民の“無関心”ではないか───、
 そう思えてならないのです。

                                                    2023.9.20     荒井 きぬ枝