「小宮山量平のめぐりあい年表」。
そう題された年表がミュージアムの壁にかかげられています。
さまざまな人とのめぐりあい、そして生まれた数々の本。
父の“めぐりあい”の歴史はそのまま戦後のひとつの出版史でもあると私には思えるのです。
そして、椋鳩十さんとの“めぐりあい”・・・・・。
一昨日、11月27日付の「信濃毎日新聞」の記事です。
椋鳩十作品の感想文を表彰
─ 出身地・喬木で「夕やけ祭」─
喬木村出身の児童文学者椋鳩十(1905~87)を顕彰する第36回椋鳩十夕やけ祭(喬木村など主催、信濃毎日新聞社など後援)が、村福祉センターで開かれた。
椋作品を対象とした読書感想文コンクールの受賞者を表彰した。
コンクールには県内外の小中学校や一般から計501点の応募があり、椋鳩十賞と優秀賞各5点、奨励賞60点が選ばれた。椋鳩十賞の1人で同村喬木中3年の牧野夏生さん(15)は取材に「(椋作品からは)動物も人間も苦しみながらも頑張っているーというメッセージ性を感じ、好きだ」と話した。 (後略)
記事の最後に受賞者の名前が記載されています。
小2の女の子、小5の女の子、小3の男の子・・・、そして長野市の男性。
ああ、椋さんは今も子どもたちの、そして人びとの心の中に生きている・・・・・。
椋さんと父との“めぐりあい”を思わずにはいられませんでした。
『椋鳩十の本 全25巻』の刊行が開始されたのは1982年。
理論社の“創業35周年記念出版”とされています。
父の願いでもあった全集の刊行です。
『20世紀人のこころ』(2001年 週刊上田社)に父はこう書き記していました。
青春文学作家椋鳩十
島木健作をはじめとして太宰治・石坂洋次郎などを、転向時代が生んだ代表的作家であることは誰もが認めるであろう。けれども、わが椋鳩十については、誰もが一介の児童文学作家であり、動物文学の巨匠としか思ってはいなかった。けれども私自身の青春の文学的回想を辿ってみれば、彼ほど生き生きと語りかけてきた青春文学作家はいない。
昭和八年から九年にかけて、当時の特高警察による弾圧から解き放たれた私の心に、この新作家の鮮烈な山嵩物語のあれこれが、やさしく語りかけたものである。
「若者よ、自然のふところ深く憩うがよい。そこには国家権力なんてものの不当な手に汚されることなく、自由の民が奔放に生き抜いているんだよ」と、そんな囁きが私に生きる勇気と知恵を与えた。
もちろん『山嵩調』という作品群は、後年の彼が明らかにしたように、あの暗うつな転向時代のまっただ中で、彼の心に花開いた自由への憧れであり羽ばたきであった。
けれども多くの作家や批評家たちは、現実の山嵩の子孫が父祖の伝承を語り伝えた作品として、その鮮烈さに驚いた。
かの大宅壮一の如きは、その頃彼が創刊した『人物評論』という雑誌に、私家版の山嵩物語を丸ごと再録して、賛辞を呈した。あたかもその声に魅入られたように、毎日・朝日などの大新聞が彼の新作を連載し始めた。
その当時、私という少年の心に刻まれた鮮烈な感銘は消えることなく、やがて半世紀後、児童文学作家として定着していたこの作家への評価を、敢えて日本文学に青春の活性をよみがえらせた大作家と再評価し、その全著作を『椋鳩十の本』として遺すことに心を傾けずにはいられなかった。 (後略)
『椋鳩十の本』刊行にあたって制作されたパンフレットには、“制作者からのメッセージ”として椋作品に寄せる父の思いが記されていました。
なぜ≪椋鳩十の本≫なのか?
もともと椋先生は、第一に詩人でした。そして自然のふところに分け入る最も現代的な作家でした。この根幹から、子どもたちのための滋養に富んだ「児童文学作品」や少年少女の心を躍らせる「動物文学作品」などが枝わかれしているといえましょう。
大衆の中へ、自然の中へ!
先生はときどき「権力というものは怖いものです」としみじみ述懐します。どんな権力からも自由でありうる最高の戦術は、けっして「偉く」なるような上昇を目ざさず、ひたすらに、自然のふところへ、大衆の中へ・・・・・と、身をひそめることだろうと、昭和史を文学的に生き抜いてきた不敵な体験によって熟知しておられるのでしょう。
かの『山嵩調』という処女作にしても、たんに実在の日本的山の民を描いたというだけではありません。あの頃の世界をファシズム対自由の形で二分していたスペイン戦争を明日にひかえ、その抗争のまっただ中で最も不屈に自由の誇りに生きつづけたバスクの民を想い、それが、わが山の民の上に投影していたのは事実です。
青春よ、おおらかであれ!
いま椋文学をその原形において集大成してみますと、そのみずみずしさが、その不屈さが、その粗野さえもが──正に失われてはならない自然の匂いと音のときめきでよみがえってくるではありませんか。それをこそ、多くの同時代人に贈りたいと思うのです。
「動物も人間も苦しみながら生きている」──。
受賞した中3の牧野さんの感想、すてきですね。
椋さんの作品には、今私たちが失いつつある大切なものをよみがえらせる力があるのですね。
1987年12月27日に椋鳩十さんは亡くなられました。
12月30日付の信濃毎日新聞に、椋さんを偲ぶ父の文章が掲載されています。
椋さんとの“めぐりあい”が語られています。
「“めぐりあい”の不思議さに感動するだけです」───。
父がくりかえしていた言葉を思い出しています。
2023.11.29 荒井 きぬ枝
(前略)
椋先生の主題は、まぎれもなく「自由」であり、それを生きぬく「勇気」であった。正に時代の閉塞は筆舌につくし難いが、若者たちよ、山々に緑は深く、自由の民はその大気の中を駆け巡り、愛を営み、不屈にも生命の讃歌を奏でつづけているではないか!
─そんな感銘が私の中に生きつづけた。
後に先生は、動物を描いても安易に擬人化などはせず、児童文学を創作してもお子様ランチを作ることはなかった。それらの作品の背後に、私は、あの暗い谷間にあっても敢えて高らかに生命讃歌を奏でつづけた高貴な青春の誇りを読み取っていた。いずれ「動物文学者」であり「児童文学者」であるというレッテルを破って、先生の本性の輝きを明らかに為すべき日が来たならば・・・と、私は≪椋鳩十の本≫の構想を胸に燃やしつづけた。
(中略)
思えば私は十七歳の日、先生の鮮烈な文体を胸底に灼きつけ、六十五歳にして先生の全集を編集し刊行できた。しかもこの正月の休みも、先生のJ・ロンドン的青春文学の名作を、『野生の谷間』として、先生のふるさと南アルプスの写真(宮崎学氏による)入りで編集している。
めぐりあい以来の長い道を、私自身は、先生を偲びながら未だ当分歩み続けなければならない。
椋鳩十・文 原田泰治・画 小宮山量平・制作(1984年理論社刊)
椋鳩十・文 太田大八・画 小宮山量平・制作 (1985年理論社刊)