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Editor’s Museum 「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

父の言葉をいま・・・その462

2025-06-04 | ことば

   いせひでこさん作の絵本『ルリユールおじさん』は、2006年に刊行されました。
 いせさんが描かれたパリの風景にひかれました。
 「あっ、あそこの広場!」──。
 古い建物に囲まれた小さな広場。
 パリでいちばん好きな場所です。
 そこからカルチェラタンへと続く道。
 ルリユールおじさんをさがす女の子ソフィーと一緒に私もなつかしいパリの風景の中を歩きます。

 2023年2月20日付の朝日新聞の記事。

 「ルリユールおじさん」(理論社、2006年、11年から講談社、累計10万部以上)
 わたしの大切な植物図鑑がこわれちゃった。ルリユール(製本職人)のところへ行ってごらんと教わったソフィー。路地裏の小さな窓の奥におじさんはいた。目の前で何十もの作業を経て本をよみがえらせてくれたのは、おじさんの魔法の手だった。

 そしていせさんが語っていらっしゃいます。

       パリの小窓出会った工房

 パリのカルチェラタンを歩いていて、小さな窓にひかれたのが物語の始まりです。2004年10月、長女と旅をして帰る前日。窓辺に金箔を施した本の背表紙がだーっと並んでいて、おじさんが何か縫っているのが見えました。規則正しく手を動かす老人の美しいたたずまいがずっと忘れられず、東京に帰っても夢に窓が出てきたのです。

 おじさんはアンドレ・ミノスさん。ギリシャからの移民で、もうすぐ80歳だと聞きました。仕事は父の代からパリで本を修復するルリユールでした。 
 
 400年以上前のヨーロッパの本には表紙がありませんでした。ルリユールが注文を受けて個々に表紙を作ってあげていたのです。
 もう一つの意味を教えてくれたのもおじさんです。「もう一度つなげる」という意味があるんだよと。人と本をつなげる。人と人をつなげる。その意味の深さに目からうろこがおちました。   (後略)

 2009年に刊行された『日本児童文学』誌。
 <児童文学この半世紀>という特集が組まれていました。

 2009年は日本の「現代児童文学」が出発してちょうど50年目にあたります。
 (中略)
 そこで、本誌ではこの「現代児童文学」の50年を再考する企画の第一弾として、理論社の創業者小宮山量平さんにお話をうかがうことにしました。
 10月の美しく晴れた土曜日、信州は上田駅前「若菜館ビル」3階のエディターズミュージアムへお邪魔しました。以下、聞き手は私、西山です。
  (注)西山さんは、当時編集長でいらした西山利佳さんです。

 父が『ルリユールおじさん』を語りながら「児童文学」を論じています。

(前略)
 たとえばこの伊勢英子さんが描いた『ルリユールおじさん』(理論社 2006年)。
 フランスでは本は仮綴じで売られる。なぜかというと、その本を本当に気に入ったら、それを生涯の宝ものとして、我が家の本という紋章を入れて、気に入った題を入れて革装にする。その本作りがルリユールという仕事。それをやっているのがフランス。
 だからフランスの家庭にはその家の蔵書というものがあるのです。皆皮装で。だからフランスでは、それを誇大に宣伝されて読め読めと言われたものじゃなくて、アンドレ・ジイドが言っていますが、おまえは12歳になったから、お父さんが12歳の時に読んだ本を譲るよと言って譲る。これが、本だ。本の歴史だ。これが本当の成長小説だ。私の蔵書、私が子どもへ残したい本、というのは、これがほんとの出版だ。
 そういう中で、児童文学は生きていけるか、生きていけるような作品を残した作家がいるかどうか。これが児童文学の正念場だと思う。     (後略)

 椎名其二さん。
 1960年に理論社から刊行された『出世をしない秘訣』(ジャン・ポール・ラクロワ)の訳者です。
 ちなみに1935年(昭和10年)に「叢文閣」から発行されたファーブルの『昆虫記』。
 その第一巻目の訳者は大杉栄、そして第二巻から第四巻までの訳者が椎名さんです。
 その椎名さんについて『改訂新版出世をしない秘訣』(2011年こぶし書房刊)の“まえがき”で、父はこんなふうに語っていました。
 まず、いせひでこさんの『ルリユールおじさん』にふれています。
 そして、──。

 題して『ルリユールおじさん』と呼ばれる本書は、あたかも椎名さんその人のパリでの生活が、どんなふうにして成り立っていたのかを、つぶさに物語ってくれるような絵本そのものなのです。一般に「本」といえば、ハードカバーのりっぱな表紙本と、柔らかい紙表紙の並装本とに大別され、後者の多くは「フランス装」と愛称されます。
 と申しますのは、フランスの読書家たちは仮とじめいた並装本を入手して親しむのが通例で、さて、それを読み終えての挙句「これぞわが家の本」と子々孫々に伝えるほどの名著名作ともなれば、改めてわが家独特の上製本とし、家紋などを押捺して書架に飾るのが通例だといわれております。
 わが椎名基二さんこそは日本的な職人的技能を身につけ、いつしかフランスでも格別の評価を受けるほどの「ルリユールおじさん」となり、気の向くままの仕事に打ち込むことで、魂の自由を束縛されることもない暮らし向きを持続していたようです。
 そんな自由な職人芸こそが、正に『出世をしない秘訣』のキイの一つであったに違いない、と、そのことが次節のテーマを支えるはずだと思えるのです。

 6月11日、5年ぶりのパリへ旅立ちます。
 いせさんが描いていらしたあの小さな広場にたたずんで、「また来ましたよ」と心の中でつぶやいて、それから、カルチェラタンへ向かいましょうか。
 「RELIURE」と書かれた工房が見つかるかもしれません。
 そんな数日を過ごしてきます。
 ルリユールのもう一つの意味、「もう一度つなげる」。
 人と本をつなげる、人と人をつなげる、──。
 そのことを胸にきざみながら、──。  

2025.6.4 荒井 きぬ枝

 

地図では広場ではなく、“フェルステンベルグ通り”と記されています。
一角に「ドラクロワ美術館」があります。


父の言葉をいま・・・その461

2025-05-28 | ことば

 父の本棚に大切に置かれていた「岩波ブックレット No.55」(1986年2月刊)。
 表題は『荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領演説 全文』です。
 父はこの演説について、たびたび語っていました。
 2015年2月13日付の朝日新聞が、1月31日、94歳で逝去した大統領の追悼式の模様を伝えています。

 (前略)
 『荒れ野の40年』と邦訳された有名な演説は、敗戦40年にあたる1985年5月8日に連邦議会で行われた。その中で、ヴァイツゼッカー氏は「罪があってもなくても、我々全員が過去を受け入れなくてはならない」としたうえで、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と訴えた。  (後略)

 自民党の参議院議員の沖縄での発言について「しんぶん赤旗」はこのように記していました。(「潮流」)

 2007年9月、沖縄県宜野湾市で11万人が参加した大集会が開かれました。この年、「集団自決」に日本軍の命令・強制があったとする教科書の記述を、政府が検定で削除・修正。歴史の事実を消すのかと県民の怒りが噴きあがったのです。
 集会では登壇した高校生たちが訴えました。「私たちのおじいおばあたちが、うそをついているといいたいのでしょうか」。
 軍から「敵に捕まるより死を選べ」という指示を受け、手りゅう弾を渡されていたという祖父母らの話を聞いて育った世代です。
 怒りのこもった発言に、参加者は大きな拍手と歓声で応えました。それから18年。都合の悪い歴史を塗りつぶそうとする動きが相変わらず繰り返されています。

 灰谷健次郎さんの『太陽の子』(1986年 理論社刊)をまた読み返しています。
 何度も何度も読んだ部分なのに、“ろくさん”の言葉がまた私の胸につきささります。

 「この手を見なさい。よく見なさい」
 ろくさんは上着をとり、寒いのにシャツまではいだ。浅黒い皮膚が出て、その胴には手が一本しかついていなかった。
 ろくさんは見えない左手を突き出した。ほとんど根元からその手はなかった。十分な手当てが受けられなかったのか傷口がいびつだった。
 「手榴弾でふっとばされた」
 ろくさんはいくらかたじろいでいる男たちの前でいった。
 「敵の手榴弾ではない。わしはただの大工で兵隊ではなかった。沖縄を守りにきてくれていた兵隊がわしたちに死ねといった。名誉のため死ねといって手榴弾をくれた。国のためテンノウヘイカのため死ねと彼らはいった。わたしたちはみんなかたまってその真ん中で手榴弾の信管を抜いた」
 (中略)
 「ええか、この手をよく見なさい。見えないこの手をよく見なさい。この手でわしは生まれたばかりの吾が子を殺した。赤ん坊の泣き声が敵にもれたら全滅だ、おまえの子どもを始末しなさい、それがみんなのためだ、国のためだ───わしたちを守りにきた兵隊がいったんだ。沖縄の子どもを守りにきた兵隊がそういったんだ。
 みんな死んで、その兵隊が生き残った。・・・・・この手をよく見なさい。この手はもうないのに、この手はいつまでもいつまでもわしを打つ」

 かの参議院議員は「ひめゆりの塔」について、「日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり隊が死ぬことになった」という説明があるとして、「歴史の書き換えだ」と言い放ったのです、
 “「潮流」”の文章は以下のように結ばれています。

 大戦末期、敗戦濃厚となった日本が沖縄を捨て石にしようとして、多数の住民が犠牲になったのは歴史的事実です。子どもまでが動員され、軍によってスパイだとして殺された人、壕から追い出されて命を失った人もいました。
 つらい体験の証言と研究者の努力で明らかになった事実。それを塗りつぶす言動は、日本を再び戦争をする国にしようとする動きと一体です。許してはなりません。
 
 「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」──────。
 この言葉を今あらためて重く受け止めています。
 そして、『太陽の子』。
 “ろくさん”の告白に向き合う“ふうちゃん”です。
 
 ふうちゃんは大きく眼を見開いた。いつかギッチョンチョンの家で見た集団自爆の写真の中に、ろくさんがいたということではないか。
 「そして、みんな死んだんだ」
 ふうちゃんが吐き気をもよおしたあのむごい光景が、今またそこにあった。
 ふうちゃんはしっかり眼を見開いていた。悲鳴をあげたり吐いたりするのではなく、今しっかりとその光景を見なくてはならないと、ふうちゃんは思った。

 過去に目を閉ざさない───、そう、私もひとりの“ふうちゃん”でありたいと思っています。


                        2025.5.28   荒井 きぬ枝

 

 


父の言葉をいま・・・その460

2025-05-21 | ことば

 昨年の11月4日、「無言館」の近くに建立された「9条の碑」の除幕式。
 賛同者代表であいさつさせていただいた私の話を聞いてくださって、取材にいらしていた朝日新聞の記者さんが、
 「今度必ずエディターズミュージアムを訪ねますね」――と。
 「ぜひ見ていただきたい場所です」、私はそう申し上げました。
 そして先月末、
 「憲法記念日の前に一度うかがいたくて」と、記者さんが来てくださったのです。

 5月4日付の朝日新聞“信州版”。
 その記者さんが書かれた記事が掲載されていました。

    憲法の意義 改めて
 憲法記念日の3日、県内では上田や松本、長野市など各地で集会や街頭での訴えがあった。今年は戦後80年。世界で戦禍がやまないなか、戦争放棄をうたう日本国憲法の意義を改めて確かめ合った。
(前略)
  編集者・小宮山さんの「部屋」
   平和願い重ねた談義
 上田駅前にあるエディターズミュージアム。上田市出身で理論社を創業、編集者で作家の小宮山量平さん(1916~2012)が手がけた本など約2万冊が並ぶ。
 05年に開設された「編集者の部屋」を引き継いだ長女の荒井きぬ枝さん(77)にとって「多くの人が訪れ、憲法談義などを重ねた場所」だ。
 思い出深いのは、放送タレントで作家の永六輔さん。小宮山さんとの交友から毎年、ミュージアムで講演会を開いてきた。平和や護憲を訴えていた永さんは16年に83歳で亡くなる1年前の5月も車いすで来て、「憲法をまもれ」と声を振り絞っていたという。
 小宮山さんは自著の中で、敗戦により「他からの強要ではなく内なる悲願として」平和憲法や教育基本法がもたらされた旨を記している。
 編集者として多くの児童文学作品を世に送り出し、08年に設立された「子どもの本・九条の会」の12人の呼びかけ人に名を連ねるなどの関わりもしていた。
 「軍隊経験を踏まえ、敗戦後をどう生きるかが父の出版活動の柱だった。いかに憲法を自分のもの、大衆の手にできるかを考えていたのでは」と荒井さんは話す。
 大学卒業後に理論社に入り、故郷に戻ってからは週刊上田新聞社で小宮山さんの原稿を扱うなど交流が続いた深町稔さん(83)は言う。
 「憲法をまもり、発展させていくためにもまずは自らの頭で考え、自立することが大事だということを伝えたかったのだと思う」

 何度も何度もここへ足を運んでくださって、憲法の大切さを語ってくださった永さんを思い出しています。
 2006年、父の90歳のお祝いにかけつけてくださった時のお話しのテーマは、

   “憲法99条は守られているか”
 そう、おみえくださるたびに永さんは「99条」の大切さを話されていました。
 私は今、その「99条」を読み返しています。

第99条〔憲法尊重擁護の義務〕  
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 永さん、ほんとうにそうですよね。

 それにしてもです。
 あまりにもふがいない何人かの国務大臣、国会議員の顔が浮かんできます。
 この国を任せられない――、そう思ってしまいます。

2025.5.21 荒井きぬ枝


父の言葉をいま・・・その459

2025-05-16 | ことば

 父のたんじょう日がまためぐってきました。
 5月12日。
 父は京都が好きでした。
 ゴールデンウイーク明けに店(鰻屋)が連休になるため、私たち夫婦はたびたび父の京都への旅に同行しました。
 父のたんじょう日をそんなふうに祝ったのです。
 関西にいらした灰谷健次郎さんが合流してくださることもありました。
 なつかしい思い出です。

 2009年6月19日付の毎日新聞です。
 インタビューに答えて、父は京都への思いを語っています。


 5月に93歳になりました。さて、この年齢にふさわしいことは何かと考えましてね。先生のお墓参りに行ってくると大義名分を立て、娘とかみさんの許しをもらい、京都の上賀茂まで一人旅をしてきたのです。その先生というのは、上原専禄という東京商科大学(現一橋大学)の恩師です。
 終戦直後、一緒に中央線の吉祥寺から電車で新宿に近い大久保駅へ行きました。ホームからずーっと焼け野原の東京が広がり、遠くに隅田川が盛り上がるように見えました。
 その後、先生は一橋大学で教鞭をとりながら、日教組の教研集会で国民文化の振興を教育者たちで論じるため一生懸命尽くされた。それにもかかわらず、組合の中にも出世主義や官僚主義が生じて、本当に子どものために良い社会を作ろうという肝心な太いレールが見えなくなって絶望したのですね。
 奥さんを亡くされ、戦争の犠牲者も含めた死者と共闘するのだと、ひっそりと東京の自宅を引き払い、京都の宇治で隠居をした数年後に76歳で亡くなりすでに三十三回忌も過ぎました。そんな先生と問答したくなって、家の庭にあるスズラン一株とカエデの実生の苗をかばんに入れてお参りしてきました。


 「あのスズランとカエデはどうなっているかな。もう一度、もう一度だけ先生のお墓参りに行きたい」
 亡くなる少し前、父はつぶやくようにそう語っていました。

 2012年、5月のたんじょう日を待たずに逝った父。
 父の最期の願いを叶えたくて、そのたんじょう日に母や妹、娘とともに京都を訪れました。
 タクシーの運転手さんの助けを借りて、なんとか上原先生のお墓をさがすことができたのです。
 「おとうさん、先生のお墓参り、できたよ」――と。
 残念なことにスズランもカエデも根付いてはいませんでした。
 「がっかりするからお父さんには内緒ね」と私たち。
 父のたんじょう日。
 新緑の京都に思いをはせています。

 “五月十二日”と題された一文があります。(「昭和時代落穂拾い」)
 敗戦を迎えた日のことを父はこんなふうに綴っています。


 (前略)
 この由緒ある連隊の軍旗を、当時連隊附将校の任にあった私はこの手で焼かねばならぬ羽目となった。八月十五日から数日の後、天寧の小高い丘の上で、その密かな儀式は行われた。その軍旗が、やがて天高く一条の煙をあげると、連隊旗手のМ中尉が猛然と私の胸にむしゃぶりついて、赤ん坊のように泣いた。私はその若者を抱きかかえて、哀切きわまりない歌を聞かせてやった。
 時これ五月十二日/あかつきこむる霧深く
 突如とおそう敵二万/南に迎え 北に撃つ……
 ――アッツ島玉砕の歌だ。この島の山﨑支隊を救援するために小樽港まで終結した第27連隊は、そこでこの部隊の玉砕を知らされた。そんなすれ違いで釧路沿岸へと移駐し、遂に生き得た生命を、明日に生き得る若者への子守唄のように、私は歌ってやった。私にとって、この五月十二日こそはいみじくも敗戦ならぬ私自身の三十歳の誕生日なのだった。


 そしてもう一文、“時これ五月十二日”。

 喜寿といえば、五月は私の誕生の月である。うるわしき五月となれば……というハイネの詩を口ずさんだ青春の日以来、その月の訪れと共に身も心も豁然と開け、詩が生まれ、野に山に躍り出る思いを恵まれてきた。が、近ごろはそんな心の弾みを抑制するように必ず甦るのは、あの歌である。
 本書の102章「たくさんの悲劇と」の中に、アッツ島玉砕の悲歌の冒頭を引用しておいたが、それに続く二番は次のように歌われている。
 〽時これ五月十二日/暁こむる霧深く/突如と襲う敵二万/南に迎え北に撃つ……そう口ずさむのにつれて北海の孤島に累々と屍をさらした二千余の将兵のパノラマが開けて胸がつまる。(俺モ少々生キ過ギタナ)と、反省がこみ上げてきて涙があふれる。どうも、彼らの死に価する世の中を生み出せない不甲斐なさを責められるような昨今なのだ。(後略)


 “彼らの死に価する世の中を生み出せない不甲斐なさ”――
 今この国の状況を、父のこの言葉が突いていると思います。

2025.5.16 荒井きぬ枝


うの花忌のこと

2025-05-08 | お知らせ

 第一回目の「うの花忌」が行われたのは2008年。
 灰谷健次郎さんが亡くなられた翌々年の5月でした。
  「私の誕生日のお祝いに集まってくださる方たちと、
  灰谷さんを語ることができたらいいね。
  5月には“卯(兎)の花”を……」
 そう決めたのは父でした。
 (“卯の花忌”はのちに“うの花忌”としました)
 永六輔さんがお客さまとしておいでくださいました。
 永さんはそれからずっと亡くなる前の年まで「うの花忌」を支えてくださったのです。

 第三回目の「うの花忌」においでくださったのが石川文洋さんです。
 私はお知らせのハガキにこのような文章を書きました。

「灰谷さん、今年は石川文洋さんが来てくださいますよ」……。
一緒に歩かれたアジアのこと、いつも心を寄せていらした沖縄のこと、
そして何よりも“いのち”について……。
お話の中から、きっと灰谷さんの思いが私たちの心に甦ってくる……、
そう信じています。

 2012年に父が逝ってしまったあと、2013年からの「うの花忌」では、永さんが灰谷さんと父の思いをつなげてくださいました。
 車イスでお越しくださるようになっても、声をふりしぼるようにして、大切なことを語ってくださいました。

 2016年、永さんが亡くなられたあと、「うの花忌」を支えてくださったのが、石川文洋さんです。
 昨年もお客さまとしてお迎えしました。
 お知らせのハガキです。

父小宮山量平が灰谷健次郎さんを語り継ぎ、父亡きあとは
永六輔さんが支えてくださった「うの花忌」です。
文洋さんがつないでくださいます。
学生さんたちと訪ねたベトナム、抗議集会が行われていた沖縄、
そこで文洋さんのカメラが捉(とら)えたものは―――。

 そして今年――。
 文洋さんは先月末、戦争終結50年の式典に出席されるため、ベトナムに向かわれました。
 「そのお話を聞かせてくださいね」と申し上げました。
 文洋さんは5月24日に「うの花忌」を――と約束してくださったのです。
 (前回のブログにそのことを書きました)

 ベトナム訪問を終えて、文洋さんは無事帰国されました。
 ただ旅のお疲れもあって、体調がすぐれないとのこと。
 (奥さまも心配されていました。)
 しばらくゆっくりお休みいただいたほうがよいのではと思い、
 今回の「うの花忌」の企画を中止させていただくことにしました。
 お元気になられた文洋さんを、またここでお迎えしたいと願っています。

 うの花の咲く季節は過ぎてしまいますが、あらためて、灰谷さん、永さん、そして父を偲ぶことができるような企画を考えたいと思っています。

2025.5.8  荒井きぬ枝