Editor’s Museum 「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

父の言葉をいま・・・その393

2023-11-29 | ことば

 「小宮山量平のめぐりあい年表」。
 そう題された年表がミュージアムの壁にかかげられています。
 さまざまな人とのめぐりあい、そして生まれた数々の本。
 父の“めぐりあい”の歴史はそのまま戦後のひとつの出版史でもあると私には思えるのです。
 そして、椋鳩十さんとの“めぐりあい”・・・・・。

 一昨日、11月27日付の「信濃毎日新聞」の記事です。

           椋鳩十作品の感想文を表彰
          ─ 出身地・喬木で「夕やけ祭」─

 喬木村出身の児童文学者椋鳩十(1905~87)を顕彰する第36回椋鳩十夕やけ祭(喬木村など主催、信濃毎日新聞社など後援)が、村福祉センターで開かれた。
 椋作品を対象とした読書感想文コンクールの受賞者を表彰した。
 コンクールには県内外の小中学校や一般から計501点の応募があり、椋鳩十賞と優秀賞各5点、奨励賞60点が選ばれた。椋鳩十賞の1人で同村喬木中3年の牧野夏生さん(15)は取材に「(椋作品からは)動物も人間も苦しみながらも頑張っているーというメッセージ性を感じ、好きだ」と話した。 (後略)

 記事の最後に受賞者の名前が記載されています。
 小2の女の子、小5の女の子、小3の男の子・・・、そして長野市の男性。
 ああ、椋さんは今も子どもたちの、そして人びとの心の中に生きている・・・・・。
 椋さんと父との“めぐりあい”を思わずにはいられませんでした。
 『椋鳩十の本 全25巻』の刊行が開始されたのは1982年。
 理論社の“創業35周年記念出版”とされています。
 父の願いでもあった全集の刊行です。
 『20世紀人のこころ』(2001年 週刊上田社)に父はこう書き記していました。

           青春文学作家椋鳩十

 島木健作をはじめとして太宰治・石坂洋次郎などを、転向時代が生んだ代表的作家であることは誰もが認めるであろう。けれども、わが椋鳩十については、誰もが一介の児童文学作家であり、動物文学の巨匠としか思ってはいなかった。けれども私自身の青春の文学的回想を辿ってみれば、彼ほど生き生きと語りかけてきた青春文学作家はいない。
昭和八年から九年にかけて、当時の特高警察による弾圧から解き放たれた私の心に、この新作家の鮮烈な山嵩物語のあれこれが、やさしく語りかけたものである。
 「若者よ、自然のふところ深く憩うがよい。そこには国家権力なんてものの不当な手に汚されることなく、自由の民が奔放に生き抜いているんだよ」と、そんな囁きが私に生きる勇気と知恵を与えた。
 もちろん『山嵩調』という作品群は、後年の彼が明らかにしたように、あの暗うつな転向時代のまっただ中で、彼の心に花開いた自由への憧れであり羽ばたきであった。
 けれども多くの作家や批評家たちは、現実の山嵩の子孫が父祖の伝承を語り伝えた作品として、その鮮烈さに驚いた。
 かの大宅壮一の如きは、その頃彼が創刊した『人物評論』という雑誌に、私家版の山嵩物語を丸ごと再録して、賛辞を呈した。あたかもその声に魅入られたように、毎日・朝日などの大新聞が彼の新作を連載し始めた。
 その当時、私という少年の心に刻まれた鮮烈な感銘は消えることなく、やがて半世紀後、児童文学作家として定着していたこの作家への評価を、敢えて日本文学に青春の活性をよみがえらせた大作家と再評価し、その全著作を『椋鳩十の本』として遺すことに心を傾けずにはいられなかった。 (後略)

 『椋鳩十の本』刊行にあたって制作されたパンフレットには、“制作者からのメッセージ”として椋作品に寄せる父の思いが記されていました。

     なぜ≪椋鳩十の本≫なのか?

 もともと椋先生は、第一に詩人でした。そして自然のふところに分け入る最も現代的な作家でした。この根幹から、子どもたちのための滋養に富んだ「児童文学作品」や少年少女の心を躍らせる「動物文学作品」などが枝わかれしているといえましょう。

     大衆の中へ、自然の中へ!

 先生はときどき「権力というものは怖いものです」としみじみ述懐します。どんな権力からも自由でありうる最高の戦術は、けっして「偉く」なるような上昇を目ざさず、ひたすらに、自然のふところへ、大衆の中へ・・・・・と、身をひそめることだろうと、昭和史を文学的に生き抜いてきた不敵な体験によって熟知しておられるのでしょう。
 かの『山嵩調』という処女作にしても、たんに実在の日本的山の民を描いたというだけではありません。あの頃の世界をファシズム対自由の形で二分していたスペイン戦争を明日にひかえ、その抗争のまっただ中で最も不屈に自由の誇りに生きつづけたバスクの民を想い、それが、わが山の民の上に投影していたのは事実です。

      青春よ、おおらかであれ!

 いま椋文学をその原形において集大成してみますと、そのみずみずしさが、その不屈さが、その粗野さえもが──正に失われてはならない自然の匂いと音のときめきでよみがえってくるではありませんか。それをこそ、多くの同時代人に贈りたいと思うのです。

 「動物も人間も苦しみながら生きている」──。
 受賞した中3の牧野さんの感想、すてきですね。
 椋さんの作品には、今私たちが失いつつある大切なものをよみがえらせる力があるのですね。

 1987年12月27日に椋鳩十さんは亡くなられました。
 12月30日付の信濃毎日新聞に、椋さんを偲ぶ父の文章が掲載されています。
 椋さんとの“めぐりあい”が語られています。
 「“めぐりあい”の不思議さに感動するだけです」───。
 父がくりかえしていた言葉を思い出しています。

                                                                          2023.11.29  荒井 きぬ枝

  (前略)
 椋先生の主題は、まぎれもなく「自由」であり、それを生きぬく「勇気」であった。正に時代の閉塞は筆舌につくし難いが、若者たちよ、山々に緑は深く、自由の民はその大気の中を駆け巡り、愛を営み、不屈にも生命の讃歌を奏でつづけているではないか!
 ─そんな感銘が私の中に生きつづけた。
 後に先生は、動物を描いても安易に擬人化などはせず、児童文学を創作してもお子様ランチを作ることはなかった。それらの作品の背後に、私は、あの暗い谷間にあっても敢えて高らかに生命讃歌を奏でつづけた高貴な青春の誇りを読み取っていた。いずれ「動物文学者」であり「児童文学者」であるというレッテルを破って、先生の本性の輝きを明らかに為すべき日が来たならば・・・と、私は≪椋鳩十の本≫の構想を胸に燃やしつづけた。
 (中略)
 思えば私は十七歳の日、先生の鮮烈な文体を胸底に灼きつけ、六十五歳にして先生の全集を編集し刊行できた。しかもこの正月の休みも、先生のJ・ロンドン的青春文学の名作を、『野生の谷間』として、先生のふるさと南アルプスの写真(宮崎学氏による)入りで編集している。
 めぐりあい以来の長い道を、私自身は、先生を偲びながら未だ当分歩み続けなければならない。 

    椋鳩十・文 原田泰治・画 小宮山量平・制作(1984年理論社刊)

 

                   

   椋鳩十・文 太田大八・画 小宮山量平・制作 (1985年理論社刊)

 

 

 

 

 

 

 


父の言葉をいま・・・その392

2023-11-22 | ことば

 2006年11月23日、灰谷健次郎さんが旅立たれました。
 もう17年も経つのですね。
 先日(11月18日)、灰谷さんとの思い出がたくさんある神戸の街を訪れました。
 11月11日から行われていた画家坪谷令子さんの個展にうかがうためでした。(於:“ギャラリー島田”)
 1998年に伺った令子さんの個展では、その日、灰谷さんが“トーク”をされました。
  灰谷さんの詩画集『放浪序説』に添えた銅版画が展示されていました。
 灰谷さんと神戸でお会いしたのは、その時がはじめてだったでしょうか。そのあとの食事会のことも鮮明に覚えています。
 楽しかった・・・・・。
 2004年には絵本『いのち』(永六輔・文、坪谷令子・絵 2004年1月理論社刊)の原画展が、やはり“ギャラリー島田”でおこなわれました。
 ゲストは永さんと灰谷さん。父も参加させていただきました。おふたりに「エディターズミュージアム」の計画をお伝えしたのは、その折でした。
 5月に、おふたりは上田へいらして、父の米寿を祝ってくださるとともに、「エディターズミュージアム」を立ち上げることへの“エール”の講演会をしてくださったのです。
 2008年、灰谷さんが逝かれてから2年が経った令子さんの個展では、父がゲストとしてお話をさせていただきました。
 令子さんが描かれたたくさんの“いのち”、その前で・・・・・。

 「“うの花忌”をやろうね」──、父がそんなふうに提案したのは、その夜の食事会でのことでした。

 2018年の個展「いのちのカタチは・・・・・」。
 そして今回、5年ぶりの令子さんの個展です。「未完の自画像のごとく・・・・・」。
 私が訪れた18日はトークイベントがおこなわれました。
 灰谷さんの作品に多く絵を添えられてきた令子さんです。
 ご自身の“これまで”と“作品”についてのお話は、そのまま灰谷さんの想いを伝えるものでもありました。
 『兎の眼』を書き上げた時に、灰谷さんから父がいただいたお手紙について、私も少しだけお話させていただきました。
 神戸から帰ってきて今、あらためてその手紙を読んでいます。

 もうわすれておられるかもわかりません。5年前に『先生けらいになれ』を出していただいた灰谷です。この手紙をかいていて、ひどく心が痛みます。
 「きりん」の手助けもせず、仕事もせず、一年半ほど前には学校もやめてしまいました。
 小宮山さんや足立さんにどんなおしかりをうけても、ことばがありません。
 生きてきたことの傷、文学の上での傷が、いちどに吹き上げてきて、そういう生き方しかできなかったのです。
 たべるために、大阪文学学校やラジオの仕事をすこしやっていましたが、満たされるはずもなく、なにもかもやめてしまって、あちこち放浪していました。
 あしたになにもない生活をして、すこしは眼のはれる思いがしました。四百五十枚の作品を精いっぱいかきました。うしろにさがれない気持ちで力いっぱいかきました。
 ご温情をうらぎったような生き方をしておいて、ずうずうしいおねがいですが、いま一度お許しをいただけませんか。
 小宮山さんがこちらにこられた時にチャレンジということばを使われました。そのことばにすがってかきました。
 児童文学に挑戦したのではありません。ぼく自身に挑戦しました。
 もっとも醜いものをもっとも美しくかく、水ましされた人生でなく、人生そのものの中で、人のやさしさを追求してみました。これが児童文学として通用するのかどうかわかりません。
 そういうことを考える余裕はまったくありません。ぼくは今ぎりぎりです。そのぎりぎりだけをかきました。
 みていただけませんか。いま清書しています。許していただけたら持参します。祈るような気持ちでこの手紙をかきました。
      灰谷 生。

 読み終えて、何だか胸がいっぱいになりました。

 「語る人がいるかぎり、その人は生きているんです。」
 永六輔さんのことばを思い出しています。
 令子さんの個展の会場。あのトークイベント、灰谷さんはきっとあの場にいらした───、私はそう思っています。

 “いのち”を描き続けていらした令子さんです。
 トークイベントでは、今この時にも「戦争」で多くの“いのち”が失われていくことへの怒りも語られました。
    いのちを大切にすることなのか
    そうじゃないことなのか
    すべてはここから始まるんです。

 明石市の情報誌『ミルル・マガジン』2005年の1月号に坪谷令子さんのインタビュー記事が掲載されています。
 上記の一文はその見出しのひとつです。
 令子さんは記事の中で、こんなふうに語られています。

 (前略)
 阪神大震災がきっかけで、私が今まで「これって、なんか変」と思っていたいろいろなことが、実は根っこは一つなんだということに気付かされました。
 ちょうどいろいろなものをふるいにかけると、細かなものが振るい落されて、大きなものが真ん中に寄っていくように、震災の揺れが大事な根っこを掘り出してくれたみたい。
 それまで教育、福祉、まちづくり、そして行政や政治などさまざまな分野で「なんか変」と思っていたことが実はたった一つ「これって、いのちを大切にすることなの?」という疑問に集約されるんだ、ということにね。人を傷つけてもいい、いじめてもいい、戦争してもいいなんて誰も言いません。子どもにも教えません。なのに私たちは「でも」と覆すことが多いのです。経済や効率を優先させて。それに対して積極的に問いかけをしていくことってとても大事だと思うようになりました。
 いのちを大切にすることなのか、そうじゃないことなのか。それを基準にして「これはどうなの」と問いかけしたらいい。気が付いた時点で、もう一度考え直したらいいんじゃないのでしょうか。
 
 「“いのちが何より大事”という哲学を取り戻さなければいけない。」
 父のことばと令子さんのことばが重なります。
 そう“いのち”が何より大事なのです。

2023.11.22  荒井 きぬ枝

 1998年“ギャラリー島田”の前身、“海文堂ギャラリー”で
(令子さん、灰谷さん、島田誠さん)

                   2004年の個展「いのちからいのちへ」
“ギャラリー島田”の入り口で。
(左から私、父、母、令子さん)


父の言葉をいま・・・その391

2023-11-15 | ことば

 “ジェノサイド”という言葉は、父から聞いて知っていました。
 決して二度とあってはならぬという思いを込めて、父は語っていたのです。
 『やさしさの行くえ』(1997年週刊上田刊)に“ジェノサイド思想”と題する一文が掲載されています。

            ジェノサイド思想

 戦後間もなく出版社を創業した私の手もとに、一冊の分厚い書物が国連から送られてきた。読者に向かって人差し指をさす表紙で≪This is Genocide≫と語りかけている。
 ページを繰ると、木の枝にぶら下げられた死体や、大地にさらされた屍の山の写真がつづいている。──第二次世界大戦が、どんなにむごたらしい人間の心の荒みの上に行われたものかが、如実に語られていて、胸がつまるのだった。
 このジェノサイドという目新しい言葉を何と訳すべきかを、そのころ数少なかった原子力問題の先駆者・武谷三男氏にうかがった。熟慮のあげくに生まれたのが「みな殺し」という訳語であった。なるほど、あの戦争の本質は「みな殺し」であったか、と、私たちは初めてなっとくした。 (後略)

 その“ジェノサイド”という言葉を連日のように新聞で目にすることになるとは思ってもみないことでした。
 “みな殺し”───。
 子どもの死者の数が伝えられます。
 何千人とも・・・・・。
 数でくくることのできない、ひとつひとつの大切ないのちです。
 戦争が生中継のような形でテレビの画面に映し出されます。
 こんなことがあっていいのか・・・・・、毎日つらいのです。

 11月11日付の朝日新聞「声」の欄です。
 私の気持ちをそのまま代弁してくれているような投書がありました。
 73歳の男性の方からです。

       人道的休戦 なぜ棄権なのか

 岸田文雄首相は国連総会でのガザの「人道的休戦決議案」に棄権理由を問われ、ハマスのテロ攻撃への強い非難が無いなど「全体として内容面でバランスを欠いている」と説明した。バランスなどと言うのは信用できない。
 (中略)
 ガザは爆撃にさらされて一般市民が日々多数亡くなっている。半数が子供だという。
その事態をまず止めさせることが第一だと考えるのが当たり前ではないだろうか。
 バランスが大事だなどと悠長なことを言っている人はいない。
 (中略)
 理由も分からず死んでいく子供たちを思い浮かべたら棄権などという無責任な態度は示せなかったのではと思う。
 日本は人道の旗を高らかに掲げる国だ。憲法前文は言う。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と。
 「崇高な理想と目的」とは何か?首相には憲法前文をもう一度よく読んでもらいたい。
     
 松元ヒロさんからライブのお知らせをいただくと必ずうかがいます。
 そのたびに“憲法くん”を演じるヒロさんの姿に感動するのです。
 今年5月3日付の「しんぶん赤旗」は、“今こそ読もう 日本国憲法”と題して、憲法の前文と、第九条を大きく掲載していました。
 そこにヒロさんの談話がありました。

     世界の英知詰まっている
        ─『憲法くん』演じて26年 芸人 松元ヒロさん─

 日本国憲法になりきりひとり芝居をする「憲法くん」を始めたのが、憲法施行50周年(1997年)の時でした。あれから26年がたちます。
 「憲法くん」も76歳になりました。
 「わたしの初心、わたしのの魂は憲法の前文に書かれています」──。ネタの最後にこう言い、前文を暗唱します。口に出して言うとその意味や素晴らしさがだんだん分かってきます。私たちの人権や自由・平等、平和と命を守るってことがここに全部書いてあります。
 (中略)
 ロシアのウクライナ侵攻や岸田政権の大軍拡など、危険な時だからこそ、憲法9条が必要です。アメリカで公演したときに僕が9条を読み上げると、観客は涙を流し感動してくれました。「戦争放棄」を内外に宣言した9条は、日本だけでなく世界中の人たちの理想なんだと強く実感しました。 (後略)

 アンコールでいつもヒロさんは“憲法くん”を演じ、そして憲法の前文を高らかに謳い上げます。美しい“前文”です。

       今こそ読もう日本国憲法  日本国憲法前文 
  (前略)
   われらは
   平和を維持し
   専制と隷従
   圧迫と偏狭を
   地上から永遠に除去しようと努めてゐる
   国際社会において
   名誉ある地位を占めたいと思ふ。

   われらは
   全世界の国民が
   ひとしく恐怖と欠乏から免れ
   平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

   われらは
   いづれの国家も
   自国のことのみに専念して
   他国を無視してはならないのであって
   政治道徳の法則は
   普遍的なものであり
   この法則に従ふことは
   自国の主権を維持し
   他国と対等関係に立とうとする
   各国の責務であると信ずる。

   日本国民は
   国家の名誉にかけ
   全力をあげて
   この崇高な理想と目的を
   達成することを誓ふ。

 アメリカに追従してあやふやな態度でいるこの国のありように腹が立つのです。
 戦禍の中のこどもたちの姿を見てください。
 死んでいくこどもたちのことを思ってください。
 何故、戦争を終わらせることができないのですか?
 日本国憲法は、日本のみならず、世界の平和を願っています。
 祈るような気持ちで私は今、憲法の前文をくり返し読んでいます。

                      2023.11.15  荒井 きぬ枝


父の言葉をいま・・・その390

2023-11-08 | ことば

 クマのことが気になっています。
 このミュージアムにある『三びきのくま』を手にとって、久しぶりに読んでみました。
 絵本『三びきのくま』は福音館書店から刊行されています。
 初版は1962年、私が今手にしているのは、1975年刊行、31刷です。
 長く読みつがれているのですね。
 解説はいっさいありません。
 おとうさんぐま、おかあさんぐま、そしてこぐまのミシュートカ。
 クマの家に迷いこんだ女の子はそこで大・中・小のスープ、大・中・小の椅子、大・中・小のベットに出会います。
 お話がリズミカルにすすんでいきます。

 理論社が『トルストイのこどものための本』(樹下節訳)を刊行したのは1979年、その第一巻目に「三びきのくま」が掲載されています。
 1991年には、“フォア文庫”として甦り、巻末に父の「解説」が記されています。

   一・二・三と大・中・小 
      ―知恵の実を結晶するときめき―

 
 たとえば本書の『三びきのくま』を、ぜひ音読してみて下さい。ある女の子が、「おうちをでて、森へはいっていく」その一しゅんから、子どもの心のときめきは始まります。
 そのときめきのテンポに乗って、大・中・小・・・・・大・中・小・・・・・とくり返し、一・二・三・・・・・一・二・三・・・・・とくり返す主題旋律を奏でているうちに、何ともいえない悦びが、心の底からほとばしりでてくるではありませんか。幼い子どもたちにとって、人生のはじめに、大中小や一二三の基本概念を心に刻みつけることは、何よりも必要なことに違いありません。が、それをストレートに知識として教え込んでしまったら、どんなにか悲しいことでしょう。手間ひまをかけ、なるべく賑々しいわらべうたの遊びや彩をくぐりぬけて、生涯を通じて忘れることのできない知恵の大中小であり一二三であるようにと、わがトルストイは、優しい祈りをこめて書いているのです。
 (中略)
 私たちの生涯の「知恵」というものは、そのようにして、わらべうたや手毬うたみたいに心に堆積されるものではないでしょうか。近ごろ晩年のトルストイと同じような年齢に達した私が、ともするとJR新幹線の車窓にもたれ、現代社会のスピードなんていう文明が、なさけ容赦もなく風景というものの原型を捨象し去り、色も音も匂いも消し去ってしまうような暴力に、じっと耐えているのです。そんな悲しみの底から、『三びきのくま』の世界がよみがえるのです。──ああ、田畑を渡ってくるそよ風があった、里人が四季を迎える悦びの彩があった、山裾の杜と山々はパッチワークのように旅人に語りかけ、その後方はるかに紫紺の山脈の憧れを重ねていた──そういう知恵の積木細工を、子どもたちの心に復権しなければ、と、思わずも呟かずにはいられません。

 2018年、『トルストイ・ショートセレクション 三びきのくま』が理論社から刊行されました。
 ヨシタケ・シンスケさんの絵、訳は私の弟・小宮山俊平です。
 “訳者あとがき”にはこんなふうに記されていました。
    
 『三びきのくま』はイギリスの昔話で、主に絵本として多くの言語で出版され親しまれています。こどもが大人に「ねえ、読んで、読んで」とくりかえしせがみ、やがてすっかり覚えてしまう、そんなお話ですね。
 (中略)
 没後百年以上過ぎてもトルストイが広く世界中で読まれるのは、とにかく読んで面白いからです。教訓を得るのは後回し。まずストーリーを楽しみましょう。楽しんでいただけるように翻訳したつもりです。
 読後は心が温まり、優しい気持ちになるはずです。ベッドの枕元に置いて、心が寒い夜には読み返してみてください。

 先日、葉山に住む友人から手紙が届きました。
 10月29日付の「神奈川新聞」からの切り抜きが同封されていました。
 作家藤沢周さんの一文です。「まさにそのとおりと思いました」──。
 友人の添え書きがありました。

 ススキの穂が群れ、秋風になびいてプラチナ色に輝く。枯葉の音。夕焼けに染まる雲のほころび・・・・・。
 もののあはれを想う内省の季節であるのに、その心の遠景にはたえず爆撃と噴煙と人々の嘆き悲しむ声が谺している。こんな阿鼻叫喚の時代がくることを誰が想像していたのか。
 いかなる世でも人間とは惨たらしいのが必定、と煽られているかのようだ。「平和ボケ」などと先頃まで言われていたこの国自体こそ、世界的に見れば単に無知であっただけということなのだろう。
 
 そして、松尾芭蕉の俳諧紀行『笈(おい)の小文』を引いて、次のように続けています。
 
 欲や偏見でがんじがらめの己を捨てて、自然に従い、自然に帰れば、万象から美を見出すことができる。それが風雅の根本であると芭蕉は書くが、彼からしたら現代の人類はむしろ鳥獣や野蛮以下ということになろう。いや、鳥獣の方がよほど自らの欲に節度があり、洗練された生き方をしている。
 いかなる歴史、宗教、思想が背景にあったとしても、これほどの攻撃や暴力、殺戮などを行うのは、人類以外にありえないのであるから。
 戦争や環境破壊で地球がぼろぼろになっていく有様を望む者など一人もいない。そう信じることさえも、現代世界から嘲笑される時代になったのか。
 それでも、可憐な花に微笑みたい、美しい月に目を細めたい。無知で幼稚でいいから、人の平和への想いを信じたい己がいる。

 父の心によみがえる『三びきのくま』の世界を今、心に描いています。
 ほほえましく森で生きるクマたちです。
 美しい自然の中で生かされているクマたちです。
 “戦争や環境破壊で地球がぼろぼろになっていく”───、クマたちだって、その犠牲者であってはならないのです。
 そうならないための知恵を我々人間は持たなければいけないと思います。
 「クマは“駆除”されました」───。
 そのことばが胸にささります。
 生き物のいのちを奪う権利が私たち人間にあるだろうか・・・・・と。
 “鳥獣の方がよほど自らの欲に節度があり、洗練された生き方をしている。”──藤沢さんが文章の中に記されたこの言葉を心の中でくり返しています。

                                    2023.11.8    荒井 きぬ枝

福音館書店から刊行された絵本

 


父の言葉をいま・・・その389

2023-11-01 | ことば

  10月27日、「袴田事件」の再審公判が始まったという報道に接し、私はある一冊の本を開きました。
 『死をみつめてー無実を訴える九人の手記ー』(1968年理論社刊)。
 “日本の良心の記録・たいまつ双書”と題されたシリーズの中の一冊です。
 シリーズの最初に刊行された、むの・たけじさんの『たいまつ十六年』(1964年刊)からそう題されたのだと思います。

 編者でいらした難波英夫さん(岡山県出身の社会運動家)は、刊行にあたってのことばをこう綴られています。

 この本は、自分が、またはあなたの息子さんが、ここに書かれている人びとのような目に会っていると思って読んでいただきたいのです。
 私たちは、いつ、どこでこの人たちと同じ目に会わないとはかぎらないのです。一たん何かの嫌疑で逮捕されたが最後、警察で、検察庁で、どんな言い訳をしても聞き入れられず、心にもないことを言わされるのです。裁判にかけられると、大方の裁判が、警察や、検察庁の言うことだけに耳を傾け、有罪の判決をされるのです。
 それはこの本にのっている九人の人だけではありません。たくさんの人びとがそういう目に会っているのです。
 この本では、死刑の判決を言い渡されて、無実を訴えつづけている九人の人の訴えを取り上げたのですが、他にもたくさんの人びとが、死刑を言い渡されて無実を訴えています。また死刑ではないが、無期だの、懲役二十年だの、十五年だの、十三年だのと、重い刑を言い渡されて、それが誤判であること、デッチあげられたものであること、全く夢にも知らぬ濡衣であることを訴えている人は、数限りが無いのであります。
 いったい、そんなことがあってよいのでしょうか。そんなことが許されることでありましょうか。でも現にあるのですから、すててはおけないのであります。 (後略)

 目次です

 1、帝銀事件:平沢貞通さんの場合
 2、免田事件:免田栄さんの場合
 3、三鷹事件:竹内景助さんの場合
 4、牟礼事件:佐藤誠さんの場合
 5、八海事件:阿藤周平さんたちの場合
 6、島田事件:赤堀政夫さんの場合
 7、松山事件:斎藤幸夫さんの場合
 8、狭山事件:石川一雄さんの場合
 9、仁保事件:岡部保さんお場合

 難波さんは先の文章を以下のように結ばれていました。

 真実を知る事、良心に目覚める事、これより他に無実の死刑囚を救う道はありません。
 この本を手にされたその日を機会として、真実をつかむためにあらゆる手段をつくしてください。
 松川事件は、二百五十万の署名と、十億に余る零細なカンパの集積が示すように、真実をつかんだ日本国民の何百万の良心が、一審死刑五名、無期四名をふくむ二十人の無実の労働者を救って、完全に無罪にすることができたのです。
   1968年2月  難波英夫

 “仁保事件”についての一冊、『タスケテクダサイ』(1970年)が刊行された時の父の文章「刊行のことば」にあった一文が重なります。

 もしも岡部さんへのこの極刑が看過されるようなことがあったならば、いちばん責められるのは、私たち自身の無関心そのものではないでしょうか。
  (『タスケテクダサイ』についての詳細はこのブログNo.383に書いてあります)

 『死をみつめて』の巻末に父は、“解説ーこの「戦後史」の語るもの”と題した一文を寄せています。
 読みながら私は、この文章の中に父の出版人としての断固たる決意を感じずにはいられませんでした。
 生涯貫いた編集者としての“姿勢”がそこにあると思いました。

         解説─この「戦後史」の語るもの 
昭和四十一年の夏、私は『炎と血の証言』(吉田タキノ著)という本を出版致しました。それは、本書にもとりあげられている「松山事件」にかんする記録的作品なのです。
この本の出版を私に決意させたのは、作家の早船ちよさんでした。斎藤幸夫さんの救援活動をすすめておられる方たちから、早船さん宛てに現地調査の呼びかけがあり、その呼びかけに、即座にすっくり立って答えたのが吉田タキノさんでした。
それは、まことにきっぱりとした決意の表明であり、それにつづく調査ぶりも、記録への没頭も、烈々としたものでした。その烈しさが早船さんをゆさぶり、ゆさぶられた早船さんの熱意に私が動かされました。
こうして出版された『炎と血の証言』の表紙うらに、私は、次のような訴えを記しました。
──「松川事件」といえば、今では誰もが知っているのですが、その事件の現場にほど近い東北農村の片すみに起きたこの「松山事件」については、あまり知られていません。そこでは一人の農村の若ものが「四人殺し」という罪を着せられ、死刑の宣告をうけているのです。・・・・・それが片すみの事件であり、政治的なかかわりも小さく、世間の耳目にひびきわたらぬからといって、軽視されて良いものでしょうか。明らかな無実の罪に泣くこの隣人の運命こそ、反って、私たち一人一人の明日知れぬ無力さを思い知らせるのです。この人をこのまま死に追いやることで、私たちは、自分自身の失ってはならぬものを失うことにはならないでしょうか・・・・・。
(中略)
さて、これらの原稿類を机上に──というよりは仕事部屋いっぱい並べてから、約ふた月にのぼる日々は、そっちょくに云って、私の編集職人の歩みのなかでも、最もつらい日々でした。法律的思考ほど私にとって不得手なものはないのですが、この月日、私は、裁判官・検事・弁護士それぞれの眼と心を一身に集めた思いで、ひたすら読みわけ、判断し、整理し、まんじりともせぬ夜々を重ねたのです。
(中略)
すでに、あまりにも明白な過ちが、くっきりと刻印づけられていると思うのです。その過ちを犯したのは、まず第一に、日本の権力です。そして、このように明白な過ちを見過ごしてきた私たちにも、まぬがれがたい責任があるとはいえないでしょうか。思えば、壁にとじこめられた無力な被告を問いつめるためにではなく、その被告たちが身をもってさし示している権力と私たちの過ちをみつめるためにこそ、本書は出版されるべきなのだ──と、私は考えないではいられなくなりました。
(中略)
この人たちを、このままでおいて、私たちは「戦争は終わった」などと、口をぬぐっていられるものでしょうか。やはり私は、本書を、たんに裁判に対する訴えの書として編集するわけにはいきませんでした。
ゆるがせにできない戦後史の証言そのものとして、部厚く私たちに反省を迫る本として、送り出したいのです。私たちにおける余りにも明白な「過ち」が正され、「怠慢」が克服されぬかぎり、私は、何冊でもこのような本を出版しなければなるまいと、いま、自分に言いきかせているわけです。

 10月28日付の朝日新聞に、弁護団事務局長小川秀世弁護士の冒頭陳述での発言が記されていました。

 「被告人は袴田さんですが、本当に裁かれるべきは、警察であり、弁護人及び裁判官であり、ひいては冤罪を生み出した我が国の司法制度です」

 無関心でいてはならないと自分を戒めつつ、「袴田さんに一日も早い無罪判決を」と心から願っています。

2023.11.1  荒井 きぬ枝

ミュージアムの棚に置かれている「たいまつ双書」です