Editor’s Museum 「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

こちらに移動しました。

2022-07-31 | お知らせ

エディターズミュージアムのブログは、7月よりこちらに移動しています。
以前からお読みいただいているみなさま、そして新たに訪れてくださったみなさま、
どうぞよろしくお願いいたします。

・・・というごあいさつをしたところで、たいへんもうしあげにくいのですが、

先日、通常使っているパソコンが、夏バテでしょうか、ダウンしてしまいました。
修復を急いでいますが、パソコンとその周辺の環境が元通りになるまで、2、3週間かかりそうですので、その間しばらく、このブログへの新規投稿はお休みいたします。

復旧しましたら、これまでのように、毎週水曜日(都合によりときどきずれますが)アップしますので、まだかなぁ・・・とのぞいてみてください。

2022.07.31 エディターズミュージアム 荒井 きぬ枝


父の言葉をいま・・・その331

2022-07-27 | ことば

 岸田首相は「国葬」とする理由についてこう語っています。  

 「憲政史上最長の8年8カ月にわたり卓越したリーダーシップと実行力で・・・内閣総理大臣の重責を担った」

 「東日本大震災からの復興、日本経済の再生、日米関係を基軸とした外交の展開等の大きな実績をさまざまな分野で残された」

 「そのご功績は誠にすばらしいものがある」  

 今、『悠吾よ!』(絵 坪谷令子 2006年 こぶし書房刊)を読み返しています。  

 

          自立的精神の四面体

 晩年に近く七十歳代を越えてからでしょうか。ずいぶんマメに、スピーチ行脚と称してはあちらこちらへと旅するようになりました。

 現役の出版人の座からリタイアしたからでもありますが、そのころから眼に見えてグローバリゼーションなどという横文字が目立つようになったのです。 良きにつけ悪しきにつけ「冷たい戦争」の名で、二つの世界の対立がお互いに牽制しあい抑止力となっている時代が過ぎ去った九十年代からでしょうか。 あたかも一人勝ちの座を確保し得たかのように、アメリカという名の“親分”さまの世界支配力が目立ち始めたのでした。  

 そのアメリカの「核の傘の下に入る」のが安保時代の得策であり、長いものには巻かれろという知恵でもあるかのように、歴代の指導者が旗を振るのにつれて 足並みをそろえるのが、日本の基盤となっていたのでしょうか。 

 考えようによっては、軍備などというお金のかかる仕事は親分に任せておいて、こちらはせっせ と経済や技術という体力と知恵を身に着けようと励むのが、宰相吉田茂以来の日本の方策と思い込んでいる人が多いのです。 けれども既に述べたように、「高度に発展した資本主義の大国が他の発展した資本主義国を植民地化する」というのが、第二次世界大戦後の最も注目すべき新しい 実験でありました。

 日本とドイツ、二つの敗戦国がこの実験対象となったのですが、さすがにドイツは哲人カントを育み国民的文学者ゲーテを誇る国柄です。

 この植民地化へのワナを巧妙にすりぬけ、最近のイラク戦争に至っては堂々と親分の誤りを指摘するほどの主体性を示しております。が、

 そんな主体性の柱とも頼る べき自立的精神の面で遅れをとる日本は、みごとに“親分”の言いなりになるばかりの買弁的な人物の支配する国と成り下がったようです。     (後略)

 

 植民地化されたままの日本です。

  “日米関係を基軸とした外交”ははたして大きな実績と言えるのでしょうか。  そして“8年8カ月という長期政権”がもたらしたものはいったい何だったのでしょう。

 “すばらしいご功績”ーーーーとは?

 第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で特別表彰を受けた映画『PLAN75』を観てきました。 国会が<プラン75>という制度を可決したというニュースが流れるところからこの近未来を描いた物語は始まります。   

 少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本で、満75歳から生死の選択権を与える社会制度が施行された。<プラン75>と名づけられたその制度は、75歳以上の人が申請すると、国の支援のもとで安らかな最期を迎えられるというもの。  

 人口比に占める高齢者の著しい増加によって起こる軋轢の解決策として、社会は歓迎ムードとなる。当事者である高齢者はこの制度をどう受けとめるのか?

 若い世代は? <プラン75>という架空の制度を媒介に「生きる」という究極のテーマを全世代に問いかける衝撃作が誕生した。  (後略)

 “排除”という言葉が私の脳をしめつけます。

 6年前の7月26日に発生した「津久井やまゆり園障害者殺傷事件」に、その“排除”が重なります。  

 映画のパンフレットの“イントロダクション”にはこう記されていました。  「生きることが罪ですか」-------と。  

 8年8カ月という長期政権は“排除”と“差別”とが加速された年月であったと私は思っています。その政権の長の言葉を私は忘れてはいません。  批判する横断幕を揺らす人々に向かって放った一言。

 「こんな人たちに負けるわけにはいかない」-------。

 先週に続けて同じことばをくり返します。

 「国葬」に断固反対です。

2022.7.27  荒井 きぬ枝

父の言葉をいま・・・その330

2022-07-20 | ことば

 「ドレフュス事件」を史実にもとづいて描いた映画“オフィサー・アンド・スパイ”を先日観る機会がありました。
 原題は“J’accuse”(仏)、“私は告発する”という意味です。

 「ドレフュス事件」については父がよく語っていて、私は私なりに調べたりもしました。岸恵子さんは著書『ベラルーシの林檎』(1993年 朝日新聞社刊 日本エッセイストクラブ賞)の中で、ご自身がパリで日本人として「差別」された体験とともにこの事件にふれています。

(前略)
 フランスを騒然とさせた一つのスパイ疑獄事件が起きた。スパイ事件そのものは、たいしたことはないだろう。有史以来、数限りなく起こったはずの機密漏洩と、この事件が異なったのは、同化ユダヤ人のありえない希望や思惑をくつがえして、反ユダヤ運動が深くかかわっていたことである。そして、多分、参謀本部の面子に反ユダヤ主義が上乗せされ、どだい顛末であったはずの事件の隠蔽に無器用な対応をしてしまったことが、事件を複雑怪奇なものにし、百年経った今も、フランスの良心が疼く結果を招いてしまったのだと思う。
 ともかくも、犯人をでっち上げなければならなかった。こうして1894年12月、軍法会議は全員一致で、アルザス生まれのユダヤ人、理工科学校出身のエリート、参謀本部付砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスに売国奴の汚名をきせ有罪の判決を下したのである。
 軍籍位階剥奪の儀式は、実に劇的なものであったという。凍てつく冬の朝、士官学校の校庭にパリ地区の陸軍選抜隊が整列し、反ユダヤの群衆が、こぶしをふりあげ、
 「反逆者を殺せ、ユダヤを殺せ!」
 と叫ぶなか、劇的効果をねらって選ばれた、雲をつくような大男の執行人が、軍人としての矜持をまもり端然と立ちつくすドレフュス大尉の肩章をベリベリとひき剥がし、サーベルを抜いて膝でへし折った話は有名で、当時の新聞などに絵入りで喧伝されたのだった。
 この血のにじむような屈辱のあと、大尉は南アメリカ、ギアナ沖の悪魔島へ無期幽閉の刑に処せられたのである。
 当然のことながら世論が湧きたち、ドレフュス援助の人権派が起ち上がった。そして1898年1月、『オロール』紙上に、
 「われ弾劾す」(“J’accuse”(仏))
 という文豪エミール・ゾラの告発文が炸裂し、事件は世界的な規模にひろまった。
 しかも真犯人が判明し、ドレフュス無実が決定的なものになったにもかかわらず、事件は一ユダヤ人の冤罪問題を超え、時のフランスがかかえていた諸事情を含めて、政治問題にふくれあがっていった。
 ドレフュス無罪を叫ぶ左派や共和派と、軍や教会の一部を構成する極右や王制派との間で、宗教戦争ということばさえ飛び出すほどの激烈な対立となり、フランスの世論が沸騰しながら真っ二つに分かれたことは、私などがここで詳述するまでもないことである。                             (後略)
       
 ゾラの告発文を載せた『オロール』紙のその紙面が、そのまま映画のパンフレットに収められていました。
 そのページを開いて、私は今、“新聞の役割”について考えています。

 かつて私は金子兜太さんが筆をとった“アベ政治を許さない”というプラカードを掲げて上田駅前でスタンディングをしました。
 同じように、毎週国会の前で行動していた多くの人々がいます。
 国会前だけではありません。
 この国の各地でどれだけ多くの人々がスタンディングをしていたことか・・・・・。
 その声はかき消されてしまうのですか?
 私は「国葬」に反対です。

 いくつかの地方紙が「国葬」に反対の意志を表明しています。
 きょう7月20日付の朝日新聞の社説には、“「国葬」に疑問と懸念”という見出しがありました。

 (前略)
 弔意の強制はあってはならない。国葬が政権の評価を定めるものでもない。自由な論評を許さぬ風潮が生まれれば、それこそ民主主義の危機である。 

 と結ばれていました。

 “論陣を張る”という言葉があります。
 その新聞社の姿勢を示し続けて欲しいのです。
 “私は告発する”───、
 ゾラの言葉と『オロール』紙の姿勢が胸に迫ってきます。
 「国葬」に、私は断固反対です。

2022.7.20  荒井 きぬ枝

1898年1月13日号の「オロール」紙です

 

映画の一場面から


父の言葉をいま・・・その329

2022-07-13 | ことば

『出世をしない秘訣』(ジャンーポール・ラクロワ著)が理論社から刊行されたのは1960年のことです。
     訳者   椎名 其二  
     発行者  小宮山 量平
 50年の時を経て、2011年の9月に改訂新版が刊行されました。(こぶし書房)
 この作品の持つエスプリとアイロニー(皮肉)を今改めて復活させたいという父の思いがあったのでしょう。
 父は巻頭に長い文章を添えています。(“序に代えてーひとつの「哲学書」としてー”)

 ある方からお電話をいただきました。
 「『出世をしない秘訣』をちょうど読んでいたんですよ。十年前に先生はこんな文章を書かれていたんですね。今回の銃撃事件と重ねながら読んでいます。」─── と。

 7月10日付の「天声人語」」です。

 (前略)
 何が凶行に走らせたのか。本格的解明はこれからだが、胸の底にマグマのような鬱積があったのだろう。彼の銃弾が脅かしたのは、私たちの国のありようそのものではないか。 (後略)
 
 その“国のありよう”について父は書いていたのです。

               いまや親しき「哲学書」として

 生来、信州そだちのぼくにとって、盛夏こそはいちばん心の弾む季節だったのですが、2010(平成22)年のこの夏の異常な暑さばかりは、本当に身にこたえ、折から94歳のボーダーラインを超えた老骨としては、ほとんどアノ世行キを覚悟した上で、連日アイス・ピローに親しんで過ごす毎日でありました。けれども10月の暦をめくったとたん、思いがけない涼風の訪れにほっとひと息。そのとたんに、世間全般にも冷気がただよい始め、とりわけ祖国の衰亡を偲ばせるかのような無気力の政局を踏まえて、何の恥じらいもなく五五体制の復活を策するオピニオン・リーダーたちの登場までもが目立ち始めたではありませんか。
 こんな逆コースの横行ぶりに、それとなく祖国の前途に絶望してか、年々三万人余に及ぶ自殺者の数が右肩上がりとなり、得体(えたい)の知れない犯罪現象が、日々報じられる有様なのです。そんな低迷の累積するのにつれて国力の勢いを示す各種統計なども、世界各国と比べての順位を片っぱしから押し下げられて、かつての上昇気流はすっかり沈滞を示しつづけている現状なのです。
 こうした趨勢を見つめる人々の中には、今や「第二の敗戦」を指摘しないではいられない嘆声も生じているほどです。現に、年の瀬も次第に近づいた11月下旬の朝日新聞の天声人語子は、前大戦の前夜に一人の母親が詠んだ歌を挙げて、〈たゞならぬ世に待たれ居て卒業す〉と、日中戦争の前夜に旧制高校を卒業するわが子の身の上に暗くのしかかる戦争の足音に耳を澄ました時代をかえりみているのです。
 そんな不安に加えて、昨今の不安ときたら、卒業まで半年を切った大学生の就職率が10月1日の時点で57%にとどまるという最低の内定率を示しているという不安として語られていると言う訳です。かつての「ただならぬ世」に加えて、今の就職活動は長く、「去年の秋に始まり、夏の猛暑を汗だくで駆け、2度めの木枯らしに吹かれる」に至っていると言う次第です。
 再三の不採用に「人間を否定されている感じ」に陥って唇を噛む学生も少なくない現状なのだそうです。
 そもそもこれほどの人間否定の風が吹き荒れるに至ったのは、既に昭和20年代の末ごろに「産学協同」などという名目が大学に忍び込んで来るようになってからで、そのころ東大教授であった中野好夫が、「花園荒らしはやめてくれ」と書いて抗議し、4年生の9月からでさえ「専門教育の4分の1」を奪い去るものと断じたほどです。その中野氏が今の様子を知ったら「怒り心頭だろう」と、天声人語子は記し、当時の中野氏が「学生を「役に立つ」「間に合う」ではなく、可能性の存在として見るように」と、訴えていたと挙げているのです。その上で天声人語子は「人を「宝」とする企業との良縁に出会えるよう、いまも扉を叩く人にエールを送る」と柔しく結んでいるのです。
 けれども、このような天声人語子のエールや、中野好夫先生の温もりに満ちた思いやりなどが、ほとんど無力化するほどに現状の人間疎外は深まり、いわゆる就活問題=失業問題は絶望的な深淵をくり広げているのが実情なのではないでしょうか。
 すでにして、日本の労働組合運動などが行きつくところまで沈滞化し、学生運動のセクト化もその分裂体質の極限まで行きついたかに見える昨今なのです。考えようによっては、威勢の良いスローガンやアジテーションの羅列では群衆(マルチュード)としての人びとの心は燃え立たず、どんな巨額の資本投下によるマスメディアを以てしても、感動が感動へと連鎖を呼び覚ますどよめきは燃え上がることはないのでしょう。
 宗教団体めいた集団がどんなに「幸福」を叫んでも、秀れた革新政党がどれほど熱烈に「道理」を説いてくれても、大地の温もりを耕すような「感動」を呼び覚ますことは至難な時代こそが、いま、生まれつつあるのではないでしょうか。     (後略)
 
 今、この国では、まさに得体(えたい)の知れない犯罪現象が日々報じられています。
 そして起こった銃撃事件。
 犯人を許すことができないとしても、犯罪を生み出したその土壌に目を向けることを忘れてはいけないと思っています。
 “人間疎外”────。
 この国のありように、その言葉が重なります。
 非業の死を理由に、今までの政治が美化されてはならない・・・・・、
 長い献花の列を見ながら、どうしてもそう思えてならないのです。

2022.7.13  荒井 きぬ枝

父の言葉をいま・・・その328

2022-07-06 | ことば
 2022年3月28日付朝日新聞の「声」の欄に掲載されていた小学校の先生からの投書です。
 とても大切なことが記されていたので、切りぬいておきました。


       児童たちと考えた私たちの平和

 今、全世界でウクライナ情勢が大きな注目を集めている。
 私の勤務校では先月末から今月にかけ、「探求学習」に取り組んだ。これは、自分が課題だと思うことへの解決策を探す学習の形で、「答えのない問いに向き合うこと」が特徴だ。私が受け持つ4年生は、半年前から「世界を平和にするためには」をテーマに決めていた。
 「平和」といっても、戦争や貧困、いじめ、共生など中身は様々である。児童たちには「自分にとっての平和は何か」を確認した上で、その平和からこぼれてしまう人はいないか。平和に暮らすためにはどうしたらよいのか、自分には何ができるのか、を考えてもらった。
 児童のひとりは、「戦争という選択肢をとる政治家を、選挙で選ばないことが大事ではないか」と発表した。私もその通りだと思う。  (後略)


 「戦争という選択肢をとる政治家を、選挙で選ばないことが大事」。
 そう、そうだね。
 4年生の児童の発言が、参議院選挙を間近に控えた私の心にひびきます。

 同じ日に切り抜いておいたもうひとつの記事です。(「しんぶん赤旗」)
 “高校生 反戦の声”と大きな見出しがついています。


 (前略)
 「戦争体験者の人たちは、二度と戦争を繰り返してはならないと口をそろえて言います。
 私たちは戦争を体験したことがないからこそ、悲惨な戦争を二度と起こしていけない。過去を学び、戦争の悲惨さを後世に伝えていく必要がある」そんな思いでパレードの先頭を歩きました。  (後略)


 「戦争反対!高校生平和行動」───。
 そのパレードに参加した高校生の発言です。

 そう、過去を学ぶことが、“戦争反対”の心につながるんですよね。
 その過去を語り続けられた早乙女勝元さん。
 12歳で体験された“東京大空襲”を生涯かけて伝え続けられました。

 「いのちと平和のバトンを」と題された東京大空襲・戦災資料センター図録をいただきました。
 早乙女さんの娘さんの愛さんが送ってくださったのです。
 この図録に寄せられた早乙女さんの文章は、早乙女さんが逝かれた今、“継承することの大切さ”を静かに、けれど厳しく私たちに語りかけてくるのです。

2022.7.6  荒井 きぬ枝


        継承する一人ひとりに
         早乙女 勝元

 戦後100年の東京大空襲・戦災資料センターに向けてメッセージを、という依頼だ。
 やがて90歳になる私には気の遠くなるテーマだが、あとちょっと先の未来ともいえる。
 ちょっと先にゆく前に、決して忘れることなく語り伝えたい出来事がいくつかある。
 その一つは学徒出陣である。日本が仕掛けた戦争が敗色がらみとなった1943年10月21日、冷たい雨のなかの明治神宮外苑陸上競技場(現・国立競技場)で文部省主催の出陣学徒壮行会が開かれた。「生還は期せず」で、東京大学(当時は東京帝国大学)など近県から集まった出陣学徒は約7万人。制服制帽に身を固め、銃剣を担って行進し、見送る東條英樹首相と文部大臣らが並ぶ正面ステージが近づくと「歩調取れ」の号令だ。
 泥水をはねのけて進めば、足音がザッザッと広い会場のすみずみまで響きわたる。
 スタンドを埋めつくした女子学徒は雨に濡れた日の丸の小旗を振りながら、これが最後の別れかもとばかりに、みな手放しで泣いている。あの学徒たちは、その後すぐに入隊し、どうなったことだろう。生きて故郷の土を踏めた者はどれほどいたのかと気になる。
 その二、まもなくするうちに、B29による空襲が市街地を目標にして来るようになった。初期のうちの私は、たいてい見学組だった。日本の戦闘機による体当たり攻撃を何回か目にした。巨大なB29に吸い込まれるかと見たとたん、B29はがくんと前のめりになって落下した。
 「あ、やった、やった」
 近所の人たちは景気よく拍手と歓声を上げたが、すぐにため息に変わった。日本の戦闘機は搭乗員もろとも影も形もなく消えていたからだ。
 その三、この原稿を書いている2021年8月、テレビは興奮気味に五輪の競技を報道している。ただし、私はそう熱心に観ていない。安倍元首相による福島第一原発の「汚染水は完全に制御されている」の発言は誰もが知るとおりの東京五輪誘致へのエールで明白な嘘だった。新型コロナウイルスの感染拡大のさなか、その嘘の上に開幕したメインの競技場はどこ?
 あの日あの時、出陣学徒たちの壮行会が雨でおこなわれたその場所だった、と思いが及んだ人は、どのくらいいたのだろうか。
 私たちは、そういう歴史の一コマに無関心であってはならない。戦場に送られた学徒のように、二度とふたたびいのちを軽んじられないために。B29による大空襲で、10万人もの都民のいのちが一夜にして失われたことを、100年後まで記憶に残しておくために。私たちは歴史の真実を継承する一人ひとりになろうではないか。
 この図録がその一翼を担うことを、願ってやまない。