Editor’s Museum 「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

父の言葉をいま・・・その427

2024-09-11 | ことば

 1984年『竹中郁少年詩集 子ども闘牛士』が理論社から刊行されました。
 「竹中先生について」と題された足立巻一さんによる“あとがき”があります。

 竹中郁先生は、1982年3月7日、七十七歳でなくなられました。
 この詩集は、先生が日本の少年少女に贈り遺された、ただ一冊の詩集です。
 なくなられる十年ほど前、竹中先生はこの原稿を作っていられました。これまでに書いた詩のなかで、特に少年少女に読んでほしい作品ばかりを選び、むつかしい文字やことばは子どもでもわかるように書きなおしていられました。
 ところが、いろいろなわけがかさなって出版がおくれているうちに、先生は急になくなられました。くやしいことでした。
 先生を知る有志は、まず『竹中郁全詩集』を一周忌に出し、つづいて三周忌に『竹中郁少年詩集』を刊行することをきめました。そうして、この『少年詩集』が生まれ、三周忌の霊前に供えられることになったのです。
 詩集は竹中先生の原稿をもとにし、それにそののち書かれた作品やいくらかの旧作を加えました。詩の選は足立巻一がおこない、編集には小宮山量平があたりました。

 児童詩誌『きりん』の刊行にかかわってこられた竹中郁さんについての記述もありました。

「『きりん』という児童向け月間雑誌を出しつづけられたのは、たくさんの助けてくださる人があったからで、私ひとりの作業で成り立っていたのではない。私はその自然のなりゆきに乗ることで、数知れぬ大ぜいの日本の子どもたちの人生に手を貸すことに立ち到ったように思われる。まことにしあわせなことであった」

この心ばえはつつましやかで、しかも心が満ちたりていて美しいことばだと思います。そして、追記はつぎのように結ばれます。

「自分みずからの詩作品を書いてゆけることもしあわせの一つにはちがいないが、日本のあちこちから集まってくる子どもの声、清らかに澄んでしみ入るような詩の数々を毎日読み、かつ選び出していく仕事は、他の何にもまして充実した時間だった」

子どもの詩を読むことが自分の詩を作るよりもしあわせだったといわれます。戦後の三十数年、ひたすら子どもの詩を、すなわち子どもの清らかな心を読みつづけられてきた詩人の、深い実感であり讃歌であり、同時に子どもたちへの遺言であったと思います。

 先日8月21日付の「しんぶん赤旗」です。

   映像とトークで学び、考えた
   「子どもの本・九条の会」
 子どもの本にかかわる絵本作家、画家、編集者などでつくる「子どもの本・九条の会」は10日、夏の学習会「9条YES! 戦争NО! 何度でも ~過去に学び、現在を考えるための映像とトーク~」を東京都内で開催しました。

 2008年4月20日に「子どもの本・九条の会」が発足した時のDVDが残されています。
 今回の学習会でもこのDVDの鑑賞が行われたそうです。
 発起人のひとりであった父はその日会場でこんなふうに語っていました。


 「私が“先生”とお呼びする何人かのうちのおひとり、竹中郁さん。
 きっときょうこの会場のどこかにいらしていると思います。
 おまえさんにメッセージを託すからね――、そうおっしゃっています。
 竹中郁さんの詩を読みます。
 二度読みます。聞いてください。」


 父の手には『子ども闘牛士』がありました。

  もしも
もしも この地球の上に
こどもがいなかったら
おとなばかりで
としよりばかりで
おとなはみんなむっつりとなり
としよりはみんな泣き顔となり
地球はすっかり色をうしない
つまらぬ土くれとなるでしょう

こどもははとです
こどもはアコーディオンです
こどもは金のゆびわです

とびます 歌います 光ります
地球をたのしくにぎやかに
いきいきとさせて
こどもは
とびます 歌います 光ります
こどもがいなかったら
地球はつまらない土くれです

 詩を読み上げた父はひとことこうつけ加えました。

 「今まさに地球がつまらないつちくれになろうとしている。
 このときにこそ、この詩が大事です」
――と。

 今、世界では戦争であまりにも多くの子どものいのちが失われています。
 “とびます 歌います 光ります!”
 世界中の子どもたちに平和を――、そう願わずにはいられません。

 総裁戦で、“憲法改正”を争点に――。
 とんでもないことです。

2024.9.11 荒井きぬ枝


父の言葉をいま・・・その426

2024-09-04 | ことば

 「『きりん』がいちばん大事だよ」
 亡くなる間ぎわに言った父のことばは今でも私の心に残っています。

 1948年(昭和23年)、大阪で創刊された児童詩誌『きりん』を理論社が引き継いだのは1962年(昭和32年)のことでした。
 父の文章が残っています。(一枚の繪 1988年1月号)


 後に、青年時代に思想の自由を拘束され、続く六年に及ぶ軍隊生活のあげく、敗戦の祖国へ帰って来た私の胸に、残り火のようにくすぶるのは、あの『赤い鳥』時代でありました。やがて不死鳥は私の中にも甦ったのでしょうか。いつしか私は『赤い鳥』を承け継ぐ『きりん』を刊行し、創作児童文学の発掘に心身を捧げることとなりました。

 その『きりん』を研究されている方がいます。
 宮尾彰さん。
 週に二回このミュージアムで『きりん』と向き合っていらっしゃいます。
 もう二年になるでしょうか。
 先日原稿をいただきました。
 添えられたお手紙にはこんなふうに記されていました。

 ・・・編集して来た報告書の原稿を同封させていただきます。・・・今回は、1948年の創刊号から1951年までを一区切りとして執筆させていただきました。(中略)
 本当に現在のような時代にこそ、この「焼け跡」の中で子ども本来の自主性を尊重した『きりん』が誕生した史実を振り返り、再評価するべきだと痛感いたします。

 “焼け跡の『きりん』”と題された原稿を読み始めています。

プロローグ
(前略)『きりん』は、焼け跡の只中に「子どもと大人が対等に向き合う場」を創った。そこには年齢や性別を問わず、共に戦争を潜り抜けて生きて来た同胞である、という絶対的な経験の共有があった。
 編集者たちは、集められた詩や作文を読みながら自らの戦争体験を反芻していた。同じように、全国の学校現場で日々子どもと向き合っていた教師も、苦労の多い生活を送っていた親や家族も、子どもの感性が生み出した作品に力を与えられた。
(中略)
 浮田要三は、一九二四(大正一三)年生まれ。復員を経て一九四七(昭和二二)年尾崎書房に入社。間もなく『きりん』の誕生に立ち会った。
 現代美術作家浮田要三が、十四年にわたって盟友星芳郎と共に『きりん』の編集、発行、販売を死守した歴史は、これまで明らかにされて来なかった。
 作品をつくる子どもがおり、それらを集める小さな編集室があり、夢中でそれらに読み耽る詩人がおり、そこから発行される小さな冊子が、毎月教室に届けられた。
 本論では、戦争を生き延びた無数の子どもたちによる「純粋な行為」の目撃者、立会人として日々を生きた若き二人の編集者の姿を読者に紹介する。
(中略)
 「先生!『きりん』のおっちゃん来てるわー」。
 一九五〇年代の或る日、『きりん』を愛読していた大阪市立深江小学校橋本猛学級の生徒が、授業中ふと教室の脇に佇む星さんを見て、歓声を上げた。この一言の中に『きりん』の精神が息づいている。

 宮尾さんが創刊号からていねいに読んでくださっている『きりん』全冊は、灰谷健次郎さんが亡くなられる直前にこのミュージアムあてに送ってくださったものです。
 「いちばんふさわしい場所だから」――、そうおっしゃって。
 灰谷さんは星芳郎さんと一緒に『きりん』の販売のお手伝いをされていました。そして灰谷学級から生まれたこどもたちの詩を熱心に『きりん』編集部に届けられていたのです。
 やがてその『きりん』から『せんせいけらいになれ』が生まれました。

 1974年(昭和49年)に『兎の眼』が刊行されました。
 父が講演会で語った記録が『子どもの本をつくる』(1984年 日本エディタースクール出版部刊)に収められています。


 最近、私は灰谷さんとともに、北は北海道から九州・四国まで、じつにたくさん歩きまわっているのです。歩きながら、時どき反省するのです。私たちは、何をしているのだろう。『兎の眼』がベストセラーになり、それがもっと売れるように、売書活動として歩いているのだろうか。あるいは、この本を起点として、じつにたくさんの読者が、活字ばなれなどという時代の空気に抗して、集まろうとしている、そういう新しい読書運動の灯をつけて歩いているのだろうか。
 (中略)
 けれども、歩くのにつれて、私は灰谷さんとともに、現代児童文学そのものの扉を押しひらくために、どうしても必要なひとすじの道を歩きに歩きつづけている思いに駆られてくるのです。灰谷さんと私は、すでに二十年にわたって、『きりん』の仲間であり同志でした。たんに、一出版人が一人の著者とめぐりあったというのではありません。『きりん』を通じて、日本の子どもたちを知り、日本の子どもの運命を考え、その考えのままに、時によろこび、時に挫折してきたのです。
 そして、『きりん』という場が一つの余儀ない挫折を体験した谿間の底を匍いずりまわってのあげく、ふたたび灰谷さんは、子どもたちから学び、子どもたちにはげまされて、『兎の眼』は生まれ、それを世に広めることで、新しい『きりん』の時代をよびさまそうとしているのです。私たちのひたむきな歩みは、『赤い鳥』の挫折につながり、『きりん』の挫折につながっていることを、しだいに思い知るのです。だからこそ、『赤い鳥』から『きりん』へと、まっすぐに引かれた歴史の線上を、最初は無意識に、今では胸張って、歩きに歩いているわけです。


 宮尾さんのここでのお仕事は続きます。
 いえ“お仕事”ではありません。
 “あたたかいひととき”を過ごされているのだと思います。
 大切な“ひととき”の集大成がいつか実を結びますように、かたわらで願っています。

2024.9.4  荒井きぬ枝


父の言葉をいま・・・その425

2024-08-28 | ことば

 『人生のはじめ マルシャーク自伝』が父の編集によって理論社から刊行されたのは1968年のことです。
 その後1980年には『マルシャークのこどもの芝居』全3巻が刊行されました。
 第一巻には「12の月の物語」、「うちのヤギさん」がおさめられています。
 『人生のはじめ』の“あとがき”に父はこんなふうに記しています。


 (前略)  ――目をひらいてごらんなさい。誰だって大きな可能性をもっているんですよ。未来をみつめる心がもえていれば、誰だって、偉大な魂とめぐりあえるのですよ……。
 マルシャークは、そう語っているようです。彼のすべての作品が、そうでした。事実彼は、こどもたちの可能性を大きく育てることに生涯をささげました。そんな生涯を生きぬいた大作家が、改めて、『人生のはじめ』を少年少女たちに贈ることには、深いはげましがこめられていると思うのです。
 全世界の少年少女たちにとって、この本は、いちばん身近で、いちばんはげましになる自伝として、愛されることでしょう。ちょうど、現代史の始まりといわれるロシア革命の前夜に、未来を感じとった一人の少年の歩みは、いま、新しい明日を予感する人たちの心に、かくべつ深い意味をもつ時代でもあります。


 「12の月の物語」は原題が「12月」。
 お芝居の題名はあの有名な「森は生きている」です。
 父が初めて「森は生きている」を観せてくれたのは劇団「俳優座」の公演でした。
 1954年、私は小学一年生だったと思います。
 その後このお芝居は劇団「仲間」に受け継がれました。
 毎年暮れに上演されていて、冬休みに上京すると父は必ず連れていってくれました。
 何年も続いたので、私はそのセリフや歌を今でも覚えています。
 弟も一緒でした。

 『チェーホフショートセレクション 大きなかぶ』(理論社)が弟小宮山俊平の訳で刊行されたのは2017年。
 『トルストイショートセレクション 三びきのクマ』が刊行された前年です。
 両作ともヨシタケシンスケさんの絵。
 どちらも“子どもたちへのプレゼント”といった装丁です。

 “訳者あとがき”です。

 書名になっている「大きなかぶ」ですが、絵本で読んだ、アレかな? アレって、チェーホフ作だったのか、と思った方もいたのでは。実は、日本でもよく知られている「大きなかぶ」は、ロシアの昔ばなし、日本で言えば「桃太郎」のようなものです。チェーホフの「大きなかぶ」は、そのパロディー。ということで、巧みな作家チェーホフの遊びを楽しんでください。チェーホフ版の「大きなかぶ」のあとに、参考までに昔ばなしも載せておきました。ぜひ両方を味わってみてください。読む順番はどちらからでも、お好きなほうからどうぞ。
 (中略)ロシアでは演劇やコンサートと同じように、詩や小説・小話の朗読会がエンターテイメントとして開かれます。チェーホフの短編の一部は、あらかじめ「読み聞かせるユーモア小説」として書かれたのでは? それには現在形が向いているのでは? 日本の落語が連想されます。ユーモア小説の名手から有名な劇作家へ、チェーホフはロシアの文壇の寵児、締め切りに追われる人気作家でした。
 (中略)
 一つだけ、どうしても「ロシア!」を強調したい点があります。「冬の寒さ」です。チェーホフに限らず、ロシア民族ほぼ全員が、寒さをきわめて肯定的、楽天的に受け止め、嫌うどころか、愛しています。氷点下の空気の肌触りが快感。良い香り、おいしい匂いすら感じるのです。零度を行ったり来たりする十一月と三月は嫌われています。道はぐちゃぐちゃ、空気はじめじめ。どうせ寒いのなら、すっきり零下十度ぐらい、それで気分爽快なのです(本書の「いたずら」「ワーニカ」など)。
 では、部屋の温度をできるだけ下げて、ブルブル震えながら読んでください。すでに読んだ方は、もう一度。
     2017年1月 小宮山俊平

 「読んでください」と訳者は語りかけています。
 マルシャークを日本の少年少女に贈りとどけた父。
 そして時を経て息子が日本の子どもたちにプレゼントを用意しました。
 「チェーホフを読んでください」、「トルストイを読んでください」――と。

2024.8.28  荒井きぬ枝


父の言葉をいま・・・その424

2024-08-23 | ことば

 『愛になやみ死をおそれるもの』(1950年理論社刊)というアンソロジーに父がペンネームで書いた「私はお前をえた」という文章。
 たんじょう日から私が3歳になるまで、父は日記の形で私に語りかけています。
 その原文となった父の自筆の日記が今、私の手もとにあります。
 “子供のために 1947.10.12~ 量” と記された表紙。
 『愛になやみ死をおそれるもの』刊行後も父は日記を書き続けていました。

1950年11月22日(水)はれ
 夜半、くるしくうなされながら眠っていた。そして電話に醒めてにとびつくと、俊平よ、お前を、お前の誕生を、つたえるおじいさんの声のはずみだ。折から、夜来の雨がはれて、久しぶりにほんとうにおだやかな一日があけていた。
 (中略)
 きぬ枝のときよりも、父親としての経験を積んだ心で、お前の名前まで定めて待ちかまえていたのだけれど、それでも、不意におそいかかるこの喜びの急激さには、ただただ呆れるばかりだ。
 お前の誕生は、ほんとうに、最初から私には大きな感謝だ。お前のお母さんやきぬ枝に対しても、お前を得たことで、もっともっと深い愛情をそそがずにはおられない気持。私は妻や子供に対する愛情というものを、自分が想像していたものよりも、もっとずっと大きなものとして握りしめている思いだ。
 (後略)

1951年7月17日(火)くもり
 六月にはきぬ枝は はしか。俊平はかぜ。あまり良い月ではなかった。しかし、今度帰ると見違えるように元気にきれいになっていて安心。俊平も今月からしっかりお坐りができるようになり、食べものもたくさんいけるようになった。お前たちの成長の中に見出す希望というものは、単に、お前たちの父親だからということに止まらない。人間にとって、大きな成長を予約された「明日」の光りのいっさいなのだ。それはニッポンの歴史の中で異例な大きな時期の希望だ。それに洗われたようにすがすがしく東京へ帰る。

1951年11月22日(土)はれ
 俊平の誕生日、なんにもしてあげられなかったね。しかし、できないだけに、心の中では、一日中、お前たちのことが、うずうずと、うずきつづけて暮らしたんだよ。ヘンな話だけれど、こういうとき、歯をくいしばって、「良い世の中」をつくらなきゃあ――と思うんだ。


 私の弟の俊平について、父はこんなふうに綴っていたのです。
 俊平はこの日記の存在を知っていたのかな、読んだことがあったかな――、今ふとそのことを考えています。

 成長した俊平はロシア語を学ぶようになります。
 「ロシア語譚」と題した文章を父が書いています。(昭和時代落穂拾い)
 自身のロシア語とのかかわりを書いた最後の部分です。


 それほどまでして学んだロシア語だのに、後に、六年間の軍隊生活の間にきれいに消え去り、戦後となっても、遂に復活することはなかった。
 最近に至って、格別に私がすすめたわけでもないのに、長男が大学在学中にロシア語を身につけたらしい。モスクワ大学にも留学した。日露関係が深まるのにつれて、テレビなどでロシア要人がしゃべるのを息子が同時通訳したりすることがある。字幕に息子の名が出るその都度、私は涙ぐむのだ。


 ウクライナの戦争以来、ロシアという国、そして、ロシアの文学、ロシアの芸術が否定されるような状況になってしまったことは、ロシアとの交流に力を注いできた俊平にとって、とても無念なことだったと思います。

 まだ5日前のことです。
 8月18日の午後、小宮山俊平が急性腎不全で急逝しました。
 そのことをまだ受け入れられずにいます。
 けれど、今、私にできるかぎりの形で、弟を追悼しようと思っています。

 父が『トルストイのこどものための本 全6巻』を編集、刊行したのは、1970年のことでした。
 “刊行のことば”の最後に父はこう記しています。


幸か不幸か、まさに《トルストイに還れ!》と呼ばずにはいられない
時代の声が、いま新たにわたしたちを、この企てに立ち向かわせたのです。


 そして50年数年後――、
 『トルストイショートセレクション 三びきのクマ』(2018年理論社刊)の翻訳が俊平の最後の仕事になりました。
 “訳者あとがき”にはこんなふうに書かれていました。

トルストイは「愛」に生き、「愛」を伝道しつづけた作家です。村人を愛し、その物語を書きました。村のこどもたちを愛し、彼らの未来に期待し、教育に心をくだきました。「愛」は人間ばかりか自然環境にも、動物にも向けられました。~没後百年以上過ぎてもトルストイが広く世界中で読まれるのは、とにかく読んで面白いからです。

 トルストイが読み継がれることをともに願った父と息子です。
 父に抱っこされた2歳の俊平の写真を棺に入れました。

2024.8.23  荒井きぬ枝


父の言葉をいま・・・その423

2024-08-14 | ことば

 思いがけず何かが見つかるということがあるのですね。
 父が住んでいた家の片隅に小さなパネルがありました。
 物の陰になっていて気づかずにいたのですね。
 パネルはなつかしい父の自筆で、こんなふうに書かれていました。

   創作児童文学の誕生  
理論社は「創作児童文学の先駆者(パイオニア)」と呼ばれています。以前、子どもの本棚は、名作古典やほん訳もので占められていたのです。日本の子どもたちが新しい日本の作家による創作文学で育つように……そういう素朴な願いを切り開いたのは、理論社を先頭とする戦後の創作児童文学運動でした。いま日本の「親と子をむすぶ本棚」には、こんなにすばらしい本が並ぶようになりました。

小宮山量平 ごあいさつ第一号  

 “理論社を先頭とする戦後の創作児童文学運動”――。
 そう、父は「戦後」にこだわっていました。
 「私が切り開いてきたのは単に“創作児童文学”という分野ではなく、“戦後創作児童文学”という分野なのだよ」――と。
 「戦後」をどう生きたらいいのか、二度と戦争を繰り返さないためには何よりも“自立的精神”が必要なのだと。
 そのための本づくりを志したのです。
 若い作家、若い画家の方たちが父のもとに集まりました。

 若き日のいわさきちひろさんが、その中にいらしたのです。
 昨日、8月13日付の朝日新聞の記事です。

     表情に込めた 戦争とは 命とは
 今年は、絵本画家いわさきちひろ(1918~74)の没後50年となる。1960年代以降、ベトナム戦争が激化する中で「戦火のなかの子どもたち」(73年)など戦争をテーマにした絵本も手がけた。自らも東京・山の手大空襲を経験し、命や平和の大切さを訴え続けた彼女の思いを、長男で美術・絵本評論家の松本猛さん(73)に聞いた。
 (前略)
 ――「焔のなかの母と子」という絵は母親の表情が印象的です。
 迫りくる炎から子どもを守ろうとする母親を描いていますが、どの戦争でも起きる光景です。戦争に対する怒りや、戦争を起こす力に抵抗する意思を込めたんでしょう。
 ――「あたしたちの一生はずーっと せんそうのなかだけだった」という一節があります。世界各地で、こうした子どもが今もたくさんいます。
 ちひろは、戦後すぐに記者として、孤児を数多く取材し、戦争しか知らない子どもたちをたくさん見てきました。なんという国家の暴力なんだと憤りがあった。戦争という理不尽な力が、子どもの可能性や未来を全部なくしてしまうということに対する怒りや、本来そうあってはいけないという思いが、この言葉の裏にあった。

 早乙女勝元さんが東京大空襲を描いた作品『ゆびきり』(1961年理論社刊)。
 さし絵はいわさきちひろさんです。
 早乙女さんもちひろさんも戦争を語り継ぐことで、その先の希望につなげようとされていたのですね。

 『ゆびきり』の終章です。
 東京大空襲の翌朝、早乙女少年の目に映った光景が描かれています。

 死体は、大人だか、子どもだかもわからなかった。やけた木の幹のようだった。
 それほど大きくなかったから、あるいは、昌次とおなじ年ごろの少年かもしれない。少女かもしれない。
 いずれにしてもきのうまでは、この町のどこかの、ちいさな家の中で、わらい、しゃべり、ピチピチと生きていた人だ。――その人が、たった一夜のうちに、まっくろこげの死体となってしまった!
 もう、しゃべることもできず、わらうこともできず、しみるような空の蒼さを、みることもできない。
 ああ、だれだ?
 いったい、だれがわるいんだ?
 こんなおそろしいことをするやつは、どこにいるんだ?
 おまえは、それでも人間なのか?
 わなわなと唇をふるわせながら、昌次は、ツかれたもののように、道をあるいた。

 8月15日。
 「終戦記念日」――、けれど、
 「終戦」ではなく「敗戦」だと言っていた父のことばが甦ります。
 そして、今もまだ「戦後」を生きている人がたくさんいるのです。
 失われた多くのいのちを忘れることはできません。
 ずっと「戦後」です。
 決して「戦前」になりませんように。

2024.8.14  荒井きぬ枝