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老人たち,それぞれのシアワセのカタチ

2014年07月28日 | 日々のアブク
 昨日の午後,所用のため電車で川崎方面に出掛けた。前にも記したことがあったような気がするが,拙宅から最寄り駅までの行程は,ときどきは急ぎ安直にカナチュー・バスを利用したり(恥),あるいは天気が良くて爽やかな日和であればスタスタ・ウォーキングで向かったり(汗)することもあるのだけれど,だいたいは自転車をスッ飛ばして,もしくはノンビリ漕いで行って,駅前の100円駐輪場に止めることが多い。小田急線では秦野駅(自宅から約3.5km)あるいは渋沢駅(同:約4km)が通常の最寄り駅であるが,ときどきはもう少し先の伊勢原駅(同:約11km)や新松田駅(同:約10km)まで走ることもある。小田急線ではなくJR東海道線を利用するときは二宮駅(同:約13km)まで自転車でゆくのが最も近いが,ときには平塚駅(同:約16km)まで,さらに気分次第では茅ヶ崎駅(同:約20km)あるいは小田原駅(同:約23km)まで漕いでいったりもする。ただ,あまり先々の駅まで自転車で行ってしまうと,ともすれば本来の目的である電車利用のためのアプローチという意味合いが薄れてしまい,のみならず,そのことによって元々予定していた目的地が急遽変更される,すなわち,凧糸切れた凧みたいにそのまま自転車でどこかを彷徨い続けてしまうといった状況が発生したりもするわけで。。。。 シカシ,そもそも徘徊老人にとっての「目的」って,何だ? 

 ちなみに,最近では比較的近場エリアでの「輪行」は全くやっていない。県外の遠く離れた地に泊まりがけで出掛けたりするのであれば,所有するフォールディング・バイク(DAHON)で輪行するに決してヤブサカではないのだけれども(日常の足となっている愛車のMTBについては,何しろ車重16kgを超えるものだから,これで輪行しようなんていう気はまず起こらない),それにしたところが,だいたい遠隔地方面に出掛けるに際してはソレナリノ旅費交通費を覚悟しなくてはならないので,まずはソッチ方面の問題を解決しなくてはならない。「お伊勢参り」に出掛ける費用を算段するために大事な着物を質に入れてお金を工面するなんてことまではしたくないわけで,だったら御近所の「大山詣で」くらいにしときなさいって! そんなツマシイ日常であります。そうそう,大学時代の友人がつい最近までアフリカ某国の特命全権大使として派遣されており,機会があれば任期中に一度おいで下さいな,などと誘われていたのであったが,往復の交通費等を調べた挙げ句に泣く泣く断念し,結局その機を逸してしまったという事などもありました。半径20kmの日常,それが現在の私には相応であると承知しているような次第です。

 おっと,話がなかなか先に進まないぞ。

 で,自宅から電車駅までのアプローチとその後の話に戻ると,昨日は家から渋沢駅まで自転車で行ってそこから小田急線の上り急行に乗車したのだった。いつものように進行方向の車窓風景を眺めようかと思って,先頭車両の一番前のドアから乗車した。「鉄道の楽しさの原点は前面展望にあり!」というのが昨今巷に多々はびこっている鉄ちゃん達の基本姿勢とのことで,そんな彼らとは明瞭に一線を画する者であるところの私ではあるけれども,その点に関しては無条件に彼らに賛同するものでアリマス。電車でGO! ただ,あいにく今はちょうど夏休みの時期ゆえか,車両最前には小学校低学年(2~3年?)とおぼしき男の子が3人陣取って,ケータイをいじくったりペチャクチャしゃべったりしながら窓越しに進む先の景色を楽しげに眺めていたので,彼らのすぐ傍らに立って要らぬプレッシャーを与えてしまうなんてのも少々オトナゲナイと思い,ここはオトナシク空いているベンチシートの最前列に座ることにした。最近では車中での読書は基本的にやらないようにしている(何しろ老眼がとみに進行しているゆえ)。それで,ザックからiPod touchを取り出してイヤホンでお気に入りの音楽なんぞを聴いたりして時間を過ごす。

 ひとつ隣の秦野駅に停車すると,車両最前列のドアから,自転車を輪行袋に入れてベルトで担いだ老人が靴底クリートをカチャカチャ鳴らしつつ真っ先に乗り込んできた。何とも見事なまでにカチャカチャ,もといガチガチのローディー・スタイルである。年の頃は,そうさな,60代後半か,あるいは既に70に手が届いている位かも知れない。恐らく今日はヤビツ峠を下ってきて当駅を帰路のゴール地点としたのだろう。午後1時を少しばかり回った時刻だったので,だいぶ早い御帰還のようだ。何やら全身グッタリと疲れきった様子,多分は朝も早うからフルスロットルで漕ぎ回ってきたのでありましょう。かなり遠くから(サイタマ,とか?)ハルバルやって来たのかな。その年齢を別にすれば,当地においては最近よく見かけるお馴染みの光景だ。

 輪行袋に仕舞い込んだバイクは,小学生たちのすぐ脇に設置スペースを何とか確保して車両前面の手すりに丁寧に縛って固定した。袋から少しだけのぞいているフレームの一部だけでは私にはその車種が判別できないが,ま,恐らく高級ブランド物に違いあるまい。御本人は一息ついたのちに自転車から離れ,ベンチシートの方に移動して腰を下ろした。私の斜め向かいである。席に座ってもヘルメットは被ったまま,サングラスも掛けたままだ。視線,というか顔面を時おり不安定に左右に動かしたり,また手や脚も間欠的に微動させているなど,その仕草からは何となく不機嫌そうな様子がうかがえた。あるいは単に蓄積した疲労が不機嫌に転嫁しているだけなのかも知れない。しばしば輪行バイクの方をチラ見している。小学生たちが不用意に触りやしないかと気になっているようだ。そのうち,ドイターのザックからスマホを取り出すや,意外にもキビキビした動作でタップ&スクロール操作をやりはじめた。町工場の老いたる熟練工みたいなそのせわしない動作は,しばらくのあいだ続けられた。

 当方,ヒマにまかせてその老人の御姿をじっくり拝見させていただくと,ヘルメットはSeleve,ジャージはShimano,レーパンはPearl Izumi,シューズはShimano,バッグはDeuter,アイウエアはRudy Project,だいだいそんな感じの装いだった。色柄,デザインなどの見た目は,この手のヒトビトの常として当然ながら煌びやかで派手派手しい。しかも,いずれもが「おニュー」に近いようなキレイさだった。要するに,上から下まで全身すこぶる金が掛かっているピカピカ・ローディー・スタイルといっていいだろう。なお,ここでいう「すこぶる」とは,あくまでも私基準による形容でありまして,世間的に見ればホリデー・サイクリストとして概ねまっとうな装備なのだろうとは思う(よく知らないケド)。とりわけエブリデイ・イズ・ホリデイの金満老人などにしてみれば,自身の気ままな趣味嗜好について誰から咎め立てされる筋合いのものでもないだろう。「馬子にも衣装」あるいは「鬼瓦にも化粧」「杭にも笠」などという一般的かつ世俗的な常套句がここで外野席から持ち出されたところで,それは決して侮蔑や非難を暗示している訳ではあらずして,多分に嫉妬と羨望,それから少しばかりの賞賛!?なんぞが含まれているに相違ない。そのことだけは申し添えておきます。ただいかんせん,リアリスティックでシビアな日常世界を改めて展望いたしますれば,その洒落た衣装から露わになっている腕や脚,いちおうソレナリニ引き締まってはいるものの,やはり加齢に伴う劣化や衰えは如何んとも隠しがたい,というか,見方によっては外界に対してイタズラに無残なロウシュウを晒しているだけのミスマッチ風景としか感じられないのは,さて,当の観察者の眼がすこぶる濁っている所為でありましょうか? はい,ローガンではございますが。。。

 要するに,それは閉ざされた均一狭小空間内における異質性ないし非日常性の問題の謂であって,例えて言えば,街頭興行の移動中に一座からひとりはぐれてしまったチンドン屋の太鼓叩き芸人が,ひょんなことから比較的空いた乗り合いバスに乗車せざるをえなくなったような状況,衆人環視のなかで,商売道具の大きなチンドン太鼓を抱えたまま,ドーランを塗りたくった顔を周囲に晒しながら,一人気まずそうに時間をやり過ごす日曜の午後,まぁそんな感じになりましょうか。赤信号を一人で渡るにはソレナリノ覚悟と決断を必要とする。そして世間はそのようなシーンを決して「スゴイ!」,「ご立派!」などと囃したてたりはしないのだ。

 それにしても,我ながらトゲのある物言いだなぁ。はい,ジジイノタワゴトではございますが。。。

 さて,ローディー老人にまつわる沙漠のように不毛な灌漑,もとい感慨はそれくらいで切り上げておきましょう。実は彼のとなりの席,正確には一人分の空きスペースを隔てた右隣にも,やはり老人がひとり座っていたのだった。私が乗車した渋沢駅よりもっと前の駅(小田原方面)から乗車していた。ったく今日び,休日昼間の電車に乗るのはロージンとコドモばかりかぃ! で,その老人,年齢は同じく70才前後だろうか。こちらは「アウトドア系」に対しての「インドア系」とでも申したらよろしいか,外見はかなり地味で質素な風采だった。ただし,痩せこけ枯れ果て吹けば飛ぶようなヨボヨボ老人というわけでは決してなく,やや猫背気味ながら中肉中背の,いまだシッカリ地に足の付いた体躯の持ち主と見受けられた。頭髪はほとんど真っ白で,量的にもだいぶ寂しい状態になってはいるものの,完全に禿げ上がるまでにはまだ幾分かの猶予期間がありそうだ。というか,そもそも頭髪の抜毛・衰退・消失というヒトの生体における生理的老化現象というものは,ある程度まで高齢の域に達してしまうと,その先は頭皮新陳代謝が停滞して機能緩慢になってゆき,更なる顕著な禿化はさほど進行しないのではないかという気がする。例えば2004年のシャルル・アズナブールCharles Aznavourみたいに程よく上品な感じでとどまってしまう,といったところジャマイカ(興味ある方はYouTube等で御確認下さい)。禿げ頭にまつわる悲哀,嫌悪,艱難辛苦,刻苦勉励等々の煩悩は,せいぜい「還暦」あたりまでが勝負どころで,それ以降は恐らくドーデモイイ話になるのでありましょう。

 それはともかく,彼が身に付けているものをざっと記せばおおよそ次のとおりであった。少々色あせた濃紺のポロシャツ。だいぶ皺のついたベージュ色のチノパンツ。履いている靴はスリッポンタイプの黒の革靴で,こちらもお世辞にもキレイとは申せない。掛けている眼鏡はやや太目の黒縁で,すぐに老眼鏡だとわかる。帽子はかぶっておらず,手元に置いてもいない。それから,やや小ぶりの,シンナリしてクタビレタ感じの褐色のビニール製ショルダーバッグ(容量は10リットルくらい)を膝の上に載せていた。それら身に纏うものすべては紛う事なき安物感に溢れていて,かつ十分に使い込まれたものと見受けられた。ただし,それでも「ボロを着ている」ようにはチットモ感じられず,単に地味を絵に描いたような,ごく無難な老人的スタイルを示しているだけのことであった。それが本来ありうべき正しい老人の姿,まっとうな老いの生きざま,ジジイの本分,とまでは決して申しませんケレドモ。。。

 御本人は従前よりずっと本を読み続けていた。手にしているのは四六判のハードカバーで,恐らく図書館で借りた本なのだろう,表紙にビニール・コーティングが施されていた。私の側からではそれがどんなタイトルの本なのかはわからないが,読んでいる最中の彼の表情やページをめくるスピード,仕草などから本の内容を一寸想像してみるに,多分は通俗本,時代小説とか推理小説とか,あるいは軽いエッセイ本とか健康関係の本とか,そんな類の本のような気がした。スマホ・ケータイなどとは全く無縁の世界に生きる人々,昨今ではその数が急速に減少しているとはいえ,この世知辛い世間には未だそういった人種が少なからず存在している。いずれは稀少種→準絶滅危惧種→絶滅危惧Ⅱ類→絶滅危惧Ⅰ類,そして絶滅種への過程を辿ってゆくのだろう。やがて消えゆく我が身かな,というわけだ。ただ,少なくとも現状においては,少し気取ってアズナブール流に申せば,彼らは彼らなりに 流行にとらわれない楽しみ 《Les plaisirs démodés》 の具現者としてのポジションないしスタンスを自ら良しとしているのではアルマイカと思う。たとえ今はダンスの「お相手」がおらずとも,それはそれで構わない。日々の有様めまぐるしく移り変わり,なべて足早に過ぎ去りゆく時代の流れのなかにあって,ひとりポツネンと自身を処し,無常とか孤独とか諦観とか惜別とか,そういったもろもろの雑念をサリゲナク感じながらも,そして当然ながら世間との違和感,時代との乖離をヒシヒシと受け止めながらも,とりあえずは分相応に,マイペースで朝な夕なを過ごし,昨日と同じ今日を粛々と訥々と暮らしてゆく。いずれは時が彼をしかるべき何処かへと導くだろう。時というのはアッチラ族のように野蛮なものだ《Le temps est un barbare, dans le genre d'Attila.》 さもあらばあれ,そういった「時代遅れ」の日々をごく自然に生きる,いわば「正統的老人」の存在自体が,私のごとき中途半端に日々右往左往している「見習い老人」からすると,まさに目指すべき励みの糧となるのであり,またそれゆえにこそ,日常のさりげない風景のなかでふと目にする彼らの姿や所作に,いみじくも心揺り動かされてしまうのだ。人間至ル所青山アリ。電車内におけるフィールド観察の一興として,そのようなタアイナイ妄想をあれこれ巡らせるのは,ソレナリニ楽しいことではあります。

 ところで,もし彼が読んでいた本が ドゥルーズ=ガタリDeleuze et Guattari とかだったら,それこそ マイリマシタ!と言わざるをえないだろう。諸々の無礼がございましたれば,平にお許し下さい。

 ここで改めて電車で隣り合わせたそれぞれの老人を見比べてみる。そのあまりにも好対照な有様は,何と言ったらいいか,静と動,陰と陽,北風と太陽,市井人と芸能人,ヴィッツとベンツ,ビンボーとダイジン,アベルとカイン,アルキビアデスとソクラテス。まぁ,何でもよろしいけれど,とにもかくにも,ともに御年70才とすれば,1944年の大東亜戦争末期のすこぶる慌ただしい時代に生まれた勘定になる。そしてすぐに敗戦を迎え,それから戦後の混乱と復興,経済の急速な発展,社会の繁栄と停滞,そういっためくるめく昭和の動乱期を経てやがて平成の新しい時代へと移る。その平成も,あれま,すでに四半世紀が過ぎてしまった。その間,お互いに同じ時代を生きつつも,それぞれに全く異なる長い長いジンセイを今日までツツガナク過ごしてきたというわけだろう。改めて,お疲れ様でした。

 ところで,本邦ユーメージンでいうと,同年代にはどのような方々がおられるのだろうかと,つい今し方ヒマにまかせてネットで一寸検索してみた。毎度のことながらインターネットというのはまことに便利な道具で,即座にザクザクと出てきたが,そのなかから適当にピックアップしてみれば次のようであった。体育会系では柴田勲や釜本邦茂や高見山大五郎,文系では奥本大三郎や藤原新也や椎名誠や小嵐九八郎,学者系では今泉忠明や石橋克彦,実業系では似鳥昭雄や村田紀敏,政治系では冨野暉一郎や町村信孝や中川秀直や額賀福志郎や 田中真紀子(男か?),芸能系では小椋佳や荒木一郎や西岡たかしや舟木一夫やマイク眞木や杉良太郎や古谷一行や平泉成や佐藤蛾次郎やみなみらんぼう,ついでにチャラチャラ系ではクメヒロシやミノモンタなどなど。学者系が少なく,逆に芸能系が多いような気がするが,それもまた時代のなせるゆえなのかも知れない。いずれにしても,多士済々で,人に歴史あり。電車に終着駅あり。墓地に墓碑銘あり。まこと,人生イロイロというしかない。どなた様も,まことにお疲れ様です。

 いささか尻すぼみになったが,これ以上は書く気力が失せてしまった。どうもエントリー・テーマ自体が宜しくなかったようだ。分不相応は承知のうえながら,反省しきりであります。 というわけで,この先,私自身にはどんな本格的老人生活(最晩年)が待ち受けているのだろうか。ダロウカ? 何だかワクワクするなぁ,ってことで。。。

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