イーゴンの徒然

新幹線やラッセル車の写真。東日本大震災写真集「その時、閖上は」を出版しました。

【H23.3.11あれから~回想12】「閖上小学校に戻る、そして家族との合流へ」

2012年12月30日 15時53分43秒 | 【H23.3.11あれから~回想】
前回→【H23.3.11あれから~回想11】「自宅が無かった…」

※当時の私の動きがわかる閖上の簡略図はこちらからダウンロードできます。
「閖上簡略図」pdfファイル






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12:28 相変わらず仙台新港の油槽所から黒煙が上がっている




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12:29 閖上五叉路を見る




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12:31 また燃え始めた漁船



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12:34 自衛隊の重機が道を切り開く

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12:35 民間業者も復旧作業を行っている



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12:38 氷見市消防局(富山県)
 


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12:38 砺波(富山県)から来てくれた消防。


閖上小学校に戻った。昨日より精力的に動いておられた防災役員と音楽室で話をする。スーツ姿にヘルメットでまったく気がつかなかったが実はよくうちに来られる知り合いの方であった。そこで早速防災無線の話になる。スピーカーだけでも使えないものか?とのことなので屋上に行き見てみる。バッテリーが生きていれば配線を繫ぎ替えてでも使おうと思ったが、試しにブレストークボタンを押してテストした。するとスピーカーから声が出ている。何もしなくてもあっけなく単独放送は出来た。周辺住民に届く範囲内だけでも放送すれば良かったのではないか……。この後、閖上中学校から閖上小学校に移動して来る方に向けて屋上から放送をした。初めは女性の先生が放送していたのだが、先生には持ち場に戻っていただき途中から私が放送をした。

閖上中学校までは車が入れないので、閖上小学校からマイクロバスで内陸部の避難所(館腰小学校など)に輸送することになっていた。大勢の人がバスに乗る列を作っている。

私は歩けるので歩いて脱出しようと決めた。すでに携帯電話の電源はない。家族と合流する場所は決めていなかったが、大おばあさんの入院している岩沼の南東北病院に向かう。日没から逆算して1600に出る事にした。顔見知りになったお世話になった方々に挨拶をして小学校を後にした。



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16:10 閖上小学校から出て歩き始める やけに夕陽が眩しかった


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16:11 海から離れているのに漁船が



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16:17 東部道路名取インター


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16:17 夜を徹して道を開いてくれたおかげで翌日には重機が現地に入れた


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16:18 避難所まで移動する為の桜交通のバスが見える


東部道路の近くのミニストップがある交差点に差し掛かった時、若者が乗る一台の車が止まる。そして岩沼まで乗せていただくことになった。岩沼の病院まであっという間に着いた。若者の親切な行動に最大限の御礼を申し上げ別れた。そして家族がいないか探そうとしたその時、我が家の白い車が目の前に止まっていた。あっけない家族との合流だった。



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17:16 館腰駅 

3月11日の14:45到着14:46発車の上り584M福島行き普通列車。



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17:16 館腰駅に駅員はいなかった





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