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【現代思想とジャーナリスト精神】

色平哲郎氏からのご紹介

色平哲郎氏からのご紹介

先ほど、平良亀之助さん(85)のお話をズームで伺いました



平良(たいら)さんは、復帰の前年、国会で沖縄返還協定について議論されている際、国会での議論に沖縄の声を反映してもらおうと当時の琉球政府がまとめた建議書の作成に携わりました。建議書には「基地のない平和の島としての復帰を強く望む」などと書かれていましたが、復帰後も沖縄にはアメリカ軍専用施設が集中しています。

https://bit.ly/3x5Yy5N
50年前の式典に出た平良亀之助さん 複雑な思いでテレビ見る


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沖縄にとって重要な法案にも関わらず、情報は入ってきていませんでした。そんなある日、平良さんは運命の瞬間に立ち会うことになります。元琉球政府職員・平良亀之助さん「庶務係にしか電話ないからね、電話かけるよと言ったら、バーッと親鳥がひなを外敵から守るような感じでね。ちらっと見える、かなり大きめの冊子がいくつか重なっていて、これを覆っている。で私は、カマかけたわけさ」実は、平良さんは、元新聞記者。長年の勘で「何かある」と違和感に気づきました。
元琉球政府職員平良亀之助さん「もうそれしかないから、こうするのは。もう『ものはきてるんだな』と言ったらね、この係が上目遣いにして『さすが元新聞記者』と言ってね」隠された冊子は、日本政府側が つくりあげた沖縄返還協定と復帰措置関連法案だったのです。元琉球政府職員・平良亀之助さん「パラパラと見ただけで、これはいかんと。この通り(復帰)されたらね、ちょっと復帰後の我々は立ち行かないですよというふうなことを口頭でとりあえず進言した」、、、

この思いは、建議書の冒頭に綴られています。建議書より抜粋『従来の沖縄は余りにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用されすぎてきました。復帰という歴史の一大転換期にあたって、このような地位からも沖縄は脱却していかねばなりません』琉球政府・屋良朝苗主席「形式的には核抜き・本土並み。この共同声明を見ましてもね、実際はっきりしないところがある」
50年前のきょう、沖縄返還協定の強行採決により、門前払いにされた屋良主席ですが、翌日、佐藤総理をはじめ、全閣僚に建議書を手渡していました。
元琉球政府職員・平良亀之助さん「私は(建議書は)有効である、生きていると」基地のない平和な沖縄を願い、屋良主席が日本政府につきつけた県民の声。その重みは、来年、復帰50年をむかえる沖縄に、改めて深く響いています。

https://bit.ly/3pYDlGF
ないがしろにされた建議書 沖縄返還協定強行採決から50年


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「非常に難事業だった。ぼう大な資料の中から、これまでの要請書や調整文書を取り出して法案といちいち照合、検討し、チームの審議とさらに県民会議の審議にかけて文章化したので時間はいくらあっても足りなかった」と、屋良氏が述懐している通り、建議書作成は容易な作業ではありませんでした。
同建議書の完成後、屋良主席は、1971年11月17日、これを持って上京しました。しかしながら、屋良主席の上京の前に、沖縄返還協定は衆院返還協定特別委で自民党により強行採決されてしまいました。東京・赤坂のホテルに着いた屋良主席は、その採決を知らぬまま、報道陣から「ついさきほど返還協定が衆院沖縄返還協定特別委員会で強行採決された。コメントを」と言われました。まさに青天の霹靂でした。屋良氏は、この時のことについて、「呆然自失、なにをいってよいかわからず、コメントを断ってホテルの部屋に逃げ込んだ」と、回想しています、、、
屋良氏は、復帰については次のように特別の思いを持っていました。「軍事占領支配からの脱却、憲法で保障される日本国民としての諸権利の回復、そして沖縄県民としての自主主体性の確立、これらが私たち県民にとって、全面復帰のもっている内容です。もっと簡単明瞭にいいますと、”人間性の回復”を願望しているのです。きわめて当然な願望であり要求です」。それゆえに、11月17日の強行採決に対して屋良主席がいかに無念の思いをしたかは想像に難くありません。

https://bit.ly/3e5QXxg
琉球政府文書 「復帰措置に関する建議書」


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玉城知事は「思いをしっかりと受け止めてもらえたと感じている。政府には、復帰当時の人たちの思いや今の県民の思いを踏まえ、沖縄を平和の島にするという目標や自立的発展の実現に取り組んでほしい」と語った。県が政府宛ての建議書をまとめるのは1971年以来、2度目。当時の琉球政府の屋良朝苗主席は建議書を首相らに提出したが、提出前に沖縄返還協定は衆院特別委員会で強行採決された。
新たな建議書は「復帰時に県と政府が共有した『沖縄を平和の島とする』目標は、50年が経過した現在もいまだ達成されていない」と指摘。日米地位協定の抜本的見直し、自立経済の構築を求めている。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1514888.html
復帰50年、平和な沖縄の実現を 玉城知事が建議書提出 首相「受け止めたい」


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「おんなの思想」を求めて:森崎和江さんを悼む 上野千鶴子

まだフェミニズムがなかったころ。女であることと格闘していたわたしは、天上から降りてくる蜘蛛の糸のようなことばにすがった。それが森崎和江さんのことばだった。それは18歳で敗戦を迎えた時、これまでの思想とことばが目の前で音を立てて崩れるのを目の当たりにして、「男のことばを決して信じまい」と決意したひとの、「女のことば」だった。

女の経験や感情を語ることばは、日本語になかった。だからそのひとは、どこにもないことばを求めて詩を書いた。妊娠してもう一つの命を宿したある日、「わたし」という一人称単数形が使えなくなった。妊婦の経験をあらわすことばはどこにもなかった。その「女たちの孤独」は、「百年二百年の孤独ではありませんでした」とそのひとは書く。

朝鮮半島で生まれて17歳まで育った。敗戦でふるさとを失い、自分が占領者の側にいたことを思い知らされた。帰ってきた日本は異郷だった。その異郷の、足をとられる泥のような謎を解こうと、一生涯格闘した。

石牟礼道子、中村きい子と並んで九州の雑誌「サークル村」にこの3人あり、と言われた女性。谷川雁と出会い、同居するためにふたりの子どもを連れて婚家を出た。炭坑闘争の稀代のオルガナイザーだった谷川が、仲間の性暴力を見逃したことで、彼と袂を分かった。炭鉱町に住みついて、女性の炭鉱労働者たちの聞き書き『まっくら』(1961年)を書き、やがて戦前に海外に身売りされた女たちのノンフィクション『からゆきさん』(76年)を書いてベストセラーになった。

まだフェミニズムがなかったころ。このひとはミニコミのはしりともいうべき『無名通信』という個人誌を出した。なぜ「無名」なのか? 1959年に出た手書きガリ版刷りの「創刊の辞」にこうある。

「わたしたちは女にかぶせられている呼び名を返上します。無名にかえりたいのです。なぜならわたしたちはさまざまな名で呼ばれています。母・妻・主婦・婦人・娘・処女…と」

「女の呼び名」とは、どれも家父長制が女に与えた指定席ばかりだ。ウーマン・リブの女が自分たちを「おんな」と呼び始める、ずっと前のことだった。
 
このひとに救ってもらった女たちはどれほどいただろうか。大きなおなかを抱えて筑豊の自宅を予告なく訪ねる若い女もいた。手紙を受けとり、抱きとめ、黙って食べさせ、寝泊まりさせた。わたしもまたこのひとに宛てた長い手紙を持ち歩いて、結局投函できなかったことがある。

このひとからわたしはどれほどのものを受け取っただろうか。「おんなの思想」はこうやって手渡され、受け継がれていく。森崎さん、わたしは、わたしたちは、あなたを忘れない。

「読売新聞」西日本版 2022年6月25日


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日本は今、米国本位の中国排除と対中戦の最前線に立たされつつある。軍事面でも経済面でも。もし対中国戦が勃発すれば戦火にさらされるのは米国ではない。日本の国民と国土である。中国の徹底排除で経済に破壊的ダメージを与えられるのは米国ではない。日本の経済と企業である。日本国民は、日本が米国の「踏み台」・「捨て駒」にされつつある現実を見抜き、今、何としても日本の中立・平和と経済、そして国民の命を守らねばならない。

坂本雅子「米国の対中国・軍事・経済戦の最前線に立つ日本」 「経済」6月号


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私が見るに、政治活動としては「勝共」の「共」の枠が途方もなく拡大され、その中にさまざまなものが入れ込まれることで、「新たな敵」が設定されていったと考えています。家族や「性的」純潔を重視する教えからも、それらの「敵」とされた典型的動向としては、夫婦別姓や性教育、「ジェンダーフリー」、同性婚、LGBTなどの性的マイノリティー理解などが挙げられます。
彼らが考えるところの「共産主義っぽいもの」「左翼っぽいもの」を一緒くたに「勝共」の「共」に入れ込み、それらと戦うことで自分たちのレーゾンデートル(存在価値)を見いだし活動が続けられる。当事者の悩みや苦しみなどは蚊帳の外で、これらの動向は「文化共産主義」なり「新マルクス主義」なりの策動として捉えられます、、、

統一教会はこうした活動を途中から方針転換して、日本においてのみ行い始めた、ということです。韓国あるいは欧米ではいわゆる「霊感商法」を基本的にやってきていません。キリスト教系新宗教としての独自の聖書解釈から、こうした考えや実践が自然に出てきたとは言えません。70年代中盤に文鮮明から送金命令が出て、その必要に駆られて出てきた手法です。「先祖の因縁」「霊と霊界の存在」「吉凶・開運」などは東アジアの宗教文化、日本人の宗教観に響くところがあったでしょう。そこをついて、不安や恐怖をあおるのです。霊感商法の「霊能師」役はあくまで「役」であり、修行などをするのでは
なく、トークマニュアルを学んでそれを演じるものでした。

統一教会のグローバルなネットワークの中で、日本は長らく資金源の役割を担わされてきました。まず正体を隠した布教で誘い込む。その先の企業形態を取る経済活動のなかでいわゆる「霊感商法」が行われ、金銭が収奪される。信徒としての献金も、「先祖の因縁」や「怨み」を解くという宗教的呪縛のなかで強要的に、時に破産に至るまでのレベルで行われる。それらが海外に送金される。そうしたことを長らく続けてきたのです。

https://toyokeizai.net/articles/-/613877


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「国際社会の平和、安定に、多くを負う国ならばこそ、日本はもっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい、"

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