同窓会箕面

同窓会のお知らせ

21年10月27日(水)服部緑地BBQ大会

2021-10-29 09:23:25 | 箕面同窓会

21年10月27日(水)服部緑地BBQ大会

BBQ1

BBQ2 

BBQ3

初めて  バーベキュー  に参加させて貰いました😊
天候にも恵まれ  ☀️楽しくおしゃべりも出来て  秋の素敵な一日を送る事が出来ました🎶
お世話になりましてありがとう御座いました😀          松山幸子

BBQ4 

今日はBBQを楽しませて頂きました。お世話下さった皆さまありがとうございました。 黒田純子

BBQ5

皆様、今日は爽やかな秋日和で思い切りお喋りし、お腹を満たし、面白い手品を楽しみ
すごーく楽しい時間でした。企画、進行してくださった担当役員の皆様、有難う、ございました。  紫陽花

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昨日はお世話になりました。マジック、よく笑いましたよ❗️     紫陽花 

BBQ9

無事 帰宅。楽しかったです。皆んな 若い 来年楽しみです。    神谷さん

神谷さん新入会員・申込書に記入してもらいました。         中村伸作

天候に恵まれ、コロナ禍が収束に向かう中、皆さん楽しく過ごされました。

 

皆さま楽しそうで何より。次回は是非とも参加します❣️   奥村さん

 

                                      広報  中村伸作


お知らせ

2021-10-25 09:23:20 | 箕面同窓会

 箕面市民展が下記の要領で開催されます。

 愚作ですが「写真の部」に出展しています。お近くに来られた際は覗いてみてください。

 期間:令和3年10月29日(金)~11月7日(日)(10時~18時 最終日16時まで)

 場所:サンプラザB1市民ギャラリー及び多目的室

                               以上 木越


箕面瀧道ぶらりぶらり

2021-10-12 15:22:09 | 箕面同窓会

令和3年10月1日

箕面瀧道ぶらりぶらり(箕面駅前から箕面大瀧へ)

箕面駅前→中の坂→西江寺→一の橋→龍安寺→箕面大瀧→きぬがさ(昼食)→箕面駅前

     
今日は同窓会・箕面のハイキング、「瀧道ぶらりぶらり」があり、午前9時半には箕面駅前に参加者13人が集合しました。 
     
箕面駅前のロータリーは現在工事中で、近々ここからドライブウェイを通って、箕面大瀧の上方にある大日駐車場まで、ゆずるバスが運行予定になっていて、箕面駅からバスで大瀧まで行けるようになるようです。     
     
明治四十三年三月、箕面有馬電気軌道会社によって、箕面までの電車が開通しました。当時は現在の終点駅のような折り返し運転ではなく、線路が駅前広場(ロータリー)を一周してループ状に敷設され、降車場と乗車場は別れていました。人々はラケット線と呼んだそうです。その真ん中に箕面公会堂が建てられており、広い運動場も作られていました。今でも阪急箕面駅のホームがわずかにカーブしているのはその名残です。   
     
その後、駅前に喫茶店カフェーパウリスタ(CAFE PAULISTA)の第一号店が1911年(明治44年)6月に開業しましたが、箕面店はまもなく閉鎖されました。日本初のカフェとして歴史に名を残しています。

箕面駅前から東の中の坂へ行きます。中の坂は現在の瀧道が出来るまでは瀧安寺への唯一の参道となっており、神仏の住む霊界と人間の住む俗界との境界でした。   
     
中の坂の下の四辻にある道標の南面には「すぐ みのをかち、右京、左中山」と記してあります。また北面には江戸時代に勝尾寺で念仏を説いていた徳本上人が書いた六字名号(南無阿弥陀仏)が徳本文字(蔦文字)で彫られており、その下に「すぐ大坂、右中山寺、左京」と記されています。「すぐ」とは方角が真っ直ぐの方向という意味です。
     
徳本上人は全国を行脚した漂泊の和歌山県出身の念仏行者で、江戸時代、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで、人々を救った。全国各地を行脚した「木食僧」の1人で、生涯を民衆の中に生きた浄土宗の念仏行者として知られます。 
     
この向かいには大井堰水路分水地(四大字水利組合)があります。
これは四大字(平尾、西小路、桜、牧落)が設置した大井堰の分水地となっており、昔は種籾を浸けておく場所としても利用されました。
     
中の坂を登り切った所にある聖天宮西江寺は、神仏混淆で、寺としては西江寺、神社としては聖天宮です。祀られているのは大聖歓喜天、略して聖天、もしくは歓喜天と呼ばれる仏法の守護神で、その姿は象頭人身の男女が抱き合っている形です。
そのため、この聖天さんには、男女の秘部の象徴である大根と巾着の図柄があちこちに見られます。大提灯、線香立て、柱の釘隠し、屋根の瓦などなど・・・
658年に役行者が初めて箕面に来た時、この坂で老人に会い「この山は自分の領地だが、お前に与えるから、ここに寺を建てよ」と語ったが、その老人が聖天だったと言われています。境内にその出現対談石が残っています。

聖天宮西江寺で参拝後は、中の坂を北に下っていきますが、西側にはかつて動物園があった事が偲ばれます。

明治四十三年、電車開通に合わせて我が国で三番目の動物園が開園されました。日本最大級で総面積三万坪、延長五キロの回遊式の観覧遊歩道が設けられ、その所々にライオン、象、虎、豹、ゴリラ、印度熊、ラクダ、孔雀、オウム、ダチョウ、さんしょう魚、カンガルー、さらには火喰い鳥などの珍しい動物もいたようです。入口には不老門と名付けられた竜宮城型の門があり、園内には数多くの四阿(あずまや)や茶店がありました。翌明治四十四年には、この動物園で「山林子供博覧会」が開かれ、大観覧車(空中回転機と呼んだ)も作られ
ました。現在の上野動物園とディズニーランドを合わせたような賑わいだったしかし、大正五年には動物園は閉鎖されて、宝塚に移設されました。

一の橋を渡ると道は左右二つに分かれます。右側は川に沿って川岸を行く道で、我々は通常この道を通ります。左側の道は石段を登って山に入って行き、川をはるかに下に見て、山腹を屈曲しながら進みます。明治時代初めまでは、この山腹の道を通って瀧安寺に至りました。右側の川沿いの道は明治十九年に、地元の平尾地区の人たちが、汗を流しながら石垣を積み上げて作った道です。
「右瀧新道/左瀧舊道」と古い字で彫られています。
   
瀧道を登って行くと右手に梅屋敷が見えて来ます。箕面公園に茶店が出来始めたのは明治二十年頃からです。明治四十三年電車が敷かれた前後には茶店や料亭が急速に増して五十店を数えるまでになりました。梅屋敷も明治四十二年開業し、隣に梅林があったことで名付けられ、藁葺き屋根・網代天井の風雅が賞せられました。滝道一帯で全国素人囲碁大会が開催された四十三年には、梅屋敷もその会場となりました。大正十年経営者が建物を大阪府に寄贈し大阪府に寄贈し大阪府の休憩所になり、おぜんざい、おはぎ、おしるこを売っており、句会やお茶会の会場としてもよく利用されました。しかし、平成十四年には無人になり老朽化も進んだため、府は解体する方針でしたが、保存を求める声が起こり、平成十八年、大掛かりな補修を行い、無料休憩所として復活させました。
   
梅屋敷を通り過ぎると連続して二つの橋が架かっています。S字状に屈曲している川をバイパスする近道に架けられた橋で、夫婦橋と呼ばれています。一つ目の橋を渡って右の山側を見ると、そこに「躑躅原」と彫った石柱が立っています。さあこれは何と読むのでしょう。これは漢字検定一級の難問です。左側を見ると、そこに答えがあります。「つつじが原」と標板が立っています。

羊はツツジの花や葉を食べると酩酊状態になって、足をふらふらさせるから足扁なのだと言います。(「躑」も「躅」も「足踏みする」と言う意味)ここから見上げる左側の山が「つつじ山」。この辺たり昔はツツジが多かったのですが、今は木々が繁茂して陽当たりが悪くなり、ツツジが絶滅したのです。   
    
夫婦橋を渡った所に森秀次の銅像があります。彼は現在の和泉市に生まれ、現池田市の医師の養子に入った人で、明治二十八年四十才で府会議員になるや、箕面山の府立公園化に奔走し、三十一年にそれを実現させました。その後明治三十六年には衆議院議員となり、大正九年まで政界で活躍し、大正十五年に没しました。
この銅像は昭和五年に、その功績と人徳を讃えて、ゆかりの地である箕面公園内に作られました。  
この銅像の題字が浜口雄幸の筆であることも注目されます。浜口は昭和五年当時の総理大臣ですが、これを書いてしばらく後に、凶弾に倒れたのでした。   
    
森秀次像の周辺に、あまり見かけない四角い細い竹が生えています。四方竹はイネ科の植物で、「カクダケ」「シカクダケ」とも呼ばれ中国原産で、秋には10月ごろから冬にかけてタケノコがでますが、食用にもなるそうです。  
    
瀧道を更に登って行くと句碑と活断層がある場所に来ます。
野村泊月の句碑(滝道の昆虫館東山際)

  ・椎の花八重立つ雲の如くにも 六月の季語
泊月、本名は野村勇、丹波の生まれ。高浜虚子の門下。昭和36年豊中市にて没す。享年80才。刀根山梅林寺に葬られました。
    
野村泊月の句碑の背後に活断層の露頭が見えます。このように活断層の露頭が見えるのは珍しいそうです。これは有馬の西部から高槻の東部に至る約五十五キロの間を走っている「有馬高槻構造線」と呼ばれる活断層帯のうちの一部の断層露頭です。 

この断層帯が活動した最も新しい地震が約四百年前の慶長元年(一五九六)に起こった慶長伏見大地震です。この地震では構造線の東端にあたる豊臣秀吉が二年前に建てたばかりの伏見城天守閣が一瞬にして崩壊し、秀吉は二度と建て直す気力が失せたといいます。この慶長伏見大地震では北摂地域は壊滅的な被害を受けました。このため箕面でも、この時代より前の木造建築物はほとんど残っていません。    
なお、その四百年後の一九九五年に起きた阪神淡路大震災は、この構造線の西隣で起きたものです。
     
瀧安寺に着きました。    
瀧安寺は孝徳天皇の白雉(はくち、650年)元年、役行者が山林修業の道場として開いて箕面寺と称しましたたが、元弘2年護良(もりよし)親王の令旨に応じて、後醍醐天皇の隠岐からの帰還を修法して効験があり、瀧安寺の名を賜り、以後、瀧安寺とし称しました。

もとは大滝の直下にありましたが、慶長元年の大地震で全壊し現在地に移りました。役行者は大滝の上の龍穴において龍樹菩薩より法を授けられ、滝の下で不動明王と弁才天の像を刻んで僧堂に安置したと伝わります。弁才天は水の神でありますので、この寺は早くから請雨の寺として知られ、また、修験道の道場とされましたが、更には浄土信仰の聖地ともなり、梁塵秘抄(りょうじんひしょう(平安時代末期に編まれた歌謡集)にも「聖(ひじり)の住処」と歌われました。
    
瀧安寺の境内には、箕面の花である「ささゆり」が植えられていて、6~7月の開花の時期には可憐な花を咲かせる事で有名です。又その近くには観音堂があり、観音堂手前の手水舎の後ろに燈籠状の石塔があります。灯籠の形をしているので周りの情景に溶け込んでいますが、NHK大阪放送局のコールサインである「JOBK」と記された石板が貼付られています。  
    
JOBKは、一説によると、ジャパン大阪馬場町角とも言われるラヂオ塔で、ラジオ放送の送信アンテナ塔ではなく、公衆用聴取施設と呼ばれたラジオの普及の為に公園など人が集まる場所に設置されたラジオ受信機を収めた塔で、昭和5年に大阪天王寺公園に設置されたのが最初で、その後昭和18年頃までに450基以上設置されていたものです。街頭テレビより前に、娯楽として当時の市民たちが楽しんでいました。    
    
瀧道を進んで行きますと、右手に「琴の家」という元旅館と左手上に野口英世の像がありますが、野口英世が箕面に来て、この「琴の家」で老母シカに孝養したとの伝説が伝わっています。
    
又、この瀧道ではかつて観光馬車が走っていましたが、休日は観光客が多かったので滝道を通らず、駅前からドライブウエイを大日(だいにち)駐車場まで行ったそうです。そして瀧道の一ヶ所にその名残りという馬の水飲み場が今でも残っていました。

箕面大瀧に着き、大瀧をバックに皆で記念撮影をした後は、来た道を下って行きます。駅前近くまで来て、今日の昼食の為の店を何軒か探しましたが、なかなか見つからず、駅前の「きぬがさ」という店があり、13人が入店出来たので、ビールで乾杯しての昼食となりました。     
     
今日は13人が瀧道にあるお寺や神社や色々な史跡を巡り、箕面瀧道の歴史に付いて多くの事を確認出来た貴重な一日でした。


第3回ハイキング同好会のご案内

2021-10-08 09:34:13 | 同好会

第3回ハイキング同好会のご案内

        第1回は西国街道、第2回は箕面滝道、参加頂きありがとうございました。

  ただ歩くだけでなく池上代表から歴史、ポイントにまつわるお話等多くのご説明頂き

  楽しく有意義に過ごすことができました。

       第3回は下記要領で開催予定しております。多数のご参加をお待ちしております。

  ルートは都合により変更する場合があります。

     

 日 時 : 11月12日(金) 9時30分 (雨天の場合は19日に順延)

 集 合 : 箕面駅

 ルート : 箕面駅 →  正法寺  → 徳尾の巡礼地蔵 →新稲古墳 → 布袋山栄松寺

               → 新稲の愛宕社→新稲の一本杉と庚申塔 →  阿比太神社 → 桜ケ丘洋館通 

                  →正丸稲荷社 → 親水公園(箕面西公園) → 光明寺 → 孝高地蔵

解 散 : 昼前、箕面駅 解散後、レストランで昼食(自由です)

持 物 : 水筒、雨具、

新稲地区を散策します。

新稲古墳  円墳は消失していますが、横穴式古墳が残っており中に入れます。

 新稲の一本杉と庚申塔

 阿比太神社

             同窓会箕面・ハイキング同好会 (代)池上憲治 (副)中村伸作