同志社神奈川(校友会神奈川県支部のブログ)

神奈川県在住のオール同志社人の交流、情報案内サイト

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ボストン・横浜・京都

2008-07-29 | Weblog
ボストン・横浜といえば、我が能見台にある横浜高校出身の
松坂大輔が先ず頭に浮かぶ。
しかし、京都との関係は恐らくないだろう。
しからば、この3都市に関係する人物はいったい誰か。
それは新島先生である。

新島先生は江戸時代末期、国禁を犯して函館から出国した。
縁あってアメリカ船籍のワイルドロヴァー号にめぐり合い、
船主の住むボストンへたどり着いた。
船主のハーディー夫妻に温かく迎えられ、子供のような扱いを
受けながら10年にわたりボストンで中学校から単科大学、
神学校まで卒業して日本で学校を創る夢を抱いて帰国する。
帰国したときの港が横浜だった。

その間、日本は明治となり、新政府の欧米教育視察団を
迎えた際、通訳を兼ね視察団の一員としてヨーロッパにも
同行し、その後の教育制度の確立に大いに貢献した。
帰国後、森有礼から行政府に誘われたが、私学創立の夢に
こだわり、断っている。

こんなエピソードもある。
勝海舟も新島先生を贔屓にした一人で、ある時尋ねた。
「大学は何年ぐらいで完成するものなのか。」と。
それに対し新島先生は「200年はかかるでしょう。」と
答え、それを聞いた海舟は、これは本物だと感じ、
ますます気に入ったといわれている。
因みに、新島先生の墓石の字は海舟の手によるものである。

先日、以前住んでいた団地で親しくなった妻の友人お二人を
迎え話がはずんだ。そのうちのおひとりのお嬢さん
K子ちゃん(当時小学生)が最近結婚し、その時の写真を拝見した。
あどけなかった子が素晴らしい美人になっていた。
今会ったら分からないかもしれない。
ご主人の転勤で、今ボストンに住んでおられるという。
K子ちゃんに是非アーモスト大学のジョンソンチャペルの
新島先生の肖像画を見てきてほしいとお母さんから伝えて
もらうようお願いした。

そういえば、私はボストンへは行っていないが、
数年前、ボストンからの合唱団を迎え、フィリップスアカデミーの
ウイリアム・トーマス氏の指揮で、「メサイア」を一緒に歌った。
これで私も、ボストン・横浜・京都の仲間入りが出来たことには
ならないだろうか。

shimozu
(自分の過去ログより。1部修正)

海の日

2008-07-23 | Weblog
海の日になると故郷洲本(淡路島)の海を思い出す。
特に子供の頃(昭和20年代)の大浜は美しかった。
正に白砂青松。約1キロの砂浜は遠浅で子供でも30メートルぐらい
入っていけた。ボートで沖へ出ても水深3メートルぐらいは海底の
砂とそれに映る波紋がはっきりと見えた。
大阪湾でも昔は綺麗だったという事である。

砂浜の端の岩場では、1メートルぐらいの竿でヤドカリをえさにして、
ベラ、はげ(かわはぎ)、ふぐなどを釣って遊んだ。
時々、いかなご(くぎ煮は今でも名産)の大群が来ると、漁師は
地引網を仕掛け、浜で遊んでいる大人も子供も網引きを楽しみながら
手伝った。

漁師は狙ったいかなごだけを用意した何杯もの箱につめていき、
さば、キス、あじなどは外道として浜に放り投げてくれる。
網引きを手伝った連中はそれらの魚を両手にぶら下げて帰り、
晩のおかずに出来た。おおらかな時代だった。
いま、湘南海岸などの地引網は有料でも大漁の感動は得られないだろう。

その綺麗な浜で育ち、澄み切った海を知っているものには、悲しいかな
最近、多少良くなったと聞いても、まだ東京湾近郊の海では泳ぎたいとは
思えない。

shimozu

「バケタン」はじめました

2008-07-22 | Weblog
 この用語はごく最近、私があるサイトで見つけたものです。
と言う事で、世の中なにごとによらず言葉が短く略され、
いったい何を意味しているのか全くお構いなしに「判るひとにはワカる」
というオタク化の時代ではありますので、しばらくお付き合いください。
種明かしは後にして、先ずは私の日常の一端を書いてみたいと思います。

 ことの始まりは昨年6月の初旬、いつものように田植えが終わり、
等間隔にきれいに機械で「田植え」された稲が元気に風になびいている
田んぼを縫って、私はウォーキングを楽しんでいました。
初めて出会った情景でしたが、田んぼの隅の方に例年のように小さな塊の
稲がリザーブしてあるのですが、それが、「もうお役目終わり」と
言わんばかりにあぜ道や、ひどいのはアスファルトの道路上に捨てられて
いたのです。それを見つけて私は「プランターに土と水をいれてやれば、
この苗は育てられるのではないか」と素人考えで、その稲の塊を頂いて
帰りました。

その昔、京都の松ヶ崎あたりには広々とした田んぼがありましたが、
何となく「稲を育てるには、お百姓さんは足音を聞かせる」
と言うことを聴いたのを思い出し、このプランターの水を足したり、
減らしたり…、手を掛けてやりましたところ、秋には「花」が咲き、
稲穂もできてきました・・・。しっかりと「頭をたれる稲穂」を確認していた
迄は良かったのですが、鋏で「稲刈り」をし、乾燥させた後の「収穫」は
脱穀?するどころではなく、ピンセットで籾殻をはずし、中の青黒い米粒を
取り出して、全部でスプーンに一杯・・・と言ったところでした。
それでも、庭の小鳥のえさ箱に行った部分を除いて我々の口にわずかに
入ったのは確かでした。

 今年こそはと、たまたまお百姓さんの「機械植え」のお余りを今年も
頂戴してきて、またまたプランター2個に合計20株の稲が、今のところ
30cm近くに順調に育っています。例年の如く夏休みに数日泊まりにくる
孫達もこれに刺激されたのか、或いはその母親の計画か、今年は壁塗りの
時などに使う(多分、「ふね」と呼ばれているものでしょう)たたみ一畳
くらいの田んぼを庭に用意しました。そのために、私は近くの園芸店に
注文して、相当量の稲をプレゼントしました。彼女の言葉を借りると
「お茶碗一杯でもお米がとれたら、子供たちがその大切さを身に付けて
くれるでしょうから・・・」と言うことでした。

 朝ごとに「我が家の田んぼ」を覗き込んで、ちょっとした風にもさやさやと
動いているいねを見ていると、なかなか可愛いものです。細い刃先に露のような
水滴がついているのを見ると気分が和みます。

 と言うことで、タイトルの「バケタン」は「バケツ田んぼ」と言う事で、
この頃、JAや「経験者」が稲の育て方を指南するサイトを出しており、
幼稚園や小学校、さらには個人のお宅に広がっている「バケツを使った田んぼ」
と言うことでした。
一週間前に高崎から乗り換えた「両毛線」の両側に広がる田んぼの稲は我々の
住む横浜の青葉区のそれがすでに20cmを越えているのに対して、
やっと5-6cm、ある場所ではまだ田植えの準備のため田んぼに機械が入って
いたことに気の付いた私としては、なんとなく書いてみたくなった記事です。

「赤城おろしが強いから、やはり群馬県はまだ気温が低いのでは…」と誰かが
言っていました。このような自然の営みに関心を持つ私の何代か前のご先祖様は
お百姓さんではなかったかな…と思います。
少しは日常に時間の余裕ができたのでしょうか。

森本 潔(S36経)

(註)
同志社グリークラブ第30代指揮者。父上もグリークラブ指揮者だった。
グリークラブ104年の歴史の中で親子の指揮者はまだ1組だけ。
中・高・大と同志社で学んだ。現役時代から体重はほとんど変化無く、
相変わらずダンディーだ。一時、現役時代の1.5倍にまで太った私とは
大違い。日ごろの節制の差か、羨ましい限りだ。ただ、一部淋しくなった
部分はあるが…
現在は東京クローバーで歌う側で楽しんでいる。

shimozu

数字

2008-07-16 | Weblog
数字にこだわる人は意外に多い。
かくいう私も無関心ではない。
新しい企画とか、チラシのキャッチフレーズを決めかね
迷っているとき、すれ違う車のNOが「77-77」とか
「55-55」だと、「よしこれでいこう。」などという場合も
ある。

また、4は「死」につながると忌み嫌う人が多いが、私の転居
3年目の家の住所は4丁目4番地、しかも4階である
しかし、住めば都で今は全く気にしていない。
金回りが悪いのは今に始まったことではないし、家のせいにはできない。

昔、八百屋をやっていた父の所へ寄った。夏だったので店にはスイカが
山盛りになっていたが、「これを持って帰ってやれ。」といわれて
もらったスイカの値段が420円。「ちょっと数字が悪いな。」と
言うと「死になしや。」との返答。なるほどと思って持って帰って
家族で食べたがおいしかった。40年以上前の話だが、今までで
一番うまいスイカだったかもしれない。

上方小噺にこんなのがある。
ある大店の檀那さん、四(シ)という数字や言葉が大嫌い。
お正月に可愛い一人娘が、好きな人と芝居見物に行きたいので
お許しがほしいとお父さんに恐る恐る申し出ると、
お父さんは案の定、「ブルルルルルル。シバイなんてとんでもない。
ヨバイならええ。」

Shimozu

心遣い

2008-07-15 | Weblog
心遣いには色々ある。
そして私がそれを感じるのはほんの一瞬、僅かな言動、
というより僅かな「動」に対し心遣いを感じることが多い。

先日、コーラスの練習で代々木の青少年センターへ行った時、
バスが代々木五丁目のバス停に着く直前、10メートルほど手前の
歩道を渡りきった女性が、歩行者専用の信号ボタンをパッと
押すのがバスの窓から見えた。
十数秒後、バスが停留所に着き、そこで降車した私が先程の歩道へ
着くと、間も無く歩道側の信号が青になり、僅かな待ち時間でセンター側へ
渡ることが出来た。

渡りきってから気が付いた。
彼女は、バスが着けばセンターへ行く人が必ず渡るであろう信号が
タイミングよく青になるよう押してくれたのだと。

私もやってみようと思ったが、私の帰り道にはそのようなタイミングを
あわせる歩道が無い。
いつかどこかで知らない誰かに喜んでもらえるような心遣いを
してみたいと思う一方、本当の心遣いとは、ほとんど相手に感じさせない
のがいいのか、感じてもらえてもいいのか迷う所ではある。

shimozu

神を知る山旅

2008-07-14 | Weblog
家内と二人で、深田久弥先生の「日本百名山」を完登したのは、
2005年7月5日、幌尻岳である。登山開始十年が経過していた。
登山経験のない私にきっかけを与えたのは単純な発想だ。
退職が接近し、第二の人生を迎えるに当たり何より大切にしたかったのは、
第一に健康維持、第二は苦楽を共にしてきた家内と円満に支えあって
楽しく生きる事の二点である。この共通項が登山となった。
登山では健康管理が大切で他人に頼れない、ましてや夫婦喧嘩など有りえない。

最初の登山をおこがましくも日本第二の高峰、南アルプスの北岳に置いた。
絶滅危惧種、きただけそうをカメラに収めたかったからである。
まず箱根、丹沢の山を半年足し慣らし、この間体重は5キロ減。
高かった血圧、中性脂肪、コレステロール、尿酸値は正常に復帰。
まさに「継続は力」を知る。よく登山は人生観を変えると聞くが、
確かに山には電気もテレビも新聞もなく、下界での競争もない。
あるのは大自然の澄み切った空気と山を愛する隣人愛の精神だ。

余談になるが、日本の名山はほとんどが神と通ずる信仰の山であり、
山頂には祠が置かれている。聖書では今から三千数百年前、出エジプトの
モーセはシナイ山で神から十戒を授かった。またキリストが十二弟子を選び
神の国を説いた「山上の垂訓」はアルベール山と言われている。
山は天の御国に近く神との交わりに適した神聖な場所なのかも知れないと思う。

さて北岳(3192m.)登山は神を知る最高の山であった。最初は清流を
鶯の鳴き声を聞きながらの森林浴。アイゼンをつけて歩く雪渓は真夏でも
心地よい天然のクーラーだ。十キロオーバーの荷を背負って歩く事五時間。
疲労がたまり、だんだん休憩時間が頻繁に長くなる。そこに救いが現れる。
高山植物の群落だ。しなのきんばい、みやまはなしのぶ、はくさんいちげ、
国の指定保護花五つに入るお目当ての「きただけそう」(写真)との出会いで、
疲れはどこかに飛んでしまう。

歩き始めて七時間半、山頂に到着。百名山最初の一座。家内と握手。
360度の展望は富士山、仙丈岳、甲斐駒、鳳凰三山、塩見岳、荒川岳、
遠くは中央アルプス、北アルプスの名山が連なる。
神秘的現象に出会う、珍しいブロッケン現象だ。
太陽を背に自分の影が霧に反射し虹が取り巻く。
神から永遠の命を貰った気持ちになる。
雲海から昇る朝日。氷河期の落し子と言われる雷鳥の親子の出迎え。
これが私共夫婦の最初の山旅であった。
そこでは天地創造の神に接し、試練と救いと恵みを体感し、以後十年以上に
渡り夫婦愛、隣人愛、神の愛を知る山旅が続き、聖書と親しむきっかけと
なりました事に感謝しつつ、今は田中澄江さんの花の百名山を
二人で歩いています。

文・写真 山田武彦(S34経)

唐松岳山頂の日の出


五竜岳山頂


北岳草





店村新次先生

2008-07-14 | Weblog
1957年大学入学当時、商学部には新入生のためにプロゼミという
制度があった。全国から集まった新入生を一日も早く大学生活に慣れ
させるため、語学のクラス単位で担任の教官がついた。
私は第二外国語で取ったフランス語の店村新次教授のお世話になった。

夏ごろだったと思うが、数人のクラスメートと先生のご自宅にお招き
戴いた。お茶・菓子などご馳走になったところで、小学生の坊ちゃんが
ヴァイオリンを弾いてくださった。確かクライスラーの曲だったと思う。
曲名は覚えていないが、臆する所みじんも無く堂々たる演奏振りだった。

5年ほど前、ふとした機会にヴィオリストに店村眞積という名前を見つけ、
もしやと思いインターネットで探すうち、写真が見つかった。
お宅ではお顔をはっきりと覚えていなかったが、その写真は父上
そっくりだった。紛れも無くご子息だと確信した。

2005年3月、ついにご対面のチャンスが来た。
鎌倉芸術館で元N響コンサートマスター徳永二男が中心の「鎌倉芸術館
ゾリステン」の演奏会に出演されることがわかり、早速チケットを手配した。

当日、妻と音楽のお好きな生徒さんと三人で鎌倉芸術館に出かけた。
演奏の白眉は最後の「四季」(ヴィヴァルディ)。
ヴァイオリンのソロは、春は川田知子、夏は漆原朝子、秋は漆原啓子、
冬は徳永二男というそうそうたるメンバーで酔いしれてしまった。
「四季」全曲を生で聴いたのは初めてだった。
演奏後、徳永氏が、三人の女性ソリストが、それぞれその季節の彩の
ドレスを着ていたことを話され、聴衆一同改めてどよめきと拍手を送った。

さて、演奏会終了後、ロビーでメンバーとの交流会が開かれた。
私達は勿論店村氏のところへ駆けつけた。
自己紹介し、店村先生とのご縁、ご自宅で聴かせていただいた
ご子息のヴァイオリンのことを話した所、「それは私です。」とのこと。
何と、48年振りのご対面であった。

店村眞積氏は現在N響の主席ヴィオリストである。
日曜午後9時のN響アワーで、カメラが指揮者を左から捕らえる時、
最前列右端にあごにハンカチを当てた店村氏を見ることができる。
父上の店村新次先生をご存知の方は全くそっくりであることに驚かれる
ことだろう。

shimozu

新島先生のブロンズ像を見に函館へ

2008-07-13 | Weblog
神奈川支部の有志4名-河合(S29経)、長谷川(S30法)、
山崎(S31経)、水野(S36経)-が去る2月13~15日
格安のツアーで函館に行き、新島先生のブロンズ像との面会を
果たして来た。

 2月13日、北海道は吹雪とのことで、エア・ドウの函館行きは
天候調査で約1時間遅れの出発で更に函館上空で着陸できる状況まで
待たされ、何とか着いたものの後で聞くと、着陸できずに引き返した
便もあったとのことでヒヤヒヤものだった。
湯の川温泉のホテルに落ち着き、その夜予定していた夜景見物は
悪天候のため翌日に回し酒盛りとなった。

 14日は先ず「渡航の碑」まで行くことにして、バス停がホテルの
目の前なのに市電に乗ろうと言うことになって電停までの約500
メートルを足首まである雪を踏んで歩き、冬の北海道を体感した。

 碑のある海岸は倉庫の間の道の奥だったものが片方の建物が
取り壊され広い更地になっており碑が遠くからでも見えるので、
碑の存在感が大きくなった気がする。ブロンズ像は碑の近くにあると
聞いていたので、4人で手分けして探し廻るも見当らず、
通りかかった人に聞いても知らないと言うし、更に又通りかかった
人もらないと言ったが、親切な人で調べて上げましょうと言うことに
なった。その人は、観光協会の役員だそうで、近くの自分の会社に
戻って社員に聞いたり方々に電話したりでやっと500メートルぐらい
先の西波止場の前にあることが判った。これで今回の目的であった
新島先生の脱国時姿のブロンズ像と向き合うことが出来た。
目的を果たした後は通常の観光コースで「朝市」、「五稜郭」
「トラピスト」、「函館山」等を廻り翌15日に帰京した。

 碑の前の海には、埋め立て地の島があり、そこに架かる橋が
「新島橋」と名付けられており、最近の函館観光案内のパンフレット
には「新島襄ブロンズ像」と地図に記載されている。

記 長谷川博行

久しぶりに

2008-07-12 | Weblog
湿気の多い毎日ですがお元気ですか?
あわただしい1週間でしたがちょっと時間があいたので
フラワーセンターに行ってきました。
風が強くあまりうまく撮れませんでしたが
写真を撮ってきたので見てね。

hashimoto

ばら


べにすじやまゆり


ジニア


グロリオーサ



雪合戦

2008-07-09 | Weblog
このところ暑い日が続き、もう職場のクーラーが活躍しているが、
日頃何気なく使っていたティーバッグの裏を見たら、俳句がのっていた。

それは伊藤園主催の(ようだが)第12回新俳句大賞
高校生の部大賞作品だった。

雪合戦 私の「好き」も 投げてやる

冷たくて、しかし熱く微笑ましい句が一瞬暑さを忘れさせてくれた。
と同時にこんな雪玉を私に投げてくれる人がいないかなとも思う。

高校生といえば、昔、短歌でも素晴らしいのを新聞で見た。

ウォークマン 
  電池の切れた帰り道
    結構いかす虫の鳴き声

俳句や短歌でこれほど素晴らしい表現ができる高校生にはぜひ
同志社のキャンパスで学生生活を送ってもらいたい気になるのは
私だけだろうか。

shimozu