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動画演習 研究所

動画基礎とアニメーション演習

アイキャッチ

2009-09-26 | アニメーション
アイキャッチの主な必要性として、番組とCMとを明確に分けることが挙げられる。それにより、CMと内容が混濁することなく、CMへの反応率を高めたり、番組内容がCMに悪影響を与えることを防ぐのである。また、番組を見ている視聴者に一息ついてもらってから、CMを見てもらう意図もある。
テレビアニメ・テレビドラマなどの場合、優れたアイキャッチは、作品の価値を高めたり、その後の展開を予兆するなどの演出も兼ねる場合も少なくない。
テレビアニメにおいては、その放送回における本編内のワンシーン(その際は、番組タイトルがテロップで表示される)、または本編と関係の無い数秒間のアニメーションないしは静止画が使用される。通常は本編とCMの間に挿入するが、コマーシャルの無いNHKや、スクランブルをかけた状態でのWOWOW、OVAも本編開始から平均で約12分後に本編に挿入される。それぞれ、地上波やCSでの放映を考慮しての措置である。
アイキャッチの前部分を「Aパート」「前半パート」、後部分を「Bパート」「後半パート」…などと呼ぶ場合がある。
また、逆にCMとは関係なく、主に場面転換の目印として本編中にアイキャッチを頻繁に入れるケースもあり、特にNHKはCMを放送しないことから、このパターンを番組中に使用する。
【マクロスF】 アイキャッチ集


バンブーブレード アイキャッチ集 BAMBOO BLADE Eyecatch Collection


webでは視線を誘導してあげる効果のあるマークやデザイン。
全体的なイメージに変化を与えてくれるので、見やすくて親切なwebガイドとなる。
たとえば、webページのタイトルを書いてる場所の前にも、アイキャッチがあるのとないのとでは、タイトルの印象もちがって見えるし、目立たせたいところにデザインを置くことでスムーズに理解してもらえる。アイキャッチを置くうえで気をつけたいのは、目立つんだけど他とも違和感がないこと。
カラーでいうと対比させて色彩を調和させていること。
目線をスムーズに誘導してあげるために、アイキャッチを効果的につかうとwebデザインがしっくりする

透視作画 animation 原理

2009-08-14 | アニメーション

パソコンがなくても、パース定規はどこでも自在に使える。
道具に依存しないほうが、animationは飛躍できる。
原理が納得されると、パースで増殖・分割・傾斜の感覚は身につく。


Perspectiveで、世界は Drawing される


透視作画が美しい animation のサンプル
5cm Per Second : END THEME - One More Time, One More Chance

映像作品にも「増殖・分割・傾斜」が見つけられる。
Perspectiveは生きている視点でもある。

Pixar Short Movies: One man band (2005)

2009-07-13 | アニメーション
「One Man Band」は、2人のストリート・ミュージシャンが少女の持つ1枚のコインをめぐり競演を繰り広げる4分30秒の作品。過去15年以上、3DCGアニメーションの短編映画を製作して数々のアカデミー賞を受賞してきたピクサーの、想像力溢れるストーリーと魅力的なキャラクター、独自の技術が存分に見られる、ユーモラスかつ心温まる物語に仕上がっています。


One 『ワンマンバンド』 One Man Band(2005年アカデミー短編アニメ賞ノミネート)


ピクサー・アニメーション・スタジオ(Pixar Animation Studios)は、アメリカの映像制作会社。コンピュータグラフィックスを用いたアニメーションを得意とする。 また、ピクサーはレンダリング用のソフト、RenderMan®の開発者でもある。 1986年2月3日創立。CGIアニメーションを産業とする。本社は、カリフォルニア州エメリービル、現在は、ウォルト・ディズニー・カンパニーの完全子会社である。

1979年にルーカスフィルム社がニューヨーク工科大学からエド・キャットムル(現ピクサー社長)を雇用し創立したコンピュータ・アニメーション部門が、ピクサー・アニメーション・スタジオの前身団体である。その前身団体は『スタートレックII カーンの逆襲』や『ヤング・シャーロック ピラミッドの謎』を手がけている。その後、1986年、当時アップルコンピュータを退社したスティーブ・ジョブズらが1000万ドルで買収(内訳はジョージ・ルーカス自身に500万ドル、ルーカスフィルムに500万ドル)、「ピクサー」と名付けて独立会社とした。買収の背景として、ルーカスフィルムが7年間に及ぶCG作成ツールの研究に拠る現金流出を止めたかったことと、ルーカスフィルムの視点がCG作成ツールよりむしろ映画制作に移っていたことがあった。 ジョブズは買収資金として退社したアップルコンピュータの株を売り払った資金の一部を流用している. 独立当時の経営陣は、エド・キャットムル(社長兼CEO)、アルヴィ・レイ・スミス(エグゼクティブ・バイス・プレジデント兼制作監督)、スティーブ・ジョブズ(会長)であった。

当初ピクサーは、政府機関や医療機関等を顧客とするピクサー・イメージ・コンピュータというコンピュータグラフィックス製作用の専用コンピュータを中核とした、高級ハードウェアの製造会社であった。またその顧客のひとつにディズニーがあった。その当時、ディズニーは従来行っていた手間のかかるインクによるアニメーションの作画手法を、コンピュータとソフトを使った能率的で効率的な手法に切り替えるというCAPS(Computer Animated Production System)プロジェクトに取り組んでいたためである。 ピクサー・イメージ・コンピュータの売り上げは芳しくなかった。そのような状況でコンピュータの売り上げに貢献しようと、コンピュータ性能の実演の為デモンストレーション短編CGアニメを制作していたピクサーの社員ジョン・ラセター(現クリエイティブ担当エグゼクティブ・バイス・プレジデント)は、SIGGRAPH86で短編CG『Luxo Jr』の公開及びレンダリングプロトコル RenderManの提案をした。 ピクサー・イメージ・コンピュータとソフトウェアを分離してソフトウェア部分を改良し、PhotoRealistic RenderManとして販売を開始する。

コンピュータおよびソフトウェアの売り上げは少なく,会社の業績が悪化したため、ラセターのアニメ開発部門は、外部企業のためのCGアニメのコマーシャル制作を始めた。その間ピクサーは、ウォルト・ディズニー・フューチャー・アニメーションとの関係を継続し、ディズニーのCAPS(コンピュータによるアニメの開発支援ポストプロダクションソフトウェア)の重要な技術参加企業になった。 ピクサー・イメージ・コンピュータ部門は1990年 Vicom Systems 社に200万ドルで売却される.その後、ピクサーとディズニーはCG長編アニメーション映画の制作のため、2600万ドルの契約を行った。

1988年に発表した短編CGアニメ『ティン・トイ』はアカデミー賞で短編アニメ賞を受賞。1995年にはディズニーとの共同製作で世界初のフル3DCGによる長編アニメーション映画『トイ・ストーリー』を発表する。1999年には『トイ・ストーリー2』でゴールデングローブ賞最優秀作品賞を受賞。2003年には『ファインディング・ニモ』でアカデミー長編アニメ賞を受賞した。

(Wikipedia)

ハンガリー狂詩曲を競う トムとジェリー対バッグス・バニー

2009-07-08 | アニメーション
『ピアノ・コンサート(The Cat Concerto)』
1947年4月26日(制作は1946年)(劇場公開時「猫の演奏会」)
1947年アカデミー賞受賞作品。 MGM:Tom&Jerry
監督:ウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラ




大勢の観客の中でトムのピアノリサイタルが始まろうとしていた。    
曲目はリストのハンガリー狂詩曲第2番嬰ハ短調。 
トムによるピアノ演奏は延々と進んでいったが、実はグランドピアノの中にはジェリーの家があった。 ピアノ内側を寝床としてジェリーは、演奏中に動き出してまうハンマーに起こされ、弦のすき間に放り出されてしまう。そこで演奏中のトムへからかいに出ると、ジェリーはひどい目に合わされ続けてしまう。 仕打ちをかけてくるトムに怒ったジェリーは仕返しを企むが、それにトムも負けじと必死に演奏を続けてドタバタと攻防戦がくりひろげられる。  

トムの弾く鍵盤が現行の音楽の譜面と一致しており、映像と音楽が調和した完成度の高い作品として特に評価されている。
ジェリーはトムへの仕返しとして演奏中のトムの指を、ピアノの蓋で挟んだりお馴染みのネズミ捕りの罠に挟んだりする。トムはたびたび痛い目にあっているにもかかわらず、ピアノ演奏中のために叫び声を珍しくあげず、それに耐えながらリストの曲を完璧に、足でも弾くという神技をみせて最後まで演奏する。
途中ジェリーが曲を変えてしまう場面がある。その曲は1946年のミュージカル映画「The Harvey Girls」でアカデミー主題歌賞を受賞した「On the Atchison, Topeka and the Santa Fe」である。
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ワーナー・ブラザース製作のバッグス・バニーが登場するアニメーション「メリー・メロディーズ」の作品中に「Rhapsody rabbit ラビット狂騒曲」という本作品にソックリな作品が存在する。
コンサートでハンガリー狂詩曲をピアノでバックスバニーが弾き、ピアノに住むネズミに演奏を邪魔され曲に乱入した相手と主導権を争う展開の類似した内容。作品の封切り日は1946年11月9日で同時期に製作されたため、MGMとワーナーの双方が互いに盗作したと訴訟した問題が起こっている。
どちらかがこだわって作品の開始から終了まで、映像のあらゆる動きに即して「忍び歩きをする」「階段を駆けのぼる」「大笑いする」「飛び降りる」「酔っ払う」「驚く」「大あわてで逃げる」といったキャラクターの行為を、ハンガリー狂詩曲へ乗せてアニメーションにしたか。出来栄えは御覧のとおりである。

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Rhapsody Rabbit(ラビット狂騒曲)
監督: I. Freleng
脚本: Tedd Pierce,Michael Maltese
演奏: Jakob Gimpel
1946年11月9日劇場公開 Merrie Melodies

演奏曲はハンガリー狂詩曲第2番 嬰ハ短調。 バッグスの演奏中にかかってきた電話は作曲者のフランツ・リストから。
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ピアノコンサート短編アニメーション

2009-06-30 | アニメーション
Mickey Mouse - The Opry House (1929)

ディズニー「ミッキーのオペラ見物/The Opry House」は、
白と黒の早期ミッキーマウス短編映画で1929年3月28日公開された。
ピアニストに扮したミッキー・マウスが、ハンガリー狂詩曲の一部を演奏する。
この動物キャラクターがピアノを演奏する、ほとんど台詞のない動画
はのちのち多くの作品にも影響をあたえることになる。

Piano Tooners - Tom and Jerry (1932)

1930年代の初期「トムとジェリー」シリーズは、後期MGM作品とは違い猫とネズミではなくて人間のコンビである。ジョセフ・バーベラ (Joseph Barbera) が アニメーターとして、Van Beuren スタジオで制作をまかされたものである。
ドタバタコンビの短編シリーズとして、劇場の幕間公開された。

Dick and Larry in Jolly Fish (1932)

話や構成に長けたウィリアム・ハンナ (William Hanna) と、MGMで出会う以前の習作時代の作品である。こちらもピアノ演奏するアニメーション短編映画となっている。
1940年からMGMで制作されることになる「トムとジェリー」シリーズの基盤となる、スラップステックの要素はまだまだおとなしい表現にとどまっているようだ。


ハンナ&バーベラ 『トムとジェリー』絶頂期

2009-06-03 | アニメーション
[HQ] Tom & Jerry - Heavenly Puss
 トムとジェリー「天国と地獄」1948年制作

MGMに在籍したアニメーターのウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラは長寿作品となった『トムとジェリー』シリーズ。
ディズニーをその玉座から追い落とそうとした、勢いのある連続アニメーション。
こぞってアニメーターたちがMGMから、ハンナ&バーベラのもとに集まってきた。
1948年制作「天国と地獄」は、その絶頂期の作品でワーナー・ブラザースを退社したテックス・エイヴリーがMGMに入社して、かつてワーナーのアニメーターたちに活気を与えたのと同様にMGMのスタジオを生き返らせた影響が見られる。
ここではディズニーの手法を駆使させながら、ディズニーのパロディを悪夢として展開させている。スラプスティック感覚はシャープになり『トムとジェリー』シリーズは現代にも伝わるテレビアニメ番組ともなっていった。

[HQ] Tom & Jerry - Dr. Jekyll and Mr. Mouse


1930年代後半、当時アメリカでアニメーション、正しく言うならカートゥーンの分野では、ウォルト・ディズニー・カンパニーが人気面で先頭を走っており、これに目を付けた他の映画会社が負けじと、カートゥーンを手掛けることとなった。MGMも例外ではなく、新しいカートゥーンを創るべく、先述のウィリアム・ハンナ、ジョセフ・バーベラの2人のアニメーターに製作を依頼。こうして誕生したのが「トムとジェリー (TOM and JERRY)」であった。

だが当初、この猫と鼠の追い掛けっこをモチーフにしたカートゥーンは、現場サイドでの評判は決して良くなかったと言われている。そういった背景の中、1940年に第1作目「上には上がある (Puss Gets the Boot) 」をアメリカで公開。ただしこの作品が初めて公開された当時、"TOM and JERRY"というタイトルは付けられておらず、トムは別名の「ジャスパー (Jasper)」、ジェリーに至ってはまったく名前が付けられていなかった。製作も、お馴染みのハンナ=バーベラの2人の連名ではなく、ルドルフ・アイジング (Rudolf Ising) という、全く別の製作者の名前が冒頭で公開されていた。このあたりに、当初置かれていた「トムとジェリー」の立場というものが窺い知れる。

しかしいざ公開すると、この作品の人気が瞬く間に上昇し、ハンナ=バーベラの2人のアニメーターの名をアメリカ中に轟かせる結果となった。

なお、現在ではなかった話になっているが、もともとトムとジェリーは、大人向けのコミカルな風刺映画として公開されていた(新聞の4コマ漫画や風刺漫画のような)ものである。 当時のアメリカの映画館では、典型的な娯楽映画以外にも、テレビを持てない労働者向け、あるいは戦時中にはプロパガンダも兼ねてニュース映画なども上映されており、これらの上映時のフィルムの架け替えの時間を埋める作品として製作された。 1話の時間が短いのはそのためである。なお日本では、毎週・毎日放送する連続テレビアニメとして放送されたが、原作は不定期で年に数本の製作である。

従って、公開年次と内容をよく観察すると、作品一つ一つにその当時の社会風俗の描写、あるいは社会風刺が入っている。 風刺には、大都会へ上京したジェリーが、結局は都会に馴染めずに郊外の田舎に戻るといった分かりやすい物から、閑静な住宅街に住む黒人が飼い主として描写されているエピソード(当時のアメリカの状況を考えると、これは殆ど不可能)といった、現代の視点では一見気づき難いが、実は微妙な描写まで様々である。そもそも、タイトルの「トムとジェリー」自体が、アメリカ(あるいはイギリス)とドイツの当時の俗称である。

現代では、アメリカでも、普通のスラップスティックなアニメとして鑑賞されることも多いが、ある程度の年配者やアメリカの社会風俗を学んでいる人に対して、トムとジェリーを幼年向けのアニメ文化という前提で話すと困惑されるので、話題にする際は注意が必要である。

(Wikipedia)

テックス・エイヴリーによるシュールな傑作群

2009-06-01 | アニメーション
テックス・アヴェリー(Frederick Bean "Fred/Tex" Avery、1908年2月26日 - 1980年8月26日)は、アメリカ合衆国テキサス州出身のアニメーター。ハリウッドにおけるカートゥーン黄金時代を築いたアニメーター、アニメ監督のひとり。

ワーナー・ブラザーズとメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)のために最高の仕事をし、バックス・バニー、ダフィー・ダック、ドルーピーなどの人気キャラクターを生み出した。1940年代から1950年代のほとんど全てのカートゥーンに彼の影響を見ることが出来る。

ファミリーネームの仮名表記にはエイヴリー(エイブリー)やアベリーとされているものもある。実際の発音は「エイヴァリー」に近い。

彼のスタイルは、ウォルト・ディズニーによって確立されたウルトラ・リアリズム(映画『白雪姫』などに見られる、実写フィルムから1コマずつセルを描き起こし、フルアニメーションを作成する手法)をぶち壊し、実写映画の亜流になりかけていたアニメーションをその限界から解き放つものであった。彼の残した有名な言葉に「カートゥーンの世界では不可能なことなど無い」があり、彼の作品は文字通りそれを実践したものであった。

彼の作品の中では、人格をもつキャラクターを含む全ての物体が、ゴムのように自在に伸び縮みし、ガラスのように砕け、鋼鉄のように固くなった。また物理法則はやすやすと無視され、どんな暴力が行われても(たとえ腹中に飲み込んだダイナマイトが爆発しても)キャラクターが死ぬことはなかった。(Wikipedia)


Tex Avery Documentary- Part 1 (of 5)


テックス・アヴェリーは、テキサス州テイラー(Taylor)の町で、アラバマ州生まれの父ジョージ・ウォルトン・アヴェリーとミシシッピ州生まれの母メアリー・オーガスタ・「ジェシー」・ビーンの間に生まれた。彼の先祖はロイ・ビーン(Roy Bean、テキサスのバーのマスターで治安判事(justice of the peace)として数々の伝説を残した人物)と言われ、さらに家族はダニエル・ブーンの末裔であると自称していたがどちらも定かではない。

アヴェリーはテイラーで育ち当地の高校を出た。高校での流行り言葉だった「What's up ,DOC?」は、後に1940年代の『ルーニー・テューンズ』でのバックス・バニーの台詞「どったの、センセー?(What's up ,DOC? )」に流用されている。

アヴェリーは1930年代初頭、ウォルター・ランツ・スタジオ(Walter Lantz studio)で『Oswald the Lucky Rabbit』の製作にかかわり、アニメーターとしての最初の一歩を踏み出している。このスタジオ勤務時代、スタジオでのバカ騒ぎの最中にアヴェリーの左目に紙バサミが飛び込み、以降左目の視力をほとんど失った。このため彼は立体的な視野や奥行きの感覚を失い、結果奇妙なアニメーションのキャラクターデザインや演出が生まれたと見る者もいる。
(Wikipedia)


Tex Avery Documentary- Part 2 (of 5)



「ターマイト・テラス」
アヴェリーは1935年末にレオン・シュレジンガー・スタジオ(Leon Schlesinger studio)に移ったが、初対面のレオン・シュレジンガーを相手に、自分自身をアニメーター達のユニットの責任者にして自分の作りたいアニメーションを作らせてほしいと説得する。シュレジンガーは納得させられてしまい、ボブ・クランペット(Bob Clampett)やチャック・ジョーンズ(Chuck Jones)ら後にアヴェリーを支えるアニメーター達からなるアヴェリー班を発足させた。サンセット大通りのワーナー・ブラザーズのスタジオのバックロット(オープンセット用の広大な用地)にあった五部屋のバンガローで、アヴェリー班はテクニカラーの『メリー・メロディー』ではなく白黒の『ルーニー・テューンズ』を製作するよう命じられた。彼らの別棟はやがて、シロアリ(termite)の多さから「ターマイト・テラス」(Termite Terrace)の異名で呼ばれるようになる。

ターマイト・テラスは、後にシュレジンガーおよびワーナーのアニメスタジオの別名となった。これはひとえにアヴェリー班が「ワーナー・ブラザーズのカートゥーン」というものを定義する作品を作り出したことによる。彼らの初の短編、『Golddiggers of '49』はポーキー・ピッグ(Porky Pig)をスターにした最初の作品で、アヴェリーのアニメーションにおける実験もここから始まっていた。

アヴェリーと、クランペットやジョーンズ、さらに新しい共同監督フランク・タシュリン(Frank Tashlin)は新しいアニメーションの基礎を作り、ウォルト・ディズニー・スタジオを短編アニメーション映画の王座から引き降ろし、バッグス・バニーやダフィー・ダックなど21世紀の現在もその名をとどろかせるカートゥーン・キャラクターを多く生み出した。完璧主義者のアヴェリーはこれらに深く関わった。ギャグをコンスタントに作り続け、自ら声優も務め(彼のトレードマークは、腹から出る笑い声だった)、細かいタイミングなど演出や動画をコントロールし、ギャグのタイミングを外したと思ったらネガが完成していても自ら編集しなおすほどだった。ただしアヴェリーはバッグス・バニーの映画のうち4作品しか監督を完遂していない。最後の作品、『The Heckling Hare』(『いぢわる小兎』)のギャグをめぐって、過激さを追求したアヴェリーとこれに手を入れたシュレジンガーの間で争いが起き、アヴェリーは着手していた3作品を残したまま1941年末にスタジオを去ってMGMへ移った。

シュレジンガーの下にいる間、アヴェリーは動物の実写映像に、アニメーションで唇の動きを追加して話しているように見せるというアイデアを作り上げた。シュレジンガーはアヴェリーのアイデアに心を動かされなかったので、アヴェリーは友人でパラマウント映画のために短編映画『Unusual Occupations』シリーズをプロデュースしているジェリー・フェアバンクス(Jerry Fairbanks)に声をかけた。フェアバンクスはこのアイデアを気に入り、『動物たちのおしゃべり(Speaking of Animals)』シリーズを開始した。アヴェリーがワーナーを去ると、彼はMGMへ合流する前にパラマウントに直行して3本の短編を作った。(Wikipedia)

Tex Avery Documentary- Part 3 (of 5)


MGM時代
1942年にはアヴェリーはMGMの従業員となっており、フレッド・クインビー(Fred Quimby)指揮下のカートゥーン部門で働いた。シュレジンガーの下で窒息しそうな気分になっていたアヴェリーはMGM在籍時に創作力を爆発させた。彼のカートゥーンはペースの早さと気の狂ったようなナンセンスなギャグ、およびアニメーションや映画という媒体自体を使った遊びや楽屋落ちなどで有名となった。MGMはアヴェリーにワーナー時代以上の予算を与えよりクオリティの高い映画を求めた。こうした環境の変化は彼のMGM時代最初の短編映画『The Blitz Wolf』(『うそつき狼』)に明らかである。アドルフ・ヒトラーに対する風刺であったこの映画は1942年のアカデミー賞の短編アニメーション部門にノミネートされた。

アヴェリーのMGM時代におけるもっとも有名なキャラクター、ドルーピー(Droopy Dog)は1943年の『Dumbhounded』(『つかまるのはごめん』)で登場した。当時「ハッピー・ハウンド」と呼ばれていたこの犬は、アヴェリーの登場キャラクターには少ない、物静かでしゃべり方も歩き方ものっそりとしたキャラクターだった。またアヴェリーは同時にきわどいキャラクターも作り出している。1943年の『Red Hot Riding Hood』(『「おかしな赤頭巾」』)には、赤ずきん(Red Riding Hood)の代わりにピンナップガールのようにセクシーなナイトクラブの女性が登場し、当時の少年たち(未来のアニメーターたちも含む)の心に性的トラウマを残した。その他、凶暴な「人の悪いリス」(Screwball "Screwy" Squirrel)、『二十日鼠と人間』にインスパイアされた「デカ吉チビ助」(George and Junior)の二人組などのキャラクターが生まれている。

アヴェリーがMGMで手がけた有名な作品には『Bad Luck Blackie』(呪いの黒猫)、『Magical Maestro』(へんてこなオペラ)、『Lucky Ducky』(ウルトラ子がも)、『King-Size Canary』(太りっこ競争)などがある。MGM在籍当初は豊かな色彩とリアルな背景を作品の特徴としていたアヴェリーは、しだいにこれらを捨ててリアリズムから離れたより狂的なスタイルをとるようになった。彼の新しいスタイリッシュな映像は、後にリミテッド・アニメーションを生むユナイテッド・プロダクション・オブ・アメリカ(UPA、United Productions of America)に影響を与えた。動きや背景や色彩のリアルさがそぎ落とされていった背景には、カートゥーンの予算が高まるにつれコスト削減の必要も高まったことがあるほか、アヴェリー自身が実写映画のリアリティに基づかないアニメーション表現を求めていたこともある。技術の進んだ未来を予測した当時の短編ニュース映画を風刺した「未来シリーズ」の諸作品、『The House of Tomorrow』(こんなお家は)、『Car of Tomorrow』(ステキな自動車)、『TV of Tomorrow』(うらやましいテレビ)はこの時期に作られた。またゆっくりしたしゃべり方をする狼のキャラクターは、MGM出身のハンナ・バーベラ・プロダクションのキャラクター「Huckleberry Hound」(珍犬ハックル)の原型となった。

アヴェリーは1950年に1年間の休暇年度をとったが、この間にウォルター・ランツ・スタジオから移ったディック・ランディー(Dick Lundy)がアヴェリーの制作班を引き継ぎドルーピーの短編を作った。アヴェリーは1951年秋のスタジオ復帰後、『DEPUTY DROOPY』(呼べど叫べど)、『CELLBOUND』(逃げてはみたけど)の二本を作り、1953年に完成させた(公開は1955年)。これらはのちの彼の作品同様、アヴェリーの班にいたアニメーター、マイケル・ラー(Michael Lah)との共同監督作品であった。ラーは以後、ドルーピーシリーズのシネマスコープ映画を多数監督する。燃え尽きたアヴェリーは1953年にMGMを退社してウォルター・ランツ・スタジオに戻った。


MGM以後
アヴェリーのウォルター・ランツ・スタジオでの日々は短かった。彼は1954年から1955年に『Crazy Mixed-Up Pup』『Shh-h-h-h-h』『I'm Cold』『The Legend of Rockabye Point』の4本を監督した。ペンギンのチリー・ウィリー(Chilly Willy the penguin)のキャラクターを固めた『The Legend of Rockabye Point』と、もう一本『Crazy Mixed-Up Pup』はアカデミー賞にノミネートされたが、アヴェリーは給与をめぐる問題でスタジオを去り、以後劇場用作品を撮ることはなかった。

彼はアニメーションによるテレビ・コマーシャルの分野へ転じ、ジョンソンの殺虫剤「Raid」の虫のキャラクターや、フリトレーのキャラクター「Frito Bandito」(メキシコの盗賊風のキャラクターだったが、メキシコ系アメリカ人からステレオタイプであることを問題視され、1971年以後引退している)などの登場するテレビ・コマーシャルを製作した。また、かつてワーナーのターマイト・テラスに在籍していた当時のキャラクターを起用したフルーツドリンクの宣伝も製作した。

1960年代から1970年代、彼は同僚からの尊敬を受け続けていたが、徐々に控え目な性格となりうつ病を患うようになった。彼の最後に在籍した会社はハンナ・バーベラ・プロダクションであり、彼はここでテレビの土曜朝の子供向けアニメ(『Kwicky Koala』など)のためのギャグを書いていた。

1980年8月26日、彼はハンナ・バーベラでの仕事中に72歳で死去した。彼はその1年前から肺がんを患っていた。彼はロサンゼルスのハリウッドヒルズにあるForest Lawn Memorial Park に埋葬された。彼の作品は1980年代末のアメリカのアニメーション復興期に再発見され、世界中のアニメーション制作者やファンから尊敬を受け続けているが、彼自身はこれを生きて体験することはなかった。


製作スタッフ

MGM時代
アヴェリーの元には有能なスタッフが集い、アヴェリー作品にとっては欠かせない存在であった。1949年に公開された「呪いの黒猫」までの前期作品では主にプレストン・ブレアをはじめ、レイ・エイブラムズ、エド・ラブの「3人組」がアニメータとしてアヴェリーを補佐した。うちブレアはアヴェリーの片腕的な存在で、赤ずきんのパロディー的な作品に登場する美女などを生み出すのに貢献した。1946年からは「3人組」にウォルター・クリントンが加わった。

1948年にブレアがハンナ=バーベラ側のアニメータであったマイケル・ラーとともに新ユニットを結成し、クマのバーニー作品の製作を指揮するようになると、エイブラムズもブレアとラーの班に配属替えとなり、ラブもMGMを退社したためにアヴェリーを支え続けた「3人組」は解散したが、アヴェリーの班には新たにグラント・シモンズが配属され、ウォルター・ランツとの掛け持ちであったロバート・ベントレーらが補佐する体勢となった。この頃、脚本を担当していたヘック・アレンもMGMを去り、リッチ・ホーガンらが後を担うことになる(アレンは後に復帰)。

そんなブレアとラーの班が3作品という短命に終わると、エイブラムズはMGMを去るが、ブレアはそのままアヴェリーの班に復帰する。しかし、1949年に公開された「チャンピオン誕生」を最後にブレアもMGMを去ってしまうが、この作品からラーがアヴェリーの班に加わり、クリントンとシモンズともに再び「3人組」が結成される。その新「3人組」をベントレーとハンナ=バーベラ班との掛け持ちであったレイ・パターソンらで補佐する体制となる。トムとジェリーの真ん中で公開された作品の大半は「チャンピオン誕生」以降の後期作品であり、新「3人組」体勢以降は驚異的なペースで作品が量産され、前期作品を踏襲しつつもドルーピーをはじめブルドッグのスパイク、口笛を吹くオオカミなど個性的なキャラクター・作品が数多く生み出される。それらの作品のほか、アヴェリーが1950年に1年間MGMから離れている間にディック・ランディーにより再びクマのバーニー作品が製作されたが、それらも新「3人組」をはじめとするアヴェリーの班が担っていた。

アヴェリーが1953年にMGMを去ると、シモンズとクリントンもMGMを退社し、数多くの傑作を世に送り出したアヴェリーのアニメーション製作班も解散となった。MGMの経費削減策により、以後はハンナ=バーベラの班に一本化された。なお、MGMに残ったラーがハンナ=バーベラのプロデュースの元でアヴェリーの流れを汲むドルーピー作品を手がけ、MGMがアニメーション製作部門を閉鎖する1957年までに6本製作された。(Wikipedia)


アニメ制作工程へ道のり

2009-04-18 | アニメーション
アニメーション作品は、多くの行程を経て完成する。

現在アニメは創造性の強いられる動画制作までが「アナログ」がメインで、
仕上げ、撮影といった製造性の高い工程は「デジタル」となっている。

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○企画
どんな傾向の作品にするのかアイディアを出して企画する。
作品の題材、テーマの基本作り上では最も重要な段階である。
会議でまとまった着想を文章化したものが企画書となる。
企画書はプロデューサーがプロジェクトチームを編成して意見を出し合い書く作成する。どんなプロダクションでもここでは最
高のスタッフを集める。

○シナリオ
企画書に基づいて脚本家が映像的構成法を駆使して、キャラクターの動きやする舞台、セリフをシーンごとに区切り創作する作品の骨格となる設計図。
文芸制作を軽んじて映像制作を進めると、仕込みが浅いドラマとなる可能性は大きい。


○絵コンテ
シナリオ構成に基づいて、演出家が具体的な画面を創造する。
アングル、カメラワーク、セリフ、秒数などをカットごとに記して、映像のイメージを具体的に構築していく。絵コンテは作品の方向性や決定するので非常に重要であるため、何度も修正され映像の流れを統一させる。

○キャラクターデザイン
企画書に基づいて登場するキャラクターの試作をデザイナーが描く。
チーフアニメーターによって、キャラデザインがクリンナップして決定されることも多い。

○イメージ美術ボード
企画書に基づき、キャラクターの活躍する舞台イメージの統一をはかる。
美術監督は絵コンテからさらに、美術設定など細部にわたる設計する。

○レイアウト
アニメーターが絵コンテの指示により、キャラクター設定と美術設定を基に構図を画面へ描く。さらに作画監督により作品の絵画的な統一がこの工程によりなされる。


○原画。
レイアウトとタイムシートにより、キーポイントとなる一連の動きのうちキーポイントになる部分を原画として描く。原画アニメーターは指定の秒数内でキャラクターに演技をつけるために、原画と動画枚数をシートに記入する。


○動画
原画と原画の間の絵を動画アニメーターによって描かれる。
キャラクターの性格をつかみ、イメージに合うように演技させて、生命を吹き込む大切な工程である。

○背景美術
レイアウトの背景にあたる部分を描く。
美術監督による美術ボードを手本にして、物語の舞台となる場所をカットごとに完成させる。

○トレス
かつては専門職で動画マンが描いた動画の線を正確にセルにトレースした。
デジタルスキャンによるトレス工程がとられる。

○彩色
登場するキャラクターをいろいろな色で塗り分けたものが検討され、決定したものが色指定設定となる。
さらに背景の色彩に合わせて、シーンごとに色彩設計がされる。
仕上げはデジタルペイントによる彩色工程がとられる。

○特殊効果
仕上がったセル画にエアブラシや筆のタッチを使って
霧、雨、煙、噴射等を表現して、画面効果を高める。

○撮影
カット素材をタイムシートを基に背景とセル画を重ね合わせ、1コマ1コマ撮影する。
シーンのフィルターやカメラワーク、多重露光、透過光などの技術を駆使して映像収録がされる。
動画、背景、彩色部門の素材が活かされるのも撮影次第である。

○音響
アフレコではアニメの動きにあわせて、演じられた声をを収録する。
効果音や音楽をバランスよく配置して、映像へ息遣いを演出させる最終工程。

○現像ラボ
完成したアニメションに「ミスティク」がないか、
制作スタッフたちによってが最終確認をして納品する。

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全工程をパソコンで作ったものは、直ぐに判るほどのデジタル画面で、WEBアニメやゲームのようなな人工的な記号映像が主流となっている。
3Dアニメでも非常に凝った作品は、ソフトの機能性にたよった動作ではないものが描かれていることを認識しなければいけない。感動と驚きは製造ソフトの機能には含まれることはない。
生き物の動きは均一ではありえないし、人間の感情も絶えず変化している。
そのアニミズムの表現こそが、アニメーション制作の本来の姿である。

アニメーションの視覚原理

2009-04-13 | アニメーション
映画やアニメのフィルムのコマは静止画であり、実際には動いているわけではない。
一秒間に24コマの静止画に映写されると、動いているように感じるのは、残像効果が働いて、前の画像がまだ持続しているような印象を持つからである。
人の感覚の印象は、外部の対象による刺激が止んだからといって、すぐ消え去らない。視覚も例外ではなく、網膜が持っている残像効果である。
アニメーションはこれらの残像効果を使ったトリックアートともいえる。



ソーマトロープとゾートロープ
円盤の表と裏に異なる絵を描いておき、両端に取り付けてあるひもや輪ゴムを軸にしてくるくる回転させると、視覚の残像効果で2つの絵が重なり合って1つに見えてくる。
このソーマトロープの語源は、ギリシア語の「thauma(驚き)」と「tropos(回転)」である。映画やアニメーションの出発点ともいうべき重要な発明である。

ソーマトロープは画像が2コマしかないので、2つの像が重なって見えるだけで、絵が動くような効果は得られないが、画像のコマ数を増やすことで、絵が動いているような錯覚を作り出す装置がつくりだされた。 
1834年にイギリスの数学者ウィリアム・ジョージ・ホーナーによって発明されたゾートロープである。
スリットのあいた円筒の内側に、アニメーションの元になる絵の帯を丸めてセットして、円筒を回転させて円筒の外側からスリットごしに眺めると、絵が動いて見える。ゾートロープはまわりから覗きこむ方式なので、一度に何人もの人が同時に楽しめるし、絵も帯状になっているので交換も容易になった。
1回転すれば同じ絵に戻ってしまうので、ダンス、曲芸、ピエレットなど周期的に反復可能な単純な動きを再現するにすぎなかったが、この装置は当時に広く普及した。
ゾートロープの語源はギリシア語の「zoon(動物)」と「tropos(回転)」である。

動画演習 研究所
動画基礎とアニメーション演習
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