Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

未明。

2014-03-29 05:50:21 | 日々の徒然



未明という言葉を
小さい頃に
親にたずねて

その意味を
教えてもらったままに
していたな


ふと
思い出す。


早く寝たので
早く
目が覚めてしまった。

といっても
いつも起きる時間か。


朝起きて

家族ごっこをして

自転車にのって
出かける

駅から
人の群れのなかへと
入り

会社について
ぷよぷよを
7.5時間ほどやって

同じような
出来事に遭遇しつつ
帰宅する。

一人で
ご飯を食べて
後片付けをして
お風呂に入って
お風呂の掃除をして
眠る。


これが
私の最近の生活かな。

その一つ一つに
意味はなく
むしろ
無駄な時間でさえあるようにも
思える。

それは
私が
そう思うのではなく

そこに参加する人達が
自らの手で
自らを
そう貶めているにすぎない。

ふと
周りを見ると

子供のように
未成熟で
無思慮な
大人が

特別な
おもちゃを
武器にして

手当たり次第に
人を喰い物にしている。

同じ人間なのにね。


権力。


銃や
核。

通信
メディア。


ある特定の分野の
高度な知識。

法律
人文学

政治
経済

科学

最近流行りの
IT技術

その他
諸々。

その
本来の使い方が
わからないのだろう。

自分達の手でなす
ひとつひとつが

どんな意味を
もつのか。

どんな影響を
与えるのか。


頭が悪いのだ。

ただ
それだけだ。

それ以外に
特に
意味はない。

だから
彼らが

自分達の成すことについて

いかに誇ろうとも

それは
理解の範疇を超えている。


彼らの考えに
相反する人にとって

何の意味もなさない。

それは

壮大な
自己満足

というより他に
ない。


全てが
無駄である。

世界が
違うのだ。

そのことに
彼らは
永久に
気づかないだろう。


いい加減

関係ない
人々を巻き込むのは

やめたらどうだろうか


私は
さんざん言ってきた。


けれど

どうやら
頭の悪い人達の
人数は

増えてきているようですね。


では

あなたがたの
好きにしたら

よかろう。

それが
人間の
総意であるならば

好きに
お互いを
傷つけあい

殺しあい

生きたら
よかろう。

暗闇と
悲しみと
怒りと
飢餓に
虐げられた
人たちがいて、

そういう人たちの
血と涙と骨肉の上に
あぐらをかいて

見せかけの
幸福に酔いしれながら

人生を満喫するが
よかろう。


この平和な
島国で

そんなことは
起こらない?


では、
あなたたちの目で
それを

しっかり
見届けたら
いい。

今起きている出来事が
どんな意味を持つのか

きっと
ずっとあとになってから
あなた方は
気づくのだろう。

それが
あなた方の生き方だと
主張するのならば

致し方あるまい。



ルールは

規則は

或いは
法律は

何のためにあるのか。


何のためにつくられたのか。


それは
人々のよりよい幸せのため
であった。

かつて、
そう確固たる信念で
作られたものである。


人々のよりよい生を
保証するということは

裏を反せば

人からその生を
奪われない
ということだ。



小学生が
先生に
「なぜ人を殺してはいけないのか」

質問をして
先生は
それに答えられなかった
という話がある。

そんな馬鹿な質問を
わざわざした小学生に
答えてやる必要は
ないのだが

敢えて答えるとすれば
それは
「自分が殺されないため」だ。

あるいは
「人を殺さないためだ」と
してもいい。


阿呆な小学生は
答えるかもしれない。

「自分は殺されてもいい」
と。

そんな奴には
こう言えばいいのだ。

「だったら、お前だけ死ね。
 お前が殺されてもいいということが
 他の人を殺してもいいという理由には
 ならない。」


こういう
簡単なことが
わからない

頭の悪い人達が

どんどん増えてきている
みたいで

不快を通り越して
憂鬱になるけれども、

私は
私なりに
楽しく生きたいな

思いますね。

殺されないように
だけは
しますけど。

まあ
でも

別に
死ぬときは
死ぬときですから。

みなさんは
みなさんで
勝手に殺しあいを
したら
いいんじゃないかな。

私は
その世界とは
離れたところで

責任を持って
それを
見届けましょう。


たくさんの
目を背けたくなる
現実にも
しっかりと目を見開いて

ただ
見届けましょう。


そうだ。


前に
古墳の説明会のあと
おこりじぞうの話を
書こうと
思っていたんだったけれど。


今朝
目が覚めて

そのことを考えていて

さいたまスーパーアリーナのときの
宮本さんの
言葉を思い出した。

大魔人か。


宮本さんは
ふとした瞬間に
真実を口にする。

それは
ライブのときが
多い、

というか

私たちが
本当の宮本さんを目にするのは
ライブのとき
だから
なんだろうけれど。

だから

私は
知ってるよ。

宮本さんが
真実を知っている人
だっていうことを。

どういう人が
真実を求めて
真摯に生きている人なのか

私は
知っているよ。


ただ
あまりにも
そうじゃない人が
増えすぎたんだ。

目に余るほどにね。


だから
まわりに流されるのも
ほどほどにしないと

いつか
真実からも

遠ざかってしまう。


たぶん
大丈夫だと
思うけど。

私も。

だって
そんな風に
生きてきたから
こうなったのだし。


私が
宮本さんを
好きになったのも

ある意味
必然だったと
思う。


宮本さんの歌を聴いて
ライブでその姿を見ることは

私が
その目と心を
思う存分開いて
その全てを受け入れることができる
幸せな時間だったのだ。

この世界に生きていると
全身で感じることのできる
唯一の瞬間だったのだ。


だけど
あまりにも
変な人達が
増えすぎたね。


昨日
帰りの電車で

いろんなことを
考えていた。

信じられない
人間たちを
見たんだ。

そして
きっと被害を受けるであろう人が
そのことに加担している
姿を見て、

私は
もう
手に負えないな

思った。

私には
もう
その人たちを救う
術がない。

つまらない理由で
自ら地獄に飛び込もうとする
人たちを
私は救うことができない。


気づいたら
涙を流していた。

心は
怒りで
いっぱいだった。

でも

もう涙を流すことも
ないだろうと思う。

人間に対する
絶望

なのか。


怒りは
怒りのまま
心に潜ませながら

でも
起こるべき出来事を
じっと
静かに見据えながら

これからも
生きてゆくのであろう


思う。


今まで
半分閉じていた瞳を

全て

見開いて。