Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

もしも世界が。

2014-03-30 15:14:22 | 日々の徒然
こんにちは。

昨日から、雨の福岡です。
本当は桜も今日あたりが見頃だというのに
雨で散っちゃうのかしら

なんだか残念ですけれども。

先週、ぱーっと咲いて
短い時間ですが
近くの桜の花は、ちょこちょこと
見ておりました。

そのときの写真は、
また後日アップしたい
と思います。

やっぱり桜が咲くと
嬉しいですね~。

春になって
いろんなお花が
続々と咲いておりますが

本当に見ているだけで
心が和む。。。

今日は、雨上がりのお庭を散歩して
またお花を見ておりました。

雨のしずくが
いっぱいついていて
なんだかきらきらしていて

みずみずしくて
とってもきれい。

海棠の花も
先週一気にぱっとひらいて
とってもきれいなんですよ。

なので、
今日は海棠の花を
お届けいたしましょう♪



かわいい


先週はまだ
つぼみだった。



お花を見ていると
なんだかほんとに
小さなことがどうでもいいや
という気持ちになりますよ。

一昨日は
ほんとに怒りの気持ちで
いっぱいになったけれど、

まぁ、
よく考えると、
いままでもそうだったわけだし、
それが、改めて
目の前で起こったから
(わざとなんだろうけれども)
なんか、その馬鹿らしさに
いっそう、怒りが増してね。

でも、もう
いい加減わかったから
いいや、
と。

ああいうことをやる人たちは
本当に最低なんだな
とわかったし。

私は
今まで、やっぱり
情に流されてしまうことも
あったけれど、
そういうことは
今後はないだろうと思うし、

そういう、
私の(ある側面では)
弱点になりがちだった部分も
今回の件で
克服できたから
よかったな、と思いました。

いやー
ね。
そういうことする人たちは
気に懸けるだけ馬鹿らしいということで、
もう、同情の余地なし

ということです。


何があっても

大人なんだから
自己責任ですよね。

私は、そういう人たちのことは
もう知らないです。

ただ、

これ以上
罪もない人たちを
巻き込んだり、

死なせたりすることは
絶対に許さないので。


私なりにできることを
やりますよ。


今回のことで
他にも
いろいろとわかったこともあったし。

転んでもタダでは起きない
タイプなのでね。


さて。

そんなことをつらつら
考えながら

昨日は、夕食を作っていたんだけれども、
(週末ぐらいしか作れないので)

なんだか夕食の準備をしているうちに
心が落ち着いてきて

これから自分がどうすべきか
見えてきて。

そうだな。

これからも
変わらずに
自分が思うことをちゃんと
やっていけばいいな
と思いました。

書きたいことは
これからも
ここに書いていきます。

思ったことは
自由に。

例えば、
書きかけですが、

マレーシア航空の件も、

この事件のことで
たくさんのことが
わかりました。

私が、
こういう事件について
できる限り目を通して
そのことについて
書き出したのは、

私の周りで
起こっている出来事
(あくまでも私的に)を含め、
私なりに気づいたことが
いろいろとあるわけですが、

きっと、
最終的に
東日本大震災はどうして起きたか
ということに
つながると思います。

それは、
東日本大震災後に起こった出来事の中で
今目の前で起きている出来事から
逆回転に辿っていくと
現在の世界の情勢、その中での日本
そこから
さらに遡って
政権交代、参議院選・衆議院選、エネルギー再生法案
さらに遡って
原発事故、津波、地震
ですね。

私が、
今の社会、日本、そして
最終的には、世界のことに
目を向けはじめたのが、
東日本大震災の後、
つまり、東日本大震災がきっかけに
なったわけですが、

その途上で
私なりに気づいたことがあり、
そのあとは、
それを検証しながら
私の身の回りで起きる事実
日本、それから世界で起こっている出来事を
見てきました。

今のところ、
その推論は間違っては
いないので。

今回のマレーシア航空の事件が
起きたことで、
推論は、ほぼ確信に変わりました。

曖昧だった部分も
はっきりとしましたし。

思えば、
このブログの記事で
テロリストについて書いたことは
ギリギリのタイミングだった
と思いました。


先々週は
すごい風邪を引いていたけれど
でも書かなきゃと
思って、
でも、書いておいてよかったと思った。

事件がおきてしまった今
マレーシア航空の事件は、
ひとまず公表されている情報に従って書くと
一人以上、乗客すべてを含む数百人を数える人たちが
犠牲になっていることは
間違いがないと思います。

(全員が無事だったというパターンであれば、
その背景を仮定すると、その後の展開としては
世界規模の犠牲者を想定しなければならなくなる可能性もある。)

その犠牲者の方々の死を無駄にしないためにも
そして、自分たち自身を含め、
これから犠牲となる人たちが出ないように

この事件について、
きちんとその背景を把握する必要があるわけで。


今、このブログを読んでいる人は
とても限られた人たちだと思いますが

その人たちにとってさえ
このことがただならぬ出来事であることが
少しは伝わったかと
思います。

だから、私がここで書く内容は
正しいかどうかは
あなたがたがそれぞれで
判断すればいいし、
あなたという一人の人間が
どういうカードを切るかは
あなた自身の考えに基づいているわけで。

だからこそ、
自分の目の前にカードを切る順序が巡ってきたとき
後悔しないようにしてほしいと
思いました。

そのことの効果が
少し意味のあることであるということも
今回わかったので。

だから、私は、
これからも折にふれて
少しずつでもそのことを書いてきたいと思います。

もしかしたら、
それが
東日本大震災のことについて
私ができる、唯一のことなのかも
しれないですし。

私は、
現代人なので

いや、昔からきっと
そうだったと思うのだけれど、

自然の脅威
というものがあるとして、
例えば、それを
まるで
この世界を支配する神の起こす艱難として
諦めるわけにはいかないのです。

そこに人の生活がある限り
自然とともに生きるためには
どうすればよいのか、

そして、我々は
どうやって生きていくべきか

現代人が自然とともに生きるために
今、どういうことができるのか、
ということをきちんと把握すべきであって。

そうするとね、

たくさんの不思議なことに
気づくんですよ。


その疑問をひとつひとつ
解決していった先に
本当に正しい答えがあると

私は思う。

前も書いたけれど、
私は、隕石が落ちてきたことを

「神の杖」とは
思わないのでね。


豆腐だって
高層ビルから落ちてきて
人の頭にあたったら
その人は即死ですよ。


今回のマレーシア航空の事件だって
同じことです。

飛行機が見つからずに
墜落するなんて
不可能なんですよ。

「わからない」「知らない」ことに
だまされてはいけない。

「そうである」と
信じ込まされてはいけない。

本当は
ひとつ、ひとつの事実を
自分の目で確認しなければ
ならない。

それが、
論理的にそうであることを
証明しなければ
ならない。

すべてのことについて、
一人、一人が
それを
行うのは困難です。


正しい情報を選択する能力を
身に着けなければならないし、

だから、専門的な知識を持つ人は
その「道具」を取り扱うことの「目的」が
どんなものであるか
そして、どう取り扱うべきかということを
きちんとわかっていることが大切であり、

そういう人たちを選ばなければ
ならない。


そして、
そうわかっているからこそ、

この国の人たちは
一生懸命
新聞を読んだり、
テレビのニュース番組を
見たりするのでしょうけれども、

でも、それそのものが
ある「意図」に裏打ちされて
あるいはそれが「意図」されていることにさえ
気づかずに形作られる情報だったら
どうでしょうか。

私たちは、何を信じればいいのか?

疑問に思う人もいるかもしれない。

けれど、それは難しいことではない。

ひとつの出来事について
たくさんの可能性を考える。

もし、こうだったら
こういうことが起きる、

それが正しいのか正しくないのか、

ひとつひとつ
自分自身で検証する。

そこで
何が正しくて正しくないのか
判断するには
さらに情報が必要になる。

そこで
必要とする情報について
さらに同じことが言える。


そういうことを
ずっと繰り返していく
途方もない作業のようでもありますが

でも、最終的に
そこで判断基準となるのは、

自分を含め
人が、どうやったら
人らしく生きてゆけるのか

というたった一つのことに
行き着くと思います。

そのことに関して、
私は、日本の国に住む人たちは
いや、
たぶん、多くの人がおそらく
きちんとした答えを出せるのではないか

と信じています。

だから、
必要なのは、

ある特定のひとつの方向に
無駄に
流されない
煽られないことです。

「道徳」とか
「常識」とか
たくさんの他人の作った思惑に
流されずに、

ただし、あくまでも
客観的に

ひとつ、ひとつの情報に
公平に判断し
納得した上で

あなた自身の判断をくだしてほしいと
思います。

たぶん、間違ったと
あとから思うこともあるかもしれない、

人は完璧にはできていないから
それは仕方ないことです。

自分はこうしたかったけれど
できなかった、
そう思うこともあるかもしれない、

でも、そうしたら
次は、こうしようと
こうできる自分でいよう、


そう
思うことが大切なんじゃないかな


思います。

年末あたりに

将棋の羽生さんと
指揮者の佐渡さんという方が
対談をされていた
NHKのSWITCHという番組を見まして。


そこで、
佐渡さんが
羽生さんに
「大体何手くらい先まで読めますか?」
という質問をしていたのです。

そこで、
羽生さんは
将棋にはある程度定石というものがあって、
ということを説明しつつ、

例えとして、
相手も自分も同じ形がつくられる局面を挙げて、
そこから、「わざと一歩下がる」ことも
ひとつの方法になる、ということがわかることで

それが打ち方についての新しい可能性となるんだ
というお話をされたのですね。

思うに、
羽生さんをはじめ棋士の方々は
小さい頃から、まずは定石ともいうべき
将棋の駒ひとつひとつの動きについて、
毎日、毎日それと向き合うことによって
学んでいくわけですよね。

本当に、毎日、毎日、
そのことについて考えるわけですよね。

そして、それが
何年後か、何十年後かわからないけれども
もしかしたら、明日か五分後かわからないけれども、

その定石を越える打ち方、
新しい可能性
すなわち“その先”を
見つけるんじゃないかな
と思うわけですけれども。

そういう積み重ねによって
おそらくは、いくつかの打ち方を
組み合わせるセンスとか
そういうのも必要かもしれないけれども、
それは、日々、“将棋を打つ”ということに
真摯に向きあってこそ
手に入れることができる瞬間なんじゃないかな
と思います。

あくまでも、目の前の
“将棋を打つこと”
“その先を求めること”
真摯であること、

他の余計なものをそこに介入させては
そこには絶対に辿り着けない。

たくさんの可能性を
削ぎ落として
削ぎ落として

そのもの「だけ」を考えて
そのたった一つを究極まで吟味してしか
絶対辿り着けないものであると
思われるわけです。

極めるというのは、
そういうものなんじゃないかな

思うんですよね
私は。

それは、とても納得のいくことで、
実は、将棋だけじゃなくて
全てのことに言える方法論であると
思います。


だからね、
嘘をつく人より
嘘をつかない人のほうが
強い、
という論理も
同じです。

まぁわざと嘘をつくことで
相手の反応を見るという
方法もあるけれどね。

でも、
まぁその分その嘘を正しく見せるために
いろんな余力を使わなければならないだろうし、
そのことによって制限も生まれるから
やっぱり、無駄だと思うんだけど。

真実にまっすぐに向き合っている人が
一番強いと
私は思います。

そのことに関してはね。

昔の人は、
そういう意味では、
とてもシンプルな世界に生きていたので
真実に辿り着きやすかったというか、

例えば孔子や仏陀にしろ、
自分の命を以って
生きるとは何か、ということを考えたわけで、

その思想を辿ると、やっぱり
ものすごく論理的なんですよね。

それに比べると、
やっぱり、今、表立って
「世の人」とされている人たちに関しては
ほんとに、論理的じゃない。

頭悪いな、
としかいいようがない。

もう見てて呆れるくらい
「その場しのぎ」なんですよね。

それが正しいかどうかわからないから
その先が全く見えていない。

そういう人たちについていって
たどり着く世界は惨憺たるものであることは
明らかですが。

この世界は何であんな人たちが
先導しているのか。
あ、そうか、
その人たちが自分たちのことしか
考えていないからか。

なるほどね。

で、
何の話だったっけ。

そう。

でも、世の中を見てみると
「論語」を活用している人たちの中には
例えば、softbankの孫さんとか
(全然知らないけれど)
きっと、とても論理的な人なんだろうな
と思いますよね。

あ。
私は、softbankという会社には
あまり信用を置いてはいませんけれども、
(実際自分が対応してもらった範囲の中では。
でも、それはおそらくきっとどこも同じだという
意味で、もうどこにも期待していない自分がいる。)
別に能力がある人に対しては
きちんと評価はしますよ。(笑)

なんか、私
すごい、偏屈な人と
思われているかもしれないけれども。

や、
別に偏屈なんで
そう思ってもらってていいんですけどね。


そうそう。
「論語」も
好きな人には、
パターンがあって。

なんか、「教養」のひとつとして
金科玉条のようにそれを奉って
意味が全くわかってない人とかもいるしね。
(そういう類の人は概してとても説教くさい。)

そういう人は、
はっきり言って嫌いです。


前も書いたけれど、「論語」は
本当にとても実用的な本だと思うし、
孔子の生きた人生をと重ねてそれを読むと
(感傷的にではなく)
いろいろと心に刻むべきだと思うことがあります。

だからね。
以前、「論語」を読んで
宮本さんがどんなことを思うのか
聞いてみたい、って書いたんですけれどね。


あ。
なんか、
話がだんだんそれてきたかな。

話しついでに
もうひとつ言うと
羽生さんと佐渡さんとの対談で

佐渡さんが言われていた
ウィーンフィルハーモニーで
指揮をすることになったときのことで、

楽団の人たちの
演奏を聴いたときに、

「ものすごくレベルの高い人たちなんだけれども
 でも、40個くらい(だったかな)
 “言うべきかどうか迷うこと”があった。」

っていうお話がとてもおもしろかったな。

それで
佐渡さんが言うには、
 「でも、本当は、もっと、50個も60個も
  見つけなくちゃいけなかったんじゃないだろうか
  と今は思う。」

とおっしゃっていたところが
とても興味深かったです。

やっぱり、
道を究めるという人の言葉は、
とても勉強になりますね。

納得するところがたくさんあるもの。

そういう人たちの
姿とか、言葉とかを
たくさん見たり、聞いたりしたいと
思いました。


で、話はもどって。


ひとつの真実に向き合うには
大変だね、

という話なんですけれども。

私は、
以外とそういう作業は
嫌いじゃないんだな

ということが
最近わかってきましたね。

「知る」ということは
やっぱり
楽しいですし、

なんだかんだで
私自身
そういうことにずっと携わってきたんだな

改めて思います。

社会に出てからは
「実践編」として
さらに、いろんなことを
勉強させてもらっていますが。(笑)

「真実」に向き合いたい
というのは
誰しも思うことなんじゃないかな


思いますけれども。

あ、
これはね、
「風立ちぬ」の感想の時に
書こうかなと
思っていたんだっけ、

違う、
日比谷野音の感想のときに
書こうと
思っていたんだった。
(というか、
日比谷野音の感想を
書こうと思っていましたっけ?
「あなたへ」の感想かな?
そのあたり記憶が曖昧ですが。。。
そのうち思い出すかな。)

またその話は
改めて
ということで。


そうそう。

高校の時、
数学で、
「微分積分」がね
意外と
好きだったんですよね。

(この話何度か書いたかもしれないけれども。)

微分積分って
つまり
たくさんの場合分けをして

極大から極小値を出して

点と点をつないで
線を描いていく作業なわけでしょ。

で、その放物線が
「カタチ」をつくっていくわけで。

その形がわかっていくのが
なんかどきどきして
楽しかったな、
と思います。

この世界には、
たくさんの可能性があって

その可能性のひとつひとつに
またそれぞれの世界があって

自分にとって
いちばん正しいと思える世界に
生きていけたら

それは幸せなことなのかな。

どうだろう。

わからないけれど。


なんか、

もしもボックスみたいですね。


また、最後は
ドラえもんネタになったところで
そろそろ夕食の準備の時間ですね。

今日は、
このあたりで。


ではでは、またねー♪


おまけ



新玉ねぎが美味しい季節です。
(ほんとはこのことも書こうと思っていたんだったー。)