Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

SKYFALL 1/4

2023-07-10 13:07:38 | 日々の徒然
こんにちは(*´∇`*)

ご無沙汰しております~。

本日は2023年7月日でごさいます。
福岡はまだまだ梅雨真っ只中ですが、
4年ぶりの山笠本格解禁で
勢い水やら
雨やらで
濡れまくりの
博多の街は熱気に包まれています。

下記、5月のG.W.明けのお休み日から書き始めて、
途中で体調を崩したり
なんやかやあって
7月のup日までに書いたものです。

途中、日付を遡って追記した箇所(二ヶ所くらいしかないけど)は、その旨注記してますが、
若干わかりにくいかもなので、
先に言ってみました(笑)

ではでは、ご興味のある方のみ
ご覧ください。

      *    *    *    *


こんにちはー(・∀・)ノ
ご無沙汰しております(笑)

いやー
月日の経つのは早いものでry

とか言うとりますが

ほんと
前回の記事のupから
ほぼ2ヶ月経ってますね。

今回は4月にEasterがあるから
次は4月にupしますね!
と書いてましたが。。。(笑)

いや、ほんとに
忙しかったんだってば!!(笑)

前回書きました通り、
前のお仕事を2月いっぱいで辞めましたので、

3月の第1週は
後片付けやらなんやらして
第2週目からお仕事さがしをはじめまして、

おかげさまで←
すぐに次のアルバイト先を見つけて
採用されまして
3月下旬からお仕事を始めました。

お仕事先のことについては
追々書いていくことに致しますが
既にいろんなことが起こりつつも
まぁ、なんとかやってます(笑)

今回は
なんと、うどん屋さんです。

博多区の
前職の某ホテルのほど近くにあり、
前の仕事先の人にも
既に2、3人会ったしな。(笑)

なので、通勤に関しては
前回と変わらず、
今回はお昼におうどん(とか他にもいろいろ)食べさせてもらえる素敵な職場です(笑)

私の場合、
もともと
週末、祝日とかの混んでる日には
従食しないので
だいたい平日が多いんですが、

今は従食するときは
うどん食べたりとか
白ご飯の上に持参の即席スープの具(わかめ玉子とか中華風玉子とか)をのせて
うどんのつゆをかけて食べたり(実はこれがうまい!(笑))
とかしてます(*´~`*)

慣れてきたら
いろいろ
ちょこちょこ食べてみようかな
とか思ってますけど。

まぁ、いつもどおりに
いろいろ起きてますが、

今のところ
「これだけは耐えられない」みたいなところは
あまりなく、

困ることがあったら店長に相談しているので、
今のところ大丈夫っぽい。

あとは、ロッカーに置いてた傘を既に2本くらい折られたりとかいう、
相変わらず低レベルな
嫌がらせもされてたりしていて(笑)

そんなこんなですけど、
今回は長く働けたらいいなとは思って
いつも通り頑張ってはいますが、

既にストーカー集団にも
見つかっているようで

(ていうか、毎回そうなんですが
今回も仕事探しのときから既に邪魔されてたしな。)

あり得ないレベルの
基地外客が
わんさか訪れる日もある(笑)

そのせいで数日
少し体調を崩したりもしたんですけど、
まぁ、それに関しては
今のところupはしないけど
今回の記事の下書きでいろいろ書いてるんで(←ストレス発散)、

機会があれば
公開しますけど(笑)

ストーカーの人達には
既に伝わっているっぽいけどw

まぁ、
基地外はスルーするに限る。

これが一番。

そんなこんなで、
店でも
基地外に出くわしたときは
無表情で
棒読みになったりもしつつ、

まぁ、どこの職場もそうですけど
そういうときは
最低限とりあえず仕事できればいいや
と諦めてやってますが、

この先、どうなることやら
といった状況です。(笑)

なので、
今のお店も
いつまで続けられるか
わかりませんけど
とりあえず、頑張ってます
的な感じで(笑)


4月に入ってからは
下旬に予定していた
母との京都旅行(去年の冬くらいから決めて飛行機のチケットもとってた。←長崎旅行前)
の企画を
私が段取りすることになっていて、
なんやかやしているうちに
旅行当日になりまして、

旅行が終わったら
バイト先のGW営業を比較的みっちりこなして
やっと今日のお休み日に辿り着いた
という。。。

だから、忙しかったんだってば!!(笑)

京都旅行のことについては
具体的には次回書きたいなと思ってますけど、

六年前の(例の)京都への旅のあとに
次は宇治に行きたい

なんとなく思っていて。

今回の京都旅行は
主に母が行きたいところを中心に組んだものの
宇治だけは私の希望で入れてもらいました。

で、京都への旅の企画を
具体的に考え始めたのは
2月頃(長崎旅行前)だったんですけど、
そのときの旅のイメージが
なんとなく「源氏」って感じがしてきたんです。

あ、「源氏」って言っても、
源平の源氏ではなくて
「源氏物語」の源氏ね。

で、
実際に旅行に行ったあと
わかったことなんですが、

今回書くことにしていた
Easterにまつわる話と
これまたうまくリンクしてきて
後述しますが
いろいろとおもしろかったです。

そう言えば、
前回の記事をupしたあと、

ゆづるんのつべの動画を
貼り貼りさせてもらいましたが、

その前から
ゆづるん元気にしているかしら?
と気にはなってました。

で、
前回の記事のupをしたあと
ゆづるんネタを探してみたら、
ゆづるんのつべ垢を見つけたので
「見たよ!」って意味で
動画を貼らせていただいた次第です。

ゆづるんがupしてた動画の中で
あの動画が
以前見た「春よ、来い」に似ていたのと、

ゆづるくんの一生懸命さが伝わってきたのと、
あと、
ゆづるくんが、音楽とともに
最後はそれを口ずさみながら
滑っていたので
音楽もゆづるくん自身で選んだのかな?
と思って
そういうゆづるくんを私は初めて見たので
それが嬉しかったというのが
あの動画を選んだ理由です。

素朴に
そういう理由で貼らせてもらったので
そのことに他意はありませんが、

そのあと
少しぐぐったところ
ゆづるんの出てるアイスショーの
チケットの金額とか出てきて
→一席28,000円とか(笑)

予想通りえげつない稼ぎ方してるなw
っていう。

最早、ゆづるんが初めてネイサンに負けた世界選手権のときに
急に手のひらを返したかのように責任追及し出したマスコミによるバッシング報道から始まって
その前後のゆづるんの試合欠場含めて引退までの流れは

ゆづるんをさっさと引退させて、ゆづるんを利用してお金儲けしたい人達の陰謀による
確信犯的出来レースってことでおk?

あからさますぎますw

こちらもまた
結局、私が言ったとーりじゃないですか(笑)

とゆーわけで
華々しく各地(といっても、そういう人達がいつも開催するお決まりの場所only)で
アイスショーを展開する
キラキラしたゆづるんが

一方では、あんな風に怯えたように
泣きそうな顔をして
滑っている動画を自垢でupしているという
そのギャップは一体何なのか謎としか
いいようがありません。
(いや、わかるけどね。(笑))

ゆづるんが選んだらしき
某若手アーティストの曲の歌詞にも
「僕らは何かに怯えてる~♪」(←たしかそんな感じだったといううろ覚えぐあい笑)
みたいなのがあって、

一体彼らは何に怯えているのか???
謎としか(笑)

まぁ、最近の若いアーティストの曲の歌詞とか
いろんな意味であまり理解できない(というか理解しようとも思わない)
のだけど、

ゆづるんが選んだ曲のアーティストの曲も
私からすると
ハテ(´・ω・`)?
と思うところがいっぱいあって、

なんか
「自分は不幸だけど
みんなもそうだったらいいな」
みたいな箇所があって

聞き間違いかと思って
歌詞検索までしましたけど(笑)

どういう意味w?

不幸なのは君だけじゃない
僕もだよ
ということなのか

自分は不幸だけどみんな不幸だったらいいや
というよくわからない安心感なのか

どちらにしろ
なんとなく
「自分も被害者なんです」感が漂っているのと、
その被害者意識の妙な連帯感と、
その連帯感さえあれば安心できるという思考回路が
理解できませんね。

理解できないというか
少なくとも
私にはない感覚。

今の若い子達はみんなそんな感じなのかしら
と思ってしまいますけど、
まぁ、そんなはずはないわけですが(笑)

ていうか、私が巷で見かける若者たちは皆むしろ
我が物顔で街を闊歩してますよ?(笑)

まぁ、世の中いろんな境遇や考え方の人達はいるとは思いますが、

とりあえず、
その某若手アーティストも、
そう言って高々と彼らなりの人生讃歌を歌い上げているんだけど、

そう歌い上げている人達が
どう見ても
そんなそこまで切羽詰まって
苦労してなさそうな、
被害者でもないような感じなので
違和感がありまくりなんですよね(笑)

いや、これは
普通に
曲を聞いたときの感想ですが。

ゆづるんも
そのアーティストも
どう見ても「ぬくぬく」生活している人達側だから、

まぁ、前回記事で書いたみたいに
昨今の基地外があふれる世相からして
その「ぬくぬく」ぶりに
反感を持つ人達もいるわけだし、
(まぁ、
それとは関係なく
自分が気に入らない相手は
どうあろうと気に入らないっていう人達も
もちろんいるわけなので
それは単なる「きっかけ」に過ぎないわけだが)

だから、彼らなりの防衛手段なのかもね
と、
できるだけ好意的に解釈すると
そんな感じ(笑)

当たり前の話ですが、
アーティストって
いろんな人達の前に出て表現するわけなので、

広告塔になるかわりに
その批判の対象にもなるのは当然で、

今みたいにスポンサーの企業や芸能界自体がガラが悪いと

自分達が正しいと思う表現さえできない
ということもあるかもしれないですし。
(まぁ、最近のアーティストとか
自覚がないから
そんなことすら考えてないかもしれませんが(笑))


でも、
ゆづるんもそういうアーティストの道を
自ら(かどうか知らんが)選んだわけなので、

アイスショーで飼い殺しにされるがままになるか
そういった環境の中でも表現する自分とその能力を磨いていくかは
自分自身で決めることだからね。

私には、
「頑張ってね!」
としか言えないです。

いつか素晴らしいアーティストになったゆづるんを
見る機会があれば
いいなと思いますが、

これまた、どうなることやら(笑)

3月下旬に
BSかCSで
ゆづるんの例のアイスショーが
放送されるとかいうのは
知ってたけど、

ゆづるんには申し訳ないが
あんなえげつないことをやる人達に協力する気は
私にはさらさらないし、

もちろん、一席に28,000円を払って
米粒を見に行けるほどのお金持ちでもないので(笑)

たぶん、
今まで海外の試合まで
ストーキングじゃない(笑)
ゆづるんの追っかけをしていた人達は
ひとつの試合を見るのに
渡航費用含めて何十万も払っていたので、
それに比べれば安いわw
みたいに金銭感覚が馬鹿になっているんでしょうね。
(某団体だと値引き価格(またはタダ)になるのかもしれんが(笑))

まぁ、私も
エレカシとかのグッズを
大量に買ってたときに
弟から
「こんなTシャツが3500円とかw」
って言われてましたけど(笑)

それはまだかわいいレベルですが、
(Tシャツはまだ着れるしな)
さすがに冷静に考えると
馬鹿馬鹿しいな
と今では思います。
(途中で気づいたけど。)

まぁ、ああいうのは
その場の勢いっていうか
テンションなので
仕方ない(笑)
(なので、わざわざ他人のブログにまで
自分の意見を押し付けに行ったりはしませんけどw
↑いたなそういう奴が笑)

でも、当時も
エレカシグッズ購入組でも
まともな感覚の人達は
Tシャツとかは
みんなパジャマにしてる
って言ってましたね。

んー、
まぁ、私は
そのときの気分によるけど(←)
とりあえず、エレカシTシャツは
今のところ日常時に外に
着ていったことはないな(笑)

(でも、もったいないから
何か活用しなきゃね
と今思いますた。)

なんか、コロナ以降の
ライブチケットの相場自体も
上がっているという話は
前にも書きましたが、

しかも、その高いチケット代を払わずに見に来てるやつらもいるわけだから
不公平なのよ。

とりあえず今エンタメ関連で裏で(アーティスト含めての場合もある)儲けている人達は
えげつない人達ばかりなので、
どちらにしろ、しばらくはスルーすることにしていますが。

たぶん、そんな人達のライブ見たって
楽しくないから
お金の無駄だと思うので
別に構やしないわ。(笑)

それはさておき、

ちなみに
私が思うアーティストの定義は
「自ら表現する人」であるので、
「やらされている」
「歌わされている」
「踊らされている」
みたいな人達は
ワタクシ的にはアーティストとは認定してないです。

あと、
お金儲けのため「だけ」にやっているとかもNGですね。

いくら、
「自分で全部考えて全部自分でやってます!」って言っても
(そういう人もたまにいるけど)
それ嘘だったらすぐバレるからね(笑)

そういう人達には、
「自ら表現する」っていうことがどういうことなのか?
とか、そのあたりも
自分で考えてみて下さい
とだけ
言っておきます。(笑)

以上、
ゆづるん界隈(多少エレカシもまぎれこんで来た(笑))に関する
私からのコメントですた。

[そう言えば、この間100円ショップに行ったとき
宮本さんの歌がかかっていて
ついに宮本さんの歌も100円ショップで流れるようになったんだな
と思いましたが。

(ワタクシ的に100円ショップで音楽がかかるアーティストの人達を
''100円ショップアーティスト''と呼んでいる。(笑))

コロナ以降、宮本さんもまた名刺配りから再スタートされたみたいで
ご苦労様です。

ちなみに週末の博多の100円ショップは混んでいるので
(韓国人やらなんやらも多いし)意外と騒々しくて
どんな曲かはわかりませんでした。
あー宮本さんの声だな
程度(笑)

→以上、100円ショップの話は6/8追記。]

あと、
最近、「お金儲けのためだけにやってる」ってあからさまに言いたくないけど
芸術性を求めてるとも言えない人達が
よく「エンターテイメント性」とか「お客さんを喜ばせるために」とか
言ってるのが増えてきたんですが、

そういうことをやたら言ってる人達のやってることって
たいていつまらないから
楽しめないんですよね。

だいたい、「お客さんを楽しませるためにやってるんですよ」とか
正面きって言わないと
自分達の体裁を保てない人達が面白いはずがない(笑)

ちなみに、何故京都旅行からゆづるんの話に飛んだかというと、

今回のEasterにまつわる話が
最終的に
ゆづるんに関係なくもないので、
まぁ、ご興味のある方は
最後まで読んでみてください。
(理解してくれとは言いませんので(笑))

さて、
前置きが長くなりましたが、
本日は、2023年5月8日GW週末土日明けの月曜日でございます。

なんだかんだで、
Easter期間というのは
Easter当日から遡ること四週間まえから始まって、
Easter後の1ヶ月半くらいまであるので、

今年は、4月9日頃がEasterだったため、
ちょうど、3月の記事をupしたあとくらいから、
5月の下旬くらいまでの間が
Easter期間であり、

今日から書き始めて、
間で仕事をはさみつつも
Easter期間内にupできればな
という感じ。

前述の通り、
この期間に起きた出来事は
今、振り返ってみても
いかにもEasterにふさわしく、
そして、時間の流れ的にも
大きな区切りというか
転換点だったな
と感じます。

前回記事upが3月始め頃で
なんやかやと片付けが終わったあと、

前の職場に制服を返しに行って、
その足で確定申告しに行って、

次の日に、
アルバイト先を見つけて、
帰りにネカフェに寄って
さくっとブログup&お昼のカレーを食べたような気がしますが。

アルバイト先が決まったあと、
開始日まで1週間ほどあったので
例のQ大図書館(伊都)に
恒例の図書カードの更新をしに行きました。

去年の更新騒動のおかげで(?)
中央図書館には無事入ることができました。(笑)

館内の開架書籍を
気になるところを中心に見た感じでは、

昔から開架書棚にある本は比較的一般的なものが多いんですけど、

普通の図書館に比べれば
私が趣味の範囲内で調べものをするくらいには充分対応できる本は置いてあったので
とりあえず安心しました。

館内の事典類の場所を館員に聞いたとき
その館員の方は、おそらく見た感じ院生のアルバイトっぽい男性で
丁寧でわかりやすい説明をしてくれたんですけど、

受付カウンターには相変わらずヒドラっぽいBBAが
ずんぐり座っていて、

今回さくっと見て借りようと思った10冊
(↑医学部分館に昔からQ大の図書掛にいる人がいて、
その人に聞いたときは卒業生は10冊まで借りられると言っていた)
を持って
「貸出をお願いします」と言ってカードを差し出したら、

つっけんどんに
「一般は2冊までですよ」
と言われたので、

たった2冊???

とか思ったけど

さっき事典類の場所について説明してくれた人が持ってたのと同じ館内案内にも
「一般貸出10冊」と書いてあったので、

「ここに一般貸出10冊とありますけど。。。」
と、ここまでは
私もまだ穏和に食い下がる。

そしたら、ヒドラBBAは、
偉そうに
「それは学内用です」
と一言。

は?(-_-#)

と思って
よくよく確認すると
どうやら館内パンフレットには学内用と一般用があるらしく、

館内には学内用しか置いていない
らしい(笑)

その時点で
何でだよ?
と思いますけど

まぁ、そこは抑えて

「じゃあ、一般用ください」
と言ったら
「一般用はないので、ネットで確認してください」
とのこと。

ほら、来た(笑)

そこで、情報を分断するわけですね。

「ネットのどこのページで見られますか?」
と一応聞いたら、

今時流行りの(←笑)
URLとかQRコードとかの記載のある紙すら置いてなくて
自分の端末で検索して探せと言わんばかりだけど
さすがにそれはまずいと気付いたのか
(ていうかそういう当たり前の質問をされることすら想定外だったっぽい(笑))

「えっと。。。」と
ヒドラBBAが手元のパソコンで調べ始めたものの
そもそもそういう場所がないのか(←笑)
聞かれたのが初めてのくせにとりあえず「ネットで確認しろ」と適当に言っただけなのか知らないが

また時間がかかりそうだったので
その間にさくっと10冊の中から2冊をselectして
「じゃあ、この2冊でお願いします」
と言ったら
まだ探せてなかったみたいで、
「一般用は。。。」と言いかけたので、
「もういいですよ。自分で確認すればいいんですよね?」
と私が若干イラッとした感じで言ったら
たぶん、理系図書館の話を知っているのか
これ以上イライラさせる前に
手続きしてしまおうと、
さっさと貸出処理してくれました(笑)

で、そのあとに更新手続きを依頼して
(貸出の前に更新手続きをやったら、
また貸出処理できないとか言いかねないので(笑))、

ついでに
「貸出できなかった本(今回最初に選んだ10冊のうち残りの8冊)はどうしたらいいですか?」
って聞いたら、

普通だと
「こちらで返却しておきますよ」
って言ってくれるところも
あると思うんですけど、

さすが
ヒドラが言うには
案の定

「自分で所定の場所に戻してきてください」

wwww

お前、それ教授クラスの来賓にも同じこと言ってたら
たぶん周りが冷や汗かくから
気をつけてね
と思ったけど。(笑)

すごい偉い教授とか
たぶん図書カード自体
持ってこないしな(笑)

昔、今井源衛先生が
ふらりと研究室に来られて
調べものをされていたときのことを
思い出したけど、

私も自分の手元の本見てたから最初気付いてなかったんだけど、
ふと顔あげたら
隣の部屋の角のテーブル席に
今井先生が座っておられてたにも関わらず、
周りの他の学部生が気づかずに騒いでて、

そんとき私も学部の3年か4年くらいだったけど、

部屋に飾られている写真の顔を覚えていたので
すぐさま院生部屋に行って
「たぶん今井源衛先生がいらっしゃっています」
って言ったら、

先輩達がぎょえーとなって
すぐさまお茶を出しに行ったみたいですけど(笑)

さぞやうるさい学生達だと思われたことだろう。
恥ずかしいね。

でも、
あのときほど、演習室に写真が飾ってあって良かったと思ったことはない。(笑)

気づかずに終わってたら
本当に恥ずかしいし
情けないことです。

何はともあれ
ヒドラの一般人に対する
失礼な対応も
まぁ、別に気にはしないですが、

最近、ほんと
基地外に関わって
不愉快だなぁって思うこと自体ストレスの原因になるので、
そういう時間をなるべく長くしないことが大切だと
しみじみ思います。

本の場所は
もう覚えたし、
さくっと5分もかからずに
返却できましたしね。
(2階の開架室と3階の開架室を
エレベーターで降りるときに
降りる階間違えたけど(笑))

そんなわけで
相変わらず
図書館の周りには
幼稚園みたいにジブリの絵が
大量に貼ってあったし
(最早嫌がらせですよね。わかります(笑))

最後に
ヒドラから渡された
貸出期間が書かれた紙を見たら
どっかの映画からとってきたと思われるセリフが載ってて
(そういうのも大学の図書館でやることが恥ずかしいということに奴らは気づかない(笑))

なんて書いてあったかと言うと


  「いいものはなくならない」


w w w w w w w w w w w w

ヒドラBBAから手渡されてるだけに

お前が言うなよ!!!!(笑)

って感じで

見た瞬間げんなりして

家に帰ったあとに
その箇所が見えないように折りたたんで
セロテープでとめましたからね(笑)
(貸出期間が書いてあるから捨てるわけにはいかないし。)

ほんとに
基地外はおそろしい
と思いました。

まず意志疎通ができないからね(笑)

価値観と思考回路が
全く違うからさー。

しかも、
自分達が都合がいいように
ねじ曲げて解釈する厚かましさだけじゃなくて、
それを人に押し付けるからね。

恐ろしいんですよ、
ほんとに(笑)
(いや、ほんとに笑い事じゃないから。)

そりゃあ
あんなヒドラどもに寄生されたら
伝統のある大学だって
ひとたまりもないですよね。

Q大のまもなくの終焉に祈りを捧げた次第です。(笑)

ちなみに
その4日後くらいに
医学部分館に本を返却しに行ったら、

無事に「リニューアルオープン」してたみたいで(笑)
返却ついでに開架書籍を見たら
こちらは
見るべき本は
ほとんどなかったです(笑)

手塚治虫のブラックジャックの新装版があったので
見たいときには来るかも、
くらいのレベルでした。

医学部の図書館で
医者漫画くらいしか読む本がないとか
さー(笑)

あと、なんか
SPIに続く面接適正試験のデータ分析とかの
くだらん本が置いてあったり
して
言葉にできないくらいのレベルの低さでした。

大学図書館で
あんなの
誰が読むんだろう?
頭悪すぎませんか?(笑)

そんな感じー。

というわけで
このヒドラの話は
今回の本論とは
ほとんど関係ないんですけど(笑)
一応書いてみましたw

いや、Q大の終焉の兆候だって
ひとつのトピックではありますし(笑)

最終的には
あまり関係ないんですけど、

中図で借りた本で
考えたことも
日記かつ備忘録的に
書いておきますが、

ここから
本論に徐々に近づいていきますので、
まぁ、気長にお楽しみくださいませ(笑)


今回図書館で借りた本は
もともと図書カードの更新のついでに
中図の蔵書を
すぐ借りられそうな開架書籍の分くらいはチェックしておいて、
もしおもしろそうな本があったら借りてみようかな
程度の気持ちだったので、

あくまで趣味範囲で読むレベルであって、
それ以外の目的とかないんで
そんなに警戒されてもねw

だいたい、借りられる本が2冊なわけだし
すぐに借りれるのは開架書籍くらいしかないんだから
大したことできないでしょ。

相変わらず、大学図書館の仕組みを知らない
頭の悪い人達の考えていることは
よくわかりませんが。(笑)

そんなわけで、
今回借りた2冊は
''Q大の開架書籍のレベルはどれくらいかな~?''
っていう
テイスティング的な2冊として借りてみました。

書誌情報を書いた紙(例の貸出期限の紙ね(笑))を
別のところに保管していて
今手元にないので
(わざわざ取り出してくるのもめんどくさいし)
本のタイトル、著者情報は
次回の記事でupしますが、
(↑覚えていてなおかつめんどくさくなかったら(笑))

一冊は理系の書棚にあった
アインシュタインの相対性理論について
それがどんな風にメディアによって展開され、
一般に伝えられたか、
というような
Q大だと比文(比較文化)の院生とかが書きそうな
いわゆるメディア論ですね。

メディア論と言っても、

アインシュタイン自身が
相対性理論発表時には現代における創造主のように持て囃されたけれども、
相対性理論におけるエネルギー法則が原子核の研究にまで汎用されるに至り、
その神格が一転して
プロメテウスのような破壊主として取り扱われるようになった
というイメージの変遷について
主に雑誌「TIME」の表紙を中心に見ていくという手法で描かれており、

欧米の若手研究者っぽい人達の著書を日本の翻訳者が訳しているという体裁も加味して、

国立大学の図書館にはあまりない感じの
キワモノっぽい一冊ですが(笑)

まぁ、新Q大図書館に置いてありそう
という意味も含めて
テイスティングには
ちょうどいいかな
というのと、

以前から、
アインシュタインが何故
福岡に来て授業までしたのか
素朴な疑問を持っていたので、
まぁ、あまり本論には期待してないけど
アインシュタインの略歴なり
載ってたらめっけもんだわ
というのと、

後述しますが
今回Easterで書こうと思っていることで
アインシュタインの相対性理論に関わることがあるかもしれないので
なんかあったらいいなくらいの気持ちで
借りた一冊です。

そんなわけで
借りてざっと読んでみましたが、
内容的には、
案の定、あまり良くなく(笑)

上述の通り、
アインシュタインのイメージの変遷について
まず、神格イメージの形成として
相対性理論の神格詩への受容を
著者の独断と偏見で選んだ詩
を中心に見ていくわけですが、
これが頗るよろしくなく(笑)

何でそんな詩?
みたいな
ちっとも良くない感じで
しかも、和訳しか載っていないにも関わらず
その和訳がまた良くないので、
神格イメージが伝播されるような
影響が全く感じられず(笑)

また、プロメテウスイメージの形成としては
上述の通り雑誌「TIME」の表紙を見ていくわけですが、
たしかに欧米における「TIME」の表紙というのは、
一部階層には大きな影響力を持ちますが、

アインシュタインの相対性理論を語るならば
それくらの影響力では
足りないんですよね。

「TIME」を読んでいない人達にも幅広く影響を与えたわけなので、
「TIME」の表紙だけで語ることは、到底できないわけです。

そう言えば、
先頃、例年のごとく
春休みシーズンを狙っての
ドラえもんの新作映画が公開されていたみたいで、

いつものごとく
両親が見ていたテレビ番組(そんときはクイズ番組だった)をちらりと見かけたときに、

今年のドラえもんの映画の宣伝のために
その番組に無理やり映画のワンシーンがねじこんであって、

そのときタイムマシンが出てきたんですけど、
タイムマシンの外観(内装も含めて)が
変わってる!!

なんか、
地元の観光業の隆盛を狙った最近の自治体が考えそうな

外の景色をより広い範囲で見られるように配慮した大きな窓とか
乗り心地を重視したようなシートとか(笑)

およそ机の引き出しからの
乗り入れは想像できないような感じの乗り物になってました。

おい!!!!(`Δ´)

っていうね。

確かに、今までの
映画版では
通常使用する道具のスペシャルバージョンが
出てきたりして、

「小宇宙戦争(リトルスターウォーズ)」のときとかも
タイムマシンも
若干いつもと違う感じのやつが出てきてたかもしれないんですが。

(「小宇宙戦争」のときは
他にもいろんな乗り物が出てくるし、
敢えてそれが趣向でもあるので。)

でも、今のドラえもんって
なんか明らかに
「タイムマシンも、もうちょっと乗り心地よさそうなのに変えようよ」的なレベルで
いつもの「よかれ」の人達が
安易に変えてそうなところが
ワタクシ的には許せないんです。

原作のドラえもんを見たらわかりやすいとは思うんですけど、

タイムマシンの背景には
必ず歪んだ時計とかが出てくるんですね。

これは、相対性理論で言うところの時空のひずみを現しているんです。

ローレンツ・フィッジェラルドの法則を
相対性理論で解釈したものです。

タイム風呂敷も同じなんですけど、
風呂敷の模様に
時計のマークがついているんです。

すなわち、藤子不二雄的には
時空を遡るときには
必ず、ローレンツ・フィッジェラルドの法則を適用しているんです。
(だからタイムマシンに窓からの景観の良し悪しは不要、
というか景色とか見えないから。)

しかも、タイムマシンは、
じゅうたんの形状をしており、
これは明らかに「魔法のじゅうたん」であるわけです。

「魔法のじゅうたん」とは
「千夜一夜物語」、いわゆる「アラビアンナイト」の魔法のじゅうたんです。

「アラビアンナイト」ですよ。

間違っても、○ィズぬーの「アラ○ン」ではありません。(笑)

千夜を一夜で飛び越えるという
魔法のじゅうたんですよ。

昔、ドラえもんが近未来科学漫画でありつつも、
江戸期の「金々先生栄華夢」的な側面を持っていることについて書いたことがありますが、

この相対性理論とアラビアンナイトの魔法のじゅうたんっていう組み合わせがね

藤子不二雄的だな
という。

タイム風呂敷も
そうなんですが
相対性理論と風呂敷ですよ。

バッグでも
ボックスでもなく
風呂敷なんです。

ドラえもんの今の製作陣は
そんなことも理解していないのかと
憤りを隠せません。

というのは冗談(半ば本気)ですけど

あーやっぱりこいつら
なんもわかっちゃいない
ていう(笑)

ほんとにね。

だから、タイムマシンは
昔(昭和期)はどこの家の子供部屋にもあった
何の変哲もない勉強机の引き出しから乗り込むんです。

わかるかな~?
わかんねぇだろ~な~。(笑)

だから、
そんなこともわかってないくせに
勝手に変えんなよ!
っていうね。

そのうち、ドラえもんのタイムマシンも有料になり、
21世紀デパートで売ってるチケットを
最近の観光地のロープウェイの乗車金額並みの値段で買わないと
乗れないようになったりして、

しかも現代では
デパート自体が衰退しつつあるので、
21世紀デパートがネット上の架空デパートになり、
事前登録制のアプリのダウンロードで個人端末の個人情報を垂れ流ししてよければ無料で利用できるようになるとかいう設定になるのではないかと
気が気ではありませんが、

そうなると
もはやそれはドラえもんではないし、
近未来科学アニメでもなくなりますわね(笑)

という、
最近のドラえもんについての
嘆かわしい状況を思い出したので
少々話がそれましたが、

元に戻ります。


その本の「TIME」による
アインシュタインのイメージ形成について、

メディアが良くも悪くも
研究者のイメージを左右したり、
研究そのものを歪曲したりするという結論に終わっているというのも当たり前すぎて陳腐ですね。

当時、アインシュタインの相対性理論ブームを中心に
相対性理論とは何かということについて
当時のデータを「まとめた」
という感じで、
訳者の意図としても、
参考文献を含めて
「データを提供する」ということなんでしょうけど、

そんな偏ったデータを集められても
役に立たないという(笑)

ちなみに、この本が出たのが1980年代後半で、
ドラえもんのタイムマシンは1970年代からあったので、

明らかに相対性理論は
他の伝播ルートで
正しく人口に膾炙したあとであって、

この本が言うところは
時期的にも遅すぎるし、
誰が何のためにそんなデータを必要としているのか謎(笑)

(しかも、そういう本を
いまだに開架書籍に置いている新Q大図書館がさらに謎(笑))

とにもかくにも、
最近、こういう「とりあえずデータを集めたらいい」
みたいな勘違いの人達を
研究者に関わらず見かけますけど、
きちんとしたデータが収集できるほどの能力も客観性も
持ち合わせてない人達がほとんどなんですよね。

それが、ついに研究者までそういうレベルになってきたか
という感じ。

「データ分析」っていうのは
「データ収集」の時点から始まっているんです。

ちなみに、
先程申し上げたように、
図書館の本の貸出冊数が
一般には2冊
内部一般(学部生)だと10冊
ということになっているわけですが、
院生だと100冊なんです。

貸出期間は10日間なので、
1日で読めるのが20冊くらいで、
自分の経験からしても、
だいたいそれくらいが相場だと思います。

もちろんその20冊っていうのは、
参考文献とするための研究書(先行研究の一部)であり、
雑誌論文はそれに含めません。

さらに、文献を研究に使ってる人間ならば、
メインは自分たちが研究すべき本文(テキスト)が別に存在しますし、
それに関わる書物が
また別に山のようにあります。

しかも、10日間のうち
全ての日数を研究書の読了に費やすことはないので、
実際は、10日間で100冊ではなくて
もう少し高い情報処理能力が必要だから
5日間で100冊くらいって計算ですね。

まぁ、院生ともなれば
それくらいのスペックは
必要っていうか
前提として持ってないとダメですが、
あくまでも情報処理能力は
サブ的に必要な能力であって、
もちろんそれだけではダメです。

言うまでもありませんが。

何はともあれ、
そのうち、だんだんわかってきて、
自分に必要な情報が
どんな風にすれば手に入るかとか
どんな情報が結局必要なのか
とかもわかってくるので、

読まなければならない本の冊数とかは
次第に減っていくし、

不思議なことに
だんだん自分が欲しい情報が
自然と自分のところに来るようになるんです。

そういう情報が来たら、
そのときはなんとも
思わなくても
やっぱりどこかで
ひっかかってストックされているみたいなんですよね。

だから、私は今は
別に貸出冊数が2冊でも構わないけど、
って感じなんです。

まぁ、私が院生の頃から
そうだったけど、
今の院生はそういう過程を経てない人がたくさんいるんじゃないかな
と思いますね。

しかも、図書館に置いてある本があんな感じだったら、
いくら読んでも
何にもならないでしょ(笑)

それを見抜ける能力もないみたいだし。

私達より以前の、もっと昔の人達は
巷に出てる本でも良質なものがたくさん手に入ってたから、
小さい頃から乱読してる人達がたくさんいて、

大学に入るまでには
そういう能力を身に付けている人達がたくさんいたみたいだけど、

私達が小学生の頃は既に
「小学生はこれを読みなさいね」みたいなレベルの本しか触れる機会もほとんどなかったし、
巷でベストセラーの本(バブル期)とかも
本能的につまらない
と思ってたから、
巷の本はほとんど読んでなかったんですよね。

でも、活字中毒ではあったので
家にある本の古典の口語訳とか
唯一興味を持てたのが
推理小説だったので、
推理小説ばっかり読み漁ってました。

私が子供の頃はまだ
良質な本を乱読できた世代の人達がいたので
そういう人達が書いた
小説やドラマ、漫画が
私の興味の対象だったし、

評論とか随筆の類は
塾の授業とか宿題(国語)で
毎日腐るほど読めるしね。

やっぱり
そういう匂いを子供ながらにかぎ分けて
見つけて読んできた感じです。
だから、そういうのは
感性の問題だし。

だから、教員の貸出冊数が300冊っていうのは
今更多いでしょ
って思うけど、

まぁ、研究室別置みたいな感じで、
貴重書とか禁帯出の本とか
研究室や先生個人で
その都度必要とする関連書籍を
先生の部屋に置いておいて
たとえ学内であれ、
他の人から借りられないようにしておく
みたいなことをしたりするので、
そのための冊数かな
とも思うし。

あと、
私の先生とかは
全国からいろんな人達から本が送られて来るので(←別にいらないと本人は思っているが自動的に送られてくる)
大学の自分の研究室は
そういう本の置き場所にしていたみたいですね(笑)

だから、
「この本何ですか?」とか私が聞いたりすると
「欲しかったら、持ってっていいよ」
みたいに言われるけど、

「じゃあ、もらっていいですか?」と言うと、
「えっ、そんなの読むの?」と真顔で言われるので、
自分の評価を落とすことになりかねないから(←笑)
実際のところ、もらって帰ったりはあまりしないですけどw

まぁ、そんなこんなで
今の若い人達は
ネットとかの膨大な情報にさらされているので
情報処理の平均値は
昔より上がってるかもしれないけど、
専門的には全く役に立たない感じ
っていう印象しかない。

今の大学の先生をやってる人達が
私が院生くらいのときに入ってきた人達の世代なので、
そりゃそうだろう
みたいな話ではありますが。

だから、そういう人達が
「データの提供」とか言っても
そのデータすら役に立たないし、
って感じで。

本論に至っては
独自性以前に何の意味があるの?
って感じなのに
本まで出版していて、

そっちのほうが、
普通に資源(紙)の無駄じゃないかと思うんですけど(笑)

そういう本が大学図書館の貴重な開架書籍のスペースまで占領しているのかと思うと
最悪としか。(笑)

何の知識もない人達が
こういう本を手にとって
なるほどそうなのかぁ
とか
したり顔にうなずいたりするようになったら
むしろ害悪
っていうか
たぶん、みんなそんな感じだから
わざと置いてあるんですよね
わかります(笑)

しかも、今回の本は
私が少しだけ期待していたアインシュタイン自身についての系譜なり略歴などは
全くなく(笑)

最初の章あたりに
当時の科学史の概略を載せてましたけど、
それも怪しい感じで。

例えば、
「メンデルの遺伝の法則が発見されて、近親相姦が正当化された」
みたいなことが書かれてあって
は????(-∀-;)
みたいなレベルで(笑)

まぁ、たまにいますけどね。
メンデルの法則の
優性、劣性を
superior、inferiorの意味で理解してる人。
(メンデルのソラマメの花の色の実験はあくまでも確率論であり、優勢、劣勢で論じられている。)

もしかしたら、
そういう認識間違いから来るものかな、
という

よくわかりませんが、
たぶん、そんな感じなのかなと思いますけど。

だいたい、近親相姦のタブーとか社会的な認識の問題であって
国や地域、階層、時代とか
さまざまなファクターで変わる、
いわゆる「自然科学」の遺伝の問題とはベツモノであるので、
著者の思考回路自体不可解(笑)

みょーに電磁波のあたりの概説には
具体例まで出してきて
詳しいみたいですけど(笑)

とりあえず、全体的にデータや解釈自体に
信頼ができない感じね。

まぁ、そういうことを含めて
大方そんなもんだろうということは
予想していたんで別にいいんですけど。

そんな本なりにも
私は知りたいところの情報(本論とは全く別のところで)は
かいつまんで
とれたんで。


本論では
メディアによってイメージがさまざまに形作られているということが書かれていましたが、

要するにそれは
ある一部の人達に都合がいいように
メディアも研究者も動かされていて、
その人達にとっては
世界の全ては道具でしかなく、
まるで神様きどりなんだな
っていう。

そういう人達が「優勢」の「時代」が
たまにあるんだな
ということと、
そういう「時代」はすべからく破滅的である
という。

そういう「時代」の巡り合わせは
むしろ必然的であり
もはやそれは本来の真正の神様の定めたルールのように
運命的である
とさえ、言えるのではないかと。

そんなことを
いつもながら
考えたりしましたが。

私の本来の目的であるところの
今回のEasterの話を書くにあたり、
欲しかった情報について、
そろそろ種明かしをさせていただきましょう。

たぶん、3月始め頃だったと思いますが、

両親がドラマ「相棒」のファンで、
3月に入ってから同番組のスペシャルをやっていて
(たしか前編と後編に分かれていた)

私がたまたま見たのは
前編だったんですけど、

そのとき番組の最初の方で
ヘリコプターの空撮があって、

えらい下手くそな空撮だな

思ったんですけど(笑)

まぁ、それは置いておいて。

ふと、
ヘリコプターって
英語っぽくないな
と思ったんです。

で、辞書で調べたら
helicopterという語は
フランス語のhelicoptereから来ているみたいで、

ギリシャ語の
helix(screw)+pteron(wing)に由来するもののようです。

元々、
英語の接頭辞helio-(母音の前ではheli-)は、
sunの意味であり、
ギリシャ語のheriosに由来するそうで、

heliocentric(太陽中心の)
とか
heliocentric theory(太陽中心説)
という語があります。

「ひまわり」という意味のhelianthusという語も、
anthusというのはギリシャ語で、
英語のflowerに相当します。

太陽の方向を向く花、
という感じの意味合いですね。

他に
heliotropeという語も「ひまわり」の意味があり、
tropeは、英語で言うところの turnとかdirection。

それから、
接頭辞helico-(母音の前ではhelic-)というのがあり、

こちらも、ギリシャ語の
helikos (helixと同じ)で、
英語でいうところのspiral、
すなわち「らせん」を意味するようです。

なので、
ヘリコプターの場合は
helix な羽を持つ機械ってこと
で、
helixはspiral(らせん)を意味するということですが、

らせんって
連続した円の軌跡であって
上下
(もしくはらせんを横倒しにした場合は左右)
につながっていくイメージですけど、

ヘリコプターの羽は
周回的というか、
上下(もしくは左右)につながっていない
閉じている形なので、

どちらかと言えば
helioの太陽を中心とした
惑星の軌道のような動きに近く、
辞書的には screwという英語
に相当すると記載があるのかな
と思いますが。

どちらにしろ、
helio-(惑星軌道のような周回的軌跡)

helico-(上下につながっていくスパイラル形)の間に
なんらかの力が加えられて
変形するというような

まるで物理の法則にのっとったかのような
言語変化が見られることに
興味を覚えたんです。

ちなみに、
helicityという単語もあるんですが、

これは素粒子のスピン運動を現す単位だそうで、
そういうのもおもしろいな
と思いました。

で、
helico-の意味する
「らせん」が
上につながっていくのか、
下につながっていくのか、
ちょっと想像をめぐらせて
言葉を連想してみたんですけど、

helicon
ヘリコン山というのは
古代の太陽神アポロらが住んだ山とされていて
なんとなく上に向かっている感じがします。

もともと、
ギリシャ人の祖先に由来するhellenという語から、
ギリシャ人を現す語がたくさんあり、
(歴史で出てくるhellenismヘレニズムという語もその派生系のひとつ)

ギリシャ神話に元を辿れば神様の住む天上界に行き着くのだと
思いますが、

同じ
hel-で始まる単語でも
英語のhellだと
地獄ですね(笑)

heller
heIIish
なども
そこから派生した
悪魔的なネガティブな意味合いです。

helloっていうのも
その派生語のひとつと考えると
結構おもしろいですが、
それはさておき(笑)

実を言うと、
私のhelico-(らせん)の連想では
真っ先に出てきたイメージは、
ダンテの「神曲 地獄篇」
なんです。

地獄篇の挿し絵の
あの
地下まで延々とつづく
螺旋状のうずまき。

なので、
久しぶりにダンテの「神曲 地獄篇」を手にとって読み直してみたんです。

ダンテの「地獄篇」は
簡単に言うと、
詩人ダンテの地獄巡りの話であるのですが、

『神曲』の示現は
1300年の聖金曜日の前夜とされていて、
手元にある岩波文庫の注釈によると、
ダンテが生まれたのが
1265年で、人の齢を70歳とした場合の半ばの35歳のときであり、
ダンテがフィレンツェのプレリオとなり、
ローマで大会式(ジュビレーオ)があった年とのこと。

そしてダンテが地獄に向かうまさにその日が、
1300年の聖金曜日、4月8日(岩波文庫注 Moor,Time-Reference in
the Divina Commedia)
であり、
今年のEasterが4月9日頃だったので
すなわち今から約723年前の
ほぼ同じ時期の聖金曜日なんです。

この一致だけでも
ただ事じゃないな
と思いますが、

ダンテの生涯を思い描くと
古の君子同様波乱に満ちており、
ダンテはまるでモーセのようだな
と改めて思ったわけですが、

ダンテの「神曲 地獄篇」は
まさに詩という名の音楽であり、
今の混沌とした末世に佇む私に
一筋の道を示してくれているように
思えたわけです。

それは、
地獄巡りであり、
そして、そのあとの
天上界への昇天であるわけですが、

ダンテの地獄篇というのは
実はものすごくて
地獄で現世の実名を上げながら
人々を次々に断罪していくんです。

ダンテの地獄篇のすさまじさは、
ゲーテも激賞するほどだったんですが、
そのあとの昇天と天上界については
あまりパッとしないというか。
(ダンテさん、ごめんなさい。)

ワタクシ的には天上篇(天堂篇)は
そこまで興味深くは
思えなかったんです。

何故かと言うと、
天上篇(天堂篇)っつたら
ベアトリーチェ、
ベアトリーチェ
言うて
何かにつけて
ベアトリーチェが
出てくるじゃないですか(笑)

一応、天上篇(天堂篇)の大筋としては、
神への愛とその祝福であって、
愛とはすなわち神への愛であり、
祝福とは神から
全ての被造物に対する祝福であって、

愛とは神への愛のみを指し、
地上における人間同士の愛(欲望)とは
厳密に一線を画しているんですね。

だから、どう考えても一般人のベアトリーチェに対する
ダンテの愛は
愛欲となってしまって
ダンテは神の祝福を受けられなくなってしまうはずなのですが、

ダンテはあまりにもベアトリーチェが好きすぎて
ベアトリーチェを神様達と同じくらいに神格化するんです(笑)

そんな風に都合がいいように
矛盾を回避して
めでたし、めでたし
ってしてしまっているところが、
ちょっと冷めるというか
若干あざとい感じがあって、

ゲーテとかだと
「それ、つまんなくない?」みたいに言っちゃうんじゃないかな
と思うんです。

ゲーテも
似たような設定を「ファウスト」で取り入れてますけど、
あくまでも
悪魔的範疇という世界の枠組みの中で
それを取り入れているんで、
ダンテの場合とは
似ているようで異なるんです。

でも、まぁ、
ベアトリーチェのことを
それぐらい好き好き言ってるダンテが
むしろ人間らしくていいと思うし、
むしろベアトリーチェに対する尋常ならざる愛は
神様レベルかも
とも思うんです。

ダンテが初めてベアトリーチェを見たのは9歳のときで

その後、
ベアトリーチェが
女神のような微笑みをダンテに投げ掛けたそうで
(と、ダンテは言っている)
ダンテはそのとき以来
文字通り天にも昇るような気持ちになって
熱烈にベアトリーチェに想いを寄せますが、

そうこうしているうちに
ベアトリーチェは
他の人と結婚、
そして、
その結婚から数年も経たないうちに
24歳の若さで他界してしまいます。
(ベアトリーチェの死因はよくわかりませんが。)

なので、ダンテの中で
決定的に永遠の女性となったわけです。

ダンテが晩年、
家族ともども処刑宣告を受けて、
苦難の中で地獄篇を書いたあと
天上篇を書くにあたり、

ダンテの幸福とは、

もし、
ダンテが昇天して神の祝福を受けるとしたら、

やはりベアトリーチェ抜きにそれは語れなかったというか、

なんだかダンテは
しきりにベアトリーチェに
赦しを請うているようにも見えるんですね。

神様へ何かを問われて答えるにも
まず、ベアトリーチェに許しを求めて答えたり
ベアトリーチェが微笑んだら
全てが許されるというか。

今回、天上篇(天堂篇)を
数回読み返すうちに
そういうダンテを感じて、
若干胸熱になりました。


でも、何て言うか
人々が考える地獄や天国って
こういうものなんだな
って
その地獄巡りを終えたあとに現実世界に戻れることの幸せを
久しぶりに思い出したというか。

それは、私には光明だったんです。

そして、逆に言えば
人間の思想が
人間世界を創り出す。

地獄や天国までも。

だからこそ、
人間世界を創り出すのは
人間自身であるということ、

しかしながら、
その世界は
あくまでも人間世界の創造のみであって、
人間以外の生物を含めた
自然世界全体を支配するなどということは
到底不可能であるということを
改めて理解し、
安堵したわけです。

あくまでも人間は
この世界に生きる生き物のひとつであり、
この世界のさまざまな具象と関連しあいながら生きている
ひとつの存在に過ぎない
と。

なので、私は
これからも
今までと同じように
少しずつ世界を知りながら、
生きていこう
と思ったわけです。

で、何故ダンテが
地獄篇を書いたのか

というより

なぜ地獄だったのか

思ったのです。

現代の視点から見ると、

神様の言うとおりにしなければバチが当たる
地獄に落ちる
なんてことを
当たり前に思いますが、

悪い人々を地獄に落として
断罪する
というやり方もあれば

天国に行けませんよ
っていう考え方も
もちろんあるわけです。

ノアの方舟は
まさに後者のパターンですね。

でも、ダンテの地獄篇は
恐ろしいほどに
暗い奈落の底へ向かう力を感じるんですよね。

みんな上ばかり見ているけど、
実は足元に悪魔がいて
引きずりおろそうと
舌なめずりしているんだ
という発想自体
当時の人々にとっては
ものすごく恐ろしいことだったんじゃないかな
と。

この、下に向かう力の発見
というか、
聖職者も含めて
全ての人間を
次々に断罪することで、

地獄という下に向かう力が
あまねくすべての人々に適用されるようになったんです。

これって、何かに似ていると思いませんか?

そう、万有引力の法則の発見です。

面白いのが、
ダンテの地獄篇は
ニュートンが万有引力を発見する約300年前に書かれているんです。

りんごが地面に落ちるのは
悪魔がひっぱっているのではない
ということの証明は、
りんごは悪魔がひっぱっている
という否定材料がなければ
無意味なんです。

すなわち、
何かしらの力が下から人間をひっぱっている
と考えたのは
地獄を創り出した古代人であり、
それを少しずつわかりやすい形での普遍的な法則に置き換えてきたのが
科学だと私は
思うわけですが、

今回、上述の図書館の本で
私なりに、この人間世界の仕組みを
知るための手がかりになるものは
ないかなと
基本的かつ、間違いなさそうな物理学の世界における
歴史的な事実を
いくつか拾ってみて
改めて納得したのですが、

アリストテレスの時代の
神的世界観が
ニュートンの万有引力の発見の後に衰退して
自然科学の隆盛を招き、

その後の
アインシュタインの相対性理論の提唱に至るまでに
物理学の世界において、
いくつかの解決すべき問題が
ありました。

宇宙からの光はどのようにして
地球まで届くのか
というのが
そのひとつです。

当初、光は
粒子のようなものだと考えられていて、

その場合、
その粒子を地球まで運ぶための力を及ぼす存在が
必要でした。

その媒体的存在を
エーテルと人々は名付けますが、
このエーテルとは何かということは
謎のままでした。

その後、
光はどうやら粒子ではなく
波だということがわかり、

マックスウェルの電磁波の法則の応用で
光も同様の性質のように確定され、

その上で、
アインシュタインの相対性理論が提唱されたわけですが、

光の性質の中で
もっとも解決が困難といわれた
光の速さの問題について、

アインシュタインは
時空の歪みが存在するということを述べたわけですが、

要するに宇宙空間で観測する光の速さと
地球上で観測する光の速さは
違うけれども
それぞれの観測地点で
相対的に正しい
と。

この「相対的」という言葉が、
上述の本では
一般人には確率論のように認識される誤解が生じた
ということを
細かく論じておられましたが、
それはとりあえず
置いておいて。(笑)

そんなわけで、
アインシュタインは
それぞれの観測地点で観測された値は
相対的に正しいとして、

その間に生じる空間の歪みを
時空の歪みとして
物質にも力を及ぼし
物質自体も歪んで見える
ということも言ったわけで、

だからこそ
アインシュタインの相対性理論を信じた人達は、
時空の歪みを表現するときは
時計の針がものすごい速度で進んだり、
時計自体が歪んだりするのを
絵に描いたり、
映像で表現したりしたわけで、

ドラえもんのタイムマシンに乗ったときの
背後の空間とか
タイム風呂敷の模様も
そのひとつで、

ドラえもんに限らず
たくさんの人達が
そうやって時空の歪みを表現して、
いつの日かタイムマシンが
完成して
時空旅行ができる日を今か、今かと待ち望んだわけですが、
いまだにタイムマシンはできず(笑)

そのうち、光はどうやら波ではなく粒子らしい
(波のようにも粒子のようにも見える)
という実験結果がもたらされるに及び、
議論はエーテル時代からやり直しになりました。

その後、量子論の世界に突入しますが
この先どうなることやら
というのが現代の物理学会の状況でしょうか。

さてさて、
私が今回借りた一冊について改めて確認した
物理学の世界における
歴史的推移は
こんな感じですが、

もう一冊は
筑摩学術文庫から
ハイデガーの「存在と時間」です。

今回のQ大中図の開架書籍チェックで
学術文庫が揃い(400冊くらいあるかな?)であるのを見かけたので、

おお!
と思って
その中から目についたものを
借りました。

上述の通り、
「宇宙からの光」の話の中で、
結局、エーテルとは何か、
時空とは何か、
という
問題に行き着くことを書きましたが、

言語が世界を表象するという考えにもとづくと、

エーテルとは
etreと書いて
フランス語における
存在動詞なんですよね。
(英語でいうところのbe動詞みたいな。)

だから、ハイデガーの
「存在と時間」は
まさにぴったりだな
と、
我ながら素晴らしい
本のセレクトだと自負しております(笑)

要するに、
「存在と時間」という
この問題が解決しないかぎり、
タイムマシンもできないのだと思います。(笑)

ハイデガーは
院生になってから
言語学の講義を
ひととおり出てみようと思ったときに
言語哲学の授業のときに
少し勉強しました。

論理学の講義でしたが、
そのときは自分がやっていることと関連して
別の視点から興味があったので
それはそれでおもしろく拝聴しましたが、

その講義では、
ハイデガーだけでなく
さまざまな言語哲学の先人についても述べられていたので、
ハイデガーだけを
がっつりやったことはなく、

果たして、ハイデガーは
「存在と時間」について
どんなことを書いているのか?

そんな素晴らしい本を
わくわくしながら手にとったんですけど、

うーん。。。

やっぱり、ドイツ語をちゃんと理解できていないと
難しいな
と思いました。

編者かつ総論の著者渡邊氏の
文章は重厚でありながらも明確で
とてもわかりやすく、おもしろかったですし、

ドイツ語の存在動詞については
さすがに訳語に関しても
かなり吟味されている印象は
ありました。

が、その他の箇所については
個々の研究者が分担して
執筆を担当しているみたいで、
(文庫なので仕方がないですが)
各章の要約しか載せられていないのと、
ハイデガー独自の術語についての訳語が
日本語を読んでいても
若干マズイのではないかというのが散見されて
(例えば、恐らく名詞であろう用語に「○○されるべき△△」みたいな
語構成的にもだいぶ違うし、
わかりやすく意訳しているのかもしれないけど
むしろニュアンスが全然伝わってこないようなもの、不自然なものとか。)

全体的に
イマイチ、ぴんとこないというか。

やっぱり、ちゃんと自分でドイツ語の本文を見て
ひととおりわかった上じゃないとダメだなぁ
って思ったので、

ドイツ語を勉強してから
また読んでみることにします。

やっぱり、とりあえず
ドイツ語を勉強せねば。

当たり前のことですが。(笑)

文庫で簡単に
なんて、そんなにうまくは
いきませんわね(笑)

でも、渡邊氏の書かれていた総論で、

ハイデガーの「存在と時間」の成立過程について、
フッサールとの関係を知ったのは収穫でした。

渡邊氏の指摘のように
ハイデガーとフッサールの明暗は
時代的なものが大きかったことは
想像に難くなく、

「存在と時間」成立前の、ハイデガーの出発点が神学への興味にあって
フッサールとの交流は大きな意味を持ち、

「存在と時間」成立後の時代的影響を加味しつつの
ハイデガーとフッサールの関係の疎遠化、
そして、フッサールがその後
ハイデガーの「存在と時間」に対して
批判的であったらしいことも気になるところです。

ということで、
二冊目は
いったん保留って感じですね。



(というわけで、長くなりますので
次の記事へ続きます→2/4 )