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いいタイトル思い浮かばんのですが。。。

とりあえず、ブログの別宅なんで 密かに しこしこと。。。。。

好きだった夫婦漫才 人生幸朗・生恵幸子

2007年01月30日 | Weblog


あっし、この夫婦漫才 大好きでした~。
旦那さんの「ぼやき漫才」、歌の歌詞に文句を言って「責任者出て来い!」と顔を真っ赤にして怒鳴る演技、
これをなだめる奥さん、このぼやきとなだめを繰り返した挙句、最後は「ごめんちゃい」で可愛く終わる。
面白おかしく、憎めないご夫婦の漫才、大好きでした。
各地の矯正施設への慰問がライフワークだったとか、警察・自治体などから多大に評価され、後発の芸人たちの模範となったらしい。
こういう事実を知ると、楽しいだけでなく ほろっと来て、良い印象を持つものです。

あっしの記憶にあるのは・・・・・、

 * 五木ひろしの「川は流れる 橋の下」→当たり前や。どこの世界に、橋の上を流れる川があるねん! 橋の上を流れとったら水害やがな。どあほ~、責任者出て来い!」

 * 桜田淳子の気まぐれビーナス「去年のトマトは、青くて硬かったわ。だけど、いかが~も~ 今年は赤いでしょう。味もきっと・・・・・」→おんどりゃ~!! 去年のトマトが今年は赤い~~?? 舐めてんのか~~!! 去年のトマトは、クサッとるワイ!! おんどりゃ~、責任者出て来い!」

 * 東へ西へ(井上陽水)で「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ」→当たり前やないか!そんなら昼寝すな!」とか。

インパクトがあって、漫才の楽しさ、大阪弁の面白さ、お笑いの楽しさを享受しました。
笑いは、あっしにとって「人生の潤滑油」、いつも途絶えぬように、注意しております(笑)。

 


(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
人生幸朗・生恵幸子(じんせいこうろう、いくえさちこ)は、戦後に活躍した 夫婦漫才のコンビ。                                                  
本拠地は大阪であったが、テレビ・ラジオを通じて広く全国に知られていた 漫才コンビであった。                                                
歌詞・世相などにイチャモンをつけるボヤキ漫才は秀逸で、              
「責任者出て来い!」「出てきはったらどないすんねんな!」「謝ったらええのや」のフレーズと共に一世を風靡した。                              

<ぼやき漫才>
人生幸朗・生恵幸子は「ぼやき漫才」の第一人者として知られている。「ぼやき漫才」は一般的なしゃべくり漫才とはかなり違い、                 
その時代に話題になっている事柄についてとんちんかんな難癖をつけるというもの。                                                           
人生幸朗・生恵幸子は世相はもちろんのこと、特に当時のヒット曲の歌詞にケチをつけるという面白さで大衆の心を大きく掴んだ。                 
また、このコンビが活躍していた頃、その歌が幸朗にこきおろされれば歌手として一人前という風潮があったようだ。                             
1982年の幸朗の他界に伴い、この「ぼやき漫才」は後継者がいなかったため急速に廃れてしまうこととなる。
                                     

<コンビの漫才の典型的なパターン>
まず出だしで幸朗が「まぁ皆さん聞いてくださいよ」と聴衆に語りかけ、その当時の世相・ニュースを鋭く切る。
「(幸朗)電車の線路のそばに住んでて、警報機の鐘、あのカンカンカンというのがうるそうて寝られんいうて、警報機の線を切った奴がおる。そんなもん切ってどないすんねん。あの警報機の音で近所の住人の安全が守られとる。あのカンカンカンという音を聞いて、ああ空襲やなと思うんやないか」「(幸子)なにーー?あほか」     
そして途中で幸子が一曲歌い、その後、幸朗が歌謡曲の歌詞を次々に突っ  込む。                                                              

「リンゴは何にも言わないけれどリンゴの気持ちはよく分かる」
→「リンゴが物言うか!リンゴが物言うたら果物屋のおっさんがうるそうてかなわんやないか
昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ」→「当たり前やないか!そんなら昼寝すな!
私のかわいいところどこでしょうか」→「己で勝手に探さんかい
川は流れる 橋の下」→「当たり前や。橋の上流れとったら水害やがな
一生懸命育てた鳥でさえ窓を開けたら飛んでいく」→「当たり前やないか。鳥かて羽があんねん、飛んでいくよ。飛んで嫌なら金魚飼うとけ!」
波よ教えておくれ 私の明日はどこにある」→「生きせえよ。波が物言うか!」
ときめくハートがその証拠 人生が今キラキラと近づいてくる」→「何ぬかしとんねん。なんでわしがお前に近づいていかなあかん!馬鹿にすなぁ!」「人生が違うの!あほか!」
カリッと音がするほど小指を噛んで痛いでしょう 痛いでしょう」→「当たり前やないか!誰でも小指噛んだら痛いわ!
海は振り向かない」→「たり前や!どうして海が振り向くねん!お前おちょくってんのか
 
最後は最高潮に達した幸朗を幸子が一喝する。
「(幸子)いつまでぼやいてんだ、この泥亀!」「(幸朗)かあちゃん堪忍!」
「(幸子)何がかあちゃんや!」「(幸朗)ごめんちゃい!」
 そして幸朗の締めくくりの演説をもってぼやき講座終了となる。
「(幸朗)我侭勝手なことばかり申し上げまして、お叱りの言葉もございましょうが、これは私の本心ではなく、相方生恵幸子の書いた筋書きでございます」「(幸子)嘘つけー、自分勝手にしゃっべてるんやないかぁ

ぼやき漫才ではないが、大木こだま・ひびきが、似たようなパターンのネタを展開している。
(ひびき)「いやぁ忙しくて猫の手も借りたいですわ」(こだま)「猫に手はあらへん、アレは前足や!」
(ひびき)「恥ずかしくて顔から火が出ました」(こだま)「顔から火なんてどないして出すねん!見たことないわ、見せてみい!!」
…など。

<メンバー>
人生幸朗(本名:比田孝三郎, 1907年11月2日 - 1982年(昭和57年)3月14日)は、夫。ボケ担当。大阪府出身。                                      
20歳の時の芝居一座に入門。24歳の時に荒川芳丸に入門し、荒川芳蔵を名乗 る。後に、ボヤキ漫才の都家文雄に入門。                              
この時に、ボヤキ漫才のスタイルが整った。1940年に吉本興業に入社。この 時に、高田田鶴子とコンビを組む。                                    
第二次世界大戦中は、満州などでも興行を行った。                      

戦後、1947年に「人生航路」と名乗り、1954年に庭野千草(後の生恵幸子)と組む。1955年に人生幸朗と名乗る。長年売れなかったが、この頃より人気が出始める。またこの頃より、ライフワークとでも言うべき各地の矯正施設に慰問を始める。この慰問は、警察・自治体などから多大に評価され、後発の芸人たちの模範となった。テレビや舞台などでも活躍し、人気を得ていたが1982年にこの世を去る。74歳。                                       

常に牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、直立不動で、熱が入ってくると凄い迫力と説得力を持って聴衆に語りかけるその漫才は、今も根強いファンを持つ。またその漫才からも分かるとおり極めて誠実な人柄で後輩など多くの人々から慕われ、「人生さん」「人生の師匠」と珍しく屋号亭号で呼ばれていた。                                                           

生恵幸子(1923年 - )は、妻。ツッコミ担当。                           
夫よりも16歳も若く、美しい容姿を持つ幸子は、その威勢のよい清々しいツ ッコミと漫才の途中に挿入するお世辞にも上手いとは言えない歌で、夫と同 様強い存在感を示していた。ま た近視が強かった人生幸朗に時間配分を知らせていたりなど、このコンビを陰ながらの支えてきた。 夫の死後は芸能活動はなく、メディアへの露出はほとんどない。                            

夫婦そろって「人生ぼやき節」というコミックソングもある。           
それは幸子が歌い、後から歌詞を幸朗がけなすというお馴染みのスタイルである。                                                             

<補足>
お笑いタレントの大平サブローは、人生幸朗のものまねでも有名。人生幸朗の生前の映像を使用したテレビCMで人生幸朗の声の
吹き替えをサブローが担当し、CMを見た生恵幸子から「お父ちゃんが帰ってきたみたいや」と絶賛された。


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1 コメント

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もう一度見たい (爆笑)
2011-01-29 14:14:02
懐かしく今も思い出しては笑コロゲています・
昭和の大漫才師・人生幸朗・生恵幸子を思いたしては両親の事と家族の事を思い出させて呉れます。ラジオを家族一緒に火鉢を囲んで人生幸
朗の婦夫漫才が出てくるまで皆で話して楽しく過ごした事を思い出します、人生幸朗の漫才が
始まったら皆が転げまわって爆笑した事が有りました。貧しくとも昔は家族の輪が有りました、兄弟仲良く、お父さんが怖い存在の時代、
しかし家族が大好きな人生幸朗の大ファンでした、皆顔を真赤にして笑ってた頃を今でも思い出すと涙が出てきます。人生幸朗・生恵幸子さんありがとう。
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