Being on the Road 2

日常の中に旅があり、旅の中に日常がある。僕たちは、旅の途上。
Being on the Roadから順次移行開始

アジアの街角から/ベトナム・ホーチミン

2024年08月16日 | 旅行

2024年の記録

6月にベトナムに出張した時の記録

 

 

突然のスコール、大急ぎで自転車を走らせる上半身裸の少年。僕がイメージしていたベトナムの風景だ。

 

 

夕刻のフライトでバンコクを出発、カンボシアを飛び越えてホーチミンへ。意外に思われるかもしれないが、初ベトナム。

 

 

商社マンチョイスのホテルは、ウッディ調で快適。ホテル前のSuong Nguyet Anh Streetも高木がならぶ落ち着いた街なみでGood!軽食とビア・サイゴンで、遅い夕食を摂る。

 

 

翌朝、早速Suong Nguyet Anh Streetを散歩。店頭に椅子を置いて朝食を食べる人々。アジアの雑踏とは、一味違う優雅さを感じた。この穏やかな時の流れが、ベトナムなのか、Suong Nguyet Anh Street独特のものなのかを僕はまだわからない。

 

 

Suong Nguyet Anh Streetを出ると、少しばかりチープな感じの空気に変った。

 

 

フォーは、期待した通りで、大好きになった。多くのアジア料理が、強烈な味付けで、「どぅだぁ~」と迫ってくるのに対して、日本的なお仕着せのない控えめな優しい味。

 

 

郊外の住宅と町工場が混在した地域、「三丁目の夕日」ではないが、懐かしさを感じる光景。亜熱帯特有のスコールで、街は水浸しになる。

 

 

【メモ】

オリンピックの日本選手団の大活躍や南海トラフ地震臨時情報の発表があって、8月15日前のテレビ番組は、太平洋戦争関連番組が少なかった気がする。

 

僕の父の足には鉛色の銃創があり、父は学徒兵の1人だったが、戦争の話をすることはなかった。父が発した唯一の言葉は、「戦闘機で沖縄上空を旋回して帰ってきた」。

 

「東大を受験しろ、何年浪人しても良い」という父に「東大卒がそんなに偉いのか?東大卒は、みんな幸せか?」と僕は毒づいた。「俺は東大生だったので、死なずに済んだ」とだけ父は言った。

 

父は、多くの特攻隊員が出陣した鹿児島県下の基地にいた。東大生の父は、東大生であるというだけの理由で、特攻隊の選外、あるいは最後位となり、出陣することなく終戦を迎えた。

 

あたりまえと言えば、あたりまえのことだが、特攻隊が編成され、日本の敗戦が濃厚になった頃、軍幹部は、すでに戦後の復興を想起し始めていたのだろう。荒廃した日本の復興には、優秀な人財が必要で、そのときに「優秀さ」を測る尺度は、悲しいかな学歴だったのだろう。

 

(戦争美化の意味でなく)美しく語られる特攻隊の話を耳にする度に僕は複雑な気持ちになる。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0


アジアの街角から/タイ・パタヤ

2024年08月11日 | 旅行

2024年の記録

6月にタイに出張した時の記録

 

 

偶然かもしれないが、タイに出張した前回も今回も美しい夕景を見ることができた。

 

 

今回のタイの訪問先は、ラヨーン県にある中国系サプライヤと僕の会社の現地法人。リゾートのパタヤに泊まったのは、ラヨーン県の訪問先近傍に適当なホテルがなかったという理由。リゾート気分を味わいたくて、投宿したのではない。個人的には、ローカルの安ホテルの方が、現地の空気を味わえてよいのだが・・・・・・。

 

 

パタヤのホテルに到着したのは、深夜2時すぎ。翌朝、目が覚めると雨が降っていたが、朝食を摂り、しばらくすると雨が止み、青空が見えてきた。

 

タイは、僕の会社の海外駐在員人気No.1の駐在国で、帰任したくないと思っている駐在員も少なくない。適度に安い物価、家族帯同にも問題のない治安と充実した日本人向けインフラ・・・・・・。

その一方、僕自身は、タイが悪いとは思わないが、好奇心を刺激するところが見えない。もちろん、僕自身が、タイについて無知で、その魅力を知らないだけなのだと思うが・・・・。

 

そもそも、ビジネスパーソンとして考えると、日本人の居心地の良い国、地域は、僕にとってバツ。理由は単純なことで、コンペジターが多いから。頭の回転も悪く、英語もままならない胆力と体力勝負の脳ミソ筋肉オヤジの存在価値が光るのは、日本人の寄りつかない僻地に限定される。

 

 

なぜだかわからないが、タイで最もポピュラーな自動車は、ピックアップトラック。乗合タクシーを筆頭に行き交うピックアップトラックを見ると、タイに来たんだなと思う。

 

 

美しいビーチロードから一歩脇道に入れば、猥雑な歓楽街が広がっていた。脇道の入り口には、地元民向けの屋台もあって、美しいだけじゃないリアルな街の表情を覗いた気がする。

 

 

素っ気ない工業団地の風景。

 

 

タイには、2泊、実質2日間の滞在だったが、訪問先が、中国系、日系ってこともあり、あまりタイらしい料理を口にすることもなければ、タイ語を聞くこともなかった。ビーチリゾートは、美しいけれど、どこも金太郎飴的な浅さを感じるのは、贅沢と言うものか?

 

 

夕景は、どこで見てもドラマチックで美しいものだ。

 

 

【メモ】

タイには、仕事で行っているので、ちょっとだけ小難しいメモを残す。

ASEANの中で、シンガポールは別格として、タイは、マレーシアに続く工業国、中進国に入れても良いほど発展している。給与水準の高い自動車系を除くと、タイ工場の製造現場で働くタイ人は稀だ。今回訪問した、中国系の取引先の製造現場にタイ人はいない。中国から来ている現場の指導者を除くと、すべてカンボジア人だった。(僕の会社の現地法人は、自動車系のため正社員はタイ人、非正規の派遣社員は、ミャンマー人。) 工業地帯を走っていると、外国人労働者を派遣する広告看板が目につく。あらためて地図を広げてみると、今回訪問したラヨーン県のすぐ隣にカンボジアがある。周囲には、ミャンマー、ラオスといったタイより貧しい国が隣接する。ASEAN域内は、物品関税がほぼ撤廃され労働力の流入も自由になっている。経済発展しても製造業が衰退しない秘密かもしれない。

 

何が言いたいのか、って、外国人技能実習制度をやっとこ見直した日本、依然として、上から目線。外国人労働力の無条件解放が良いとは思わないが、熟慮している間に日本の製造業は沈没しちゃうんじゃないかな。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0

 


アジアの街角から/インドネシア・チカランの休日

2024年08月03日 | 旅行

2024年の記録

6月にインドネシアに出張した時の記録

 

 

バイク修理屋に集まる若者。かつての日本でも、バイクショップには、若者がたむろしていた。今のバイクショップにいるのは、30年前の若者、つまりオヤジばかり。

 

 

広州・ジャカルタ直行便は、1日1便のため、土曜日の朝5時に広州のホテルを出発。ノービザで入国すると、入国した広州から出国しなくてはならない。インドネシア入国は、事前にe-VISA、e-CD(税関の電子申告)を済ませていたのでスムーズに。以前は、何かと“賄賂臭”が残る入国やビザ取得だったが、電子化で払拭された。電子化の副産物か、それとも“賄賂臭”の一掃が電子化の目的か?

 

 

チカランは、ジャカルタから1時間半ほどクルマで東に走ったところにある工業地帯。東京で例えると、かつての川崎、川口。現在だと、北関東ってことになるかな。

 

 

以前にも投宿しているホテルで、価格、設備には満足している。スタッフは、親切だけど、ちょっと抜けているというか、おっちょこちょいなところがある。15時すぎにチェックインしたのに部屋のクリーニングが終わってなくて、カフェのチケットを渡されるとか・・・・・・。

ホテルの前は、新しい道路が延び、中央分離帯にヤシの木、ちょいリゾート気分。

 

 

インドネシア、初ショット。カメラに写ったインドネシアの人は、みんなスマイル。「人は幸せだから笑うのではなく、笑っているから幸せなのだ。」

 

 

屋台を見ると、「インドネシアにいるんだなぁ」と。

「MASAKAN SUNDA=スンダ料理」、「OTAK=焼きかまぼこ」、見ての通りのフルーツ」、「BATAGOR BANDUNG=バンドンのバタゴール(豆腐と魚のすり身を混ぜて餃子の皮で包んだ揚げ物) CRISPY=サクサク」

 

 

世界一のムスリム人口を抱える国、10分も歩くことなくモスクを見つける。

 

 

大通りから横道に入ると、その土地ならではの空気が漂う。貧民窟ではないが、出稼ぎ労働者の仮住まいのアパートが連なる。

 

 

ダメもとで、おばちゃんに撮影の許可を求めると、意外にも快諾してくれた。

 

 

数分歩くとモスク。1日5回の祈りの場である、近くにないと、ね。

 

 

家族が身を寄せあって生活している。「仲が良いんだね。」というと、「違うよ、いつも一緒にいるから仲良しになるの。」

 

 

インドネシアは、総菜店、雑貨店のパパママショップ(家族経営の零細店)が、依然として主力。もちろんコンビニもあれば、チェーンストアもあるけどね。

 

 

この建物が、THE CAPITOL (=国会議事堂)。嘘だろ!

 

 

小綺麗なショッピングセンター。

 

 

グリーンのモスク。ムスリムにとって グリーンは、楽園とほぼ同義で、預言者ムハンマドのお気に入りの幸運と愛のシンボルのラッキーカラー。 そのためイスラム教国の国旗にはグリーンがしばしば使われている。

 

 

食堂の店員も、チョイコワ系のお兄さんもカメラを向けると、ほとんど条件反射的にポーズをとってくれる。

 

 

再び路地裏に入るとき、僕は、例えようのないドキドキを感じる。今まで、見たことのない世界に出会えるだろうか?ってね。

 

 

モスク、モスク、モスク、宗教が、生活の一部になっているインドネシアのイスラーム。

 

 

モスク前にいた敬虔なムスリムの親子、聞けば、彼は日系企業の従業員だった。

 

 

さまざまな果物が溢れる、南国のストリート。

 

 

 

【メモ】

インドネシアで生活していた期間は、1年にも満たないが、それまでの価値観への疑問をなげかけられるものだった。「昨日より今日、今日より明日」と日々改善・発展させることがあたりまえ。それゆえ、1年前と同じことをやっていることは、恥ずべきことだった。ところが、インドネシアの人たちは違った。「自分が貧しいのは、貧しい家に生まれたのだからしょうがない。」 それ以上も以下もなく、敬虔なムスリムであれば、来世は豊かな家に生まれられる。「そんなことだから国が発展せず、貧しいのだ。」と批判する人がいる。そもそも、何のために国を発展させ豊かになろうとするのか? 国民が幸せになるためだ。ところが、先進国の我々は、幸せだろうか?我々は「改善」、「発展」の呪縛に苛まれている。

 

インドネシアでの生活をサポートしてくれたのは、グランド・パパことSさん。物心ついた時からインドネシアに貢献することを夢見て、外国語大学のインドネシア語学科を卒業して、インドネシア駐在を条件に貿易商社に入社したものの任地はマレーシア。インドネシアに住み始めたのは、定年退職後。それから20余年、あいかわらず機関銃のように喋り、足腰もしっかりしている。(バイデン大統領よりはるかに元気) 変わったところは、アルコールをやめたこと。ムスリムのSさんは、非ムスリムとの会食では、「やむなく飲んでいる」といった建前で、飲んでいた。年齢のためか、ムスリムの家族の猛反発を喰らって、止めたとのこと。

 

僕はSさんのお陰で、間違いなく価値観の巾を広げることができた。Sさん宅に居候していた僕の息子は、インドネシアで何を学んだのだろうか?

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0