2024年の記録
6月にベトナムに出張した時の記録
突然のスコール、大急ぎで自転車を走らせる上半身裸の少年。僕がイメージしていたベトナムの風景だ。
夕刻のフライトでバンコクを出発、カンボシアを飛び越えてホーチミンへ。意外に思われるかもしれないが、初ベトナム。
商社マンチョイスのホテルは、ウッディ調で快適。ホテル前のSuong Nguyet Anh Streetも高木がならぶ落ち着いた街なみでGood!軽食とビア・サイゴンで、遅い夕食を摂る。
翌朝、早速Suong Nguyet Anh Streetを散歩。店頭に椅子を置いて朝食を食べる人々。アジアの雑踏とは、一味違う優雅さを感じた。この穏やかな時の流れが、ベトナムなのか、Suong Nguyet Anh Street独特のものなのかを僕はまだわからない。
Suong Nguyet Anh Streetを出ると、少しばかりチープな感じの空気に変った。
フォーは、期待した通りで、大好きになった。多くのアジア料理が、強烈な味付けで、「どぅだぁ~」と迫ってくるのに対して、日本的なお仕着せのない控えめな優しい味。
郊外の住宅と町工場が混在した地域、「三丁目の夕日」ではないが、懐かしさを感じる光景。亜熱帯特有のスコールで、街は水浸しになる。
【メモ】
オリンピックの日本選手団の大活躍や南海トラフ地震臨時情報の発表があって、8月15日前のテレビ番組は、太平洋戦争関連番組が少なかった気がする。
僕の父の足には鉛色の銃創があり、父は学徒兵の1人だったが、戦争の話をすることはなかった。父が発した唯一の言葉は、「戦闘機で沖縄上空を旋回して帰ってきた」。
「東大を受験しろ、何年浪人しても良い」という父に「東大卒がそんなに偉いのか?東大卒は、みんな幸せか?」と僕は毒づいた。「俺は東大生だったので、死なずに済んだ」とだけ父は言った。
父は、多くの特攻隊員が出陣した鹿児島県下の基地にいた。東大生の父は、東大生であるというだけの理由で、特攻隊の選外、あるいは最後位となり、出陣することなく終戦を迎えた。
あたりまえと言えば、あたりまえのことだが、特攻隊が編成され、日本の敗戦が濃厚になった頃、軍幹部は、すでに戦後の復興を想起し始めていたのだろう。荒廃した日本の復興には、優秀な人財が必要で、そのときに「優秀さ」を測る尺度は、悲しいかな学歴だったのだろう。
(戦争美化の意味でなく)美しく語られる特攻隊の話を耳にする度に僕は複雑な気持ちになる。
旅は続く
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