2008/12/31
2009/12/29
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(3)下北沢界隈
1970年以来40年続くおつきあいの友人K子さんが、お芝居に招待してくれました。演劇好きな私ですが、このところ、とんと劇場に足を運ぶこともなかったので、年末演劇忘年会と思って、いそいそ出かけました。
下北沢は若者の街、そして小劇場のメッカです。しかし、私は下北沢で演劇を見たことがなく、初めて下北沢に降りました。K子さんは、「それなら、下北沢の駅周辺をちょっと歩いてみましょう」と、本多劇場や「劇」などの前を通りながら、下北沢駅周辺を案内してくれました。
本多劇場は下北沢では一番大きい。上戸彩が主演した2006年のドラマ『下北サンデーズ』(原作石田衣良)では、駅前劇場(客席数160)からスズナリ(客席数230)へすすみ、下北沢の上がりの本多劇場(客席数386)へと進出していくのが「シモキタの出世コース」と描かれていました。「下北サンデーズ」、視聴率は低かったようですが、我が家ではヒットドラマで、毎週楽しみに見ていました。
駅前の韓国食堂でちょっとおなかに入れてからミニシアターへ。入った劇場は、客席数26席という小劇場の中でもこれ以上客席が少ないところはないだろうというくらいのミニシアターです。定年後生活のライフテーマを「演劇」にしているK子さんは、このミニシアターの「シーズンチケット」というのを購入。劇場レパートリーのうちの5本を見ることができ、うち1本は「ペア鑑賞券」付きという制度。そのペア鑑賞の「お連れ様」として誘ってもらったのです。
「東京ノーヴイレパートリーシアター」の付属第一スタジオでの公演。レパートリーをすべて見てきたKさんによると、「観客の数が出演者数より少ない回もあった」そうです。演出家はロシア人で、役者たちは、スタニスラーフスキイ・システムというロシアのリアリズム演技による訓練を受けている、ということでしたが、ぼそぼそつぶやくようなセリフ術でときどき何言っているのかわからないこともありました。
客席数26で、お客とキスできそうな距離で演じているからいいようなものの、これで本多劇場へ進出したとき、マイクをつかわなければ、一番うしろの席には声が届かないかも、というのはよけいな心配で、大劇場ではちゃんとうしろまで届く発声ができるのが役者。といっても、商業演劇の大劇場公演ではマイクを使うので、近頃の舞台役者、発声訓練では滑舌練習はするけれど、音量訓練はしたことないという役者も増えてきました。大声が必要なのは、マイク設備のない教室で講義する教師くらいなものになった。
「ノーヴイ」というのは、ロシア語で「新しい」という意味だそうです。日本語では「新劇」というと、独特のニュアンスがありますが、さて、「東京」日本語、「ノーヴィ」ロシア語、「レパートリーシアター」英語、という「やど屋旅館ホテル」みたいな「混成語」を劇団名にしているこの劇団の味やいかに、と13の客席が2列並んでいる前列の真ん中に座りました。小劇場の椅子というと、ベンチに横並びとか床に座布団とか、折り畳み椅子というのが多いのですが、この小劇場の椅子はゆったりした一人がけの肘掛け付きのチェアです。
演目は近松門左衛門の『曽根崎心中』。私は昔むかしに文楽で見たことがあるきりです。(劇場へ行ったのではなく、3チャンネルあたりのテレビ放映か何かで)。歌舞伎の演目にもなっているのですが、私は人が演じるのを見たことがなかったので、今回初の人間曾根崎です。
近松門左衛門の代表作にして人形浄瑠璃が「時代物」から「世話物」へとジャンルをひろげる最初の作品になった『曽根崎心中』。お初徳兵衛の心中事件を脚色した今でいう「実話の再現ドラマ」です。
元禄16年4月7日(太陽暦では1703年5月22日)、大阪堂島新地天満屋の女郎・はつ(数え21歳、満年齢だと19歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神の森で情死した事件に基いて、近松門左衛門は歌舞伎と浄瑠璃の脚本を1ヶ月で書き上げました。心中事件の1ヶ月後には舞台で『曽根崎心中』が上演されている。すごい早業。今の感覚でいえば、事件発生後、すぐにテレビで「再現ドラマ」を放送するようなもの。テレビの再現ドラマはその場で消えていくような薄っぺらいものにしかなりませんけれど、天才近松は事件からたった1ヶ月後の上演で、その後300年の間上演が続く傑作を書き上げました。
<つづく>
09/12/30
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(4)一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ
江戸幕府開闢して100年。激動の戦国時代からみると、身分は固定され出世の糸口も見つからない時代の閉塞感にあえず人々にとって、「心中」という行為が、自分の人生に最後の光輝をあたえる行為として映りました。『曽根崎心中』の大ヒット以後、江戸元禄時代を生きる人々に心中ブームが起こりました。
名もなくしがない手代の徳兵衛と、人身を売り渡された女郎のおはつとが、共に死を遂げたことで、物語の主人公として津々浦々にも知られる「死をもって愛を貫いた二人」として語りつがれるのを見た人々にとって、心中は極北の自己主張に思えたのです。
近松の『心中天網島』上演は1720年。心中ブームは過熱します。しかし、元禄から享保へと時代が変わると、江戸幕府は1723(享保8)年に、心中物の上演禁止と実際に心中した者の葬儀禁止を発令しました。暴れんのはいいけど、情死は御法度、心中はお嫌いな八代将軍だったのです。
『曾根崎心中』の大ヒットで、上演した竹本座の座元は、貯まりにたまっていた借金を、きれいに返済するほどの大もうけ。お初徳兵衛が心中したおかげで、竹本屋は首くくらんでも済んだ、というオチがつきました。人生一発逆転。「劇的!」はどこに転がっているかわかりません。
「東京ノーヴイレパートリーシアター」の『曽根崎心中』は、近松門左衛門がナレーター役で出てくるという演出で、心中に至る途中の場面展開を、近松が両手にお初と徳兵衛の人形をはめて語る、という趣向もあり、おもしろい演出でした。演出舞台監督としてレオニード・アニシモフというロシア人演出家の名があげられています。レパートリーのうち『かもめ』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』というチェホフものや、ゴーリキの『どん底』などは、彼の演出を継承して上演しているのでしょうけれど、この『曽根崎心中』の演出を実際に行ったのは誰なんだろう。公式にはこれもアニシモフ演出になっているのだけれど。
曽根崎心中はあまりにも有名なお芝居です。忠臣蔵のお芝居を「最後にちゃんと仇討ちができるのかどうか」をはらはらしながら見る人はおそらくいない。皆、最後に本懐遂げて雪中泉岳寺へ凱旋することを皆知っていて見ているのですが、曽根崎心中のお話も、江戸時代の人はふたりが心中して幕がおりることを承知で見ていた。で、このミニシアターに来ている人も、ストーリーは承知だ、ということが前提になっていて演出されているのだろうと思いました。もし、初めて曽根崎心中を見た人が26人の観客の中にいて、ストーリーを追ってこの芝居を見ていたのなら、なぜ二人が死ななくてはならなかったか、死ぬことによってどうしようとしていたのか、よくわからなかったのではないかと思えたのです。
終演後、近くのお好み屋でK子さんと歓談。K子さんは、一昨年定年退職した「キャリア」で、リタイア人生を謳歌しています。年金もない私から見ると、あこがれの「おひとりさま年金生活」を続けている人。今回、お芝居もおもしろそうでしたが、何よりもK子さんの暮らしぶりを聞かせてもらうのを楽しみに下北沢で会うことにしたのです。繁華街から一歩入った住宅地にあるマンションのローンも終わって、悠々自適のおひとりさま。
K子さんは、現在、高円寺にある演劇スクールに通学中です。演劇史や演劇理論を学ぶ一年コースで、さまざまな演劇との関わりを持つ人々とともに、舞台美術から演出方法まで演劇について幅広く学ぶことができるのだそうです。舞台美術の授業では自分で舞台の正面図俯瞰図を描き、舞台模型を作ることまで課題になっているそうで、本格的に演劇を学んだ結果、演劇研究を大学院で続けていこうか、という気も出てきたというK子さん。「今更勉強しても何になるわけでもないけれど、やってみたいことがあるので」と、K子さんは言います。
「やってみたいこと」というのは、前回会ったとき私も強くすすめた「ギリシャ悲劇」の上演。ギリシャ悲劇は、K子さんが若いころに関わってきた分野です。「単なる朗読会ではなく、かといって蜷川幸雄が演出するようなスペクタクル的な上演でもなく、もう少し違う形で、ギリシャ悲劇を上演する方法はないか、研究してみたい」というのがK子さんのライフワーク。
「いいね、いいね、上演しましょう」と、お好み焼きとビール1杯ですぐ盛り上がる私。K子さんは、「じゃ、主役はあなた」と冗談をいうので、もう私は、メディアだろうとエレクトラだろうと、何でもやりましょう、とすぐその気になる。K子さんの研究がまとまって上演できるのが20年後だとして、80歳の私が主役をしたら、どんなアンティゴネー、どんなアンドロマケになることやら。おっと、文化勲章国民栄誉賞森光子さんは89歳にしてこの11月にも明治座公演にゲスト出演して元気な舞台姿だったというというし、HAL80歳ヘカベは案外いいんじゃないの?
さてこのライフワークの夢は、♪一足づつに消えていく、夢のゆめこそあはれなれ、となるのやら、
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる、星の妹背の天の川。梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、我とそなたは婦夫星(めおとぼし)。かならず添うと縋(すが)り寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし。
2009年10月にお寺(椎名町金剛院)で上演された際の『曽根崎心中』
http://www.youtube.com/watch?v=bij6olnXiIg
東京レパートリーシアターがユーチューブに出している『曾根崎心中』の数シーン。
http://www.youtube.com/watch?v=3zAsYQ_z3Pg&feature=related
あれ、数うれば暁の、七つの時がむつ鳴りて、残るひとひがこんねんの、日めくり納めの一枚よ、寂滅為楽と響くなり。2009年残り一日を有意義におすごしくださいませ。
<つづく>
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(3)下北沢界隈
1970年以来40年続くおつきあいの友人K子さんが、お芝居に招待してくれました。演劇好きな私ですが、このところ、とんと劇場に足を運ぶこともなかったので、年末演劇忘年会と思って、いそいそ出かけました。
下北沢は若者の街、そして小劇場のメッカです。しかし、私は下北沢で演劇を見たことがなく、初めて下北沢に降りました。K子さんは、「それなら、下北沢の駅周辺をちょっと歩いてみましょう」と、本多劇場や「劇」などの前を通りながら、下北沢駅周辺を案内してくれました。
本多劇場は下北沢では一番大きい。上戸彩が主演した2006年のドラマ『下北サンデーズ』(原作石田衣良)では、駅前劇場(客席数160)からスズナリ(客席数230)へすすみ、下北沢の上がりの本多劇場(客席数386)へと進出していくのが「シモキタの出世コース」と描かれていました。「下北サンデーズ」、視聴率は低かったようですが、我が家ではヒットドラマで、毎週楽しみに見ていました。
駅前の韓国食堂でちょっとおなかに入れてからミニシアターへ。入った劇場は、客席数26席という小劇場の中でもこれ以上客席が少ないところはないだろうというくらいのミニシアターです。定年後生活のライフテーマを「演劇」にしているK子さんは、このミニシアターの「シーズンチケット」というのを購入。劇場レパートリーのうちの5本を見ることができ、うち1本は「ペア鑑賞券」付きという制度。そのペア鑑賞の「お連れ様」として誘ってもらったのです。
「東京ノーヴイレパートリーシアター」の付属第一スタジオでの公演。レパートリーをすべて見てきたKさんによると、「観客の数が出演者数より少ない回もあった」そうです。演出家はロシア人で、役者たちは、スタニスラーフスキイ・システムというロシアのリアリズム演技による訓練を受けている、ということでしたが、ぼそぼそつぶやくようなセリフ術でときどき何言っているのかわからないこともありました。
客席数26で、お客とキスできそうな距離で演じているからいいようなものの、これで本多劇場へ進出したとき、マイクをつかわなければ、一番うしろの席には声が届かないかも、というのはよけいな心配で、大劇場ではちゃんとうしろまで届く発声ができるのが役者。といっても、商業演劇の大劇場公演ではマイクを使うので、近頃の舞台役者、発声訓練では滑舌練習はするけれど、音量訓練はしたことないという役者も増えてきました。大声が必要なのは、マイク設備のない教室で講義する教師くらいなものになった。
「ノーヴイ」というのは、ロシア語で「新しい」という意味だそうです。日本語では「新劇」というと、独特のニュアンスがありますが、さて、「東京」日本語、「ノーヴィ」ロシア語、「レパートリーシアター」英語、という「やど屋旅館ホテル」みたいな「混成語」を劇団名にしているこの劇団の味やいかに、と13の客席が2列並んでいる前列の真ん中に座りました。小劇場の椅子というと、ベンチに横並びとか床に座布団とか、折り畳み椅子というのが多いのですが、この小劇場の椅子はゆったりした一人がけの肘掛け付きのチェアです。
演目は近松門左衛門の『曽根崎心中』。私は昔むかしに文楽で見たことがあるきりです。(劇場へ行ったのではなく、3チャンネルあたりのテレビ放映か何かで)。歌舞伎の演目にもなっているのですが、私は人が演じるのを見たことがなかったので、今回初の人間曾根崎です。
近松門左衛門の代表作にして人形浄瑠璃が「時代物」から「世話物」へとジャンルをひろげる最初の作品になった『曽根崎心中』。お初徳兵衛の心中事件を脚色した今でいう「実話の再現ドラマ」です。
元禄16年4月7日(太陽暦では1703年5月22日)、大阪堂島新地天満屋の女郎・はつ(数え21歳、満年齢だと19歳)と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛(25歳)が梅田・曽根崎の露天神の森で情死した事件に基いて、近松門左衛門は歌舞伎と浄瑠璃の脚本を1ヶ月で書き上げました。心中事件の1ヶ月後には舞台で『曽根崎心中』が上演されている。すごい早業。今の感覚でいえば、事件発生後、すぐにテレビで「再現ドラマ」を放送するようなもの。テレビの再現ドラマはその場で消えていくような薄っぺらいものにしかなりませんけれど、天才近松は事件からたった1ヶ月後の上演で、その後300年の間上演が続く傑作を書き上げました。
<つづく>
09/12/30
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・歳末風景(4)一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ
江戸幕府開闢して100年。激動の戦国時代からみると、身分は固定され出世の糸口も見つからない時代の閉塞感にあえず人々にとって、「心中」という行為が、自分の人生に最後の光輝をあたえる行為として映りました。『曽根崎心中』の大ヒット以後、江戸元禄時代を生きる人々に心中ブームが起こりました。
名もなくしがない手代の徳兵衛と、人身を売り渡された女郎のおはつとが、共に死を遂げたことで、物語の主人公として津々浦々にも知られる「死をもって愛を貫いた二人」として語りつがれるのを見た人々にとって、心中は極北の自己主張に思えたのです。
近松の『心中天網島』上演は1720年。心中ブームは過熱します。しかし、元禄から享保へと時代が変わると、江戸幕府は1723(享保8)年に、心中物の上演禁止と実際に心中した者の葬儀禁止を発令しました。暴れんのはいいけど、情死は御法度、心中はお嫌いな八代将軍だったのです。
『曾根崎心中』の大ヒットで、上演した竹本座の座元は、貯まりにたまっていた借金を、きれいに返済するほどの大もうけ。お初徳兵衛が心中したおかげで、竹本屋は首くくらんでも済んだ、というオチがつきました。人生一発逆転。「劇的!」はどこに転がっているかわかりません。
「東京ノーヴイレパートリーシアター」の『曽根崎心中』は、近松門左衛門がナレーター役で出てくるという演出で、心中に至る途中の場面展開を、近松が両手にお初と徳兵衛の人形をはめて語る、という趣向もあり、おもしろい演出でした。演出舞台監督としてレオニード・アニシモフというロシア人演出家の名があげられています。レパートリーのうち『かもめ』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』というチェホフものや、ゴーリキの『どん底』などは、彼の演出を継承して上演しているのでしょうけれど、この『曽根崎心中』の演出を実際に行ったのは誰なんだろう。公式にはこれもアニシモフ演出になっているのだけれど。
曽根崎心中はあまりにも有名なお芝居です。忠臣蔵のお芝居を「最後にちゃんと仇討ちができるのかどうか」をはらはらしながら見る人はおそらくいない。皆、最後に本懐遂げて雪中泉岳寺へ凱旋することを皆知っていて見ているのですが、曽根崎心中のお話も、江戸時代の人はふたりが心中して幕がおりることを承知で見ていた。で、このミニシアターに来ている人も、ストーリーは承知だ、ということが前提になっていて演出されているのだろうと思いました。もし、初めて曽根崎心中を見た人が26人の観客の中にいて、ストーリーを追ってこの芝居を見ていたのなら、なぜ二人が死ななくてはならなかったか、死ぬことによってどうしようとしていたのか、よくわからなかったのではないかと思えたのです。
終演後、近くのお好み屋でK子さんと歓談。K子さんは、一昨年定年退職した「キャリア」で、リタイア人生を謳歌しています。年金もない私から見ると、あこがれの「おひとりさま年金生活」を続けている人。今回、お芝居もおもしろそうでしたが、何よりもK子さんの暮らしぶりを聞かせてもらうのを楽しみに下北沢で会うことにしたのです。繁華街から一歩入った住宅地にあるマンションのローンも終わって、悠々自適のおひとりさま。
K子さんは、現在、高円寺にある演劇スクールに通学中です。演劇史や演劇理論を学ぶ一年コースで、さまざまな演劇との関わりを持つ人々とともに、舞台美術から演出方法まで演劇について幅広く学ぶことができるのだそうです。舞台美術の授業では自分で舞台の正面図俯瞰図を描き、舞台模型を作ることまで課題になっているそうで、本格的に演劇を学んだ結果、演劇研究を大学院で続けていこうか、という気も出てきたというK子さん。「今更勉強しても何になるわけでもないけれど、やってみたいことがあるので」と、K子さんは言います。
「やってみたいこと」というのは、前回会ったとき私も強くすすめた「ギリシャ悲劇」の上演。ギリシャ悲劇は、K子さんが若いころに関わってきた分野です。「単なる朗読会ではなく、かといって蜷川幸雄が演出するようなスペクタクル的な上演でもなく、もう少し違う形で、ギリシャ悲劇を上演する方法はないか、研究してみたい」というのがK子さんのライフワーク。
「いいね、いいね、上演しましょう」と、お好み焼きとビール1杯ですぐ盛り上がる私。K子さんは、「じゃ、主役はあなた」と冗談をいうので、もう私は、メディアだろうとエレクトラだろうと、何でもやりましょう、とすぐその気になる。K子さんの研究がまとまって上演できるのが20年後だとして、80歳の私が主役をしたら、どんなアンティゴネー、どんなアンドロマケになることやら。おっと、文化勲章国民栄誉賞森光子さんは89歳にしてこの11月にも明治座公演にゲスト出演して元気な舞台姿だったというというし、HAL80歳ヘカベは案外いいんじゃないの?
さてこのライフワークの夢は、♪一足づつに消えていく、夢のゆめこそあはれなれ、となるのやら、
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりかは、草も木も空も名残りと見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる、星の妹背の天の川。梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、我とそなたは婦夫星(めおとぼし)。かならず添うと縋(すが)り寄り、二人がなかに降る涙、川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし。
2009年10月にお寺(椎名町金剛院)で上演された際の『曽根崎心中』
http://www.youtube.com/watch?v=bij6olnXiIg
東京レパートリーシアターがユーチューブに出している『曾根崎心中』の数シーン。
http://www.youtube.com/watch?v=3zAsYQ_z3Pg&feature=related
あれ、数うれば暁の、七つの時がむつ鳴りて、残るひとひがこんねんの、日めくり納めの一枚よ、寂滅為楽と響くなり。2009年残り一日を有意義におすごしくださいませ。
<つづく>