
京都の鴨川をお散歩した時のチッチです。
橋は五条大橋です。
老舗旅館晴鴨楼に伯母とチッチと2泊しました(^o^)
五条大橋まですぐなので何回も鴨川をお散歩しました\(^-^)/
父が亡くなってから悲しくて悲しくて…
四十九日までは何とか頑張ろう!と言い聞かせ
四十九日の法要が終わってから京都の伯母、静岡の息子、埼玉へと
向かいました。少しでも気分転換したかったので…
※私のどうしても頭から離れない後悔
それは父が徘徊をして警察に保護されたときの事でした。
父はその日私に泊まっていって欲しかったのか
「帰るんか~」と珍しく言いました。
その後、寝室に入った父が便のそそうをしてしまい部屋中が便だらけになり…
私がお風呂場で体を綺麗に洗ってあげたら
「すまんのを…こんなことまでさせて」と言いました。
私は父がそんなしおらしい事を言ったので
「全然気にしなくていいよ」といいました。
本当にこういうことになることは覚悟の上でした。
そのためにヘルパーの学校行ってこれからの為に役立てようと思っていました。
そんなのでもう父の眠る時間がとっくに過ぎたので父も疲れているようだったので
私は帰ってしまいました。
その夜の夜中に父が国道を徘徊して警察に保護されてけがもしてしまいました。
周りから24時間ついているのは難しいとか、近所の老人が徘徊しているときに
車に跳ねられて亡くなったとか…
いろいろ聞いて仕方なく父を病院に入れることになりました。
でも私にとってこれはどうしても納得いかないことでした。
もやもやがずっとでした。
今でもあの日の病院に行く前の父の顔が浮かんできて
可哀そうで可哀そうでたまりません。
私が自信を持って、父と同居する覚悟を決めて
すべてを受け止めて父を家に置いておけば…と
今でも思い出すたびに涙が出ます。
病院に入院してから毎日毎日父の顔を見に行きました。
でも帰るときにどうしても家に帰らせたいと毎日毎日思いました。
病院のケアワーカーさんに相談しましたが、
家に帰って何かあったらどうするのですかと言われると
自信がなくなってしまいます。
ケアマネージャーやありとあらゆる介護職に就いている人に相談しました。
テレビでやっている在宅介護や雑誌やネットで見た例のように24時間体制で
介護サービスを使いながら自宅でお世話できないかと…
でもそれは絵に描いた餅のように言われました。
ああいうのはテレビの話ですと…
現実はそうはいかないと…
そうこうしている間に父が脳梗塞で倒れてしまいました。
その時は自宅でなくて病院で脳梗塞になったから早く気付いて
良かったと思うようにしていました。
でも心の中ではやはり病院の薬のせいではないかと思う気持ちが
拭いきれませんでした。
それからも毎日毎日父の病院に顔を見に、お話しにいきました。
でもやっぱり帰るときの父の顔が可哀そうで…
家に連れて帰りたいと思う気持ちばかりで…
いつもあたまのどこかに靄がかかっている状態でした。
その後、救急車で運ばれた医●会病院
この医●会病院から勧められて入所した介護施設。
この経験を経て初めて
前記した「介護の現場」を思い知らされました。
本当に絵に描いた餅でした。
介護の現場は本当に大変です。
最高のお金を払えば最高の介護をしてもらえる…
なんて全然ありませんでした。
入所した施設があまりにもひどすぎ、それを紹介した医●会も
最初の説明と全然違っていました。
施設に入所しても毎日毎日通いました。
通わなければ父は放りぱなしにされてしまいます。
すべてのお金を父の身体介護に費やして
父に少しでも快適な生活を送ってほしかった。私も妹も。
医師会の話と施設の説明を聞いている限りは期待でいっぱいでした。
でもすぐに現実の厳しさに対面しました。
あまりにもひどい施設あまりにもひどい施設の従業員たち
そして名目と全然違う医師に…
病院がやっている施設だと安心しませんか?
隣に医師がいるので悪くなればすぐに見てくれると
医●会が言ったのはすべてウソでした。
施設に入っていても食事介助・おむつ交換・ベッドへの移乗
殆ど私がしました。
私がいけないときは妹夫婦が行ってくれました。
全然食べなければ死んでしまいます。
従業員あえて介護職員とは言いたくありません。
従業員は食べないときは放っています。
たまに良い従業員がいて心配してくれました。
先生にも言ってくれたみたいですが
先生も点滴頼んでもしてくれませんでした。
なぜなんでしょうか?
従業員が父をケガさせた時も先生にきてもらったのは
良かったけど、私の目の前で
「たいしたことないから薬付けときます」でした。
のちにその傷はしっかり後になって残っていました。
そしてそのケガをさせた従業員はその月に辞めていました。
おむつも身体介護を介護保険で目いっぱい以上に入れてもらっていたのに
一度変えたら次の所に行かなければならないとブザーで呼んでも来てくれません。
父から「くそが出たぞ」と言われたら
殆ど私がおむつ交換してきれいにお尻を拭いてあげていまし。
あまりにも酷くなっている父のお尻
薬は出してくれましたが…
あまりにも酷い状態に専門の先生の所に連れて行ったときは
膿がたまって大変な状態でした。
その後父が亡くなる病院で
あまりにも酷くなっている父の状態を聞かされ涙が止まりませんでした。
ただ救われたのはあの施設で亡くならなくてよかったことだけです。
最後に見て下さった病院は本当に良くしてくれました。
父が以前のように父らしく過ごすことが出来ました。
威厳がある父らしく
普通に家にいる時と同じように父と会話することが出来ました。
でもその時は「がん」があちこちに転移していて
もう長くはないだろうという悲しい宣告もうけました。
こちらの病院ではずっと二十四時間私と妹夫婦と、息子と交代で
付き添うことにしました。
いつ容体が代わるかわからないから…
そしてこん睡状態になる前
隣でプリンを食べていた私に「一口くれ」って。
そしてにっこり笑って「帰ってくれたんかあ~」と…
実は昨晩は夫が埼玉から来てくれているので普段は私が
夜は泊まっていたのに泊まらなく、昼間も行かなくて夕方行ったからです。
待っていてくれたんだと思います。
そしてその夜…
私の腕を手を力いっぱい握って(本当にあざができるくらいに力いっぱい)
ずっと離しませんでした。
看護婦さんが血圧を測りに来たり、おむつを替えに来てくれても
私の手を離しませんでした。
そしてその日の夜中の3時くらいふぅっと力が抜けて…
私は眠ったのかと思いながら看護婦さんを呼んだのですが、
その看護婦さんは見もせず眠ったのでしょう…と。
でも朝いちばんに来てくれた看護婦さんから
「こん睡状態」に入っていますと。
それからは…
二日間意識が戻らず眠ったままでした。
でも私たち家族はずっと父に付き添って話しかけて、手を握っていました。
そして亡くなって…
悲しみは募るばかりでしたが…
少しだけ今は
「お父さん、お母さんの所へ行けて今頃二人で私たちの話をしてる?」
って少しだけ思えるようになりました。
こちらの地にいると
自分への後悔、いろいろな事への恨み…
これではいけないと思いましたが…
日にちがたつまではこの気持ちを抑えるのは無理だと思います。
この京都旅行を機に
そして
今年が終わってしまう前に投稿しました。
まだパソコンに向かう気にならなくて携帯からの投稿です(>_<)
たまってしまった写真もたくさんあるので…
来年からは頑張ります(^-^)
ちっちのためにも私が前向きに笑顔でいなければ…
ブログを書くことによって支えられてきました。
だから少しでも前向きになれたらまた書きたいと思います。
ちっちといつまでも一緒に元気でいたいから…