僕の家は3人兄弟。僕はその真ん中、典型的な次男坊である。
従兄弟が9人、、いや、10人かな?
この数が多いか少ないかは分からないけど。
僕が小学校ぐらいまでは、年始なんかで祖父祖母の家に一同が集結したりすると、それはもうすごい騒ぎだった。
だって、、ねぇ。年端もいかない子供たちが10人以上集まるわけだからさ。
ある種カオスですよね、カオス。
そんな親戚一同の中に、叔母さんはいた。
僕らのリーダー的な存在。
事態の収拾がつかなくなるといつも、
よしっ、じゃあハンバーガー食べに行こうか
騒ぎ続ける僕らを車に詰めこんで、近くのファーストフード店に連れて行ってくれるような。
そんなパワフルな人。
当時祖父が使っていたワゴンには、一番後ろに進行方向と逆向きに取り付けられた補助席があった。
後ろの窓からいつもと逆向きに動く風景を眺められるその席が、僕は大好きだったんだ。
だから叔母さんのハンバーガー号令が掛かると、いつも僕は急いでその特等席を陣取ったものです。
ゆるやかなハンドリングに合わせて僕を追い越していく景色。
振り返ればそこにはいつものにぎやかな笑い声と、叔母さんの横顔。
そんな風景。
叔母さんが癌になった、と聞かされたのは中学1年のときだった。
ガン。
当時の僕には正直ピンとこない病名。
実際今に至るまで結局彼女がどの部位のガンを患ったのか知らないのだけれど。
とりあえず一度お見舞いに、と家族揃って訪れた病室の叔母さんはいつもとちっとも変わらなかった。
お医者さんにね、なんでも最新の治療法で、身体にゴールドを入れるといいっていわれたんだけどさ。
あたし思わず、そんなのもったいないから現物を下さい、って言っちゃった。
そう言ってあははっと笑った。
だから僕は漠然と、あぁ、病気になっても、叔母さんは叔母さんのままなんだ。と思った。
当時の僕は、今思えば滑稽なぐらいの反抗期真っ只中で、それからたびたび母親にお見舞いに行くか尋ねられても、何かと理由を付けて親と一緒に出掛けることを拒んでいた。
最初のお見舞いから半年ぐらい経った頃かな。
学校から帰ってきた僕を血相を変えた母親が出迎えた。
叔母さんの容態が急変したの。
今から一緒に病院に行きましょう。
容態が急変。
TVの中でしか聞いたことなかった言葉。
そんな非現実をうまく受け止められなかった僕はいつもみたいに、
いいよ。用事あるし。めんどくさい。
と言った。
パチンッ。
乾いた音が玄関に響いて、僕は初めて自分が母親にひっぱたかれたことを知った。
そんなことを言ってる場合じゃないの。
いいから来なさい。
迫力に圧され、茫然としながら車に乗った。
連れて行かれた病院の病室は、前に訪れた何人かの相部屋ではなく、完全な個室に変わっていた。
スライド式のドアを開けると、部屋の中央に置かれたベッドを親戚一同が囲んでいた。
嗅いだことのない匂い。
身体中から伸びている沢山のチューブ。
あんなに元気だった面影なんかカケラもないぐらいガリガリになった叔母さんがそこにいた。
叔母さんの左手をしっかりと握っていた祖母が叔母さんの耳元で
ほら、たけちゃんたちが来てくれたよ。
分かる?
と言うと、叔母さんは辛そうに薄目を開けて、それまで聞いたことないぐらい小さな声で
分かってるよ
ありがとう
と言って笑った。
僕はそれから何をしたか。
何もできなかった。
ただ病室の中に突っ立って、世界から消えようとしている1つの息づかいを聴いていた。
先に入り口のロビーで待ってなさい。
と渡された硬貨で買った缶コーヒーは何の味もしなかった。
4日後ぐらい。
叔母さんが亡くなったと両親に告げられた。
そっか。
亡くなったんだ。
実感は無い。
単語だけがそこにある感じ。
叔母さんはキリスト教徒だった。
自分の判断力の弱いうちから特定の宗教を経験するのは良くないのではないか。
両親のそんな考えから、僕ら兄妹は叔母さんのお葬式には出席しなかった。
お葬式やお通夜は死んだ人の為ではなく生きている人の為にあるのだ、と言うけど。
ほんとにその通りだ、と思う。
叔母さんが亡くなった。
僕には実感のない言葉。
だからどこかで、年始が来ればまた、少し大きくなった僕らに
ほら、ハンバーガー食べに行くよ
って言って笑う叔母さんがいる気がしてたんだ。
ずっとね。
お葬式から半年ぐらい経ってから。
ある日僕は色鉛筆を借りようと、当時小学校低学年だった妹の部屋に入った。
目当てのものを見つけて、部屋を出ようとしたその時、ふと机の上に目が止まった。
安っぽい写真立て。
なかには元気だった頃の叔母さんと、そのヒザの上に座って笑う妹の姿。
その余白にはでっかくて下手くそな字で
おばさんのいきてたころ
と書かれていた。
おばさんのいきてたころ
その下手くそな字をぼんやり眺めていたら、身体の奥のほうから感情の塊りみたいなものが急にあふれ出てきた。
おばさんは、このよにはもういない
そんな文章が突然僕にとってリアルになった。
と同時に、あの日、最後のお見舞いに行くときに自分が何を言ってしまったのかが分かった。
いいよ。用事あるし。めんどくさい。
なんでそんなことを簡単に言ってしまったんだろう。
あんなに辛そうだったのに。
懸命に命を繋ぎながら。
それでも叔母さんは僕らに向かって笑いかけてくれたのに。
絶対に言ってはいけないことを口にしてしまった。
僕は絶対に言ってはいけないことを口にしてしまったのだと思った。
年始が来ても、あの場所に叔母さんはいない。
僕を追い越していく景色に思わず振り返っても、叔母さんの横顔はない。
それなのになんで。
なんであんなことを簡単に言ってしまったんだろう。
ごめんなさい。
叔母さん、ごめんなさい。
その場にしゃがみ込んで、何度も呟いて泣いた。
それでも僕の吐き出してしまった言葉は、いつまでも目の前から消えてくれなかった。
従兄弟が9人、、いや、10人かな?
この数が多いか少ないかは分からないけど。
僕が小学校ぐらいまでは、年始なんかで祖父祖母の家に一同が集結したりすると、それはもうすごい騒ぎだった。
だって、、ねぇ。年端もいかない子供たちが10人以上集まるわけだからさ。
ある種カオスですよね、カオス。
そんな親戚一同の中に、叔母さんはいた。
僕らのリーダー的な存在。
事態の収拾がつかなくなるといつも、
よしっ、じゃあハンバーガー食べに行こうか
騒ぎ続ける僕らを車に詰めこんで、近くのファーストフード店に連れて行ってくれるような。
そんなパワフルな人。
当時祖父が使っていたワゴンには、一番後ろに進行方向と逆向きに取り付けられた補助席があった。
後ろの窓からいつもと逆向きに動く風景を眺められるその席が、僕は大好きだったんだ。
だから叔母さんのハンバーガー号令が掛かると、いつも僕は急いでその特等席を陣取ったものです。
ゆるやかなハンドリングに合わせて僕を追い越していく景色。
振り返ればそこにはいつものにぎやかな笑い声と、叔母さんの横顔。
そんな風景。
叔母さんが癌になった、と聞かされたのは中学1年のときだった。
ガン。
当時の僕には正直ピンとこない病名。
実際今に至るまで結局彼女がどの部位のガンを患ったのか知らないのだけれど。
とりあえず一度お見舞いに、と家族揃って訪れた病室の叔母さんはいつもとちっとも変わらなかった。
お医者さんにね、なんでも最新の治療法で、身体にゴールドを入れるといいっていわれたんだけどさ。
あたし思わず、そんなのもったいないから現物を下さい、って言っちゃった。
そう言ってあははっと笑った。
だから僕は漠然と、あぁ、病気になっても、叔母さんは叔母さんのままなんだ。と思った。
当時の僕は、今思えば滑稽なぐらいの反抗期真っ只中で、それからたびたび母親にお見舞いに行くか尋ねられても、何かと理由を付けて親と一緒に出掛けることを拒んでいた。
最初のお見舞いから半年ぐらい経った頃かな。
学校から帰ってきた僕を血相を変えた母親が出迎えた。
叔母さんの容態が急変したの。
今から一緒に病院に行きましょう。
容態が急変。
TVの中でしか聞いたことなかった言葉。
そんな非現実をうまく受け止められなかった僕はいつもみたいに、
いいよ。用事あるし。めんどくさい。
と言った。
パチンッ。
乾いた音が玄関に響いて、僕は初めて自分が母親にひっぱたかれたことを知った。
そんなことを言ってる場合じゃないの。
いいから来なさい。
迫力に圧され、茫然としながら車に乗った。
連れて行かれた病院の病室は、前に訪れた何人かの相部屋ではなく、完全な個室に変わっていた。
スライド式のドアを開けると、部屋の中央に置かれたベッドを親戚一同が囲んでいた。
嗅いだことのない匂い。
身体中から伸びている沢山のチューブ。
あんなに元気だった面影なんかカケラもないぐらいガリガリになった叔母さんがそこにいた。
叔母さんの左手をしっかりと握っていた祖母が叔母さんの耳元で
ほら、たけちゃんたちが来てくれたよ。
分かる?
と言うと、叔母さんは辛そうに薄目を開けて、それまで聞いたことないぐらい小さな声で
分かってるよ
ありがとう
と言って笑った。
僕はそれから何をしたか。
何もできなかった。
ただ病室の中に突っ立って、世界から消えようとしている1つの息づかいを聴いていた。
先に入り口のロビーで待ってなさい。
と渡された硬貨で買った缶コーヒーは何の味もしなかった。
4日後ぐらい。
叔母さんが亡くなったと両親に告げられた。
そっか。
亡くなったんだ。
実感は無い。
単語だけがそこにある感じ。
叔母さんはキリスト教徒だった。
自分の判断力の弱いうちから特定の宗教を経験するのは良くないのではないか。
両親のそんな考えから、僕ら兄妹は叔母さんのお葬式には出席しなかった。
お葬式やお通夜は死んだ人の為ではなく生きている人の為にあるのだ、と言うけど。
ほんとにその通りだ、と思う。
叔母さんが亡くなった。
僕には実感のない言葉。
だからどこかで、年始が来ればまた、少し大きくなった僕らに
ほら、ハンバーガー食べに行くよ
って言って笑う叔母さんがいる気がしてたんだ。
ずっとね。
お葬式から半年ぐらい経ってから。
ある日僕は色鉛筆を借りようと、当時小学校低学年だった妹の部屋に入った。
目当てのものを見つけて、部屋を出ようとしたその時、ふと机の上に目が止まった。
安っぽい写真立て。
なかには元気だった頃の叔母さんと、そのヒザの上に座って笑う妹の姿。
その余白にはでっかくて下手くそな字で
おばさんのいきてたころ
と書かれていた。
おばさんのいきてたころ
その下手くそな字をぼんやり眺めていたら、身体の奥のほうから感情の塊りみたいなものが急にあふれ出てきた。
おばさんは、このよにはもういない
そんな文章が突然僕にとってリアルになった。
と同時に、あの日、最後のお見舞いに行くときに自分が何を言ってしまったのかが分かった。
いいよ。用事あるし。めんどくさい。
なんでそんなことを簡単に言ってしまったんだろう。
あんなに辛そうだったのに。
懸命に命を繋ぎながら。
それでも叔母さんは僕らに向かって笑いかけてくれたのに。
絶対に言ってはいけないことを口にしてしまった。
僕は絶対に言ってはいけないことを口にしてしまったのだと思った。
年始が来ても、あの場所に叔母さんはいない。
僕を追い越していく景色に思わず振り返っても、叔母さんの横顔はない。
それなのになんで。
なんであんなことを簡単に言ってしまったんだろう。
ごめんなさい。
叔母さん、ごめんなさい。
その場にしゃがみ込んで、何度も呟いて泣いた。
それでも僕の吐き出してしまった言葉は、いつまでも目の前から消えてくれなかった。