名もなき旅の記録

名もなき日本人の名もなき旅の記録。ささやかでありがち、だけどかけがえのない日々の記録、になる予定。

コンゴ川下り

2010-10-20 18:30:56 | コンゴ民主(旧ザイール)
コンゴの旅の全ての記録はそのうちアホみたいに書くつもりだけど、コンゴ川の船旅のことだけは今書いておこうと思う。





キサンガニからキンシャサまでの1760キロ、どこまでも続く熱帯雨林を行く船の旅。

船には食堂、バー、ダンスホール、病院、警察まであるという正に「移動する町」、、のはずなのだけど、オナトラ号は10月から運航するとかで、おれはその船を見ることすらできなかった。

そもそも「オナトラ」は船会社の名前で、オナトラ港から出る船はみんなオナトラとコンゴ人は呼ぶので、結局何がオナトラ号で、そもそもそんな船が存在するのかどうかも未だによくわからない。




オナトラ号はなかったけれど、船は他にも多く運航していた。

おれが乗ったのはニャウェラ号という船だった。
「鋼鉄のイカダ」だの、「鉄板船」だの、かつてコンゴを訪れた旅行者は、これらの船をいろんな呼び方で表したけれど、それはなんてことはない、ただの艀(はしけ)だった。艀が2船と動力船、それが「鉄板船」の正体で、それがニャウェラ号の全てだった。

ニャウェラ号には食堂、バーはおろか、トイレが一応ひとつあるだけだった。
艀なので甲板には貨物が満載される。それはバス、自動車、炭、トウモロコシ、目の高さまである巨木、ヤギ、ニワトリ、、。
そしてそれらの隙間、あるいはその上に乗客がびっしりと乗り込んでいる。もはや人も貨物と変わらない。
そんな状態で人々はメシを作り、食べ、笑い、眠る。

船には当初百数十人、途中増えたり減ったりしながら、最終的には二百人以上の住人が生活していた。
その中で「白人」は自分一人だけだった。正に完全なるアウェー。




船の上には「プライベート」なるものは一切存在しなかった。
そもそもこの国にそんな概念があるのかもわからない。
おれの全ての行動は誰かに見られ、おれが食べたもの、おれが話したこと、その日のトイレの回数まで、何もかもが船におけるただ一つの娯楽である会話によって、船の隅々にまで知れ渡った。




船の上には「所有権」なるものもほぼ存在しなかった。おれが持ち込んだ七厘も鍋も包丁も、気付くと誰かが使っていた。
おれは誰かの七厘に火を起こし、誰かの鍋でコーヒーを入れ、誰かのイスを運んできてそれに座って飲んだ。
コンゴ人たちもよく、「おれのイスがない!!」だの「私の鍋はどこ??」だのと探していた。

おれの七厘には順番待ちができ、最後にはおれは料理を禁止された。
「おれがお前の分も作ってやるから座ってろ!!」

タバコに火をつけると誰かが来て半分持っていった。
コーヒーを入れると誰かが来て半分持っていった。
指を切って絆創膏を張ると、翌日には手や足を怪我した奴が数人現れた。
ペンも、マッチも、ライトも、何もかも「ちょっと貸してくれ」と言って持っていかれた。
そして逆に、タバコを吸っている奴のところに行くと、いつも吸い差しが回ってきた。
酒もご飯もどんどん分け与えてくれた。
それが船での暗黙のルールだった。




船の上には「自由」というものも存在しなかった。
何かを取り出すと誰かが持っていくので、おれは爪を切るのも、耳掃除するのも、水を飲むことですら気を遣った。

「沈黙は金」という考え方はこの土地にはなく、「沈黙は病気」と見なされ、とにかくいつも何か話すことを強制させられた。おれの周囲には常に質問の暴風雨が吹き荒れていた。
「それは何だ??」「どこ行くんだ??」「何してるんだ??」「何食べたんだ??」「どうしてだ??」「なんでだ??」、、。

おれは船の上でまともに日記を書くことすらできなかった。
船の上はとにかく退屈だろうと持ち込んだ洋書の本は一度も開かれなかったし、ヒマな時に歌おうと思ってウガンダで覚えてきた多くの歌も口ずさむことはなかった。




コンゴを訪れたことのある人なら知っているだろうけど、とにかく「白人」はタカられる。
よーーーく見てるとコンゴ人同士でも日常的に「金くれよ!!」「金なんてねーよ!!」なんて会話をしている。
これはコンゴの文化そのもので、それが面倒臭くもあり、気楽だったりもする。
けれど、なんだかんだで「白人=金持ち」の固定観念はどうしても根強く、気を抜くとすぐに「金くれ」だの「何かおれに買ってくれ」だのコンゴ人は言ってくる。
断ると「あいつの手は固い(ケチだ)」という評判が広まって嫌われる。一方で気前が良ければ、きっとちやほやされたのだろうけど、同時に軽くバカにされるというジレンマが待っている。




船は完全に閉じた空間だった。1人になる時間も空間も全く存在しなかった。敵を作ることだけは何としても避けなければならなかった。

何が起きても不思議じゃないコンゴ川。
去年通ったスイス人は民兵に船を銃撃された。
今年コンゴ川で誘拐されたスペイン人は、全身の体毛を剃られて解放された(呪術に用いるため)。
もちろん、いつマラリアやその他の意味不明な病気に罹るやもわからない。

船に敵を作るということは、精神的に楽しくないだけでなく、実際命の問題に関わりかねなかった。




こうして書くとただ辛いだけのように見える船の旅。
本当に、この国を心ゆくまで楽しんで、同時にコンゴ人も楽しませることができる人は、果たして何人いるだろう。




全ての条件をプラスに変える秘密のスイッチが船のどこかに必ずあるはずだった。
そしておれはその針の穴よりも小さいその答えを正確に撃ち抜くことができた。
それも運の力に頼らずに。この5年間ひたすら磨き続けた自分の力だけを用いて。




おれはニャウェラ号に魔法をかけた。キサンガニを出港する前から、キンシャサに着いてからも(そして多分今も)、ひたすら全力で魔法をかけ続けた。

イトゥリの森の中で旅路を別にした相棒が「食堂トーク」と呼んだおれの特技(?)は、それまで全く自覚していなかったけれど、いざ意識して使ってみると、絶大な破壊力を発揮した。




実際のところ、最初の数日間で船を制圧することに成功した。
おれの周りには常に多くのコンゴ人が取り囲んだ。
おれが船を歩き、誰かと話し始めると、すぐに人が集まってきた。少し離れたところにいるおじさんもおばさんも子供たちも、こっそり聞き耳を立てた。そして次の瞬間には見えない爆弾が炸裂し、爆風にさらされたコンゴ人の顔には笑顔の花が咲いた。

コンゴ人が投げかけてくる日本人への素朴な疑問、白人への皮肉や嫌み、何もかもを笑いに変えた。
白人嫌いのママも、金をタカりそこねたパパも、みんな友達となった。
コンゴ人たちはおれのことを「コメディエン」と陰で呼び、「あの白人はとんでもなく賢い奴だ」という評価が定着した。

最初はただ「白人」と呼ばれていたのが、気付くと「おれたちの白人」に変化していた。
川岸の集落に停泊するたびにおれに襲いかかってくる役人たちとも、乗客が一丸となって代わりに戦ってくれるようになった。
おれが「腹減った」とつぶやくと、近所のママがメシを届けてくれた。
腹が減ってなくても、船上を歩くとあちこちからメシに誘われた。
船のいろんな場所に、おれの嫁候補が自薦他薦共に頼んでもいないのに次々と現れた。




食に関して言えば、コンゴ川はおれにとって天国に最も近い場所だと言えた。
あらゆる食材が周辺の集落からピローグで運ばれてきた。
死にたてのサル、薫製にされたサル、生きた大量のイモムシ、ヘビ、カタツムリ、謎の木の実、1m以上ある巨大な魚、椰子酒、、、。

手漕ぎのピローグはエンジンで進む船に次々と強引に横付けされ、彼らはそれでなくても狭い船上をうろうろと歩いては売り捌き、売った金で服や石鹸、サンダルなどを買って去っていった(船には川沿いの住民のための店が存在していた。店と言っても甲板に商品を並べてるだけだけど)。

船の上では、至るところでいつも誰かが七厘で料理していた。
おれは途中から料理を禁止されていたけれど、やっぱりやりたいので、船を歩き回っては勝手に手伝った。
サルの毛を炙り、イモムシを煮込んだ。もちろんその間もトークは忘れない。
コンゴ人はとにかく金に渋いけれど、根は善良なので後で必ず分けてくれた。

ああ、サルがあんなに旨いとは。
脳みそから手の平、尻尾まで、骨だけになるまで食べ尽くした。
最後にサルの骨格を観察したり、いじって遊んでいると決まってコンゴ人に注意された。
「早く次のを食べろ!!」

あとヘビの旨さも筆舌尽くし難し。魚肉のようで鶏肉のようでそのどちらとも違う。
ヘビ革はうっとりするほど美しかったが、容赦なく調理されてしまったので食べた。旨かった。




おれは感謝の気持ちを形にしたくて、毎朝大鍋に大量のコーヒーを沸かして周りに配った。

コンゴ人はインド人やエジプシャンも裸足で逃げ出すほど大量の砂糖をコーヒーにぶちこむけれど、おれはコンゴ人と自分が双方満足できるギリギリの境界線を見いだすことに成功した。

そのコーヒーにも、もちろん魔法がかけられている。感謝の気持ちと、「またメシくれ!」という下心の混ざったコーヒーを彼らは喜んで飲み干した。

おれは白人のくせに金に渋いという評価をコンゴ人に下されていたが、コーヒーだけは別だった。
それでなくても疲れる船上生活、おれはいつも周囲を観察しては、疲労やストレスが溜り気味のママやにーちゃんを見つけて、こっそりコーヒーを振る舞った。

船は閉じた空間で、疲労や不満はすぐに伝染する。
住人は運命協同体で、一人でも疲れた奴がいてはならなかった。

それはおれが船の上でただ一つだけ仕事と呼んだ作業で、仕事を終えたあとコンゴ川を見つめながらタバコに火をつけて、コーヒーを味わう時間は、最高に贅沢な気持ちのいい時間だった。




船から眺めるコンゴ川はとにかく雄大だった。どんなに見てても飽きることはなかった。
広すぎる青い空、深すぎる緑のジャングル、そして大きすぎる夕陽がコンゴ川を真っ赤に染めたあと、透明で青い夜がやってくる。
白く輝く月が夜空に現れると、ジャングルとコンゴ川は青い世界に包まれた。




日没間もなく船の住人たちは寝静まる。おれはこっそりコーヒーを入れ、眠りに落ちるギリギリまで一人静かに青い世界に浸り続けた。
一人になれる時間、喋らなくてすむ時間は、夜のそんな時くらいだった。
コンゴ川の夜はどこまでも青黒くて青白かった。




川の景色も日々変化する。
あるところでは、支流、島、岸が入り乱れて迷路のようになった。
風が吹くと波が立ち(川なのに)、波は甲板を洗った。
誰かが「雨だ!」と叫び、振り返ると後方数百m向こうから真っ白な暴風雨が迫っていたこともあった。
またある場所では川は巨大な鏡となって空を映した。それはいつか写真で見たことがある南米のウユニ湖そっくりだった。




そんな川を、時おり向こうから同じ様な船がやって来てすれ違う。
時にはこのニャウェラ号が座礁して後続に追い抜かれたり、その船が今度は座礁してこっちが抜き返したり。
船が行き違うたびに互いの船の住人は総立ちになって腕を振りあう。
その向こうの船を見るたびにおれは思った。なんてひどい船なんだろう。
そして我が船を見回すと、快適だったはずの船は汚く、人で溢れかえっていた。
何が「移動する町」だ。これはむしろ「動くスラム」じゃないか。




結局、コンゴ川での船旅に特別な技術は何も必要なかった。
ポイに火をつける必要もなかった。
踊れば大ウケするのもわかっていたけれど、おれはただの一度も船の上で踊らなかった。

ただ話すだけでよかった。
現地の言葉に無闇に関心を示すことも、現地のメシを異常なまでに愛すことも、今までずっと普通にやってきたことだった。
あとは感謝の気持ちさえ忘れなければ、そもそもおれがこの船で負けるはずがなかった。

とにかく船上では話して話して話し続けた。
コンゴ人の思考パターンも喜びポイントも見切った。
その背景に存在する文化も吸収して、体の内部からもコンゴに近づいた。
そしてコンゴ人との果てしない斬り合いに勝ち続けた。
朝起きてから夜寝るまで、見えない刀を手に、近づくコンゴ人を全員斬って捨てた。
そして最後には、会話すら必要としない世界に足を踏み入れた。

それは、、「名前を覚える」ということだった。本当にそれだけでよかった。
ただ名前を覚えるだけでコンゴ人を倒せることにおれは気付いた。

毎朝船を歩き、そこに住む家族の名前を赤ちゃんに至るまで口に出して声をかけた。
おれが通ると船上に次々と笑顔の花が咲いていった。

そして住人たちからも見えない迫撃砲が撃ち返される。
「ヒロキー!!よく寝たか?」「コーヒー飲んだか?」「今日は何食べるんだ?」「私は今日ドゥンダ作るから後で食べに来なさい!!」

みんなの名前を呼ぶだけで、その日の安全と食事は保障されたようなものだった。




朝だけでなく、日中も名前を呼び続けた。
おれの「定位置」は甲板の端で、そこは住人の通り路となっていたので、日中もひっきりなしに人が通る。
そしておれはひたすら通りかかる住人の名前を呼んで声をかけ続けた。
みんなも口々におれに名前を呼びかけて通っていく。
そしておれはあの船に住む人々の名前を、恐らく誰よりも多く覚えた。




しばしばコンゴ人たちは暇つぶしにおれを試す。「あいつの名前は?」「じゃあ、あいつは?」
おれはいつも正確に答えた。呼ばれた奴は喜びを隠さない。そして周囲のコンゴ人は決まってこう言い合った「おれたちの白人は本当に賢い」




一方、途中から船に乗り込んできた奴は空気も読まずにこう言った。「おい白人、金くれよ。お前は白人だから金持ってるんだろ??」
直後にそいつは住人たちに説教された。「こいつはおれたちの白人だ。日本から来た旅行者で、こいつは何でも食べるんだ。彼のリンガラ語を聞いたか? うまいだろ? こいつはおれたちの国に来て、たった一カ月でリンガラ語を覚えたんだ。おれたちの白人は本当に賢い奴なんだ」
説教された奴はその場の空気に飲まれて感心しておれを眺める。そのタイミングで、おれはくるりと向き直り、彼の目を見てこう言った。「それで、お前の名前は何だ??」
そして彼もまた魔法にかけられ、翌日にはおれのことを「おれたちの白人」と呼んだ。




こうして魔法の威力は日々強化された。
ニャウェラという動くスラムの住み心地は最高に快適だった。
人だけでなく、太陽も、風も、雨も、川も、森も、サルも、イモムシも、船の牧師が毎日船上礼拝で口にするように、全てが神の祝福だった。いつまでも続く熱帯雨林の船路は、まるで楽園を旅しているような気分にさせられた。




船の上に自由は一切存在しなかった。
料理して、食べて、話して、寝る。それの果てしない繰り返し。
それ以外の行為の入る余地はほとんどなかった。
それ故に余計なものは全て切り落とされ、全ての時間がただ「旅」だけに費やされた。
そして、旅とは生きることそのものだと知った。




本当に全ての光景がカオスで、同時にミラクルだった。

キサンガニの出港時、岸壁と船から人々が本気で手を振り合った。ともすれば今生の別れもこの地では十分に有り得る。人々のとびきりの笑顔の中、少し悲しみを湛えた真摯な目が忘れられない。

食用に買われてきたばかりのヤギが、甲板で突然子ヤギを生んでしまったある午後の人々の驚きと喜びの表情も。

キンシャサ州に入るなり押し寄せたピローグの大群と、船の至るところで始まった商談。そしてスラムに乱れ飛んだ札束。

そして朝靄の向こうに突如現れた二つの首都、、。

とてもその全てを書き残すことなんてできない。




コンゴ川だけじゃない。イトゥリの森だってそうだった。

夜の森を相棒と二人で探検し、蟻の大群に襲われたこともある。
古い教会跡で官憲に賄賂を請求されて、とりあえず二人で踊りまくってうやむやにしたこともある。
森の中で雨にうたれ、ズブ濡れになってたどり着いた村で飲んだチャイがどれほど温かかったことか。

この国の旅を表すのに、「夏休み」以外の言葉が思い浮かばないのはどうしてだろう。




まるで終わりのない夏休みのように感じたこの船旅は、いつかの夏休みのように確実に終わりに向かって進んでいた。

最後に乗ってきたあるママが、おれと住人たちとのやりとりをじっくりと観察し、最後におれにこう告げた。
「みんな、あなたのことが大好きなのね」
おれはその言葉をもって勝利宣言とすることにした。

そして、キサンガニを出て11日で着くと言われた船は、当たり前のように遅れに遅れて24日後、首都キンシャサに到着した。




乗客が次々と降り、貨物が運び出され始める中、キサンガニからある船員に電話が入った。
それはキサンガニでできたコンゴ人の友達からだった。
「ヒロキ、キサンガニからだ!!」
「アロー、、エリケ!? おー、エリケか!?、、あれ、アロー? もしもし?、、」
「、、、もしもし、ヒロキくん?」
電話の向こうから聞こえたのはバファセンデで別れた相棒の声だった。
「ヒロキくん、今どこ??」
「今キンシャサに着いたところ!!」
まさか最初に報告するのが彼になるとは。




相棒の声が電話の向こうから響く。
「ヒロキくん、おれね、ダイヤモンドもらったよ」
「マジでーーー!!!」
「あとオカピも食った」
「オカピーーーー!!!!」
おれの反応を見て船員たちが笑う。
「で、ヒロキくん、船はどうだった??」
「船は、、楽しかったよ」
おれはとっさにそんな言葉しか口にできなかった。
そしてちょっぴり思った。おれの旅ってば、相変わらずなんて地味なんだろう。




おれが心の中で海賊王と呼ぶ人たちがいる。
彼らは数年前この国を旅し、森の中のとある村で計3回マラリアに罹り、その村に2カ月滞在した。
彼らはその村で破壊の限りを尽くし、最後に村人からダイヤをプレゼントされた。

おれの相棒は、村人たちの「あそこにはゲリラがまだいるから」という制止を振り切って森の奥地へと一人で歩いていった。
そして森の奥で「内戦が終結して、お前が最初にやってきたツーリストだ。これは何を意味するかというと、平和が本当に訪れたってことなんだ」と歓迎を受け、彼もまたダイヤを手に入れた。

そしておれは、この船で何を手に入れただろう。




結局いろいろな事情が重なって、おれはキンシャサの港で船にさらにもう一泊することになった。
船員たちもほとんど船を降り、貨物も運び出されてガランとした船の上で、おれは夜番の船員3人と共に残った。

昨日まで確かに人々が住んでいたスラムは、今やすっかり人気もなく、甲板にはトウモロコシの粒やら炭があちこちに散らばって荒涼としていた。

おれは一人、船上を掃除して回った。感謝の気持ちを込めて。
こんなアホみたいな旅行者が一人くらいいたっていいじゃないか。

それにしてもこの船、こんなに小さかったっけ??




船上を掃除していると、その場所に住んでいた人たちの声が次々に聞こえてきた。それぞれの声と顔と名前がどんどん心に浮かんでは消えていく。




イトゥリで森の中を歩き、かつて海賊王たちが長逗留したその村にたどり着いたとき、おれと相棒は村人たちに手荒く、そして手厚く歓迎された。

そして相棒が一人で訪れた森の奥の村も、次に行く日本人はきっと熱烈に迎えられるだろう。

だけど、おれがいたニャウェラというスラムには誰も行くことができない。




もしニャウェラが普通に村だったなら、次に来る日本人はきっとこう言われただろうに。
「おい、ジャポネか! コーヒー飲んだか? サル食うか? イモムシもあるぞー!!」




おれが住んだニャウェラというスラムは今や消えてなくなってしまった。
それを淋しく思うと同時にちょっとばかし誇りにも思う。
だって、かつての海賊王たちやおれの相棒はこの淋しさをきっと味わっていないだろうから。
おれは本当に贅沢者だなあとつくづく思う。




今日の最後はオリバーカーンの言葉で締めようか。
「本当に優秀なゴールキーパーはスーパーセーブなんかしない」
うん、そういうことにしておこう。




船を降りて既に二週間が過ぎた。
だけどおれはいまだに毎日あの船路のことを考えている。
いい風が吹くとコンゴ川を思い出し、月が輝くとコンゴ川を思い出す。




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4 コメント

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うーん (せりな・かんなのパパ)
2010-11-13 16:58:45
「おれたちの白人」面白いね。
アフリカには不況やリストラはありえね~し、広大ですごく奥が深そう。

ゲリラに注意やで!! 
何処? (極楽)
2010-12-17 08:34:01
今年の年越しは何処で?難しいやろうけど2010年の旅Best Sceneは何処やった?ブログウォッチャーのワシとしてはカタコンブの記述が圧倒的に1位、次点がコンゴ川下りやな。病気とかしてないか?
Unknown (さか)
2011-04-09 00:10:18
せりな・かんなのパパさん
はっはっは。不況も何も、仕事がないのがほとんど当たり前なので、みんないっつも金に困ってますよ!!
でもそれでもなぜかみんな生きているこの大陸の不思議さ。
アフリカは長くいても分かるようでなかなか分からないことが山ほどありますね。
確かに、奥が深いです。

極楽さん
年越しは結局アンゴラの首都ルアンダで迎えました。
なんでも原油が採れるとかで、近年急激な発展をしているようです。
内戦で発展が滞っていたのが今になって一気に都市開発されて、古きと新しきが一緒くたになったおもしろい景観の町でした。
2010年のベストはやはりコンゴ川下りですね。
ちなみにカタコンブに入ったのは2009年。個人的にどちらも甲乙付け難いところです。
懐かし。 (イガラシユキコ)
2018-11-17 22:26:21
1995.3〜私もザイール川を下りました!キサンガニからブンバまで丸木舟を漕いで下り、帰りはオナトラ号に乗りました。たった360キロでしたが、大変さは25年たった今でも鮮明に覚えています!

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