ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○「人生下り坂万歳!」って、いいね。

2012-04-10 15:23:21 | 観想
○「人生下り坂万歳!」って、いいね。

火野正平が、視聴者の思い出の場所について書き綴った手紙を読み、その地を自転車で訪れるという番組なんだけど、僕はかなり気に入っている。「ぶらりひとり旅」。僕が火野正平という役者を認識したのは、もうずっと昔のこと。関西ローカル番組で、「部長刑事」という30分もののドラマがあった。これは、リハーサルなしのぶっつけ本番の刑事もの。観ている者に、得体の知れない緊張感を感じさせ、また、ぶっつけゆえの、おかしな間があったりもする。それでもなかなか人気のある長寿番組だったのである。これに、当時は髪もふさふさの若い火野正平が、犯人役で出演したのが妙に記憶に焼き付いている。人間の記憶なんてほんと、おかしなものである。その時の印象は、イヤな役者だなあ、と感じたか?何となく崩れた感じの、どこかギラギラした野心満々の、役者というよりもやさぐれた若者という印象だった。その後しばらくは姿を消していた。勿論、僕の視野に入って来なかっただけで、役者としての活動はしっかりやっていたのだろうけれど。よくは知らないが、NHKの大河ドラマにも抜擢されたこともあるらしいから、見る人が見れば、彼に才能があったというわけなんだろう。

人の外見をとやかく言うのは失礼だけど、役者さんだから、それも引き受けていると勝手に解釈して、さて、僕の火野正平の風貌の評価は、サル顔だし、とてもイケメンとは云えはしないし、ワイドショーなんかでは、有名歌手や女優と浮名を流しているけれど、もうその当時は、髪も殆どなくなっていて、なんでこの人がもてるの?という素朴な印象批評からの、かなり否定的なものだったと思う。昭和の色男なんていう呼び名は、たぶん、週刊誌が皮肉って、おもしろがって名付けたものだろう、なんてね。

ずっと忘れていた火野正平が、還暦を過ぎて、少々老けたサル顔で、枯れた雰囲気を漂わせ、自転車をこぎ、視聴者からの手紙を、これまたいい具合に枯れた声で読むと、妙に心が癒される。こういう老いかたはいいね、と僕は思う。老いに抗わない老い方は、清々しい。「人生下り坂万歳!」と言い放つ火野の精神性は、老いの意義深さを感じさせもする。そもそも人間は、生まれ、若い活動期、壮年の円熟期を過ぎて、やがて老いる。昨今は、老いに抗うことばかりが話題になるから、まるで人の人生から老いる意味を奪い取っているかのようだ。元気に老いる。それはいい。そのためのサプリも、健康保持食品もよい。適度なトレーニングもよい。でも、よろしくないのは、このような風潮の中で、老いという精神性そのものが、否定されているという現実である。老いを、醜悪であると決め込んで、若さを取り戻すための方法論が、いろんな切り口から語られる。商売としての市場性も、老人の人口比率が高い分、確実に見込めるのだろう。だから、余計に老いを否定的に喧伝しなければ儲からないというわけなんだろうか。

宗教もこの意味ではアブナイ。特に新興宗教における終末論。オウム真理教は現世的な革命にまで踏み込んだから、潰れた。人間、理屈があれば、人も殺せる。ポアする側にもそれなりの論理が必要だったのだろう。生き残っている終末論的新興宗教の中には、この世界はエホバとサタンの闘いの場なんだというのもある。やがて、白馬に乗ったキリストが天下って来て、サタンに支配されたこの現世を滅ぼすのだそうだ。そして、人は信仰の度合いによって、永遠の生命を得るし、すでに死した人もつぎつぎと甦ってきて、永遠の神の世界を創造し直すのだそうだ。ここに老いという思想はない。おかしなものだな、宗教なのに、人間が生きていく過程の最終段階の、熟成期の老いと死を否定するなんて。村上春樹の「1Q84」の青豆が、両親に強要された宗教のモデルはたぶん、これだな。

「人生下り坂万歳!」という言葉を聞いて、それを単に開き直りの技術論だと思ってもいけない。開き直って、また、がんばるぞー!と云っていたら、老いて、弱って、若い頃には経験しようもなかったいろいろな不具合、不調の数々をこやしにして、目前に迫った死すら、老いという精神的熟成のための不可欠なファクターなんだ!と思えないではないか。無謀ながんばりはいけないんだ。その意味で、「人生下り坂万歳!」と心の中で密やかにつぶやくことにする。

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長野安晃


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