コペペ スタイル

コペペさんと言う先人のライフスタイルを想像し、小笠原のネイティブになるためのライフスタイルを伝えていきます。

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冒険するってこと

2011年05月16日 | カヌー カヤック





2010年11月23日 2時50分 4人のクルーはアウトリガーカヌーに乗り暗闇の海を静かに漕いでいた。時より雲が流れ満月が顔を出すといつも見慣れた父島の輪郭がはっきりと浮かび上がり鏡のような海面を滑るようにカヌーは進んでいた。
この冒険の結末がどんなことになるのか知らず、期待と不安を胸に、一かき一かき味わいながら4人の男は漕いでいた。
アウトリガーカヌーとはカヌー本体とアマという補助輪のような浮きをヤクという腕木でつなげた太平洋の島々に住むネイティブな人達の作る船、このカヌーがこの島で文化として根づいている。歴史の資料によれば1830年に欧米人4名と20数名のカナカ人(ハワイの人)がこの島に初めて住んだと言われている。欧米人の名前は全員わかっているのだけれどカナカ人の名前はどこにも記述がない。名前を残さなかった彼らがこのアウトリガーカヌーを残してくれたわけだ。つまり日本で唯一ポリネシア文化が根付いている島が小笠原ということになる。
しかし、現在アウトリガーカヌーを帆走したり漕いだりする人は皆無に等しくほとんどのカヌーには船外機が付いているのが現状だ。そこで扇浦の近辺に住む私達はアウトリガーカヌーの伝統航海を復活させるべく扇の要という意味で要会という会を3年前に発足させていた。2008年6月小笠原返還40周年の企画に乗って私達は小笠原のアウトリガーカヌーを使い父島母島間、往復120キロを漕ぎ25時間で渡った。そしてそれを映画にした実績もあった。



3時13分 べた凪の二見湾を抜けて野羊山の沖に出たころいよいよ南東の風が入る外洋へ出る。その前に私達はいよいよ今回のメインテーマである帆走のためのマストを上げることになる。何度も練習した成果が問われる時だ。各自持ち場に着きカヌーをひっくり返さないようにマストを立てセールを貼った。月の光でセールに浮かび上がるシーホースが南東の風を受け胸を張っている。南南西200度の方向にコンパスを会わせ暗闇の中を軽快に疾走する。帆走とパドリングを同時に行う。パドルは軽くカヌーは水を切り飛ぶように進む。
「これがやりたかったんだよな、真太郎!!」ステアマン(舵をとる男)の真太郎に声をかけると満面の笑顔で彼はうなずいた。



4時30分暗闇の中、南の方角を母島が見えないかと目を凝らすが水平線と雲だけが月明かりに照らされうっすらと見えている。そして少し東側を眺めた時、虹のようなものが見えて来た。おそらくあれがムーンボウ!月の明かりでできる虹なのだろう。50年以上も生きて来てはじめて見るものがまだまだあるのだなと関心する。
とにかく目標となる島が見えないため月との角度、風との角度、そしてうねりとの角度を利用して進路を保持していく。クルー全員の五感が研ぎ澄まされ、まさに伝統航海の端っこを感じさせてくれるひと時だった。
ポリネシアの民は見えない島へ渡る航海術を持っていたという。これは、航海士と呼ばれる人の総合的自然観察力に裏打ちされたものだと思う。だから航海士は航海中絶対に眠ってはいけないそうだ。
 戦前、母島へ帆走して渡ったという人がいた。ネケジーと呼ばれている名物じーさんだ。
彼の言うには、「上げ潮は西に流れ下げ潮は東に流れる。だから母島へ行くには上げ潮に乗って南西に行き島が小さくなるまで走り、下げ潮になったらタキシップ(タッキング)して東に流れて行けば母島にはすぐ着くよ!簡単ですよ。」という話だった。このことも実践してみたかった一つだ。
今日は満月の大潮周り、6時31分まで上げ潮流、まさにネケジーの言った通りのコースを南西に走っていることになる。ただし天気予報では東よりの風が吹くのは、日の出ころまで、その後は南風に変わるということだった。このアウトリガーカヌー カラマ号はVボトムでもなくキールもついていないため風に対して登って行くほどの性能は持っていない。つまり南風が吹いたらひたすらバドルで漕ぐ事になる。風が東よりのうちにどれだけ母島に近づけるかが到着時間に大きな影響を与える要因となるだろう。


 6時00分東の空が赤く色づき夜明けが近いことを知らせてくれる。
定時連絡の時間だ。那須が防水バックからイリジウム衛星携帯を出して電話をかけ3回呼び出して切る。しばらくして私の愛妻からこのイリジウム携帯に電話がかかって来た。
航海が順調なことを伝える。
今回の航海では保安署の指導によりイリジウム携帯を持っていくことが伴走船なしで母島まで行くための大きなファクターとなっていた。
しかし、この携帯がこの後起きる事件の立役者になるとは、誰も気づかなかった。
 6時05分 日の出、雲の合間からオレンジ色の光がカラマ号にあたる。4人のパドルはリズミカルに海の水をキャッチしカヌーは軽快に南西の方角をひたすら走り続けていた。




月夜の幻想的な夜の海は太陽の圧倒的な明るさによりリアルな昼の世界へと変わっていく。
帆走とパドリングの両方を使って4人の男は雲だけの見える大海原を走り続けていた。南東の風に吹かれかなり西の海上を走っているのだろう。すると雲が切れようやく目指す母島を拝むことができるようになった。
7:30 風が南よりに変わりこれ以上南を目指すには帆がいよいよ邪魔だと判断しマストをしまうことにする。もともと漕ぐことの方が得意なメンバーではあるが到着時間はかなりおそくなることをこの時覚悟する。



 大海原をひたすら漕いでいるとありとあらゆる方向からうねりや波がこの小さなカヌーにぶつかって来る。時より波長の長い巨大な北東からのうねりがやって来る。
これは、おそらく遥か北東アリューシャン列島で3.4日前に吹いた風でできた波、そして南の方からやってきた波長の短いうねりは、昨日の夜に南海上で吹いていたであろう南風のうねりだろう。こうやって考えて見ると太平洋という海で起きているいろいろな情報が(例えば誰かがどこかの海でおしっこをしたとか)縦横無尽に伝わっていることになる。もしそれを理解できる能力のある人がいたらの話ではあるが。
そんなことを考えていると西の海上に巨大な虹がかかり、なぜか大きな鳥がカヌーを目指し飛んできている。クロアシアホウドリだ!!すぐ近くまでやって来て私達の様子を見に来ている。小笠原に住んでいてもめったにお目にかかれない鳥だけれどなにかの力が4人の男と小さなカヌーと風とうねりと朝日と虹を今この場所に集わせてくれる。偶然のような必然のような大自然の中を私達は漕いで行く。

8:00定時連絡の時間、担当の那須が何度も掛けているのだけれども通じる気配がない
うねりという情報はあらゆる方向から届いているのだけれど宇宙からの電波はこの携帯に同調してくれないようだ。とにかくイリジウム携帯なるものがどんなものかも知らずにこんなものだろうと理解し、父島から母島の半分以上は来ていることをからとにかく進路をひたすら南に向け母島を目指した。この時連絡が取れなくてまずいんじゃないということを思ったメンバーがいなかった事の方がなぞかもしれない。とにかく4人の男の小さな能力はすべて、母島に到着するためだけにつまりパドリングだけに使われていた。
この後10:00、12:00の定時連絡もまったく同じ状態が続いたわけだ。
12:00微妙に風は南西に変化したことを感じマストを立て南東に進路をとることにする。帆走とパドリングによりカラマ号は軽快に走った。下げ潮流にも乗っていたのだろうあっという間に鬼岩の前までやって来てしまう。ここから沖港まではまだかなり距離がある。南風も考えれば4時間近くはかかってしまうかもしれない。そこで急きょ北港上陸に進路を変更する。ただし上げ潮流に変わり北港の入り口に恐ろしく早い離岸流が発生しておりなかなか北港に近づくことができない状況になっていた。そしてなぜか苦しくなった時、力を出し4人の力が一つになるための掛け声「どっこい!どっこい!」の掛け声が始まった。「どっこい!どっこい! どっこい!どっこい!!」



14:30 バリ漕ぎ1時間30分の後静かな北港の湾の中に入りゆっくりとパドルを合わせて漕いでいた。
15:00北港到着 最後の力を振り絞りゴロタ浜の北港にカラマ号を持ちあげ上陸、
自然界とのコネクションそして無事母島へ着けたことに感謝!!



しかし人間界とのコネクションはいまだに繋がらない。何度イリジウム携帯をかけても普通の携帯をかけても音信普通の状態が続く。母島北港はもののけのエリアなのだろうか。そんなことをしているうちに母島の警察の方がやって来て捜索願いが出され大変なことになっていることを聞く。パトカーからイリジウム携帯らしいものを出してくるがバッテリーが3本とも上がっているとのことでつながらず。衛星携帯とはそういうものかとあらためて納得してみるが、とにかく私が警察の車で町まで行くことになる。
 町の中に入りようやく借りて来た携帯から、自宅に連絡をとる。そして母島の友人に連絡をとり無事を伝え、車を借りて3人を迎えに行く。
 常日頃からカヤックのツアーに行くに当たり五つの感覚そしてともすれば第六感も交えて判断をして来ているが、携帯という7番目の感覚機についても普段から使いこなしていなければいざという時に役にたたないものなのだろう。
月ヶ岡神社という神社のお祭りということもあり、神社へ参拝に行きご迷惑をかけた方達にあいさつに回る。
翌日から捜索に関係した。村役場、保安署、警察、母島漁協、船主と理事のみなさん達をひたすらまわってお礼を言う。そして二日後定期船に乗り父島へ、もちろん父島でもひたすらお礼の行脚は続くのだけれど。4人の母島遠征はこうして終わりを迎えた。
この場を借りて捜索をしていただいた、母島漁協 父島漁協の皆様、北港からカラマ号を運ぶトラックを貸してくれた整備工場の高橋さん、捜索の船をすぐにだしていただきまた、カラマ号父島搬送に出港ぎりぎりで対処していただいたオキミツさん。その他いろいろバックアップしてくれたジャイアン、梅野さん、終始温かかった母島の人達ほんとうにありがとうございました。また応援サポートしてくれた父島の仲間たちそして家族の皆様大変ご心配をおかけしました。謹んでお詫び申し上げます。
最後に海の遭難はお金がかからないというのはうそで漁協の船が出ればチャーター料がそれなりにかかります。だいたい一日一隻十五万円程度で計算すればいいようです。
いけいけ中年パドラーにとってかなり安くしていただいた捜索費ではあるが高い授業料とたくさんの教えのあった冒険であった。
                      大航海時代に生きたかった男たちより

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