JAZZ喫茶
高校は志木にあった、家は赤坂だったから、一応六本木に出て、
高校は志木にあった、家は赤坂だったから、一応六本木に出て、
地下鉄で銀座、池袋に出て東上線で埼玉の志木に通うコース
(長いだろ~、もう途中でふけたくなるのは当然)
で、当然楽器を上手になりたい、プロの演奏を沢山見たい、と思ってる高校生には
ゴールデンコース、銀座にはacb,池袋にはドラム、
そして新宿に出ればラセーヌやACBがあった訳だ..、
勿論来日するバンドの公演にも見に行ったのだが、
(そう、VENTURES,やHOLLIES,ANIMALSとか)、
やっぱり距離が遠すぎた訳だ
いや何がって、つまり演奏能力とかアーティストイメージとかがさ
その点、此の時期のJAZZ喫茶は、GSが衰退していく時期でもあって、
新しい音を探って行こうという気概を持ったバンドは
沢山出演していた時期でもあった。
所謂NEWROCKと呼ばれた新しいROCKの形態、
そんな人気は今一つだけど
テクニックやステージングを勉強するのにうってつけの、
そんなバンドが沢山出演していたんだ
それも¥400でコーヒーやソーダを飲みながら演奏を勉強する事が出来る、
もうバンドのメンバーや友達と学校の帰り制服のままで、
(時にはさぼって昼の部とかも)足しげく通ったものだ。
銀座や新宿に行くと、時々思い出す、
ああ..今JAZZ喫茶みたいな店があったら結構楽しいだろうな..そう思うよ。
60、70年代、そして今迄で一番面白かったLIVE空間は
当時のJAZZ喫茶だと思うのだ.今のLIVEHOUSEとは若干構造も違うのだけれど..。
銀座ACBは中央に大きな柱があって、上はステージ
2バンドセッティングしてぐるっと回転する..
そして横に階段があってそこからステージに乗る..
下は確か池..上と下に客席があって
昼間の12:00からの部と7:00からの部の2交替制..
交互に2ステージずつ演奏する、だったと思う.....。
アンプで境界線作って二つに陣地を分割するのだ..
従ってドラムは背中合わせという状態になる..
赤いカーペットのステ-ジにはACのジャックがあってそこから電源を取る..、
勿論NO PA,それで階段の脇にヴォ-カルアンプをセッティングするのだ..
で、登場は横の階段から..奥の左手にトイレがあって..
もっと奥に行くとバンドの楽屋が二つ..その横から銀座の裏道に出られる..。
まあ..最初に入る時はどきどきする訳だ、
で、中は女の子が中心、でさ..居ずらいか..と言うとそうでもないんだ..
これが..まあ..此れは中々理解出来ないだろうけど..
つまりどのバンドにもファンの女の子がしこたまいる訳..で、
その中で特に目立つのが何人かいる訳さ..
その子達が、つまりさ..仕切る訳だ..
「男子高の男の子達のグループがあたしの好きなバンドを見に来てくれた..
あんた達そこ退きなさい」...って感じ(笑)..
つまりなんて言うのかな..
「男の子が来るのは純粋に音楽を聞きにきてるんだから!」って事さ..
それに男の子が見に来るって事は、
そのバンドが実力があるって言う証明な訳だ..
つまりさ..最初にそういう連中に「おう!」なんて声かけときゃ..
いつも特等席に座る事が出来たんだよ。
今思えば..下の階の池..
あれは日本伝統の能舞台の伝統を踏襲したものではないかな..
水瓶に依って音を響かせる..あれだ..兎に角響き渡るような音響だった..
あっ!ちなみに上のステージからギター持ったまま下の池に落ちて感電して..
失神したミュージシャンもいます.。
ぎゅうぎゅう詰めになって..池に押しやられた女の子達もいました..。
時には超人気バンドの(スパイダースやテンプターズ、)
ステージも見る事が出来たけれど、
僕らのお目当ては..例えばダイナマイツ、とかビーバーズ、とかスーナーズとか、
ドラムのフレーズを穴の空くような目つきでじっと見つめていたな、..
で、それは或る雪の降った日だった..
池袋で急に「今日は雪だからいいやね」って感じで、
友達数人と「JAZZ喫茶でもいこうぜ」って話になった.
.向かった先は「池袋ドラム」..出演の掲示を見て「お~っ!」と思ったよ..
な..なんと「ザ、ゴールデンカップス!」.やった!..
前から噂に出ていた超いかしたバンド、
そいつが..見れるなんて..俺達は興奮して中に入って行った訳だ
THE GOLDENCUPSat池袋ドラム
平日の昼の部..まして雪..JAZZ喫茶の中は俺達だけで..がらんとしていた..、
で、定刻になってメンバーがぞろそろと楽器を持って現れたんだ...
ちょっとチューニングをしていきなり演奏は始まった、
「BORN IN CHICAGO」..だったかな..
俺達はぶっ飛んンだ!..なあ..なんだ此のバンド、滅茶苦茶うめ~!..
一緒に行った俺達のバンドのベーシスト櫟(いちい)は
口をあんぐりさせて、俺にこう言ったよ
「なあ..あのベース早すぎて、なに弾いてるかわからねえ..すげえ!」って(笑)。
曲が終わると..普通のJAZZ喫茶のバンドは「どうもありがと~」とか言う訳だけど..
その日は、拍手もMCもなくてシーンとしてた..
おまけに演奏が終わるとアンプにもたり掛かって..
俺達に..つまり眼を飛ばした訳ですわ(笑)..
こ..こぇ~!まさにあの「いとしのジザベル」のシングルジャケットそのままさ..
不思議な物で、時さんのブーツの先が穴空いてたのを何故か今でも覚えてるんだ。
そして見た事も無いような楽器がピカピカにひかっていた..
BINSONのエコーチェンバー、ヴォ-カルアンプ、..
そして今迄聞いた事の無いようなレパートリー、バラバラのステ-ジ衣裳、
マイクはゼンハイザーだったと思う。
その時に使ってた楽器は.時さんがゼンハイザーのマイク、
マモルはグレッチの灰色のドラム、
(ヘッドに似顔絵の大きな漫画の顔が描かれていた)
コウちゃんはテレキャスの白、ブッチはギブソンSG,
マーちゃんは335フルアコベースだったと記憶している。
その日はポールバタフィールドブルースバンドの曲が多かったような記憶あり、
mcで「ブッチのサイドギターうるさいから」..とアンプを後ろに引っ込めて、
ふざけていたのを思い出す。
で、そのケネス伊東の「インザミッドナイトアワー」が良かった。
SPENCERDAVIS GROUPの「KEEP ON RUNNING」がラストナンバーで
終わった途端いなくなるのが早い事早い事..「サンキュー!」と言った途端
ステージにはもう誰もいなかったよ。
THE MOPS & THE DYNAMITES
モップスとダイナマイツはビクターからアルバムを出した時期、
シングルを出してからちょっとした時期に銀座acbに見に行った。
当然モップスはコスチュームはあのアルバムのままで
星さんはあのカラフルなショールをまいていたし、
メンバーもまだベースの村上さんが在籍していた時期。
なにより驚いたのはドラムのミキハルさんのセット、
あのサイケデリックカラーのパールのドラムをちょっと説明しにくいんだけど、
ステ-ジに横にセッテイングして横を向いて演奏していた事。
で、バスドラのヘッドは前を向いていた訳だから、
多分ペダルをクロスして踏んでいたんだろうと思う。
曲はアルバムの中の曲が多かった、
で、特に印象に残っているのが「孤独の叫び」エリックバードンかと思うぐらいの声量で
リーダー(ヒロミツさん)がSHOUTしていた。
ダイナマイツは勿論山口冨士夫の印象が強かったので(TVでは)
しかし意外にも瀬川さんの存在感に圧倒された感じだった。
当時ラヴィンスプーンフルなんてやるバンドはそうなかったので驚いたし、
ホリーズの「i can't let go」そしてミラクルズの「I SECOND THAT EMOTION」
「MERCY MERCY MERCY」が特に印象に残っている。
寺内タケシ&バニーズ銀座acb
銀座acbのステージ一杯に並べられたelkの巨大なアンプ、黒塗りの2バスドラム、
バニーズのセッテイングには圧倒された感じだ、
当時はまだそんな巨大なアンプ等は誰でも持っていた訳でも無く、
マ-シャル等が出現するのは70年代に入ってから..
つまりステージ一杯に並べられたアンプ類は
それだけでも圧倒するには充分な音量だった。
ステージの前半は黒塗りのモズライトを揃えたバニーズだけのステージ、
そして中盤に「テリーのテーマ」に乗って
寺内タケシさんが登場して来るといった塩梅だ。
音は本当にかっちりとまとまっていて..随分練習とかしたんだろうな...といった感じ
まあ..当時好きだったバンドは
まあ..当時好きだったバンドは
インプロ等で演奏がその時によって違うという感じだったけど、
バニーズは良い悪いは別にして..いっも同じ..
しかし..輪郭がはっきりしているというか..
勉強するには最適なお手本だった気がする。
で、JAZZ喫茶にGOLDENCUPSを見た後の事だったかな
俺達は帰りの電車の中で興奮して、「なあ..ああいう、感じの音楽やろうぜ..
今迄みたいな奴じゃなく..」なんて話をしたんだ。
その時、じっと黙ってた青木(ギター)がこう切り出して来たんだ
「なあ..恒田、俺よ~もう学校の文化祭だけじゃ満足出来ねえよ、
俺達で新しいバンド作ろうぜ、そんで知り合いが川崎のDISCOで
毎週金曜日にバンド捜してるから..俺達で出てみねえ~か」って..
「え~本当かよ、でもよ~俺達高校生じゃん..そんな処に出られんのか?」って言うと
青木はこう切り返した「大丈夫だよ..
そこバンドがいなくて困ってるみたいなんだ..
年ごまかしゃ解らねえよ、なあ..恒田!やろうぜ..」...
俺は正直ちょっとたじろいたよ(笑)..DISCOか~。
川崎21
俺達は始めて学校以外で演奏をする事になった..
メンバーは青木(G)に櫟(B)、そして青木の小学校の同級生、
M学院に行ってた上園って奴の4人、上園はギターにヴォーカル、
奴はKINKSなんかが得意で間奏なんかもろCOPYしてた..
歌も上手くて..俺のVOCALと2本立てで俺達は
そのDISCOに毎週出演する事になった。
親はどう説得したかって?それが..当時LUCKYだったのは
親父は家が区画整理で
赤坂から南青山に移転と言う事で頭が一杯だったんだろう..
「親父、毎週金曜日の夜、バイトしていいか~」って切り出したんだ..
親父は「何のアルバイトするんだ?」って聞くからさ..
「青木知ってるだろ~、築地の~、
あいつの知り合いの店で..商品整理みたいだ..」..
って言うと親父は「ちゃんと帰れるのか?」って聞くから
「終電で間に合うみたいだ」と言うとOKを出してくれたよ..
他の奴はどう言ったのか、そいつは解らんけど..。
21(ツェンティワン)は2バンドが代わる代わる
45分ずつ演奏を続けて行くシステムだった、
で、金曜日は俺達とTHE BEARSというバンドが出演した..
それ迄の文化祭の演奏とは違うぜ、興奮したな..目の前で踊っているんだ..
演奏も色々勉強したよ..BEARSのDRUMSは黒人の奴で、
目の前で演奏している訳だ(楽屋から見る演奏は又違った色合いさ)、
VOCALはジャンと言う人だったかな..レパートリーはTHE BEATLESが多かった.
最近解った事ですが此のベアーズ、
VOCAL(ジャン)以外はメンバーチェンジしたのかもしれませんが..
(DRUMMERは当時は黒人だったけど)、その後、デヴューしたらしいです、
「渚のドロシー」って曲で..バンド名はベアーズで変わらずでしたけど。
俺達はSTONESとかKINKS.,THEM,YARDBIRDS,ANIMALS.
そして生意気にもさ..R&Bなんかもレパートリーに加えていたんだぜ..
10:45分に俺達の出番が終わると速攻で帰る訳だ..東京に、、
そしてさ..そしてさ、何より嬉しかったのは毎月占めにギャラを貰えた事なんだ..、
幾らだったか..そいつは覚えてないけど..
高校生のお小遣いにはもう充分な額だったような気がするよ。
余談だけど別の日にはキャロルのジョニー大倉のバンドが出てたそうなんだ..
そいつはキャロルとのtourの時発覚したんだけど..
出演していた年代と時期が重なった訳だ..
ジョニーは「21!21!..本当かよ!21かよ!」って絶句してのけぞってたよ..
奴にも色々な想い出が詰まった場所なんだろうな..俺にとってもそうであるように..。
そうそう..次の日の授業中の眠さといったらなかったよ..
何度も先生に教科書で起こされるんだ、頭をパシーンって感じで
「恒田!又寝てるのか?」って感じで..
それで必ず放課後は課外活動をしなきゃなんないんだけど..
俺ほもう一刻も早く帰りたかったから..生物研究会を選んだんだ
しかし、色々な奴がいるんだと理解するには充分だった、
そこはさ..もうなんちゅうか..
一刻もここを早く出たいって思う程の部室の雰囲気でさ...(笑)、
で、なんで此処を選んだって言やさ..
俺の活動は与えられた事を一つやるだけですんだからだ..
どう言う事すりゃいいかって言うと..
帰りに木の側に瓶を埋めておく..
そして次の日の朝、その瓶を取り出して部室に持って行く、
それだけだったからだよ(笑)。
時代は
その高校生バンドはもういっぱしのバンドマンになってて(笑)..
色々な処から出演してくれなんてオファーも来たよ..
時には自分達でダンパを企画したり、仲間内では結構有名になってた..
で、そんな時にあるコンサートで知り合った
バンタンデザイン研究所って会社の人が
バンタンのテーマソングを作ってくれなんて依頼があってね..
それで4人で曲を作って録音した、始めてのオリジナルソングって訳だよね..
どこかのラジオ局のスタジオで録音して..出来上がった曲に、結構感動したりしてた..。
時代はGSが衰退して..アートロックとかニューロックという時代になって来てね、
俺達も金なんていうキーボードプレイヤーを加えて
新しい音でやろうなんて燃えていた頃なんだ...、
そんな俺達が3年生になった頃かな..或日練習してたら..
1年坊主が窓越しに練習を覗いている..「なんだ...お前等」..当然そう聞くよね..
すると奴等はこう言った
「僕らもバンドやってるんです、ちょっと見ていていいですか..」..
、まあ..先輩としては俺達の演奏でも見て勉強しろよ、なんて感じで(笑)
で、奴等はこう言った「今度慶応大学の文化祭で演奏するんです、
よかったら見にきませんか?」生意気な奴だな..
よ~し見に行く!俺はそう答えた訳だ..。
そいつ等は
ベースが松村、オルガンが大和久、そしてドラムが高橋幸広(笑)
でVOCALが東郷(後のBAZZ)で
バンドの名前はブッダーズナルシシーという名前だった
(凄い名前だ)、
で、当日俺は誘われて奴等の演奏を日吉迄見に行ったよ..で、驚いた(笑)。
曲はヴァニラファッジ、ドアーズだったかな..そりゃ..いかしたバンドだった、
で、後で聞いたら高橋の兄貴はフィンガースで
(え~っあの勝ち抜きエレキ合戦で優賞の!)
そのギタリストの成毛さんが今度フリーコンサートを企画している..と言う話だった..。
そいつは見にいかなきゃ..俺はそう思った..
時代はROCKコンサートへ.そんな頃だった..。
サンフランシスコのサイケデリックサウンド..まだ洋盤が出始めの頃で、
皆で買ったレコードを貸しあって聞いていた、
ドアーズ、エアプレイン、デッド、マザース、そして勿論サージェントペッパーに
サタニックマジェスティ、ス-パ-セッションなんて新しい形態にも刺激を受けたよ。
愛と平和
モンタレーやウッドストックと言ったROCK FESが何十万人規模で催されている、
なんて情報も当然入っていたし、日本中の若い奴等の関心もやはり、
新しい物の考え方、
そして社会構造の変化、そして新しいLIFE STYLEともあいまって、
音楽は、そしてROCKは当時の一つのステータスにもなっていた、
当然音楽の世界も..60年代に中心となっていた3分のHIT POPS中心の物から、
より表現力を伴う、MESSAGE性のある、
アーティスティックな物へと変化していったんだ、
それに呼応して..日本でも多くの人気があったバンドも解散して、
新しい方向へ向かいつつあった、
当然俺も、髪を伸ばして..
そういうエネルギーのある場所へは進んで足を向けて行った訳だ。
第一回japan ROCK fes'なんてのが開催されたのは此の頃だったと記憶している、
サンケイホールだったかな..当時は時間貸しの形態だったんだろう..
大幅に公演時間が伸びてそでで揉めてるなんてのが
客席からもありありと解る感じだったな..
10円コンサートなんてのも日比谷の野音で開かれてたし、
勿論外国からのバンドも公演に少しずつやって来た、
もう一つ一つのコンサートには色々と想い出が詰まっている..
バンドも当時はもう所謂アイドル系なんて感じが少しでも匂おうものなら、
そいつは観客からバッシングされたって時代さ..
今考えるとイデオロギーとか恐いよね、
もう全員が一丸となるって感じは凄い物があったんだけど..
勿論先導していたのは団塊の世代の方々..
僕らはそこまで叩かなくてもって思う位に..
時代の感じは急激に変わって行ったんだ。
人気のあったGSも次第に解散して新しいバンドも沢山出て来た..
PYGなんてのもその一つで、
スパイダース、タイガース、テンプターズの超人気バンドの
スター達が結成したバンドなんだけど、
信じられないよ..
もう出て来ただけでビール瓶の嵐さ..一晩で時代が変わる..
そういった状況を目の前で見ているんだ..
「所詮ブームなんてのはあっけないもんだな」..
そう感じさせるには充分だったよ..
でさ..はっきり言えばさ..音楽的な事とか、姿勢とか..
考えている事等の判断で判別された訳じゃないぜ..
単にさ..着ている物が綺麗、あるいは有名である..その位さ判断は.、
でもね..時代がまとまって動くpowerってのはさ..
その前じゃ本当に人は無力だなってそう思ったよ、
まあさ..gsの方々だって..
その前は歌謡畑の人にはそう思われただろうけどね...。
体制側、反体制側..此の判断だって..曖昧さ..
コンサートは無料でやるべきだ..とか(笑)、
コンサートで儲けちゃいけない訳さ..
でもさーこちらは演奏してお金もらっててるんだよね.
矛盾だらけ...ほんとにDAYS of CONFUSED..
なんか..空気が本当にどよっとしていた気がするな。
ミュージカルHAIR
そんな頃ミュージカルHAIRは当時のスーパーバンド、
タイガースを音楽面の方向性の違いからって理由で脱退した
加橋かつみさんをフィーチャーして、
当時の天井桟敷の深水や小坂忠さんなんかが出演してた、
もう..当時のヒッピーや風月堂なんて喫茶店にたむろしていた連中が総出演、
幸広の兄貴の関係でエイプリルフールの人達に紹介して貰ったり、
その時に立川直樹も確か紹介して貰った記憶がある。
..後にガロに入る大野真澄もファーイーストの宮下文夫なんかも出演してたっけ..
まあ..その頃の俺はそう言った面白いEVENTには直々顔を出していた、
勿論その頃始めてのフリーコンサートが日比谷野音で催された..
ちょっともうどんなバンドが出演していたか記憶に無いんだけど.
そんな一連のコンサートの中で.只一つ、成毛さんと角田ひろのバンド、
これは印象が残っているんだ、ギターが山口冨士夫、そして横で変な麻袋を着て、
髪の長い男が踊っていた..それは記憶にあるんだ、
それからちょっとして俺はそいつらと....。
まあ..前述の高校生バンドは各々違う学校へ進学と言う事になった、
最後のコンサートは東さんと言う天井桟敷関係の人の紹介で
渋谷の小屋で演奏した..
で、その時幸広が「先輩の細野さんが新しいバンド作るから
メンバーを捜しているみたいだから..恒田さんの事話ときましたんで、
当日行くかもしれませんけど.よろしく」と、..
そしてその日確かに細野さんが俺達のバンドを見に来た..
じっと腕組みして見ていたから、俺もはっきりと解ったんだけど..
その後「はっぴいえんどに..」のお声が掛からなかったから..
多分はっぴいえんど向きのDRUMじゃなかったんでしょうな..(笑)。
で、もうその頃は高校を卒業して俺はN大の放送学科に入学していた..
そう、俺はアナウンサーに将来なりたいな..そんな希望を持っていたんだが..
でもね..その頃の大学、入学して登校してもさ..
ロックアウトで中に入れないんだ.よ..
学園闘争は佳境に入って行く訳なんだ..「何の為に..」正直白けたよ..
で、シアトルの叔母の処へ遊びに行って、1週間で日本に帰って来たら..
あの電話が俺に掛かって来た訳なんだ..
その時、俺は19才になったばかりだった。