裸分の村八分
俺は又やるよ..
70年の始め、わずか一年半の出来事だったけれど、
今でも鮮烈にチャー坊のあの時の言葉を、俺は時々思い出すんだ。
村八分やめてさ..東京でバンドやってた時も何か気になってた..。
1973年、チャー坊や冨士夫ちゃん、青木君の村八分が
有名になって行くのを俺は、
東京で噂は聞いていたんだ、
俺の後に入った上原ゆかりっていうドラムの奴はまだ高校生だけど、
かなりいいという噂も聞いた。
でも村八分のそのイメージや、
お化粧したバンドの写真なんかを雑誌でよく見たけどさ、
何か.....、俺が知ってるチャー坊とか冨士夫ちゃんとはちょっと違うんだよ、
いつも「恒田なあ~、ええか」なんて説教してくれてね、
そして照れてはにかむ姿しか俺は覚えてないんだ。
それから何年かして、ハルオフォン止めようかどうしようかな、なんて考えてた時、
フッと懐かしくなってね、チャー坊に電話したんだ、
(あの時の事があったからね、ちょっとためらったんだけど....)
「おう..恒田け、久しぶりやな、お前、東京でやっとるんよね..
頑張っとんな、なんていったっけ?お前のバンド?」なんて
思いがけずに喜んでくれてね、
もうその頃は村八分は消滅してたんだけどね、
「わし、又やるつもりや..」電話の向こうでチャー坊は俺にそう言っていたよ。
でもさ、あの頃のミュージシャンはもうほとんどいなくなっちまった、
今でも現役でやってるなんて、ほんの一握りさ、
だから俺はチャー坊や冨士夫ちゃんの言ってた事が今になってね、
ちょっとは解るような気がしてるんだ。
2003/8自宅Mac前にて、チャ-坊へ.... from your first drummer
Back to 1970
六本木アマンドで富士夫ちゃんに会ったんだ。
或日、立川直樹(ミック)から電話があってね、
「ダイナマイツやめた富士夫が、新しいバンドのドラマー捜してるから、
会ってみないか?」って事だった、
ミックはシャープホークスのベースをしてたんだけど、
その頃評論家の道を歩き始めたばかりの時だったかな。
俺は当時まだ19歳、アマチュアのバンドで演奏をしてた頃だから、
ダイナマイツの山口冨士夫なんて、名前聞いて飛び上がったよ、
「えっ!あの冨士夫さんがかい?
だっていっぱい、一緒にやりたがってるプロの
うまいドラマーがいるんじゃないの?」俺は当然そう聞くよね..
答えは「なんか、そういうドラマーじゃ駄目だそうだよ.」
それで俺は会う決心をしたんだ、当時のスーパーギタリスト山口冨士夫にね、
いや勿論俺なんかじゃ無理だろうなってのは心の中で思ってたよ。
昔からよくダイナマイツは見に行ってたんだ、学校さぼってね、
池袋のドラム、新宿ラ.セーヌ、ACBなんてJAZZ喫茶だな。
クリームソーダ400円、女の子達はテンプターズとかタイガース、
だけど俺達はゴールデンカップスやダイナマイツさ、
お客も少なくてね貸し切り状態だったよ、
特にね大雪の日の、昼の部なんか本当に乙なもんだった...、
ダイナマイツには一人、口の悪い、そして足の悪いSTUFF(ボーヤ)がいてね、
よくステージからこう言われたんだ..
「オーッ!又さぼってんのか?学校行けよ!学校!」
10代のガキの頃だよ。
指定して来た場所は六本木のアマンドの二階、
そこで直樹と待ってたら、現れたんだ..
冨士夫ちゃんが、アーミー服によれよれの紫のジーンズ、アフロヘアさ、
ギブソンの335だろうなギターケース持ってた。
話しの内容はこうだった、>ドラマーを捜している>
活動は京都が中心になる>もう一人ギターがいる、裸のラリーズの水谷君>
ヴォーカルはアメリカから帰って来たチャー坊って奴、>
ベースはまだ決まってないが、心当たりはある>以上だ....。
それで終わりかと思ったら、富士夫ちゃんがこう言うんだよ、
「今日、何かある?」ってね..
「何もない」って答えたら、ちょっと、一緒にやってみないか、それじゃって事で
そこで直樹と別れて、俺達は地下鉄に乗って新宿御苑に向かったんだ..
1970年の始めの頃さ。
MONA(I NEED YOU BABY)
途中でイラストレーターの石丸忍って奴と合流してね、
其れからSOUL EATっていうROCK喫茶で時間潰して、
新宿のサンダーバードってDISCOに行ったんだ。
そこでは後にスマイラーってバンドの
ヴォーカリストになるJOYって奴の
ヤードバーズってバンドが演奏してたんだけど、
そのステージに俺と富士夫ちゃんは呼ばれて乗った、
するとこう聞いて来たよ
「ストーンズのMONA知ってる?」「ウン..」
俺はすぐさま、あのフレーズを叩いたんだ、
演奏は10分位続いた、俺は「スゲエ!」って思ったよ、
ギターのリズムがどんどん周りを動かして行くんだ、
乗り遅れまいと俺も必死に付いて行ったそんな感じだったな。
「もう一曲いいかな?」冨士夫はジョイにそう言って
ギミサムラヴィンのリフを弾き始めた。
そのJAMが終わって、一枚の紙切れが俺に渡されたんだ。
>「京都FREE GATE (TELEPHONE......)加藤」
東京駅発夜行列車
学校はその頃紛争のまっただ中さ、バリケード築いてあってね、
当然中には入れなかった、
それでも家を出るのにはかなり勇気が必要だったよ、
冨士夫ちゃんとは「一週間位の間にこっちに来て欲しい、俺、先に行ってるから」
そう言い残されて別れたんだけど、
必死になって親を説得して、なけなしの金掻き集めて、
やっと京都行きの夜行列車の切符を手に入れたんだ。
発車のベルを聞いた時、なんか無性に不安になった、
俺これからどうなるんだろう?ってね。
学校は芸術学部に行っててね、割と自由な環境の中にはあった、
でもさ..京都でやるって事はいわゆるDROP OUTに近い状態になるって事だろ、
それに当時の京都はいわゆる遠い所、やっぱり勇気が必要だったよ、
でもさ、プロのドラマーになりたい、そんな心がそれを打ち消してくれたんだ。
FREEGATE
次ぎの朝早く、京都に着いて、俺はパンと牛乳を買って、
紙切れの電話番号に電話した、
電話が繋がりゃいいけど...。
だからさ今考えるとさ、ほんとうに子供だよね、
前もって連絡しときゃいいんだ、出る前にさ、そんな事も解らないでさ、
もし此の電話番号間違ってたらどうするんだろう?
そんな事は頭の片隅にもなかった、
でもまあ良かったよ、すぐに繋がったんだ。
「はい..フリーゲートです~」「あの、俺、今京都駅にいます」
「ああ..ああ、ふじおちゃんから聞いとるでえ~もうついたんかいな~
ほな待ってて、迎え行くから~」
それは始めて聞いた京都弁、連れて行かれたのはフリーゲート、
それから1年間、俺はそこで暮らす事になるんだ。
飲み屋の二階の二間の事務所、不思議な空間だったな、
まず一体此処は何の仕事をしているのか?此の加藤さんという人は、何者なのか?
何も解らぬままその晩、俺達は初めてそこで全員で顔を合わせたんだ。
午後、突然フリーゲートのドアが開いてさ、みんなが来て、
冨士夫ちゃんに紹介して貰ったんだ。その時の印象はさ...、
チャー坊..髪は腰まで垂れ下がっている、
水谷君..全身黒ずくめ、黒サングラス、同じく、髪は腰まで、
青木君..チョンマゲ、ボンタンジーンズ....。
そんな感じで俺はどうしていいかためらっていたら、「ホナ..行くけ..」
チャー坊がそう言って唐突に立ち上がったんだ、
そして俺達はゾロゾロと夕暮れの河原町に出て行った。
向かった先はバチバチというDISCO、やったのは水谷君のオリジナル、
どんな曲だったかは悪いけど全然覚えてない、
兎に角演奏中チャー坊はずっと踊ってた、
ベースは、
聞いたんだけど青木君はその時始めてベースを持ったそうなんだ、
だから何も音がしない時が後で沢山あったのを覚えているよ。
夜チャー坊が帰ってから、冨士夫ちゃんと青木君と俺で色んな曲を練習したんだ、
青木君は必死にコードポジションを富士夫ちゃんに教えてもらっていたよ。
意外だったのはチャー坊がいる時はストーンズの話しばっかだったんだけど、
青木君はキンクスとかラヴィンスプーンフルが好きなようだという事、
そしてなによりも富士夫ちゃんのブルース、練習するより、ずっと聞いてたいな、
そんな気持ちにさせてくれたんだ。
その頃皆でよく聞いていたのはさ、チャー坊がいる時は「LET IT BLEED」、
あとね「チェッペリンはショックやな」なんてチャー坊はよく言ってたよ、
「DE JA VU」「IT'S a BEAUTIFULL DAY」「BLIND FAITH」なんかが
よくターンテーブルに乗ってた。
意外なのはさ..「はっぴいえんど」意外だろ、チャー坊がだぜ、
「こいつだけはきまっとるな...」なんて言って、
細野晴臣の写真指差して誉めていたよ。
フリーゲートにあるものは、でっかいステレオセット、ベット、加藤さんの机、
隣の部屋はベットと流し、トイレ、後はジュウタンが挽いてあってね、
俺達はいつもそこでゴロゴロしてたんだ。