芸術の力学

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アラン――思想としての文体(五) 結語

2017-09-02 | 文学
  結語

「精神は真理のための手段であってはならない」(『我が思索の跡』)
 絶対的真理の探究という甘美な罠を、アランは警戒した。今、現に、ここにある自分――完全さを備えておらず、常に誤る可能性を持った自分――と無関係に、彼岸にある真理など、求めようがないからであり、遥か彼方に在る究極的なものを求めるあまり、不完全な己をどうするかという常に目の前に提示され続ける問題に、目をつぶることになってしまうからである。精神は何ものにも、たとえ真理にであっても、隷属してはならない。もし仮にそうなってしまえば、精神は、何ものも思考せずにただメカニズムに従って動く計算機のようなものとなって、もはや精神は精神ではなくなり、真理ももはや真理でなくなってしまうからである。真理は決して外的な秩序として、受動的に与えられるものではない。
 それ故、真理は物のようには所有されない。我々は常にそこに立ち返ろうと意志しければならない。アランは、古人の思想の再発見に努めた。しかしそれは、現実世界とは断絶した古典美の世界を憧憬するロマン主義者達の姿勢とは、明らかに異なる。古人から得た思想を、己の現実世界における行動原理となし得た所にアランの独創性がある。アランにとって、古人の思想を再発見することは、人間性の根源に立ち返り、古人の思想を己の生き方の問題として考えることであった。
 その己の生き方の問題とは、今、現に、ここに在る自分という存在を、いかに働かせるかということであり、己の愚かしさや目の前の障碍を、いかに克服するかということである。そして、そうした地道な過程の中にこそ自由があると、彼は信じた。障碍から離れることは、決して自由に近づくことではない。彼は、己の自由な判断を求めて、自ら志願して一兵卒として従軍したのである。何ものにも隷属することの無い自由な精神が、絶えず自身の誤謬や外的な障碍を乗り越えながら進む意志的な活動にこそ、真理に通ずるものが在る。こうしたことは、誰もが、各自の生活上の仕事において、行わなくてはならないことであり、そうした点で、この真理は普遍的な意味を持つと言えよう。
 実生活において止めどなく押寄せて来る諸々の雑事を、精神にとって無意味な障碍と感じ、日常というものを、厭世家の眼で眺めたくなることから人を救う力を、アランの文章は持っている。それは、アランにあっては、その表現の「姿」――文体、執筆態度――そのものが、彼の思想であり、そして、思想とはまさしく彼の生き方そのものであったということに他ならない。

『清風紀要 第十五号』[平成十七年二月刊]所収『生き方としての文体』を改題の上、掲載



使用テキスト

Alain, les arts et les dieux, Bibliothèque de la Pléiade
Les passion et la sagesse, Bibliothèque de la Pléiade
Propos 1 et 2, Bibliothèque de la Pléiade

なお、引用の翻訳に関しては、以下のものに拠ったが、文体・訳語の統一のため、改めた所がある。
『アラン著作集 第七巻 教育論』八木訳、白水社
『アラン著作集 第八巻 わが思索のあと』田島節夫訳、白水社
『精神と情熱とに関する八十一章』小林秀雄訳、東京創元社
『芸術に関する一〇一章』齋藤正二訳、平凡社世界教養全集十二
『信仰について』(『宗教論集』)松浪信三郎訳、角川書店
『デカルト』桑原武夫・野田又夫訳、白水社

引用文献
 『本居宣長』小林秀雄、新潮社

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