芸術の力学

芸術・文学・言語

アラン――思想としての文体(五) 結語

2017-09-02 | 文学
  結語

「精神は真理のための手段であってはならない」(『我が思索の跡』)
 絶対的真理の探究という甘美な罠を、アランは警戒した。今、現に、ここにある自分――完全さを備えておらず、常に誤る可能性を持った自分――と無関係に、彼岸にある真理など、求めようがないからであり、遥か彼方に在る究極的なものを求めるあまり、不完全な己をどうするかという常に目の前に提示され続ける問題に、目をつぶることになってしまうからである。精神は何ものにも、たとえ真理にであっても、隷属してはならない。もし仮にそうなってしまえば、精神は、何ものも思考せずにただメカニズムに従って動く計算機のようなものとなって、もはや精神は精神ではなくなり、真理ももはや真理でなくなってしまうからである。真理は決して外的な秩序として、受動的に与えられるものではない。
 それ故、真理は物のようには所有されない。我々は常にそこに立ち返ろうと意志しければならない。アランは、古人の思想の再発見に努めた。しかしそれは、現実世界とは断絶した古典美の世界を憧憬するロマン主義者達の姿勢とは、明らかに異なる。古人から得た思想を、己の現実世界における行動原理となし得た所にアランの独創性がある。アランにとって、古人の思想を再発見することは、人間性の根源に立ち返り、古人の思想を己の生き方の問題として考えることであった。
 その己の生き方の問題とは、今、現に、ここに在る自分という存在を、いかに働かせるかということであり、己の愚かしさや目の前の障碍を、いかに克服するかということである。そして、そうした地道な過程の中にこそ自由があると、彼は信じた。障碍から離れることは、決して自由に近づくことではない。彼は、己の自由な判断を求めて、自ら志願して一兵卒として従軍したのである。何ものにも隷属することの無い自由な精神が、絶えず自身の誤謬や外的な障碍を乗り越えながら進む意志的な活動にこそ、真理に通ずるものが在る。こうしたことは、誰もが、各自の生活上の仕事において、行わなくてはならないことであり、そうした点で、この真理は普遍的な意味を持つと言えよう。
 実生活において止めどなく押寄せて来る諸々の雑事を、精神にとって無意味な障碍と感じ、日常というものを、厭世家の眼で眺めたくなることから人を救う力を、アランの文章は持っている。それは、アランにあっては、その表現の「姿」――文体、執筆態度――そのものが、彼の思想であり、そして、思想とはまさしく彼の生き方そのものであったということに他ならない。

『清風紀要 第十五号』[平成十七年二月刊]所収『生き方としての文体』を改題の上、掲載



使用テキスト

Alain, les arts et les dieux, Bibliothèque de la Pléiade
Les passion et la sagesse, Bibliothèque de la Pléiade
Propos 1 et 2, Bibliothèque de la Pléiade

なお、引用の翻訳に関しては、以下のものに拠ったが、文体・訳語の統一のため、改めた所がある。
『アラン著作集 第七巻 教育論』八木訳、白水社
『アラン著作集 第八巻 わが思索のあと』田島節夫訳、白水社
『精神と情熱とに関する八十一章』小林秀雄訳、東京創元社
『芸術に関する一〇一章』齋藤正二訳、平凡社世界教養全集十二
『信仰について』(『宗教論集』)松浪信三郎訳、角川書店
『デカルト』桑原武夫・野田又夫訳、白水社

引用文献
 『本居宣長』小林秀雄、新潮社


アラン――思想としての文体(四)「文体と死者崇拝――祖述の思想」

2017-08-26 | 文学
 アランの『デカルト』という書の中に、次のようなくだりがある。
「かかる崇高な心の動きに代わりうるものを与える要約などというものは決してあり得ない。それよりもむしろ我々は、あたかも師匠の身振りや声音を模倣し、かくして無意識のうちに、己の最初の思想に身体的自然的な支えを与えるあの弟子達のなすように、この思想に耽るデカルトの風貌を心に描きつつ、いかなる状況をも無視することなしに、我々自身もまたこの点に瞑想を試みよう」(『デカルト』)
 思想を論ずるに当たって、「師匠の身振りや声音を模倣」する「弟子達のように」、「デカルトの風貌を心に描きつつ」などという批評態度は、現代の研究者や評論家達の中には、何と主観的で非科学的な研究態度だと、一笑に付する者もいることだろう。事実、知的領域における時代の趨勢は、アランの取った批評態度とは正反対の方向に進んでいるようである。
 近代の学問は、自然科学の方法をモデルとして、その厳密性・実証性に憧憬を抱いて進んできた。人文科学も、他の諸科学に比べると出遅れたものの、例外ではなかった。十九世紀になって、実証主義哲学の祖と呼ばれるコント(一七九八~一八五七)は、社会学という学問を新たに創り、人間知識の全領域の実証化を目指した。文学においても、近代批評の確立者、サント・ブーヴ(一八〇四~一八六九)が、人間精神の客観的な諸条件の精密な検討によって、「精神の博物学」を打ち立てようとし、テーヌ(一八二八~一八九三)、ルナン(一八二三~一八九二)といった批評家達が、その精神を継承してそれぞれのやり方で実証主義批評を展開した。その後も現代に至るまで、こうした科学的批評は、形は変わっても、ますます盛んになり、文献学、史的唯物論、精神分析学、統計学など、様々な科学的方法が導入されている。こうした時代の流れからすると、アランの批評態度は、時代遅れの前近代的な方法だということになろう。
 しかし、こうした時流の中でこそ、アランの批評態度はますます重要な意味を持ってくるのではないだろうか。アランは、その当時流行していた実証主義批評に対して、一貫して批判的であった。実証主義批評は、文学における科学的手法の導入の先駆けであり、作家の書簡や日記、その時代の社会制度や風俗など、その作家に関する膨大な歴史的資料から、作品を科学的に分析しようとするものである。それに対してアランが厳しく批判したのは、そうした批評が、作品を分析する主体である自分にとって、その作品がどういう意味を持つのかという、作品鑑賞上の根本問題を等閑に付する点である。そして、この批判は、彼の後世にさらに発展した形で現れた種々の科学的批評に対しても当てはまる。それらは全て、作品を分析の一対象と見做し、作品と己との内的な関わりを問題にしようとしないからである。
「当時、私にとって、不快だったことは、思索を自負する人々が、熱くなることもなく、これらのテキスト(過去の哲学者の著作)をひねくり回していたことである。それ以来、私に分かったことだが、殆ど全ての人の関心事は、新しい哲学を見出すことであり、これでは、古代の哲学者は、批判されるべきものに過ぎなくなる。私はと言えば、新しい哲学を発見することが可能であるなどとは、一度も思ったことがない。最も優れた人々が言おうとしたことを再発見できたら、私にはそれで十分であった。まさに再発見することこそ、最も深い意味において発明することなのだ。なぜならそれは人間を継承することだからである。」(『我が思索の跡』)
 ここには、昔から使い古された日常語に込められた思想を再発見するという姿勢と同じものが、そのまま見られる。彼は新しい哲学理論を構築するよりも、古人の哲学を再発見することに努めた。ここから、アラン自身、自分に独創性が無いことを認めているではないかと言うことほど、不注意な誤解は無い。彼が新しい哲学理論を築こうとしないのは、それ以上に求めるべきものがあったからであり、その意志にこそ、彼の独創性が有る。情熱を伴わぬ単なる知的理解によっては、その思想家の根底にあるものは捉えることはできないと、彼は考えた。
 こうした考え方が、彼の祖述的な文体を生んでいるのである。祖述とは、師や先人の思想を受け継いで、そこから自分の意見を述べることという意味であるが、批評界や研究の世界においては、あまりよい意味では使われず、いわゆる「受け売り」と同じような意味に取られ、オリジナリティーが無いということを意味する。それは、対象を分析の一対象として捉えようとする近代科学に影響された見方である。対象を全的に受け入れるべきではなく、対象と自分との差を明確にして、論じなくてはならない。賛嘆や尊敬といった主観を交えて対象を見ることは、対象の姿を歪めることであり、あくまでも客観的に対象を捉えることが真の対象の姿を知ることだ。それ故、単に対象の優れた点を述べるばかりでなく、批判もしなくてはならない。こうした考え方が、現代の批評界を覆っている。
 先にも述べたように、アランは、そうした人間理解の方法を斥ける。
「死者が生者を支配する」、「死者達の増大する重みは、絶え間なく働いて、我々の不安定な生存を次第によく統御してゆく」  このコントの言葉をアランは重んじた。この思想は、我々を呪縛する死者の霊力などというもののことを言っているのではない。あくまでも、生きている我々の意志の問題なのである。アランは次のように説明する。
「コントは、先ず現在における協力関係だけでは社会を定義するのに十分でないことを認めた。社会を形成するのは、過去から現在への繋がりである。だが、事実的なつながりでも、動物的な繋がりでもない。人が人と共に社会を形成するのは、人が人から相続するからではなく、人が人を記念するからである。記念するとは、死者達、しかも最も偉大な死者達の内に在った最も偉大なるものを甦らせることである。それは、このように純化された像に、出来る限り順応することである。それは死者達がそうありたいと念願していたと思われるもの、まれな瞬間だけ彼らがそれに到達し得たようなものを崇拝することである。偉大な作品、詩、記念建造物、彫像がこの崇拝の対象である。偉大な死者達への讃歌は絶えることはない。この偉大な影のもとに隠れ家を求めぬ著述家や雄弁家は無い。その一行一句に彼らは、あらゆる国語の中に刻まれている人間の天分のそれらの痕跡によって、別に意図することもなくあの偉大な死者達を呼び起こすのである。人が人であるのはこうした礼拝によってなのである。」(『教育論』)
 コントと言えば、先に述べたように、実証主義の祖などと言われるが、彼の思想はそれだけでは捉えきれないものがある。多くの研究者達は、コントの思想を、前期と後期に二分し、前期の実証主義を高く評価する一方で、後期の思想を神秘主義として、まともに取り上げようとしない。要するに、彼らは、実証主義という、時流に即した便利なイデオロギーを、コントの中に読み取ったに過ぎなかった。アランは、そうした見方を斥け、前期と後期で一見分裂しているかに見える、その思想上の困難にこそ、コントの独創的な思想があるのであって、それを捉えることが肝要であると考えた。先に引用したコントの言葉は、人々にあまり評価されない後期の思想のものであるが、アランは、ここに、人間理解に関する重要な思想を読み取った。
 過去の偉人達が、事実上、人間として偉大であったか否か、それは最早彼らが存在しない以上、我々には知りようもないことである。それは単に伝記的資料の不足だけが問題なのではない。資料の発見によって彼らの実生活の一部が明らかにされたとしても、事情は同じことである。生前の彼らを在りしままに知ることは、時代の隔たった我々には不可能であり、それでよいと、アランは考えた。伝記的事実の詮索よりも、偉人達が、作品によって目指したもの、その意志こそを、我々は理解すべきなのである。「歴史家達の手にかかると、ホメロスは実在しなかったということにもなる。だがいかなるホメロスも実在しはしなかった。いかなる死者もその作品だけの価値は持たなかった」(『宗教論集』)。だれにも実生活上の欠点が有ること、それは当然のことであって、いかに偉大な死者達といえども例外ではない。重要なのは、過去の偉人達はそうした愚かさや欠点とともに生きながらも、後世の我々の心をも動かし得る作品を創造するに至ったということである。バルザックが借金の返済のために作品を書いたのだとしても、我々の心を捉えて離さない彼の「人間喜劇」が現に作品として存する。その事実だけで、作品に表れた偉大な人間性を信ずることに何の不足があろうか。ここには、古人の弱さよりも強さを信じること、つまり「死者達がそうありたいと念願していたと思われるもの、まれな瞬間だけ彼らがそれに到達し得たようなものを崇拝すること」によって、己自身の弱さに打ち克とうとする意志がある。
 偉大な思想家は、その誤謬においても偉大なのであり、デカルトを訂正することよりも、むしろ、デカルトのように誤ることの方により多くの真実がある。そうアランは考えた。彼のデカルト論は、デカルトを単なる分析の一対象として、客観的な姿勢で論じたものではなく、デカルトを論じながら、それが己の思想を述べる形になっている。対象を語ることがそのまま自己を語ることになっているのである。それは、デカルトの思想を己の思想に引き寄せて解釈したということではない。己の生き方を通して、己の精神の糧としてデカルトの思想を考えたということである。
 祖述という文体は、アランにあっては、むしろ創造的な意味を持った表現の「姿」であり、古人の思想を、自己のうちにおいて、再構築する作業である。先の引用で、「我々は、あたかも師匠の身振りや声音を模倣し、かくして無意識のうちに、己の最初の思想に身体的自然的な支えを与えるあの弟子達のなすように、この思想に耽るデカルトの風貌を心に描きつつ、いかなる状況をも無視することなしに、我々自身もまたこの点に瞑想を試みよう」とあるが、それは単に想像力を働かせながら、デカルトを読めということではなく、生きたデカルトの「姿」が見えてくるまで、読みこなせということである。デカルトの哲学を、理論として知的に理解し、整理し、批判するといった態度では十分にデカルトの思想はつかめない。デカルトの思想の一つ一つの観念を、デカルトという一個の人間の生き方において、捉えることが重要である。そうすることによって初めて、デカルトの思想を己自身の生き方の問題として、人間性の根源にまで立ち返って考えることが出来るのである。こうした姿勢は、デカルトに対してのみならず、過去の大哲学者や大作家達を理解する時のアランの基本的な方法であった。アランの文章が、古人の思想を祖述しながらも、その文体のうちに、まさしくアランという人間の「姿」を感じさせるのは、そのためである。


アラン――思想としての文体(三) 「文体と言語意識――日常語の思想」

2017-08-19 | 文学
  三 文体と言語意識――日常語の思想」
 先にも述べたように、アランの文章には、専門用語は殆ど見当たらない。彼の通俗性などと言われるものは、こうした点から来ているのであろうが、そのようなレッテルは、彼を理解する上では役立たない。現代において、難しい理論を、平易な日常語で解説するといった類の書物は数多くあるが、アランのしたことは、それとは全く異なることである。それらの書物は、専門語という第一の言語で書かれたものを、日常語という第二の言語に、分かりやすいように、言わば「翻訳」したものと言える。そこでは、専門語と日常語の関係は、原文と翻訳の関係と同じように、前者こそ本来的なものであって、後者は、あくまでも公衆の理解に資するための便宜上のものでしかない。日常語でかかれたものは、専門語で書かれた思想のイミテーションという位置づけであり、積極的な意味を持ったものではない。それに対して、アランが日常語で書くのは、決して読者に分かりやすくする便宜上のためなどという消極的な理由によってではない。「私は日常語に賭ける」(『芸術に関する一〇一章』)と、彼は言っている。この「賭ける」という力強い言い方のうちにアランの目指していたものが表れている。専門語によっては表現し得ない思想こそ、彼にとって重要だったのである。
 彼は言う、「カロリー、ボルト、アンペア、ワットのように、分かりきっている語、約束で意味が決まっているような語、そんなものは決して言語ではない」(『文学論集』)と。近代の実証主義者達が目指してきたのは、まさしくこの「カロリー、ボルト・・・・」といった語に見られるような厳密性である。彼らは、人間精神についても、できることなら自然科学の用語のように、はっきりした約定からできた明瞭な語で、表現したいと望んできた。しかし、アランはそうした語を自らの思想表現の手段としては拒否する。「本当の言語というものは、我々の体に響くものであって、精神に響くわけではない。言うならば、間接的に精神に響くのだ」(『文学論集』)として、観念上の決まりのみによって成り立っているような語を、本来の意味での言語としては認めなかった。そうした語は、人間から切り離された完璧さを表す空虚な記号であって、物質を対象とする際には有効であっても、精神と肉体を持った人間という混乱した存在に対しては、無力であると考えた。抽象的知性による分析は、己の精神の情念に対しては、なす術がない。「自分の肉体から離れて考えることは、天使の真似をするに等しい。たちまち獣性が、我々をつかまえる」(『芸術に関する一〇一章』)。この情念という獣性を捕らえることこそ、彼にとっての哲学の仕事であり、それは日常語によってこそ可能であると彼は考えた。自らが日常的に使っている語を否定すれば、己の思考を自ら否定することになる。なぜなら、我々はそれを使って思考をしているのだから。我々が当たり前に使っている語のうちに、人間的真実を表した思想が満ちている。そう信ずるところからアランは思考を始めた。
 アランは、コントに倣って、クールcoeur(心、胸、心臓、勇気、愛などの意を持つ多義語)という語をしばしば例に挙げて、日常語に含まれる深い思想について説明する。
 「coeurは、勇気を意味する。coeurは愛を意味する。coeur は空っぽの筋肉(心臓のこと)を意味する。もし、この単語を、一度に三つに意味に取らないならば、まずい書き方をしていることになる。同時に、愛というものを、ありのままに書く  すなわち、血の部分と意志の部分とを書く  機会を失することになるのだ。結局、言葉に抗ったがために、観念を書き損ねるのだ」(『芸術に関する一〇一章』)
 観念による規定が先立つ専門語には、このような多義性は見られない。多義的ということは曖昧ということであり、多くの専門的研究者達は、そういう語を使うのを嫌う。しかし、作家や詩人は、一義的に制約された専門語では、小説や詩を書かない。アランは作家や詩人と共に歩む。精神と同時に肉体を持ち、情念という肉体による精神の惑乱を有する人間という存在そのものが、多義的な存在なのである。日常語の多義性は、肉体や欲望や知性や意志が絡み合った人間という存在を、そのまま反映している。
 また、語の多義性は、人間という存在の多義性と同時に、その歴史性をも表している。「語の中には、人間の経験の果実として、思想が与えられる」(『芸術に関する一〇一章』)と、アランは言っている。coeurは、「胸」、「心臓」を意味すると同時に、「心」をも意味する。人々は、coeur(心)を、単に頭脳に属した知性的なものとは考えなかった。また、食欲や性欲の部分に属するものとも考えなかった。心が揺さぶられるような感動を、心臓の鼓動や胸の高鳴りに、最もよく感じ取ったのであり、その実感をもとに、coeurという語で、目に見えないが最も身近で切実な「心」というものの存在を表現した。さらにそこに、「勇気」、「愛」という意味を与えて、それらの徳を、人間の心において最も重要な理想として思い描いた。そして、「勇気」と「愛」という二つの徳は、coeurという一つの語によって、結び付けられている。愛する我が子のためなら、いかに気弱な母親も、自らの命を惜しまぬ勇気を持っている。このように、coeurという語の持つ、それぞれの意味に、その語を使用してきた古今の無数の人々の思いが込められており、しかも、それらの心は、互いに呼応し合って、一体のものとして存している。アランは、次のように言っている。
 「言語活動 langageは、社会学的一存在である。それはまた、真正の社会を結ぶ絆でもある。真正の社会は、過去の記念的遺物によってのみ維持される。そうして言語活動こそ、生きた記念的遺物 monument とでも言うべきものだ。それは人間の遺産を保存し、伝えると同時に、人間の構造及び最も緊要な諸機能の動かしがたい証人でもある。例えば叫びは、胸部の痙攣の結果だからである。言語活動が、保存される場合以外は決して変化しないことは、理解されるだろう。そして詩は、記憶によって容易に変更されない一定の形式を保存すると同時に、また絶えず身体組織に幸福を与える韻律によって言語活動を整えるものであるから、二重の意味で記念碑的である。詩は、我々を自分自身に呼び戻す一種の礼拝となり、祈祷となる」(『我が思索の跡』)
 この点で、言語を単にコミュニケーションのための道具とする、現代に蔓延する言語観と、アランの思想は決定的に異なっている。いつの世にも、言葉とは人が互いに心を伝え合う道具だという素朴な信仰はあったに違いない。しかし、近年殊に、実用性の価値基準により、コミュニケーションの道具としての言語という考え方が支配的になって来ている。こうした言語観は、言葉を、単に流通する貨幣のごときものと見做し、コミュニケーションという、同時代人との横の繋がりにおいてしか、考えようとしていない。そこに、致命的に欠けているのは、言葉の背後にある「人間の経験の果実」、そこに込められた古人達の心を感じ取ろうとする意志である。言葉を平面的に捉えるのみで、言葉の持つ奥行きを感受しようとする意識がそこには無い。そうなると言葉の美というものが見失われる。なぜなら、言葉が意味を伝えるための手段でしかないのなら、その「意」さえ通じればよいのであって、その「姿」は重要な意味を持たなくなる。コミュニケーションを言語の目的と考えるなら、結局、言語の習得の意義は、言語に関する世の慣わしやしきたりに自らを染めることでしかなく、それ以上の意味は持たなくなる。そこで追求されるのは、円滑に「意」を伝える方法であり、それ自体は重要なことなのだが、そのことばかりに意識が偏ると、結局、安易に伝えられる「意」しか問題にされなくなる。
 しかし、先に小林秀雄の思想として述べたように、深い感動や真の美的経験は、「寡黙や沈黙の方に、人を誘ふもの」であり、この容易に伝えがたいものこそ、我々の精神を根底で支えているものなのである。その表現しがたいものを表現するには、詩人達がそうするように、言葉の持つあらゆる特質を生かして、それにふさわしい言葉の「姿」を追求しなければならない。そして、その追求のうちに、もし言葉の「姿」が己の精神の根底にまで響けば、それによって己の精神が立て直されることもある。詩人は、予め何らかの観念を持っていて、それを美辞麗句で飾り立てるということをしているのではない。完成した詩によって、己の表現したかった思想や、己の詩魂の奥底にあるものを、知るのである。言葉は、「意」を他者に伝えるだけではなく、その「姿」によって自らの「意」を立て直すという作用を持っている。アランが、「詩は、我々を自分自身に呼び戻す一種の礼拝となり、祈祷となる」と言っているのは、まさしくその作用のことである。そして、その前提となるものは、「生きた記念的遺物」としての「言語活動」なのである。
 言葉の「姿」が、精神に何ものかを与え得るのは、言葉の内に、それを使用して来た古人の思想が「人間の経験の果実」として込められているからであり、そうした時間的に蓄積された重みが、一人の人間によって考えられた以上のものを有しているからである。アランは、手垢の付いた日常語で自らの思想を表現した。決して手垢を削ぎ落とそうとはしなかった。寧ろその時間的に蓄積された重みを踏まえることによってこそ、独自の表現が可能となると考えた。しかし、使い古された表現をそのまま使い古した形で書きはしなかった。直観的な飛躍によって、各語の意味を全的に保持しながらも、他の語との意外な関連性により、新しい角度から光が当てられる。彼の文章が、日常の言葉遣いで書かれていながら、難解であるのはそこから来ている。人間の歴史の中で蓄積された語の多義性を活かして、一つの言葉の含み持つ多様な意味の総体を、古人とともに、響かせながら展開していくという書き方を、アランは、自らの思想表現の方法とした。


アランーー思想としての文体(二) 「文体と行動ーー行動としての『プロポ』」

2017-08-14 | 文学
二 文体と行動――行動としての「プロポ」

 「毎日書くこと、天才であろうとなかろうと」――このスタンダールの言葉を、アランは気に入っていた。彼の教えていた生徒達にそれを奨励し、また彼自身、何千という「プロポ」を書いてそれを実践した。
 「紙の空白は、自由な天地である。しかし自分をよく訓練することが必要であるから、私は自分の『プロポ』の定量として、便箋二枚で満足した。私は十四行詩(ソネット)を書く詩人のように、終わるべきところを見定めて、これに従った。発展を引き延ばす必要は極めて稀であった。しばしば発展を圧縮せねばならず、しかも時間が足りないから、後で削ることは望めなかった。こういう物質的諸条件が頗る重要であると、私は思う。・・・・・(中略)・・・・・/私はさらに今一つの条件を指摘しなければならぬ。というのは、短い作品がすぐさまどうにか印刷されると(構成はいつも新聞の方でやった)、翌々日には読まれるということである。その時になって欠陥が見つかっても、訂正するわけには行かない。これは大変幸せなことだ。なぜなら同じテーマについてもう一度やり直し、自分を鍛えることになるからである」(『我が思索の跡』)
 ここで、重要なことは、アランにとって、「物質的諸条件」は、彼の活動を阻むものではなく、必要なものとして、自ら求めたものであったということである。彼は、芸術を論ずる際、素材の抵抗というものを非常に重要なものと見做した。例えば、彫刻家にとって、大理石という素材は、彼の意のままに形を変えてくれることはなく、一撃ごとに抵抗を示す。彫刻家は、彼に抵抗する石材との格闘のうちに、作品を作り上げる。そうして初めて美が現れる。美は作品のうちにしかない。つまり、素材の抵抗の無いところに、美は存在し得ない。便箋二枚という分量、毎日書くこと、十分な時間が無いこと、訂正できないことなどといった「物質的諸条件」は、「プロポ」という散文芸術における、素材の抵抗である。アランの芸術論の特徴は、芸術家達の作品の出来栄えについて論評するものではなく、常に制作者の立場で、創造行為に関わる人間の普遍的な経験について語っているという点にある。それは、日々の「プロポ」執筆の経験から来た思想である。
 そうした書き方から生まれたアランの文体は、一種独特のものである。その文体は、専門用語を使わず、日常の言語で成り立っていながら、決して平易ではない。多義性を持った難解な句や、直観的な飛躍があり、いわゆる美文的な装飾は一切無い。読者は険しい山道を歩くように、躓きながら読むことになる。彼は、散文には散文固有の特質があると考え、聴覚に訴えることを必要とする詩や雄弁と区別して、散文は、眼で読む芸術であり、リズムやテンポは不要であって、時に読者を立ち止まらせる力が必要であるとした。しかし、それは、故意に晦渋に書いて、読者に謎掛けをするという意味ではない。そうした衒学趣味は彼には微塵も無い。彼の文章の難解さは、彼が、困難な問題に臆することなく筆を進めて、その困難を困難のままに書いたところから来ているのである。まだ解決を見出せないと言って筆をおくのではなく、先ず筆を執り、今の自分が採るべき態度を決断しながら、書き進むというのが、彼の執筆態度であり、彼の文体はそこから生まれたのである。
 一挙に解決しないこと、これは彼の方法でもあった。解決できなくとも、先ず書くことによって、問題の困難に潜り込んで考え、また別の日にそれを繰り返し、そうして様々な角度から論ずることで、問題の核心に近づいて行く。「プロポ」の中には、同じテーマを扱ったものが数多く見られる。アランは、彼自身の言葉で言えば「音楽家のように」、同じ主題を反復した。
 ここに、「絶対的真理は絶対に存在しない」という師ラニョーから受け継いだ思想が見られる。この命題は、古くから、懐疑家達によって言われてきたものであり、これに対しては、「しかし、君は『絶対的真理は無い』という『絶対的真理』を信じているではないか」という言い古された反論がある。しかし、そんな言葉遊びは、ラニョーやアランには、何ら関係の無いことである。当然そうした議論は百も承知の上で、この逆説的命題に、新しい意味を与えたのである。懐疑についてアランは次のように述べている。
 「多くの人々が、何事にも確信を持てないという理由で、懐疑に陥っていると言う。だが、臆病と不用意とは剣士を作らない。同様に、絶望は思索家を作らない。何事にも確信が持てない者に、懐疑はできない。彼らは、何を懐疑するつもりなのだ。いわゆる懐疑家達は、実のところ、むしろ、その場限りの信念を抱いているのだ」(『精神と情熱とに関する八十一章』)
 ここから分かるように、アランにとって、思索することと、剣士になることとは、根本的に異なったことではない。こうした考え方は、不安げな表情を浮かべた懐疑家達の思想とは似ても似つかぬものである。いわゆる懐疑家達は、あちらに進もうかと考えては疑わしくなり、こちらに進もうかと考えては疑わしくなり、といった風で、そこには「その場限りの信念」があるばかりで、そのために何一つ疑い抜くことが出来ない。なぜなら、「その場限りの信念」は、その場限りの懐疑しかもたらさないからである。確信が持てないからといって疑うのは、一種の臆病な迷いであって、そこからは何も生まれない。デカルトの懐疑がそうであったように、真の思索は勇敢なものである。
 しかし、剣士にとって、昨日の勇気が今日の闘いに役立たないのと同様に、以前は真理が分かっていた、それだけでは今日の自分の精神にとっては何ものでもない。アランは言う。
 「思想の記憶というものは決して無い、言葉の記憶があるだけだ。それ故、常に新たに証明を見つける必要がある。また、そのために懐疑する必要があるのだ。『苦労こそ良きものだ』と、ある古人の言葉にある」(先に同じ)
 いかなる真理も、置物のように、そのまま所有することはできない。その都度、解体し、構築し直すことが必要である。「絶対的真理は絶対に存在しない」という真理観は、いわゆる懐疑家達にとっては、行動を踏み止まらせるものであるが、アランにとっては、行動へと立ち向かわせるものである。
 そして、この真理観を、アランは執筆という行為によって実践した。以前取り組んで論じ尽くしたテーマであろうとも、必要とあらば、今日も再び取り組もうと、アランは「プロポ」を書き続けた。そして、書く時には、削除・訂正するということをしなかった。たとえ、不用意に拙い表現を書き記してしまったとしても、次に来る表現によって、それを救えばよい。そうすることで、己の愚を克服してゆく力強い思索の姿が現れる。たとえ今日の「プロポ」が失敗に終わったとしても、そこに新たに克服されるべき己の愚を見つけて、「これは大変幸せなことだ。なぜなら同じテーマについてもう一度やり直し、自分を鍛えることになるからである」と言い切る剛毅な姿勢が、そのまま「プロポ」の思想となり、その文体として現れる。アランにとって、「プロポ」を書くペンは、剣士にとっての剣と同じであった。事実、彼は戦場においても筆を執った。『諸芸術の体系』、『精神と情熱とに関する八十一章』を書いたのは、彼が四十六歳の時、第一次大戦従軍中のことであった。そして、ここで重要なのは、彼がそうした外的な制約や困難に耐えながら執筆したというよりも、むしろ、彼の頑強な意志が、それらの外的な障碍を、敢えて求め、そこに己の幸福を見出したということである。これは、意志的な行動によって己の情念に打ち克ち、自由を獲得せよ、という『幸福論』の主張にも通ずるものでもある。
 アランにあっては、執筆態度、文体、思想、行動が、全て同じ「姿」で現れる。「プロポ」とは、彼にとって、思想表現のための単なる一手段ではない。「プロポ」という書き方、その表現の「姿」そのものが、彼の思想であり、行動であったのだ。そして、このあり方こそ、アランの独創性である。


アランーー思想としての文体(一)「文体と思想――思想表現の『姿』」

2017-08-07 | 文学
  「アラン----思想としての文体」


 

 アランは、哲学史の書物の中に登場することの少ない哲学者である。彼に対するアカデミズムの評価は、一般的に決して高いものとは言えない。
----アランの思想は独創的なものではなかった。
----哲学を文学的な装飾によって解説した通俗的な哲学者である。
----フランスの旧き良き時代、つまり、人間性というものに希望が持てた時代の、時代遅れの思想家である。
 こうした批判がしばしばなされる。彼の著作の翻訳者達でさえ、「アランは饒舌な哲人である。繰り言の大家である」、「アランは独創的な哲人ではなく、祖述的な実践派の導師である」とか、「彼は哲学者として一流かどうか分からない」などと評している。
 確かに、彼は、過去の哲学者達の思想の再発見に努めて、新しい学説を唱えなかったという点からすると、独創的な理論家ではないと言えるだろう。また、専門誌に発表せず、新聞や文学雑誌に、哲学の専門用語を殆ど使わない文章を書いたという点で、通俗的とも言えるかもしれない。またさらに、他の哲学者達からあれほど批判にさらされていたデカルトの哲学に満足し、フロイトの精神分析を批判して、デカルトの「情念論」の立場を取ったという点では、時代遅れと言ってもよい。
 しかし、そうした思想態度は、アランが用意周到に選んだ外観に他ならない。独自の理論体系を作り出すことや、俗世離れしたアカデミズムに専心することや、最新の理論を自分の思想に取り込むことは、彼の望むところではなく、彼の意志は、彼の批判者達が目指しているところとは、別のところにあった。要するに、そうした批判が、アランの思想上の欠陥に由来するものと見做した外観は、彼にしてみれば、むしろ敢えて選んだ思想態度なのであって、その意志したところを解そうと、彼の外観をよくよく眺めてみるならば、それらの批判が付与したレッテルでは片付けられない、彼の思想の独創的な「姿」が現れて来るはずである。

一 文体と思想----思想表現の「姿」

 アランの思想は要約することができない。彼自身、思想というものは、要約不可能なものであると言っている。文体と思想は切り離すことはできない、文体の無いところに思想は無い、そう考えたからである。
 ここで思い出されるのが、「意は似せやすく、姿は似せがたし」という本居宣長の言葉である。小林秀雄は、この言葉のうちに、表現の問題に関する、ある非常に重要な思想を読み取った。普通ならば、逆に「姿は似せやすく、意は似せがたし」と考えそうなものである。聖人君子の口真似なら誰にでもできるが、その心は誰にも真似ることはできない。これが我々の常識的な感想であって、「意は似せやすく、姿は似せがたし」というのは、常識に反した考えのように思われる。しかし、ここに、宣長の思想の核心があると、小林秀雄は見た。
 別のところで、宣長は、「言よきとは、その文辞を、麗しといふにはあらず、詞の巧にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也」と言っている。ここで彼は「言のよさ」と「文辞の麗しさ」とを明確に区別している。「言のよさ」とは、人受けのする巧みな饒舌といったものであり、そうしたもっともらしい理屈は、誰にでも「思ひつきやすく」、またその分、聞くものは「まどはされやす」い。衆人の「意」に沿うたもっともらしい言説は、昔も今も、衆人の同調を得るものだ。なぜなら「意は似せやす」いからだ。言をなす者も、衆人も、互いに「意」を似せ合っているのだ。しかし、「文辞の麗しさ」に至る道はそう簡単ではない。万葉の大歌人達の歌と同じような内容のこと  山川の美しさや別離の悲しみなど  は、誰にでも言えるだろう。だが、彼らの歌の「姿」を真似ることは非常に困難な業である。あの純粋で伸び伸びとした力強い調べは、容易に似せられるものではない。どんなに「意」を似せても、「文辞の麗しさ」には至らないのである。ここに、言葉というものに対する、宣長の非常に厳しい姿勢が見られる。それはそのまま彼の古文研究の態度にも現れる。『古事記』や『源氏物語』といった古の文に接する時にも、その「意」を知ることに終わってはならない、その「姿」、つまり「文辞の麗しさ」を味読するまでに至らなければならない。こうした言葉の「姿」に対する厳しさこそ、彼の国学を、単なる国粋思想に陥らせることなく、古文・古語研究における歴史的な業績を残す学問とすることができたのである。
 そして、その「姿」を追求する宣長の厳しい姿勢は、それを論ずる小林秀雄自身のものでもあった。彼は批評によって、対象となる作品や作家の、新しい解釈や新知識を目指してあれこれと議論したのではない。対象の「姿」に直に触れた生々しい感動なり衝撃を率直に描こうとしたのである。但し、率直に描くと言っても、それは思い付きをそのまま饒舌に書き記すということではない。彼は、宣長の言う「文辞の麗しさ」を味わう経験について、次のように述べている。「かういふ経験は、『弁舌』の方には向いてゐない。反対に、寡黙や沈黙の方に、人を誘ふものだ」、「『文辞の麗しさ』を味識する経験とは、言つてみれば、沈黙に堪へる事を学ぶ知慧の事」である、と。深い感動に襲われた時、人は沈黙を余儀なくされる。その感動を言葉にすると、嘘になってしまう。そうした体験は、饒舌から最も遠い所に在る。しかし、そうかといって、その沈黙に甘んじることは、小林秀雄にはできなかった。その生々しい美的経験を表現したいという激しい欲求、あるいは、表現しなければならないという強い衝動が、彼にはあっただろうから。小林秀雄の採った道は、この「寡黙や沈黙の方に、人を誘ふ」経験を、率直にありのままに語るという、逆説的な、非常に困難な道であった。沈黙を強いる生々しい経験に、言葉の「姿」を与えるという不可能事を、彼は追求し続けたのである。彼の逸話として、畳の上を這いずり回って身悶えしながら執筆したという有名な話がある。その真偽のほどはともかく、言葉の「姿」の追求に妥協を許さない彼の厳しい批評態度を、よく表した逸話であると言えよう。
 アランは、その小林秀雄が、ベルクソンと並んで、学生時代から親しんだ哲学者であり、その『精神と情熱とに関する八十一章』の翻訳もしている。
 アランもまた、「姿」を重んじた文筆家である。彼は文学を論ずるに当たって、しばしばスティルstyleを問題にする。スティルとは、文体のことであり、文字通り、文のstyle(スタイル)即ち「姿」を意味する。彼は、膨大な伝記的資料を集めて、作品を分解・整理して検証するような、ソルボンヌ式の実証主義的な文学研究を、強く否定した。彼の方法は、作家を知り尽くすまで作品を繰り返し読め、そしてその文体を自らのものにせよ、というものであった。作品を語るには、その作品に相応しい文体を先ず獲得せよ、ということである。彼のこの方法は、何も文学を対象とする場合に限らなかった。プラトンやデカルト、コントといった哲学者の著作に対する際にも、変わらなかった。一流の哲学者の思想は、その文体を離れて抽出できるようなものではなく、文体とともにあるものだ、思想の要約はもはや思想ではない。それが彼の考え方であった。
 そんなアランの思想が要約不可能なのも、ある意味で当然のことである。もちろんある纏まった考えが文章に述べられている限り、その内容の大意を述べるぐらいはできなくはない。しかし、詩を解説した文章が、しばしばその詩の色彩から懸け離れたものとなってしまうように、アランの思想は、要約してしまえばその力強い魅力を十分に伝えられない性質のものである。我々は、彼の歩いた道筋を辿りなおすだけでは、彼に近づくことはできない。彼の歩き方を思い描くことが大切だ。つまり、この文章の目的は、アランの思想を、その表現の「姿」----文体、執筆のあり方----において捉えることにある。