劒岳―点の記 (文春文庫 (に1-34))新田 次郎文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
増田先生に貸してもらいました。
これ、実は実話です(^^;←ヲイ
という事実は知っている方が多いですね。2007年は柴崎芳太郎が剱岳登頂100周年だったそうですから。
つまり100年以上前の話です!
明治39年、未完成の日本地図を埋めるため、また「山岳会」より先に剱岳に登頂すべく、上司から「登れ」と命令された測量官、柴崎芳太郎。
剱岳の話が、測量のために初登頂に挑む測量官と働き手の話だということを知った私は、読んでみたくなりました。
私たちは色々な人たちの血のにじむような努力の上で生活している。
今日本全国のきちんとした地図が手に入るのは、このような測量を行なう人たちのおかげであるということを、私は認識していなかった。
明治時代、しかも30年代といえば、私の亡くなったお祖母ちゃんさえ生まれていない頃だ。
第一次世界大戦よりも10年近く前。
今でさえ登頂するのが大変な山へ、そのころに機材を運びながら登るのは並大抵の苦労ではなかったはず。
そして、立山信仰では「登ってはいけない」とされているがゆえに地元民からつめたくされ、地元の役所ではいわれのない仕打ちを受けながらである。
地元の反対を受けながらも案内人を引き受けた長次郎の人の良さは、この厳しい登頂への挑戦となる話の中では、ほっとできる温かい灯りのようである。
大丈夫、大丈夫と励ましながらも、山の怖さを人一倍よく知る長次郎は、決して無理はさせない。お客さんの命を危険にさらすことは絶対にしないのである。
柴崎芳太郎氏は、めったに笑うことのない人だったというから、よけいに長次郎とのバランスがよかったのかもしれない。
著者の新田次郎氏は、柴崎芳太郎を知る人への取材を繰り返し、自ら剱岳に登頂してこの話を紡いだ。
そして、この本を読むだけでその厳しい山が、雪に覆われた山の風景が頭の中に広がる。作家の文章による表現力があるからではないか、と思う。
柴崎芳太郎の一行は時には命の危険を冒しながら、しかし慎重に慎重を重ねて剱岳に登る。
しかしそこには、既に修験者によって登られていたかのような跡と、錫杖の頭と奉納の剣があった。
軍の上層部は初登頂でないという事実を好ましく思わず、この功績を称えることはなかった。
(ワタシはこーゆー世間体ばっか気にした考え方をするヤツぁ大っキライである)
でも、剱岳登頂と三角点の設置は本来称えられるべき業績。それは事実なのだ。
柴崎とは直接対立してはいないものの、陸地測量部と対立(?)していた山岳会リーダーの小島烏水からの祝電も小気味よい。
山へ登る人は山岳家だけではない、というよりも山岳家より前に、地図を作った人たちによって登頂と測量が成されている。
色々な方面の先人たちには感謝しきれない。
そして、私たちは先人たちのしてくれたことを感謝しつつ、それを壊すようなことはしてはならないと、本当に思う。
世間では山登りがブームとか言われているらしいが、ブームといって煽る人たち、ブームだからといってその波に乗る人たちがいる。
険しい山に登ることができるのは本当に山を愛して、その恐ろしさも熟知している人たちだ。
あとは自分で考えてほしいなーと思う~。←放棄