徒然なるままに~地球クン

私の永遠のグルであるラマナ・マハルシの対話本について自分なりの解釈で語っています。

第1巻 対話31

2016-10-31 06:39:30 | 日記
マハルシ「誰が生まれ、誰が今、存在の問題を抱えているのか、それを見いだしなさい。眠っているとき、転生や現在の存在について考えるでしょうか?それゆえ、現在の問題がどこから起こるのかを見いだしなさい。解決法はそこにあります。あなたは誕生も、現在の問題も、不幸もないことを発見するでしょう。すべては「それ」であり、すべては至福です。実際、私たちは転生から自由なのです。なぜ転生という災いについて思い悩むのですか?」

輪廻の輪から抜け出したいと願っていると書きましたが、実際のところ転生から自由なのです。
それを超えたところにすべての自由がある。
大局を見よ、ということです。
掴めそうで掴めないあの無限の拡がりに思いを馳せ、日々修練に励むしかありません。

第1巻 対話30

2016-10-30 19:10:29 | 日記
マハルシ「それは光と闇を超越しています。個我はその両方を見ています。光と闇を見るために個人に光を与えているもの、それが真我です。」

光と闇を見るために個人に光を与えているもの。
やはり光と闇はあるんですね。

マハルシ「なぜ自分を罪人だなどと言うのです?転生をまぬがれるには、神を信頼するだけで十分です。すべての重荷を彼に任せなさい。」


輪廻の輪から抜け出したいと願っています。
神を信頼する他ないようです。
だけど神を信頼したにもかかわらず、あるいは信頼が足りず、輪廻の輪から抜け出せずに転生してしまってもそれは、今の私ではなく違う私で私と呼べるのも怪しくて、その私は転生を喜びに満ちて生きるかも知れない、などと考えるとよく分からなくなってしまいます。

その答えがあるのが真我実現なのですね。

第1巻 対話29

2016-10-29 23:04:48 | 日記
三昧に達するのに、神の恩寵が必要かどうかについて。

マハルシ「私たちは神なのです。自己を神として見ること自体が神の恩寵です。それゆえ、神の恩寵を得るために神の恩寵が必要なのです。」マハルシがそう言って微笑むと、帰依者たちもみな笑った。

マハルシのユーモアが感じるこの対話が好きです。

マハルシ「最後には、すべてがうまくいくでしょう。失敗や中断が起こる度に、再び歩み出そうとする決意が衝動となって起こります。障害は徐々に克服され、あなたの探究の勢いはより強固になるでしょう。最終的には、すべてがうまくいくのです。固い決意でそれに向かいなさい。」

行ったり来たりフラフラしながらでも一歩ずつ確実に進んでいます。
進めば進むほどより理解が簡単になり、そして強固になっていきます。



第1巻 対話28

2016-10-27 22:22:47 | 日記
マハルシ「知る者、知識、知られるものという三位を超えた「それ」。」

マハルシ「後には何が残るでしょう?完全な明け渡しは本来の「私」の場所の中に神だけを残し、偽りの「私」は消え去るのです。」

マハルシ「あなたはあれやこれといった「私の」所有物を放棄しますが、もしその代わりに「私」と「私のもの」という想念を放棄すれば、すべてが一太刀で放棄されるでしょ。所有の根本原因が絶たれたからです。」

この対話は長いので、抜粋したいところが沢山あります。
真我実現について色々な角度から話しています。

マハルシ「それは真我を無限の霊的な目として認識することであって、千里眼ではありません。」

ここ、自我が勘違いしやすいところだと思う。
マーラの誘惑にとらわれないようにしないといけないところ。

マハルシ「それは理解を超えたものなのです。あの「力」にはいかなる動機も帰せず、いかなる欲望も目的もあの「全知全能の無限なるもの」に属すると言うことはできません。」

マハルシ「もし何が起こり、何に関わり合い、何を避けるかについて、満足のいかない不安に心が揺れ動いているなら、そのときは責任と自由意思の感覚を棄て去り、全知全能の神に定められた道具として、行為しようと苦しもうと、彼の望むがままに任せることが賢明でしょう。彼はすべての重荷を負い、私たちに平和を与えてくれるのです。」

これを知っているだけで頑張れそうな気がします。
理不尽なことがあったとしても、「私」に帰る最大限の努力をしようと頑張りたいです。

第1巻 対話27

2016-10-26 06:42:40 | 日記
マハルシ「真我探究が自動的に継続するようになると、富や名声、快適さや快楽を無価値なものとして軽視するようになります。「私」という想念を見極めることはより明確になりこうして「私」の源であるハートへと導かれてゆくのです。それが最終目的です。」

確かに、色々なことからの執着が薄れていきます。

真我探究か帰依、これらが適さない場合はヨーガの道(調息)、それも無理な場合社会奉仕などの善い行いをする行為の道が、真我実現への道。

マハルシ「もし心が散漫になったら、「この散漫な心は誰に起こったのか?」と即座に問いただしなさい。それはあなたを「私」という点に即座に連れ戻すでしょう。」

マハルシが常に言っている言葉です。
これは誰に起こったのか?
私はこの言葉をとても大切にしています。
初めはとても難しかったけれど、今でも難しいけれど、大切にしています。