もちろん、前回宣言した「セツアンの善人」との類似性にも関係してきます。
ということで、「コーカサスの白墨の輪」5!行きます!!
さて、どこまでこのタラタラ感想シリーズは続くのであろうか?(^^;)
私は今までの1~4の感想は自分には珍しく、話の内容にはあまり
触れてきませんでした。
それは、今回の話、なんか心にひっかからないなぁと思ってたからです。
しかし、それは勘違いだったって事をとあるlog を見て思い出したんです。
そう、心にひっかかる事はあったんです。
けど、ハッピーエンドに終わるこの芝居。
グルシャの苦労が報われてもちろんよかったと思えるけど、
ハッピーエンドだと見ている側もそれ以上考えようとしないんですよね、多分。
むしろアンハッピーエンドの方が人っていろいろ考えるのかも知れないと
今回の芝居で強く感じました。
って前置きが長いんですけどそろそろ本題に(^^;)。
さっきから出ているとあるlogに書かれていたことは何か?と言うと、
“What's fearful is the seductive power of the goodness!”
「恐ろしいのは、善の誘惑」
と、いうこと。
これは会場内で売られているグッズのTシャツにプリントされている
文字なんだそうです。
これを読んで思い出しました。
グルシャがミカエルをかくまったこと。
これって自分の身の危険も振り返らない善なる行為だと私は思っていたのに、
「善の誘惑に負けそうになる」
といった感じの台詞がグルシャ、あるいはグルシャの心の声の台詞であったんです。
「え?グルシャのやっていることは善ではないの?悪の誘惑って方が正確なんじゃないの?」
と私はその時思ったんですけど、芝居はどんどん進み、考える間もなく
ハッピーエンドで終わり、私は疑問に思った事すらすっかり忘れてしまっていたわけです。
けど、そのとあるlogのおかげで思い出したわけです。
それで考えたんですけど、ここでいう「善の誘惑」の「善」とは、
その時点の国の情勢上での「善」なのかなと思い当たりました。
グルシャは自分の心の正義に従ってミカエルを見捨てずにはいられなかったけど、
お金もなく、自分の身にもいつ危険が降り掛かるか分からない状況だったので、
自分の正義を通す事が辛くなり、国の善に幾度か流されそうになった。
「自分は国の善に従ったんだから悪くない。
ミカエルを見捨てることは間違いじゃない、むしろ善なのだ。」
「ミカエルを農家に捨てたのは悪じゃない。
食事だって十分にとれるだろうし、安全だろうから、
ミカエルにとっては幸せだから捨てることは善だ。」など。
ミカエルを農家に捨てたばかりのグルシャの足取りは軽い。
自分はいいことをしたのだ!と最初のうちは気分がよかったのもあるだろう。
しかし、時間がたつにつれ、その足取りの軽さがミカエルという重荷から
逃げ出した(自分の正義から逃げ出した)軽さだということに気付き、
足取りは重くなる。
「善の誘惑」とは自分の正義を偽る誘惑のこと。
私にはそんな風に感じました。
だから、「善の誘惑」は恐ろしいのだと思う。
戦争も「善の誘惑」が引き起こすものだと思うから。
「善の誘惑」は自分が不正義だと思うことも正義に思わせる力がある。
前回やった同じブレヒト作品の「セツアンの善人」では、
善人であることの難しさを描いたものだった。
みんなのために善人でいようとすると、自分の生活さえあやうくなる。
だから時には悪人にならなければ生きてはいけない。
でも、それは自分の正義に反する行為。
その苦しみを神様に訴えるが神様は善人であれというだけで、
今後どう生きていけばいいかは指針はくれない。
本当の善人とは何か?
本当の善とは何か?
これは「コーカサスの白墨の輪」も「セツアンの善人」にも共通するテーマ。
「セツアンの善人」ももう一度観たくなってきたなぁ。
え?本を読めって?!
読書、苦手なんです。(^^;)
ということで、「セツアンの善人」再び再演希望!
そしてこの「コーカサスの白墨の輪」感想シリーズはタラタラと6に続くのであった。
<松たか子>■『コーカサスの白墨の輪』■
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ちくわぶ

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