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茶々を入れる 

旧-広島市民球場跡地利用と広島市新球場につき若干もの申したく候

聖なるもの

2008年03月03日 | Weblog
Image:Macarthur hirohito.jpg Wikimedia Commons




昭和天皇とマッカーサーの、あの有名な写真の薄気味の悪さを、それが「結婚写真」であるからだとする説を読んだことがある。私は一度もそういう風に思ったことはないが、なるほど、今のイラク情勢とは異なり、ゲリラ戦もなく、すんなりと占領された敗戦後の日本を見事なまでに表象する、戦後日本の国民の統合を「象徴」しているイコン(図像)ではある。あの写真にある薄気味悪さは、この両者の邂逅がお互いがお互いを求め合ったものではなく、それぞれに計算や打算があってのことであり、そこには両者の思惑の違いがあって、本当は「同床異夢」であることを抑圧している、そのことに因っている。そこにある収まりの悪さ、落ち着かなさ、不自然さや違和感の正体とは、この両者の結びつきが正式の結婚でない、偽りの結婚であることの誤魔化しと嘘のことである。この「無理やり感」を端的に表しているのが、在日米軍基地の「爆音」であり、「日米地位協定」のせめぎ合いだ。20世紀フランスのキリスト教神秘主義者シモーヌ・ヴェイユは『アメリカ覚書帳』の中で、神と魂の神秘的な結びつきを結婚にたとえ、無垢な花嫁が神と交わす初めての契りを、合意の上でなされる強姦であると述べているが、これは存在論的に彼我に圧倒的な差異がある場合には、たとえどのような細やかな愛情でそれが為されるにせよ、受け取る側の不安や動揺がはなはだしく、もはやその交歓の始まりは一方的な愛であって、こちらがそれに愛をもって応じているようにはとても感じられない、という意味である(麻酔なしで行われる緊急手術のようなものだ)。写真から想像すると、昭和天皇は敵将の偉丈夫と肝胆相照らして満足そうである。『ポツダム宣言』以降、心の中に重くのしかかっていた「ある懸念」がなくなり、肩の荷がすっかり下りたのであろうが、マッカーサーの方は至極淡々としている。こちらの方は、予てよりの謀が思惑通りに運んで、想定外の事など何もなかったといった風であり、もとより「オレンジ計画」以来、ほぼ一国だけで日本を完膚なきまでに叩き、すべては征服者の指呼のうちであって、これで占領の第一段階が終了したのである。



「敗軍の将」の満更でもなさそうな表情の陰にあるのは、自らの決定的な過ちを不問に付してくれる者への甘えである。もう一方の勝利者側の無表情の裏に隠されている本心とは、侮蔑以上の軽蔑である本質的な無関心だ。アメリカが日本占領の向こうに見ているものは巨大な中国市場であり、ペリーの黒船来航の主たる目的も、中国との交易のための中継基地確保であって、ハワイ併合のそれと変わりがない。アメリカにとっての日本の存在価値は、在日米軍基地の戦略的価値がそうであるように、今に至るまで論理的に終始一貫しているのである。日米関係は常に米中関係の関数であって、「ABCD包囲網」に象徴されるアメリカの外交政策も、蒋介石の執拗なロビー活動に答えたものであり、その先に太平洋戦争もあったのである。この中国をめぐる大日本帝国とアメリカの「恋の鞘当て」が日米戦争の本質であって、アメリカが真に欲望しているのは中国であり、日本人のハートではない。アメリカは日本をパートナーとして情愛から求めているのではなく、中国をものにするためのステップとして利用しているだけであり、したがってアメリカにとって日本とは単なる手段であって、「都合のいい存在」なのである。それゆえ太平洋戦争終結後には、中国とのデートの場所である北東アジアを平安ならしめる為に、日本を軍事的に徹底的に無化しようとしたのであって、その中国側のパートナーであったはずの国民党が共産党との内戦に敗れて大陸から追われ、また、中国の後背にあたるソビエト・ロシアと思想的に結んだ共産勢力との確執が、朝鮮半島において深刻な対立として顕在化すると、力づくで中国権益をこじ開けなければならなくなり、押し付けたはずの平和憲法の基本コンセプトを反古にしてまで、急遽日本の再軍備にとりかかる。そして今また、専守防衛のはずの自衛隊を世界的な米軍再編に組み入れようと、自主憲法制定とは聞こえは良いが、国内の反動勢力と結んで、現行憲法の改正まで策しているのである。この国は本当に、属国以上の、「やり捨て」の都合のいい女である。その証拠に、対日戦で重用され、占領地日本で絶大の権勢を誇ったマッカーサーも、朝鮮戦争で中国に対する原爆使用を進言すると、あえなく解任されるのである。ニクソンだけでなく、アメリカは中国に対しては概ね「礼」を尽くしているのであり、砂漠の核実験場に繋がれて、皮膚を焼かれた哀れな実験動物なみに扱われた日本人とは、こと程左様に違っているのである。あなただって「本命」にはそうするだろう。それを怨んでも仕方がない。もともと、アメリカの向こうを張って中国に手を出し、他人の恋路を邪魔して泥沼の三角関係に陥った我々が野暮だったということである。野暮とは、粋を知らない田舎者ということだ。



あの昭和天皇とマッカーサーの写真に写し出されているのは、天皇の「慚愧の念」ではなく、自分の失敗がリカバーされ、最悪の事態だけは避けられたという安堵の表情である。昭和天皇が不安の面持ちで辿ったアメリカ大使館への道にあった踏み石の中には、オキナワとヒロシマとナガサキもあったのであり、硫黄島もインパールもガダルカナルもあるのである。国体護持の至上命題を胸に抱いて日本国天皇が歩んだその道は、その後、日本国民も同じようにして踏みしめた道筋であり、それは戦後生まれの我々も例外ではなく、敗戦後、精神的にそれを追認して今日の平和を享受している。その安心立命を支えているものとは、農家が田畑を手放すことを「ご先祖様に申し訳ない」という理由で本能的に忌避するのと同じ論理である。それは、「田畑を売らずに済んだ。これで祖先に顔向けが出来る」とでもいった、我が家大事の「百姓根性」のことだ。それは取りも直さず、人間の肉体を含めた天然や自然であるところの「母なるもの」をいちばん大切なものとして「地母神」を聖化し、それを「起源」としたということなのだ。それゆえ、戦後我々日本人はエコノミック「アニマル」と呼ばれ、禁断の木の実を食べたアメリカ太平洋軍と日本のアダムとイブは、儒教的アジアの共同性の王道楽土から追放され、神から『あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。あなたは額に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから、あなたは塵だから、塵に帰る』と宣せらたのである。では、残った田畑の代わりに、いったい何が売られたのであろうか。それは民族の誇りである。我々は名を捨て、実を取ったのだ。武士の魂である刀を捨て、髻(もとどり)を切って落とし、神武東征以来の「サムライ」を捨てたのだ。それゆえ、戦後レジームに乗っかって今現在の地位にある日本のエスタブリッシュメントが、公的意識の欠如だの、倫理観の退廃だの、自虐だのと言うのはおこがましいというものである。そこにあるのは、我が家第一の「百姓根性」であり、百姓根性とは、お天道様のご機嫌に村の日常と動植物の永劫回帰をひたすら言祝ぐ、「陽の下に新しきことなし」の天然自然の大地の論理である。それが「戦後の平和」であり、日米安全保障条約体制下のアメリカの核の傘の下に守られた、在日米軍基地と日本国民の「相合い傘」の退屈な「ツーショット」だ。



あの写真のフレーミングはアメリカが決め、それを我々が受容した「枠組み」だ。そこには、相手を鏡として、相手側に映った自分の「映し身」を自己像とする(実は、相手が抱いているイメージと想像されたものに過ぎない虚像なのであるが)、典型的な双数的鏡像段階にある者の在り様がくっきりと映し出されている。敗戦後の国体の明徴である。それはまた一方で、洋の東西を問わず、アジア太平洋地域で、帝国主義的な戦争を戦った真犯人同士の「共謀共同正犯」の謀議の現場を写した、動かぬ証拠写真でもあるのである。我々が大人として成熟するためには、言葉という記号(シンボル)操作に習熟して象徴段階へと入り、言葉を目的合理的に使役して「為にする議論」に消費するのではなく、それを、我々と同じ存在者としての「ロゴスである神」として敬意を持って慎重に扱い、論理の合理性の筋に沿って、ソクラテスのいうところの「ロゴスの赴くままに」、いわば言霊の助くる国の「神ながらの道」を行くこととして、それを再定義出来るとしたら、我々は、他者から運命づけられた枠組みをすり抜けるようにして、自由を得ることが出来るだろう。それは、何ごとにおいても第三項を導入して対立構造をずらし、フレームワークを初期化するということである。いま、そこに投げ入れるべき第三項とは、中国のことだ。なぜならば、征服者の意識にはあっても、我々からは隠されていて意識化出来ていないものが、昔から今もアメリカにあるが、昔はあったが今はもう我々にはない、中国への欲望であるからである。人の目や自分の目は誤魔化せても、神の目は誤魔化せない。神の視線に漸進的に近接してゆくのが、巨視的な歴史的視点であり、三角測量の方法論にも似て、両論併記の上で双方の論旨の角度的差異の先に、見えざる神の差配を見出す歴史進化論的意識なのである。その象徴段階的な超越的視点をもってしか、我々が他者の思惑から離れて精神的な自立を果たす「成熟」はあり得ないのであって、日本は、アメリカからやりすてにされる芸者のような「都合のいい女」から、せめて「都合のいい男」になれということである。つまり、ロジカルに共生を果たす、アメリカの頼りになる友人になれということだ。



昭和天皇が『君臨すれども統治せず』の理想的な立憲君主の立場を超えて、自らの政治的意志を直接的に示した例は私からみて四度ある。一度目は、いわゆる「満州某重大事件」である。張作霖爆殺事件をうやむやのうちに葬りたい陸軍出身の田中義一首相の曖昧な上奏は、昭和天皇の不興を買っただけでなく、「辞任してはどうか」という天皇による事実上の総理大臣の罷免、つまり、普通選挙で民主的に選ばれたはずの内閣の不信任にまで至る。二度目は、大元帥として、2.26事件における「断固鎮圧」という自らの統帥権の行使である。三度目は、ポツダム宣言の受諾を決めたいわゆる「聖断」であって、敗戦直後の混乱期におけるマッカーサーとの一連の直接交渉も、その延長線上にあると言ってよいが、人間宣言以後、また新憲法発布後に、日米安保条約制定をめぐって、マッカーサーや吉田茂の頭越しになされたワシントン政府との「二重外交」(@豊下楢彦『安保条約の成立』岩波新書 1996年)は、立憲君主制はおろか、象徴天皇制からの明からさまな逸脱であると言えるだろう。この四度にわたる逸脱の性質を仔細に検討してみると、一回目と四回目が「外交防衛政策」に対する干渉であり、最初が「軍事力を背景にした他国への内政干渉を咎めた」形で、最後のは「それを積極的に引き込み是認した」形になっている。ベクトルの向きがちょうど逆である。そして、二度目の大元帥命令による「断固鎮圧」は武力行使による平和であり、三度目の、いわゆる超越的な天皇大権による「聖断」の終戦工作は、武力放棄による和平である。これもベクトル的には奇妙にも正負の向きが逆になっており、逸脱を逸脱で打ち消して、政治力学的に平衡を取り戻した恰好になっているのである。つまり、最初の「嘘」が次ぎ次ぎと嘘の上塗りを必要としてゆくように、初めの逸脱が次ぎなる逸脱による「修正」を必要とするような、政治システム上の暴走を引き起こしたと言えなくもないのである。



歴史に「 if 」はないが、この昭和天皇の最初の政治干渉によって浜口雄幸内閣が誕生し、蔵相も高橋是清から井上準之助に代わって「金解禁」断行へとつながり、やがてそれが、東北地方の深刻な不況を招いて2.26事件の引き金になる。2.26事件における皇道派と統制派の対立は、「この国のかたち」をめぐる対立である。『朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』という昭和天皇の怒りは、決起した青年将校にとっての「股肱」である、東北出身の兵士らの窮状を思う心とそっくり同じでありながらも、その同じ気持ちが二つに分かれて相反し、万葉集の第一巻劈頭第二歌にある「国見の歌」に謳われた、「庶民の竃に煙が立つのを見て美しい国と思う」この国の天子と赤子が、昭和の御代になって、『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ、此レガ鎮定に当タラン』とまで言わしめて、相争わなければならなくなったのである。そこに「国家観」の乖離があり、両者の間には決定的な距離があったのだ。2.26事件で決起部隊が鎮圧され、軍部が粛軍と称して皇道派を第一線から放逐したということは、事実上、軍の近代化を進める統制派が勝利したことを意味する。2.26以後、日本は陸海軍省を含めて、革新官僚が主導する国家社会主義的な統制経済のもとに、国家と資本家が一体となって近代総力戦を遂行し得るような国家総動員態勢、いわゆる「1940年体制」が確立されて行き、それはそのまま太平洋戦争を超えて、敗戦後もバブル経済崩壊まで「護持」されて行くのである。



私は、昭和天皇が戦前においても、終始時勢に翻弄される非力な存在であったとは思っていない。2.26事件のとき、「自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる」とまで言い切り、一時は決起将校らに対する同情論や擁護論もあった陸軍内部も、一同風に靡くかのようにして、武力制圧の線に決して行くからである。この皇軍の一大不祥事に際しての果敢な処置により、軍を統帥する大元帥としての威信と軍への影響力は、むしろ高まったと見る方が自然だ。秩父宮擁立までをも視野に入れていたクーデター派を、自身に対する反逆者と見なして粛清したその後に、権勢に翳りが射すというような、政治力学的奇習を私は知らない。昭和天皇は、日清戦争時に広島大本営まで出張った明治天皇を規範として崇敬していたくらいであるから、その外交知識や情報センスからいって、ヒトラーほどの明から様な干渉でないにせよ、これを奇貨として、皇軍の督戦に一層傾斜していったはずである。あの写真に写っている二者が演出しようとした茶番劇の当のもの、日米双方がともに隠蔽しようとした真犯人とは、ある神秘主義的な宗教的情念をもってしか遂行することが出来ない過酷な近代戦を戦うために、「神」である人間を中心におき、その聖戦を戦って敗れ去った、帝国主義的国民国家主体としての「われわれ」である。その敗戦責任(戦争責任ではない)を曖昧にすることは、敗北者にとっては、自ら肺腑をえぐり出するような痛みを避けることが出来、そして、それを何よりも、勝者の敗者に対する寛容さと誤解させて、抵抗者を馴致せしめるところが大だったからである。つまり、中国を睨んで、第二次大戦後のアメリカの極東政策のファーストステップである対日占領政策を円滑にならしめる為に、諸連合国の意向を無視して、昭和天皇の戦争関与は東京裁判で追求されず、それは結局、真の戦争主体である我々が、征服者側から慰撫されたということなのである。



裕仁天皇個人の在位と天皇制存続の問題は、論理的に別次元の問題であるが、サンフランシスコ講和条約締結後も続く軍事的半占領状態を維持する為には、その方が好都合であったからこそ、それが政治的に問題であるがゆえに、それが忌避されたのである。つまり、退位によってある責任を内外に明徴化することは、昭和天皇個人の政策決定過程への関与が取り沙汰されるだけでなく、それは取りも直さず、戦争責任の全体像をつぶさに余すところなく明らかにしてゆく過程で、戦争関与の度合いによって、真の戦争主体である一般国民を、正と邪に仕分けすることに他ならなかったからである。それゆえ、すべては軍人や官僚の一部指導層が悪かったということにされ、本格的な犯人探しによって国内を分断するような、深刻な国内対立に陥ることが避けられたのだ。その曖昧さが、やがて後の安保改定の際に国民的強訴となって国論を二分し、結局、昭和天皇が退位する代わりに、岸信介首相が身代わりになって退陣したわけである。いわば、我々は自らを甘やかしたのであり、占領者、および戦勝国に対する「子ども」の立ち位置を、自ら選びとったのである。それゆえ今も、アメリカを始めとする中国やロシアなどの他の対日戦勝国に対して、外交的にも、精神的にも、倫理的にも(倫理とは「友だち付き合いをすることわり」であり、我々は、日本の中の「敗戦国組」、つまり、アメリカ・中国・ロシア・イギリス・オランダ・オーストラリアなどとは相容れない心性を持った人々との訣別が未精算のままで - そこがドイツやイタリアとは違う - 、真に「戦勝国組」の同輩として国際社会に参加するルールやマナーを、未だ日本国のメインストリームが血肉化していないのだ)、負債を負っており、それが対等な付き合い方や当たり前の対応を妨げ、ひたすら卑屈に低姿勢になって相手に迎合するか、そうでなければ反対に感情的になって威丈高に反応する、子供のような応答に終始するのである。「侵略戦争」で片付けるのも、日本の植民地化の後遺症で、本来ならば同胞相争う理由のない内戦であった朝鮮戦争の、米ソの覇権争いの代理戦争という側面を曖昧にするし、「自存自衛」と抗弁するのも、同じように王族を国民統合の中心に戴いて、欧米の植民地化から独立を守ったタイの例があるからして、強弁するには無理がある。



日本の政治・社会学者が一様に失念していることは、日本が高度な近代化を達成した唯一の非西洋諸国であるということである。儒教文化圏の天帝天子システムの下にある本質的に律令官僚制国家である東アジアの国では、天子の徳によって同化を促す上からの行政サービスが福祉の基本であり、したがってそこには、キリスト教会を核とするボランティア・ネットワークによる民間セクターのセーフティーネットが存在しない。ソビエト崩壊後の混乱を早期に収束させた現在のプーチン政権下でのロシアの復活も、ロシア正教会との協働なしにはあり得なかったと指摘できるであろう。それゆえ、都市化により、またグローバル化によって、地縁血縁社縁の劣化が進みつつある日本で、更なる経済成長を目指して新自由主義的改革を断行し、規制緩和によって行政の関与を弱めて自由競争を押し進めることは、安全網なしで空中サーカスをやれと言っているのに等しい。律令制の衰微が甚だしかった戦国時代に、「加賀は百姓の持ちたる国」と言われたのも、実はそこにあったのは仏教的な信仰共同性であり、伊勢長島、京都叡山、大阪石山もそうである。結局、織田信長がそれら寺社共同体をことごとく粉砕することで、日本は宗教的な中世から脱宗教的な世俗的な近世へと進み、寺請制度(檀家制度)によってそれらが儒教的な幕藩体制に組み込まれると、文字通り、官僚行政システムによる一元的管理が、唯一の公共的なセーフティーネットとなって行く。それゆえ、本源的に革命思想である「近代化」によってもたらされる激動期には、痛みを伴った国内改革の内政の矛盾や不満を、外交政策で解決しようとする誘惑に駆られるのであり、それが、戦前の昭和恐慌時にあっては、満州事変から始まる一連の植民地経営主義的攻勢となって現れ、今は、靖国公式参拝問題(あるいは、尖閣諸島などの「辺境の」領土問題)なのである。



キリスト教における教皇の不可謬性にしてもそうだが、これは個々の教皇の判断(教書や回勅)が無謬ということではない。元より人間は自由意志を持つが故に、原理的に間違い得るものだ。しかしながら、天皇制とか普遍教会を護持しようとする心性と営為のうちにしか、修正を可能にする皇統の連続性が担保されず、歴史的な時空間において中心軸を通すことで、結果的に360度の不偏性を確保しようとするのである。ちょうど、腹背に敵を受けた時には二人で背中合わせになって対処するように、時間軸でバランスすることで、永世を保障し、大御心の絶対性とか、教皇の不可謬性の信仰のうちに、聖性が獲得されるのである。聖性は、唯一性と永遠性をもって聖化されるからである。それゆえ、周縁から中心を見るたった1度分ほどの視野角にしか過ぎない「私心」を、「大御心」に対して優先する者は、聖性を毀損し、皇統を廃する者といえるだろう。それである意味、鏡像段階的な双数関係にある者の信仰は、「日本が大変になりますゾ、今に大変なことになりますゾ、... 天皇陛下何と言ふ御失政でありますか、何と言ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」といった、2.26事件で処刑された磯部浅一の呪詛ともなるわけであるが、磯部の言っていることは正しくとも、やっている事は間違っているのである。



神と人の立場を「一身で二生を経るが如く」であった昭和天皇は、「この原子爆弾が投下された事に対しては、遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と言われたことがある。我々が土から生まれ、塵からとられたものであるならば、神話の中でイザナミ神とイザナギ神がそれぞれ、毎日人間を千人殺し、また毎日千五百人生み出すことを宣しあったように、皇国の皇土に降臨した天孫が、命を与え、またそれを奪うことが出来るのも、それが現人神であるからだろう。しかしながら、日本神話ではなく現行憲法のもとで、象徴天皇として即位された今上陛下が、時に被災地をお見舞いになるときに、スリッパ履きで体育館の床に膝を折られ、我々国民と同じ目線の高さで親しく接せられるのは、古代万葉集の「国見の歌」にある大王(おおきみ)と民がそうであったように、民の暮らしが立つことをもって美しい国とする、理想的な天皇像がそこにあると、私には思われるのである。昭和天皇は2.26事件当時の国民が「ああいう具合に苦しんでいたとは、知らなかった」そうであるが、天香具山に立てば国全体が見渡せた大和盆地の大王の時代から、皇化の及ぶところが日本列島の隅々に至ったとしても、今はメディアの力を借りて、天皇と国民が事情を相通じ合うことも可能な時代だ。昭和天皇の人間宣言以後、日本国憲法のもとで即位された、名実共に国民統合の象徴天皇である明仁天皇は、大和政権の大王が我々と起源を同じくする総代であったように、我々とは別種の天孫としてではなく、我々と種を共にする天皇として、そこに完成をみたのである。



日本国憲法は、敗戦後の日本の神話である。我々を母なるものから生ましめた最初の一撃である戦後日本人の「起源」であり、聖なるもの、父なるもの、神なるロゴスである言葉、そのロジックである。未だ来らざるものが既に到来したものとして信仰告白される、過去時制で語られる未来の理想物語だ。人工の言葉のロジックで分節された、機械時代の都市的な主体である近代の人間は、天然の自然の大地の原理によってではなく、ある理想的な理念とか、原理原則を基盤として、生まれ、生き、そして死んでゆく。魂が、肉体の起源である自然霊の棲む「地」に還るのではなく、滅びゆく肉体から精神を解放し、人格霊のスピリチュアルな故郷である「天」に帰る為である。玉音放送が流れた夏の日はただ青空が広がり、天空のように漠として静寂であったという。我々が敗北を抱きしめることを自らに許した時、いっときアジアは植民地主義的なものから解放され、エアポケットのように、そこに平和が訪れていたのだ。死者たちは帰って来る。もうすぐ「死の行進」が始まる。丹下健三の広島ピースセンターは、平和を創る者たちの「凱旋門」である。死者たちはそこを目指してやって来る。なぜならば、そこにあるゲートをくぐり、それぞれの故郷の土へと還って、『安らかに眠る』ためにである。言祝がれることのなかった戦争で犬死にした呪われた戦士としてではなく、アジアの平和、世界の平和を作る為に、真のアジア解放の聖戦の神兵として、彼らは勝利の凱旋をするのだ。それは、戦前と戦後に分断され、義絶された二つの歴史を、私がひとつに繋ぎ、遂げられることのないまま漂っていた彼らの至誠の想いを回収する道を、この私が切り開いたからである。『玉音放送』は、我々の神が死ぬ前の最期の声である。神の死後、我々の神亡き後、敗戦後、父なし子となる我々一人ひとりの為に残して下さった遺言である。


『... 堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す... 』


できれば、全文を聴いて欲しい。






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