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KYONのいろいろ練習帖

パソコン練習・イラスト練習・猫育て練習・猫仲間練習を綴る。
時々、生活や趣味の話題もネ!

◆ ♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️◆ (40 ) 【猫との暮らし・日常雑話】

2025-05-24 15:25:00 | 日記
◆ ♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️◆     
         (その40 )
【猫との暮らし・日常雑話など】
・・・・・・・
🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
  〜歩いて 調べて その記録〜
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ
🐈‍⬛ポン太郎🐈
「ぷんたろうくんのおうちに
 また、あかちゃんねこさんが
     つれてこられたって。

ぷんたろうは、もう けーじをでて
おうちのなかを
   はしりまわっているって。
おにいちゃんになったみたい。



あかちゃんねこさんは
   ものすごくおおきなこえで
   なきつづけているんだって。
あかちゃんのなまえは、
 『ぴーこちゃん』でどうかな。」



   ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•
👱🗣️
♦️【清き土なり】のおべんきょう♦️
        (その10)
 [志木街道沿いの史跡巡りの続き]
★★中清戸の子育て地蔵観音★
全龍寺参道前の安産 子育守護地蔵尊
  かなり大きい地蔵菩薩像
  (木製祠)高さ2メートル越え   
真っ赤な幟が並び、遠くからでも目立つ
医療が発達していない時代に
    こどもの病気平癒を願った
志木街道拡張のため、ここに安置
  (全龍寺との関係は、ないらしい。)
  後ろにイチョウの大木

・・・左脇の参道を進むと、すぐに全龍寺・・

★★全龍寺(ぜんりゅうじ)★
⚫︎山号:安松山 
 寺号:全龍寺 宗派:曹洞宗
 ご本尊:釈迦牟尼佛、
 札所本尊:一葉観世音菩薩
 札所:武蔵野三十三観音 
 霊場 第六番札所
・山門はなく、石柱がある
・正面 本堂 入母屋造り
   (彫刻は施されずスッキリした建物)
慶長元年(1596年)
      並木主水正安松を開基とし
 浄牧院九世 玉室應珍和尚の開山
 (武蔵野三十三観音霊場のパンフより)

・400年を越す古刹ではあるが、
 貞亨4年(1687年)と明治13年(1880年)に
       火災に遭い、寺宝など焼失。
⚫︎「一葉観世音」
・清瀬市唯一の多摩三十三観音霊場
(観音様がその姿を変えて人々を救済する
という三十三応現身として選定された
        三十三観音のひとつ。)
・観音札所のなかでは唯一の「一葉観音」
   (本堂左手厨子の中に祀られている)
   開祖道元禅師にまつわる伝承もあり、
      曹洞宗にとっては重要な観音。
   木造は珍しく貴重な存在。
  (ここで言う一葉:蓮の葉、つまり蓮華)
*曹洞宗の宗祖道元が中国での修行の帰り
海上で暴風雨に見舞われた時、一心に観音経
を唱えると、蓮華に乗った観音様が現れ、
忽ちに暴風雨が治まった。
交通、水難厄除の観音様として、信仰を
集めることになる。
        (36号:「休心庵」でも説明)

   ・写真:横顔/葉の上に座す秘仏の
     一葉観音を超巨大化した石仏
           (立膝の観音様)
・空海、円仁の祖師方をはじめ、野口英世
 博士なども交通安全や水難から身を守って
 くださる観音様として信仰したと言われて
 いる。
⚫︎ 江戸時代、寺領15石の御朱印状を拝領。
⚫︎ 戦前は中清戸の1/3はこの寺のもの?
⚫︎ 一対の石像 金剛力士像
⚫︎ 壁伝いには、16羅漢石像と観音像
(「16羅漢」とはお釈迦様の弟子で特に優れた
       代表的な16人の弟子をいう)

      ⚫︎ 墓地入り口の6地蔵

⚫︎ 一対の石灯籠には猛々しい姿の龍や
           獅子などの彫刻
  高さは4メートルもありそう
⚫︎ 鐘楼
 屋根は瓦葺入母屋。なんと、赤い柱!
 朱塗りの鐘楼堂は珍しい?
  ( 本堂前に植えられたロウバイが満開に
       なる季節には綺麗とのこと)

⚫︎ おや、境内に・・・
       鳥の声?なぜ??
  (大きな鳥小屋の中に数匹のインコ)
              写真:手前右が鳥🦜小屋

参考資料 「ヨッシーのほっこり町歩き」
     「諸国放浪記」
     「ovanの社会科見学」

【感想・コメントなど】
・とても広く静かで誰もおらず、
 お寺に入ることをためらってしまった。
 大急ぎで、さっと数枚だけ写真を撮り
       走って出てきてしまった。
 後で調べたら、見るべきものがたくさん
           あったと知った。
・火災のためなのか全体に新しく綺麗なイメージ
 寺宝などを焼失したのは、残念。
 敷地はかなり広く、火災以前はどんな雰囲気
 だったのか、知りたいと思った。
・「一葉観音」については「休心庵」についての
 まとめでも調べたのだが再度調べてみた。
 なお、なぜあそこにインコがたくさんいるのか
 調べてもわからなかった。
 (かわいいベンチもインコさんだった)
このお寺を訪れる札所巡りの方々には
チェックポイント・見どころがたくさんあり、
             面白いだろう。
石碑の中には「全龍」という名前の通り、
     龍もあちこちにいらっしゃるらしい。

*市史によれば、1944年に青山国民学校から
  3年生男子34人の学童疎開をこのお寺で
            受け入れたそうだ。
(学童疎開については、
他に円通寺・長命寺の3つのお寺で計児童79名。
なお、当時は農村地帯であった多摩地区には
     7000名余りの児童疎開があった)
*また、全龍寺の墓所には1945(昭和20)
4月2日の空襲で亡くなった家族6人連名の墓誌
があるそうだ。

さて、帰り道は左に曲がれば志木街道だが、
右の小道を地図を見ながら散策していると、
突然、神山公園及び「コロポックル」という
市の児童センターの裏に出た。
ちょっと、歩き過ぎたのかもしれない。
志木街道沿いには、まだ史跡があるそうだ。
            戻らなければ!
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•
     では、次号に続く。
………………………………………


◆ ♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️◆ (39 ) 【猫との暮らし・日常雑話】

2025-05-23 14:10:00 | 日記
◆ ♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️◆     
         (その39 )
【猫との暮らし・日常雑話など】
・・・・・・・   ・・・
🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
歩いて 調べて その記録(9)
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ
🐈‍⬛ポン太郎🐈
「おかあさんが ばすをまっていて
たのしいものを みつけたって。
はたけに はしるななめの『せん』。

なにだか、わかる?
うめのはなのかたちだよ。」
(ここは今、ナス畑になっている)
👱🗣️
♦️【清き土なり】のおべんきょう♦️
   (9)〜円通寺の周辺〜
【1】ふせぎ (前々号)
【2】円通寺 (前号)
【3】円通寺の周辺 
  ちょこっと寄り道の巻(今号)
  
❶[ひとつ目のちょこっと寄り道]
円通寺から少し離れているが、学芸員
さんから教えてもらった、こんな言い
伝えのある場所にも行ってみた。

★「お塚様」★ (上清戸2-10)
    周囲: 数10メートル、
    高さ: 約1メートル
    塚の上に樹木 🌲楠 
南北朝時代に新田義貞がここを通った時に
愛馬に死なれてしまったことから、ここに
埋めて供養したという言い伝えが残されて
いる。    《資料 「古跡なう」》より
・現在は、マンションの駐車場の一角に
ひっそりと残されている。
貴重な塚だが史跡標識のような名前を示す
ものも説明板もない。
・木の下は、ただの細い抜け道のように
見えた。写真を撮っていると近所の人に
怪訝な顔をされた。
若い人たちにはもう知られていないのかな。
地元の子どもたちに是非、この伝説を伝え
続けてほしい。
 (古くから暮らす人たちによると、「お塚様」
 と呼ばれ、なじまれていた時代もあった
 そうだ。)
・マンションが建つ前は道路からどう見え
たのだろう。道路側、マンション側からの
写真も撮ってみた。




・・・・・・・
❷ 円通寺のご近所 
[二つ目のちょこっと寄り道]
・鎌倉街道上道下宿(円通寺前の鎌倉道は
広い道幅ではないが車は行き交い、ふせぎ
のイベントの際は車を止めて行われた)、
柳瀬川を背に建つ円通寺の近く、
柳瀬川にかかる城前橋を渡るとすぐ近く
に「滝の城跡」がある。
・下宿地域には大蛇に関する伝説があるが
ふせぎ行事は、この大蛇伝説に関連した行事
だと言われている。
そして、すぐ近くの柳瀬川を挟んだ対岸
(所沢市)には大蛇(または、龍?)が「滝の
城」の「霧吹きの井戸」に住んでいたという
伝説もある。
下宿↔︎滝の城はあまりにも近いのできっと
なんらかの関係があるに違いないと思い、
橋を渡ってみた。
………………………
★「滝の城址」★
◉所沢市図書館の説明を幾つか掲載する。
⚫︎「所沢市の東の端、清瀬市との境に
     戦国時代の名残を匂わせる
     県指定史跡「『滝の城址』」
《その歴史の要約》
・築城者は、太田下野守や大石定重、
定久親子など諸説あり。(定かではない)
・武州八王子城主北条氏照の支城と言わ
れている。
(現在残る遺構からも北条氏の手が加わって
いるのは明らかなようだ。〈障子堀跡〉)
・南東を流れる柳瀬川を天然の*要害とし、
空掘りを巡らした平山城。崖の上の最高所
に本丸を置き、その周囲に二の丸、馬出し、
北東方面に三の丸、出曲輪(でぐるわ)が
配置されていた。
出曲輪のあった崖に滝が流れ落ちていたと
され、この滝が"滝の城"と呼ばれる由縁で
あったと言われている。
各曲輪の連絡は土橋が1本あるのみ。
その土橋それぞれに対し横矢がかけられて
いた。また、本丸の2箇所に設けられた
櫓台からも目の前の土橋などを狙い撃つ
ことができた。寄せ手を狭いところへと
追い込み、側面から攻撃する造りが随所
に見られる。
(北条氏らしい造りと言われている。)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の
小田原攻めに際し、南東方面からの攻撃
に厳しく備えていたが、思いがけなくも、
北方から攻め寄せた豊臣方の浅野長政の前
にあっけなく落城。以降は廃城。
現在は、堀、土塁、本丸などの跡が遺構と
して残り、本丸跡には『城山神社』が建つ。
…………………………………
◉「滝の城」の役割について
⚫︎城郭の構造の復習
・柳瀬川:天然の*要害(地勢が険しく敵を
 防ぐのに適しているところ)
・空堀を巡らした平山城
・崖上の本丸
⚫︎戦国時代の多摩西部と北関東の諸城を
結ぶ「情報伝達拠点」(主に北条氏照の支城
として、川越や岩槻などの城と城とを結ぶ
「伝えの城」として、また、「警備や陣営の
地」としての重要な役割があった。)
⚫︎滝の城は戦国時代関東管領上杉氏の重臣
で武蔵国守護代として多摩、入間、高麗郡
を支配していた大石定久の代に後北条氏の
支配下となり北条氏照の支城になった。
氏照は滝山から北関東に度々出陣しており
直線上にあたる滝の城は「軍勢集結の拠点」
になった。
1564年(永禄7年)の北条氏による下野へ
の遠征の際にはこの城で陣揃が行われたこと
が記録されている。

……………………
★「清戸番所」★ 
◎上・中・下の清戸村と清戸下宿に分かれ
たのは江戸時代になってからだが、その
清戸下宿関連で、次のような気になる
コメントを見つけた。
◯滝の城か対岸の清戸下宿(小字岡)かは
明らかではないが、清戸番所が設けられた。
清戸番所は現在の関東地方北部に向かう
軍事的な要所をなした。
◯ 清戸下宿を小田原北条氏が設置した
清戸番所の所在地とする説がある。
所沢市史では、下宿薬師堂辺りの井戸から
古銭や板碑が見つかっていることを上げて
いる。
また、滝の城と相対する対岸にあって、
柳瀬川の渡河の監視という観点からも説明
しているが、はっきりしたことは不明で
あるようだ。
さて、「清戸番所」はどこにあったのかな。
もっと遺跡や文書などが出てくれば
はっきりするのかもしれない。
       《資料 Wikipediaなど》
………………………………
🤨【感想・コメントなど】
・城前橋を渡り、草むらの小道を進んだ
のだが「虫刺されの薬を持つべき季節に
なった」と思った。草の道が続き、かゆい!
・城山城址公園の中に入り、駐車場や
野球場を眺めながら、神社への入り口を
探す。(城だから当たり前なのだが斜面が
多く、足首捻挫と膝痛の私としては少し
でも楽な道を探すしかない)
・城山神社の鳥居(正面参道)を見つけたが、
神社に向かう階段の急勾配の姿にさらに
心萎える。無理無理、横の斜面の小道を
進むことにする。

         《写真: 正面参道》
・まわり道をして、無事に神社に到着。
 〜滝の城跡 タキノジョウ 〜 
・台地の緑辺部を利用した多郭式平山城。

 土塁・堀・櫓台ヤグラが残っている。


《写真: 滝の城跡散策道 案内図》      

 城山神社境内
       《写真: 滝の城の本郭跡
           城山神社拝殿》

  《写真: 二の鳥居 木製の*両部鳥居
(*「両部鳥居」:本柱の前後に短い控え柱を
      立て貫で本柱と繋いだ鳥居)
・稲荷神社につながる階段を見つけて、
息切れしながら階段を登ってみた。

《写真: 御神木の夫婦樫を挟むように
            3本の石段
   物見櫓跡に建てられたお社》
・城山神社からの下の眺めは抜群。
一気に展望が広がる。
神社から柳瀬川に向かって視界が
広がっているのだ。
武蔵野線の電車が走る光景は
絵葉書のよう。てっちゃんだったら、
撮影のタイミングをねらうだろう。
《写真: 南側 視界が広がる 展望台》


《①武蔵野線 東所沢駅と新座駅の間》
《②清瀬 台田団地方面?》
展望スペースからの夜景は綺麗とのことだ。
・かなりのお年寄りがあの急な階段を登り
降りしている姿に複雑な思いになる。
     (毎日の散歩コースなのかな)

《写真: 上から見た急階段》
・神社の周囲にはたくさんの幟が並んで
いた。祭りの準備中のようで、作業のため
の軽トラも並んでいた。
なんと、そこに大砲が?!なぜ?

・幟にある「戦国 滝の城まつり」について
検索してみた。毎年5月中旬に行われて
いるまつりのようだ。
→城公民館前駐車場から滝の城跡までの
「武者行列」(甲冑に身を包んだ200名近く
の武者達が滝の城跡まで練り歩く)・豊臣
方と北条方に分かれて行う「合戦絵巻」など
大砲まで登場する再現は迫力満点。
戦国時代の勇壮な雰囲気が味わえそうだ。
・帰りは空堀の間を歩いてみた。草刈りは
ボランティアさんの仕事であろうか。感謝!
草むらを歩いて踏み締めた跡があった。
なお、暗く鬱蒼とした木陰に石仏や稲荷
神社もあったが、周囲に人がいないので
見学はせずに先に進むことにした。
 それから大きな曲がりくねった坂道に
出ると急に車が現れて歩くには危険のよう
だった。七曲り坂と呼ばれ、滝の城の西側
を南に下る坂である。
道は木が茂り、途中「血の出る松跡」がある。
昔は曲がりくねった道だったそうだ。
(現在は改修されてカーブも大きくなり、
   曲がりの数も少なくなっている。)
・そこに石仏を見つけた。
「血の出る松跡」の案内の脇だ。
なんだろう?      《写真: 石仏》

私には石仏を見分ける知識がない。
後で調べてみたが「庚申塔」という説、
また、「阿修羅像の野仏」ではないかと
いう説もあった。
阿修羅は、三つの顔と六本の腕をもち
(三面六臂)、戦いの神でひとりで数人分
の活躍をするような強い力を持つそうだ。
滝の城は、戦いに向かう前に集まった城
だから戦勝祈願の石仏が残っていると
いう説明をする人もいるので、
もしかしたらそのひとつなのかもしれない。
でも、そうだとしたら野仏としては珍しい
らしい。わからないことばかりだ。
民俗資料館に行けばわかるかもしれない。
歩いていると、知らない世界にばかり
出会ってしまう。むずかしい!
・私は人が集まる所にはあまり行かない。
でも、これまでの「戦国 滝の城まつり」の
紹介記事を読むと戦国の時代を感じること
ができそうな盛りだくさんの内容⬇️だ。 

🚩武者行列・合戦絵巻・お囃子・天神太鼓
忍者ショー・よさこい踊り・音楽イベント
紙芝居「滝の城の竜」・江戸芸かっぽれ
居合・新陰流演武・各種模擬店🚩など

・地域の保存会や商工会、ボランティア
などの皆さんの熱い意気込みを感じること
ができそうだ。
◎さて、
さらっと終わる予定の下宿、円通寺の
コメントは歴史の重みからか、長くなって
しまった。
・市史によって解釈が違う場合もあり、
史実という研究はむずかしいのだろう。
歴史はわからないことが多いが歴史家の
皆さんが調査してくださっている。
私たちはただあれこれと想像してロマンに
浸ることができる。
郷土研究家の皆様、さらによろしくお願い
します。
《参考資料 ①所沢市図書館発行資料
   ②ブログ「ちょっと山城に」など》
*2025年第14回「戦国 滝の城まつり」
については、5月18日(日)に実施された。
甲冑を着た武者行列などの写真が報告されて
いるので、検索していただきたい。
◎では、次号は
  志木街道沿いの話題に戻ろうと思う。
 ・・・・・・・・・🖐️・・・・


🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔹(38 ) 【猫との暮らし・日常雑話】

2025-05-17 17:34:00 | 日記
🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔹     
         (その38 )
 【猫との暮らし・日常雑話など】
 🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
・・歩いて 調べて その記録・・
・・・・・・・・

ポン太郎🐈
「おかあさんは
 はいてばかりのボクのことを
 しんぱいばかりしている。

ボクは すこしずつ、
    すこしずつ、たべて
『ふとること』を めざしている。
でも、はいてばかりだから、
ひとさじ🥄ずつなんだ。

おかあさんは、
ときどき おそとをあるいて
『やせること』を めざしている。」
・・・・・・
👱🗣️
♦️【清き土なり】のおべんきょう♦️
………前号からの続きである…(8)……
〜「円通寺」 文化と歴史〜
【1】「『ふせぎ』のこと」(前号)


【2】「円通寺のこと」
以前のことだ。「赤い前掛けの6地蔵様たち
に会いたい」と言うと、知り合いからこの
清瀬の円通寺のことを教えられた。
「ふせぎ」のおかげで、その円通寺に行く
ことになったのだ。清瀬古道の小径沿いの
円通寺に到着すると、赤い前掛けをした
お地蔵さんたちが出迎えてくれていた。
白壁の前で並ぶ姿は確かに珍しい。
ここは「清瀬10景」のひとつなのだそうだ。
…………………………………………………
[清瀬教育委員会掲示]に
      次のような説明があった。
★円通寺★ (真言宗豊山派)
◉・・・清瀬10景 「円通寺」について・・・
・「清水山円通寺は、南北朝時代の暦応3年
(1340年)に建てられたといわれている清瀬
では最も古いお寺で、長屋門、観世音菩薩
立像の本尊と前立はそれぞれ市の有形文化財
に指定されています。」
・「この円通寺の『観世音菩薩立像』は、
新田義貞の弟新田義助が奥州下向の途中、
鎌倉の松ヶ岡から移したものといわれ、
それ以来、馬に乗ったままここを通ろうと
すると必ず落馬したことから別名「駒止観音」
とも呼ばれていました。
また円通寺に通じる観音坂は、この観世音
菩薩立像に由来するといわれています。」
・「『円通寺長屋門』:もとはかやぶきでしたが
戦後瓦葺になおしました。
武蔵野平野部の長屋門は比較的小さいの
ですが、この長屋門は規模も大きく、柳瀬川
滝の城を背に、清瀬古道に沿って建っている
白の大壁・板腰羽目の姿はあくまで端正です。
大扉の閂やくぐり戸のおさえ等に昔の工夫が
しのばれ基本的な使用目的が守られています。
円通寺の記録に『長屋門天保十五甲辰年十一
月二十五日上棟再建』(一八四四年拾食宥傳
の代)とあり、手直しはされていますが、
この時建てられたものが今に伝えられている
ものと考えられます。」
………………………………
●新田義介が1340年に祠堂を建てたとの
縁起を伝えているが、史実では同年5月に
伊代国(現 愛媛)で没していることから
新田義貞・義助兄弟に関連する人物が菩提を
弔うために建てたという説もある。
近世後期に駒止観音として信仰を集めたと
ある。
《参考資料:「東京都の歴史散歩」山川出版社》
……………………………………………
【コメント・感想など】
⚫︎山門:両塀が低いので、山門が高く見える
のだそうだ。銅板葺き。欄間などに彫刻。



門から本堂が見える





⚫︎本堂:銅板葺き。寄棟造り屋根。長い稜線。
正面入口左右の窓が可愛い。「花頭窓」と言う
らしい。左右に二連になっている。
欄間は龍や唐獅子、波に千鳥 雉などの彫刻。
立派な額縁。石庭越しに建つ。



⚫︎鐘楼は門の横だ。
⚫︎長屋門:「ふせぎ」でも有名だ。
    漆喰壁が美しい。


            (内側から)


⚫︎弘法大師の石像[像の由来の説明]
作:中尾邦三 奈良三十八連隊出願兵 
       (出兵前の作品)







⚫︎六地蔵だけでない。石仏が並んでいる
ので早速、写真を撮った。(道祖神、馬頭
観音、地蔵菩薩、不動明王など)  
境内に入ると静かで樹木も美しく、
掃除が行き届いていた。
✴︎「道祖神」とは、旅の安全や道の安全を
守る神様、それらを祈願して建てられた
石碑や石塔などを指す。外からの災いを
避けるという願いを込めて、集落や村の
入り口にたっていたり故人が安らかに眠れる
ようにあの世とこの世の境界を守るという
意味でお墓の入り口にたっていることもある
そうだ。
    〈参考資料:「JUGEMブログ」など〉
・・・道祖神や庚申塔など、地域の信仰
の厚さを感じる。
*なお、円通寺の道祖神は、以前は「上宮
稲荷」の前にあったものだそうだ。
🤨
・資料によって、「どうそしん」は「道祖神」
「同祖神」であったりして漢字ミスだと思って
いたが、意味や役割が違うそうだ。「同祖神」
はその字の通り、特定の氏族や集団に
とって始祖神や祖霊を指し、先祖崇拝や
氏族の繁栄を願う信仰の対象。
ちなみに
円通寺山門にあるのは「道祖神」である。
🧐
⚫︎さらに「道祖神」の別の説明を読んでみた。
「道祖神は、村の守り神として、多くは村の
中心、道の辻、三叉路に立っています。
村人たちが五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄
を祈願するもっとも身近な神、(略)多くの
場合、道祖神と同じところに庚申塔・二十三
夜塔が祀られています。」)
         《安曇野市HPより》
→道祖神や庚申塔(前号でコメント)など、
この地域は信仰の厚い土地であったようだ。
⚫︎〈すごいぞ、下宿!〉と思った今回の歩き。
さて、その「下宿」という地名の意味は?
・柳瀬川に沿って広がる下宿地域は、
古くから水の恩恵を受けながら人々の営み
があったと聞く。
・かっては「清戸下宿」と呼ばれていた。
三清戸の台地より下にある宿だから下宿と
名付けられたという説がある。
他には城山(現所沢市)に登って下宿方面を
眺めるとそこは見下ろすような地形になって
おり、清戸番所の下にある宿だから、
清戸下宿というのだという説もある。
      《参考資料: HP清瀬市役所)》
・なお、「宿」の意味については「シト(尿)
ジュクの転で柳瀬川右岸のジュクジュクした
湿地を示す。シトは水分の多い事を示し、
関東に多い~宿地名の多くは記録に残され
たもの(東京都新宿区新宿など)以外は街道
の宿場を示すのではなく湿地の地名だ。」
という説明もあった。
《資料:ブログ「目からウロコの地名由来」》

 ⚫︎不動明王とは・・・ 

イラスト:「いらすとや」より
(怒った表情だが実は煩悩を断ち切るように
    導いてくれる慈悲深い仏様の図) 
⚫︎不動明王の光背について
「不動明王は火焔を背負っている」という
ことは常識だと思う。
この炎は、「衆生の煩悩を大智慧の火で焼き
つくして悟りに導きたい」との不動明王の
強い意志(本誓)を現わすものだろう。
しかし、現地ではよく観察しなかったが、
後で円通寺の写真を見ていて光背の中の
「鳥」に気づいた。そして、これを「*鷹」
とする解説を読んだ。
さらに「*鶏」という説明も知った。
①「迦楼羅炎光」
→不動明王の光背は、「迦楼羅炎光(かるら
えんこう)」と呼ばれ、その炎の中に迦楼羅
という鳥の姿が表現されている。
(迦楼羅は、煩悩を焼き尽くす力を象徴する
霊鳥)この鳥は、毒蛇や悪龍をも食らうと
いう伝説を持つ霊鳥であり、不動明王の
煩悩を焼き尽くす力を象徴する存在。
これらの迦楼羅に因んで鶏(ニワトリ)が
不動明王の「お使い」とされ、
また、不動明王は酉歳(とりどし)生まれ
の人の一代守本尊ともされる。
②「鷹」
→鷹は、不動明王の「調伏(ちょうぶく)」
の力を表しており、悪を討ち、衆生の煩悩
を焼き払う不動明王の役割を象徴。
また、空を自在に飛翔し、高いところから
獲物を捉えることから、不動明王が持つ
高い智慧や悪を遠ざける力を象徴している。
・江戸時代の徳川家光公が鷹狩りの際に、
不動明王に祈願して愛鷹が戻ってきたと
いう伝説と関連しているようだ。
徳川家光と不動明王の伝説が結びつき、
不動明王像に鷹が描かれるようになったと
考えられる。

なお、徳川家光が建てた伽藍は現在も残る
「目黒不動尊」である。
《参考資料 「仏像のある暮らし」など
     その他 Google検索など》
・・・いろいろ調べていくと面白い。
不動明王の持つ力と役割をより深く理解
できる説だと思う。


⚫︎不動明王に「成田山」と書かれているのは
成田山新勝寺という寺院が不動明王を本尊
としており、信仰の一大中心地であるため。
弘法大師空海が一刀三礼の祈りをこめて
自ら敬刻開眼された、と言われている。
(ちょうどTV番組で「成田山特集」を
      やっており、その説明より)
⚫︎鎌倉時代は鎌倉幕府の武家政治が全国を
支配した時代で柳瀬川の上流に武蔵七党の
村山氏が栄えていたそうだが(狭山丘陵沿い)、
その頃の清瀬についてはあまり資料がない
ようである。
しかし、永仁七年(1299年)の年号が読める
「板石塔婆」が円通寺にはあるそうだ。
・[板石塔婆とは]😏
鎌倉時代から安土桃山時代にかけて造られた
供養塔のことで、死者の追善供養や、生前に
死後の供養を行う逆修(ぎゃくしゅう)供養
のために造られ、 また、墓標として使われた
事例も確認できているそうだ。
武蔵武士の信仰がうかがわれ、鎌倉街道を
探索していると街道辻や街道沿いのお寺など、
人目につきやすい所によく板碑を見掛ける
そうだ。
・・・あちこちの観光ガイドにもよく出て
きていたのに私はその意味を知らなかった。
🤨
少し、鎌倉時代のことを振り返って調べて
みたが、歴史家の先生方は口伝や伝説から
いろいろな証拠収集をしてたいへんな学問
のようだ。   でも、おもしろそうだ。
・前号でも紹介したが、庚申塔を探して
いた際、観音坂の小さな塚の上に板碑を
見つけた。木陰で暗く、文字は読み取れ
なかった。この詳細はわからない。
出羽三山をお参りした記念碑(左)と出羽
三山をお祀りした碑(右)ではないかと
説明する人もいるようだ。

⚫︎庚申塔:「駒形青面金剛庚申塔」
  六臂 宝暦11年(1761年)建立
       (ふせぎの木の下)



(✴︎写真3枚は前号と重複するが掲載する)

⚫︎観世音菩薩像は聖観音とも呼ばれ、
現実のあらゆる災難や苦しみを救済する
仏様として民衆の熱い信仰を受け、
特に馬を持っている人の信仰を集め、
縁日には多くの馬が厄除けに集まったそうだ。
《参考資料 ブログ 「ovanの社会科見学」、
  
「ヨッシーのほっこり町歩き」など 》

〜*その他のこと*〜
⚫︎円通寺には、災害用の非常用水として
手漕ぎ式ポンプ井戸が用意されているそうだ。
⚫︎戦前の円通寺:
1944年青山国民学校から6年生男子18名
が学童疎開、1945年6年生18人が引き上げ、
3年生女子22名の学童疎開受け入れ。
・1945年4月2日の清瀬空襲で下宿では
一家族で女性子ども3人が犠牲になった。
円通寺には、その清瀬空襲時爆死者の墓誌
がある。
 ➡︎円通寺の前の通りは古道らしい趣きが
ある。鎌倉街道上道、その昔、この狭い道
を馬で駆け抜けたのだ。
(決して広くはない道幅だが、今も車はよく
通るそうだ。静かさに安心してか、スピード
を上げる車も多いようだ。)



少し歩くと、
「下里八幡神社」(新田家ゆかりの神社)
や「上宮稲荷神社」などの古社寺も多い。
八幡神社の背高巨木26mの欅(清瀬市指定天然
記念物)が遠くからでも見える。
「ふせぎ」や「下宿囃子」(どちらも映像鑑賞可)
などの地域の文化や伝統芸能が継承され、
里の生活の雰囲気が伝わってくる、そんな下宿の
中心的存在がこの円通寺なのだろう。
ゆっくりと訪れてみたい、そんな場所だ。
   ・・・・・・・・            



《写真「ふせぎ」前号と違う角度から》
知らない世界との出会いは、
        さらに次号に続く🖐️
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•

🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸(37 ) 【猫との暮らし・日常雑話】

2025-05-13 15:59:00 | 日記
🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔸     
         (その37 )
【猫との暮らし・日常雑話など】
 🔻「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」🔻
  歩いて 調べてその記録(7)
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•
🐈‍⬛ポン太郎
「みどりが きれいなきせつ。
もうすぐ あつくなるのかな。」

   〈写真 「5月の青空」〉
「『けーじ』で すごす、
    はじめてのきせつだ。」
 (よしず・かーてん
    ・つめたいまっと、
 おかあさん、じゅんびありがとう。
 でも、
もっとたいさくをかんがえてね。
     「もうしょ」がこわいよ。)
    ・・・・・・・
👱🗣️
志木街道沿いではないのだが、
毎年5月に伝統行事がある
「円通寺」のことを先に紹介する。


〜「円通寺」 文化と歴史〜
【1】★下宿ふせぎ★
    (円通寺長屋門 前)のこと
郷土館で知り合った方からの情報があり、
急だったがこのシリーズのひとつとして

「ふせぎ」イベントに参加することにした。
円通寺に到着すると、知人は朝8時から
の
「わら打ち」から参加していたとのこと。
まさか取り付けが16時までかかるとは

思っていなかったようだ。
➡️〈「ふせぎ」とは?〉
 「『下宿ふせぎ』とは、太さ20cm、
長さ20mのわらで作った大蛇を作成者
全員で担いで運び、観音坂に飾り付ける
行事です。ふせぎ行事は、疫病などが
下宿地域に入るのを防ぐことを目的と
して江戸時代後期より行われている
都指定無形民俗文化財です。」
      (「きよせTIMES」より)
  *******************************

5月3日(土)

✴︎①わら打ち=午前8時~下宿公会堂(下宿二丁目)

 ②大蛇作成=午後1時~円通寺長屋門(下宿二丁目)

✴︎「下宿ふせぎ保存会」

  ********************************













【コメント】
⚫︎江戸時代から続いている清瀬の伝統
行事。貴重な無形民俗文化財の見学が
自由にでき、また一部ではあるが参加
もできる。
⚫︎郷土館の壁にも藁の大蛇が飾られて
いて見たことはあるが何より伝統文化
を伝えることの大変さを感じ取りたい
と思い、出かけることにした。
⚫︎陽射しが強く、座るところもない戸外
でのイベントに参加することは楽では

ないが、大切な行事なのだろう。
家族と一緒に地域のお年寄りが次々と
集まっていらっしゃった。
⚫︎門の前では揃いの藍染の半被姿の
保存会の皆さんが《大蛇づくり》。
なお、門の裏側では、もくもくと藁の
下作業が続けられていた。

(straw snake !
  大蛇20メートルのための準備!!)
⚫︎蛇づくりでは、保存会の人だけでなく
見学の人も参加を呼びかけられていた。
なにせ、長いですから、体験者歓迎!
(straw snake !20メートル)
⚫︎出来上がった蛇を持って移動、
          やはり、長い!
(straw snake ! 20メートルの行進)







⚫︎完成した大蛇は旧村境の三叉路に立つ

2本の木に掛け渡すのだが、長くて
重くて調整がたいへん。声を掛け合い、
ロング刺股サスマタや高所作業車の
大活躍でなんとか、出来上がった。
なお、この下宿地域で稲作をやっていた
当時は午前中に稲の籾モミふり(種蒔き)
を行っていたそうだ。
       (以前は毎年5月1日)

みんな、働き者だったのだ。しかし、
今後は稲作の減少で清瀬だけでなく、
藁ワラの確保はむずかしくなるのかも
しれない。
(都内には、厄除けの祈願のために藁縄で
編んだ蛇を祀る行事が数例あるそうだ。)









⚫︎この2本の木は観音坂(地区の入り口)
にあり、蛇の胴体が巻かれる側の木は
小さな塚の上にある。塚をちょこっと
登ると「板碑」が立っている。ここに
足場が組まれていた。道路の反対側に
大蛇の尻尾がかけられるが、こちらの
木の根元には「庚申塔」がある。

⚫︎「庚申塔」は、道の分岐点や交差点など
移動の重要な場所に建てられ、道標の
役割もある。また、邪気は村の境界から
侵入するという考えがあり、村の境界や
辻で村の守り神として信仰されてきた。



健康と長寿を願いが込められているの
だろう。なるほど・・・ふせぎの行事に
ピッタリの塔だ。



⚫︎御住職の読経で魂がこめられ、
来年の5月3日までの1年間、
この大蛇様が
  清瀬の街を守ってくださるのだ。
「清瀬が、日本が、そして世界が
     平安でありますように!」
……………………………………………
⚫︎ふせぎから観音坂を上っていくと、
「天満宮」がある。
平成30 年に移築されたそうだ。

⚫︎さらに観音坂を歩いていくと円通寺の
山門がある。
…………………………………………
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•
     〈写真 「5がつの畑」〉

【感想】
・東京で、このような貴重な民俗文化を
今でもしっかり残し、伝えられている
ことに感動した。保存会の方々は準備
から取り付けまでたいへんなご苦労で
頭が下がる思い。実は、はじめはあまり
興味はなかったのだ。しかし、実際に
見せていただいて、大蛇の頭の位置が
定まった時は思わず拍手してしまった。
写真や動画を撮る人たちはたくさんいたが、
中には素早くネットで公開している人も
いてビックリした。
         私も頑張らねば!

さて、若者の参加はどうだったのだろう?
後継者確保はどこも大変なのかな。
・・・・・・・
*なお、顔写真については
    一部加工させていただいた。
*清瀬市でもっとも古いお寺である
    円通寺については次号へ🖐️・・
 ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
………………………………………

🔸🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔹(36 ) 【猫との暮らし・日常雑話など】

2025-05-05 21:40:00 | 日記
🔸🔹♦️ぽんぽん🐈‍⬛暮らし♦️🔹・・(その36 ) 
【猫との暮らし・日常雑話など】
 ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•
********「歩き🚶‍♀️‍➡️のお勉強」******
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🐈‍⬛ポン太郎
「おかあさんのおともだちが、
だいすきなねこちゃんのしゃしんから
Tシャツをつくった。
そのモデルのねこさんが、こちら。


しろちゃいろのねこさんって、
いまもむかしも
にんきがあるんだって。
でもさ・・・、
ボクも『しろちゃ:ちゃしろ』だよ。」

(ボクのきんきょう
    :おくすり💊がんばりちゅう。
おかあさんは、ボクをみまもりながら、
 「あるきのおべんきょう」をしている)


 ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ
👴🗣️                                                                                                       
♦️【清き土なり】のおべんきょう♦️
 ・・歩いて 調べて その記録・・
《歴史に詳しい先輩や
       G氏の助言有り》 
           (その6) ★
志木街道沿いにはいくつも寺社がある。
ゆっくり見て歩いてまわるのも
時間がかかるけれど、復習もたいへんだ。
今回は、清瀬にある、
静かな佇まいの「休心庵」の紹介だ。

★「休心庵」★
◉「『休心庵』って、なんだろう。」
前知識なく探していたら志木街道水天宮前
交差点の50mほど西、道路北側にあった。
門を入り正面の建物が「休心庵」だった。
(地図を見ながら探したのだが、
わかりづらく何度も見逃してしまった。)
その左側から奥へ墓地が広がっている。
おなじみの6地蔵も見えた。
入っていいものか迷いながらなので、
奥には進まず、
入り口近くだけ見せていただくことにした。
⚫︎曹洞宗寺院の「休心庵」は覚霊(正徳4年
1714年寂)が初代庵主となり正徳元年
(1711)に草創したと言われている。
正徳年間に、上清戸を切り開いた「村野家」を
はじめとする村人たちの墓守として建てられ、
代々尼僧に引き継がれてきたそうだ。
◉「清瀬市史」による休心庵の縁起
「庵に安置されている位牌
  『正徳四甲午年三月十日、
   円寂自得休心庵主覚霊』とある。
        (初代の休心庵主か?)   
江戸時代の釈迦三尊に*「一葉観音」と称される
青銅の小像が納められており、
   かたわらに閻魔像がある。
(近くにあった閻魔堂が廃堂になった際、
      ここに納められたという。)
休心庵主はただ一代をのぞいて
     代々尼が庵主となってきた。」


●「一葉観音」とはなんだろう?
初めて知る観音様だ。
検索→「一葉観音」とは
①三十三観音の一尊
(観音菩薩はその姿や役割が様々であり、
三十三種類に分類されることがあり
「一葉観音」はその中のひとつ)
②蓮華🪷の花びら一枚に乗って
      水面を漂う姿を指す。
(観音様が蓮華の花びら一枚を船として
      水面を漂う姿が特徴)

③特に水難から人々を救う観音様として
信仰されている。
経典には「大水の漂うところとなるとも
その名号を称すれば、
すなわち浅き処を得ん」とあり、水難から
救われることを願う人々から崇拝されている。

④曹洞宗の開祖道元禅師が海難事故の際、
一葉観音に救われたという伝説が知られている。
(仏法を求めて中国へ渡った道元禅師が帰途⛵️
に嵐に遭い、一葉観音に救われたというもの。
一葉観音を信仰するきっかけの一つとなった。)
◉さあ、石碑を見てみよう!
⚫︎墓地手前、
左側に二基の石碑と白い基壇の小堂
小堂の中→ *「不動明王坐像」 
大きな火焔光背 
右手に利剣 
左手に羂索
 銘は確認できず、造立年などは不明。


⚫︎墓地の入口付近に丸彫りの地蔵菩薩塔を
 はじめ石仏が並ぶ。
 (その裏:歴代住職の墓地)




◎右端) 「地蔵菩薩立像」 享保9(1724) 
四角い台の上に丸みを帯びた角柱型石塔、
厚みの ある蓮台に堂々と佇む地蔵菩薩像。
 丸彫り 錫杖・宝珠とも健在。
 首に補修跡なし 
  尊顔はやや損傷が見られる。風化?
石塔の正面中央)「奉造立地蔵尊」
     右脇)武刕多摩郡   講中十八人 
     左脇)上清戸村 願主(二名の名前)
 右側面:造立年月日。
    その横に是体覚道。(開眼導師?) 
 左側面:*仕優建立 念佛講中。


◎その隣 「地蔵菩薩立像」 
 台を欠き、銘が見当たらず詳細不明。
 錫杖の先と宝珠は欠損。首に補修跡なし
◎左 :「六地蔵菩薩立像」 
昭和12(1937) 年六基の角柱型の石塔の正面に
それぞれ蓮台に立つ地蔵菩薩像を浮き彫り。
・六基とも
         側面にいくつか戒名が刻まれる。
・右から三番目の左側面に功徳主 
 休心庵檀中一同。 裏面に造立年月日。
・六地蔵の後ろに名号塔 安政4(1857)塔の
    正面やや風化が見られ一部剥落
  正面:「南無阿弥陀佛」
  右側面:念佛講中。
  左側面:造立年月日。
               阿弥陀如来彩色建立
・休心庵を出て志木街道にT字に交わる道
→上清戸、中清戸の村境(所沢に抜ける道)
注) 「仕優」
「仕優(しう)」は
「為得(しう)」と読み、
できる・成し遂げるという意味だが、
そのことなのか。
  ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
⚫︎さて「不動明王」とは?違いは??。
🐴「馬頭観音は仏教の六道のうち畜生道に
苦しむ衆生の救済にあたり、馬の守護神と
される。」


一方、
「😡不動尊こと不動明王は、ヒンズー教
シバ神の異名であり、それが密教に入ったもの。
不動明王は、国家安穏の象徴で、
病気平癒、家内安全、五穀豊穣などに
       ご利益があるとされ、
炎を背負い、怒り顔をしている。」
           (HP遍照寺より)
その特徴
:憤怒相で表現され、
右手に剣(智慧の象徴)
左手に縄(煩悩を縛る)を持ち、
背中に火炎を背負う姿が一般的である。
不動明王は人々を救い、煩悩を断ち切るために
常に闘い、そして導いてくれる慈悲深い仏様である。
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•
【追記Ⅰ】
⚫︎教育テレビ高校講座を観ていたら南インドの
話題の中で「シヴァ神」の説明をしていた。
南インドはシヴァ神の信仰が非常に強く、寺院も
多いそうだ。→調べると、不動明王の語源は
「動かない守護者」を意味し、
       インド神話のシヴァ神の別名。 
シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、
破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てる。
(その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け
継がれ、その破壊的な面が不動明王の忿怒相に、
恵みの面が慈悲の心に表れているとされている。)
(不動明王は、インド神話のシヴァ神を仏教に取り
込んだ際に生まれた、五大明王の中心的な存在。
不動明王は、仏法を障害するものを怒りで屈服させ
修行者を守護するとされ、シヴァ神は破壊と創造の
神として知られている。)
⚫︎これまで、私の身近に不動明王の像はなかった。
でも、テレビドラマの中でその土地の人たちが日常の
会話の中で親しみをこめて呼んでいることは知っていた。
その 「お不動さん」は「現世利益(げんぜりやく)」
と呼ばれるご利益があると伝わっている。
現世利益とは、今のこの我々が生きる現世で願いごと
をかなえて下さるという意味であり、悩める人々を
救い出して下さるありがたい仏様である。
不動明王は日本で一番信仰されている仏様のおひとり。
今後は、ウオーキングで「不動明王」に出会う機会が
あれば、見方が変わるかもしれない。
そして、
私も親しみを込めて
    「お不動さん!」と呼びかけてみたい。
《参考資料》
   ①清瀬郷土館資料
   ②ブログ「私家版さいたまの石仏」
    (石仏の細かな解説が素晴らしい。)
   ③google 概要       など
 ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•
【追記Ⅱ 感想・コメントなど】
「休心」とか「庵」とか、このことばには
心安らぐ響きがある。
誰が命名したのだろう。
当時の村人たちの祈りの姿やその場の雰囲気の
ことをつい想像してしまう。
また、「一葉観音」については、全龍寺でも
その名を聞くことになった。
そして、
また「清き土」のお勉強は今後も続いていく。
知らなかったことばかりで、
      地味だけれど、面白い世界だ。


ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
・*:.。..*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.👋
    ・・・次号に続く・・・