◆ ♦️ぽんぽん🐈⬛暮らし♦️◆
(その40 )
【猫との暮らし・日常雑話など】
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🔻「歩き🚶♀️➡️のお勉強」🔻
〜歩いて 調べて その記録〜
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🐈⬛ポン太郎🐈
「ぷんたろうくんのおうちに
また、あかちゃんねこさんが
つれてこられたって。
ぷんたろうは、もう けーじをでて
おうちのなかを
はしりまわっているって。
おにいちゃんになったみたい。


あかちゃんねこさんは
ものすごくおおきなこえで
なきつづけているんだって。
あかちゃんのなまえは、
『ぴーこちゃん』でどうかな。」


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♦️【清き土なり】のおべんきょう♦️
(その10)
[志木街道沿いの史跡巡りの続き]
★★中清戸の子育て地蔵観音★
全龍寺参道前の安産 子育守護地蔵尊
かなり大きい地蔵菩薩像
(木製祠)高さ2メートル越え
真っ赤な幟が並び、遠くからでも目立つ
医療が発達していない時代に
こどもの病気平癒を願った
志木街道拡張のため、ここに安置
(全龍寺との関係は、ないらしい。)
後ろにイチョウの大木

・・・左脇の参道を進むと、すぐに全龍寺・・
★★全龍寺(ぜんりゅうじ)★
⚫︎山号:安松山
寺号:全龍寺 宗派:曹洞宗
ご本尊:釈迦牟尼佛、
札所本尊:一葉観世音菩薩
札所:武蔵野三十三観音
霊場 第六番札所
・山門はなく、石柱がある
・正面 本堂 入母屋造り
(彫刻は施されずスッキリした建物)
・慶長元年(1596年)
並木主水正安松を開基とし
浄牧院九世 玉室應珍和尚の開山
(武蔵野三十三観音霊場のパンフより)
・400年を越す古刹ではあるが、
貞亨4年(1687年)と明治13年(1880年)に
火災に遭い、寺宝など焼失。
⚫︎「一葉観世音」
・清瀬市唯一の多摩三十三観音霊場
(観音様がその姿を変えて人々を救済する
という三十三応現身として選定された
三十三観音のひとつ。)
・観音札所のなかでは唯一の「一葉観音」
(本堂左手厨子の中に祀られている)
開祖道元禅師にまつわる伝承もあり、
曹洞宗にとっては重要な観音。
木造は珍しく貴重な存在。
(ここで言う一葉:蓮の葉、つまり蓮華)
*曹洞宗の宗祖道元が中国での修行の帰りに
海上で暴風雨に見舞われた時、一心に観音経
を唱えると、蓮華に乗った観音様が現れ、
忽ちに暴風雨が治まった。
交通、水難厄除の観音様として、信仰を
集めることになる。
(36号:「休心庵」でも説明)

・写真:横顔/葉の上に座す秘仏の
一葉観音を超巨大化した石仏
(立膝の観音様)
・空海、円仁の祖師方をはじめ、野口英世
博士なども交通安全や水難から身を守って
くださる観音様として信仰したと言われて
いる。
⚫︎ 江戸時代、寺領15石の御朱印状を拝領。
⚫︎ 戦前は中清戸の1/3はこの寺のもの?
⚫︎ 一対の石像 金剛力士像
⚫︎ 壁伝いには、16羅漢石像と観音像
(「16羅漢」とはお釈迦様の弟子で特に優れた
代表的な16人の弟子をいう)

⚫︎ 墓地入り口の6地蔵

⚫︎ 一対の石灯籠には猛々しい姿の龍や
獅子などの彫刻
高さは4メートルもありそう
⚫︎ 鐘楼
屋根は瓦葺入母屋。なんと、赤い柱!
朱塗りの鐘楼堂は珍しい?
( 本堂前に植えられたロウバイが満開に
なる季節には綺麗とのこと)


⚫︎ おや、境内に・・・
鳥の声?なぜ??
(大きな鳥小屋の中に数匹のインコ)
写真:手前右が鳥🦜小屋
参考資料 「ヨッシーのほっこり町歩き」
「諸国放浪記」
「ovanの社会科見学」

【感想・コメントなど】
・とても広く静かで誰もおらず、
お寺に入ることをためらってしまった。
大急ぎで、さっと数枚だけ写真を撮り
走って出てきてしまった。
後で調べたら、見るべきものがたくさん
あったと知った。
・火災のためなのか全体に新しく綺麗なイメージ
寺宝などを焼失したのは、残念。
敷地はかなり広く、火災以前はどんな雰囲気
だったのか、知りたいと思った。
・「一葉観音」については「休心庵」についての
まとめでも調べたのだが再度調べてみた。
なお、なぜあそこにインコがたくさんいるのか
調べてもわからなかった。
(かわいいベンチもインコさんだった)
このお寺を訪れる札所巡りの方々には
チェックポイント・見どころがたくさんあり、
面白いだろう。
石碑の中には「全龍」という名前の通り、
龍もあちこちにいらっしゃるらしい。

*市史によれば、1944年に青山国民学校から
3年生男子34人の学童疎開をこのお寺で
受け入れたそうだ。
(学童疎開については、
他に円通寺・長命寺の3つのお寺で計児童79名。
なお、当時は農村地帯であった多摩地区には
7000名余りの児童疎開があった)
*また、全龍寺の墓所には1945(昭和20)年
4月2日の空襲で亡くなった家族6人連名の墓誌
があるそうだ。
さて、帰り道は左に曲がれば志木街道だが、
右の小道を地図を見ながら散策していると、
突然、神山公園及び「コロポックル」という
市の児童センターの裏に出た。
ちょっと、歩き過ぎたのかもしれない。
志木街道沿いには、まだ史跡があるそうだ。
戻らなければ!
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では、次号に続く。
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