
🔹♦️ぽんぽん🐈⬛暮らし♦️🔹
(その38 )
【猫との暮らし・日常雑話など】
🔻「歩き🚶♀️➡️のお勉強」🔻
・・歩いて 調べて その記録・・
・・・・・・・・

ポン太郎🐈
「おかあさんは
はいてばかりのボクのことを
しんぱいばかりしている。
ボクは すこしずつ、
すこしずつ、たべて
『ふとること』を めざしている。
でも、はいてばかりだから、
ひとさじ🥄ずつなんだ。
おかあさんは、
ときどき おそとをあるいて
『やせること』を めざしている。」
・・・・・・
👱🗣️
♦️【清き土なり】のおべんきょう♦️
………前号からの続きである…(8)……
〜「円通寺」 文化と歴史〜
【1】「『ふせぎ』のこと」(前号)

【2】「円通寺のこと」
以前のことだ。「赤い前掛けの6地蔵様たち
に会いたい」と言うと、知り合いからこの
清瀬の円通寺のことを教えられた。
「ふせぎ」のおかげで、その円通寺に行く
ことになったのだ。清瀬古道の小径沿いの
円通寺に到着すると、赤い前掛けをした
お地蔵さんたちが出迎えてくれていた。
白壁の前で並ぶ姿は確かに珍しい。
ここは「清瀬10景」のひとつなのだそうだ。
…………………………………………………
[清瀬教育委員会掲示]に
次のような説明があった。
★円通寺★ (真言宗豊山派)
◉・・・清瀬10景 「円通寺」について・・・
・「清水山円通寺は、南北朝時代の暦応3年
(1340年)に建てられたといわれている清瀬
では最も古いお寺で、長屋門、観世音菩薩
立像の本尊と前立はそれぞれ市の有形文化財
に指定されています。」
・「この円通寺の『観世音菩薩立像』は、
新田義貞の弟新田義助が奥州下向の途中、
鎌倉の松ヶ岡から移したものといわれ、
それ以来、馬に乗ったままここを通ろうと
すると必ず落馬したことから別名「駒止観音」
とも呼ばれていました。
また円通寺に通じる観音坂は、この観世音
菩薩立像に由来するといわれています。」
・「『円通寺長屋門』:もとはかやぶきでしたが
戦後瓦葺になおしました。
武蔵野平野部の長屋門は比較的小さいの
ですが、この長屋門は規模も大きく、柳瀬川
滝の城を背に、清瀬古道に沿って建っている
白の大壁・板腰羽目の姿はあくまで端正です。
大扉の閂やくぐり戸のおさえ等に昔の工夫が
しのばれ基本的な使用目的が守られています。
円通寺の記録に『長屋門天保十五甲辰年十一
月二十五日上棟再建』(一八四四年拾食宥傳
の代)とあり、手直しはされていますが、
この時建てられたものが今に伝えられている
ものと考えられます。」
………………………………
●新田義介が1340年に祠堂を建てたとの
縁起を伝えているが、史実では同年5月に
伊代国(現 愛媛)で没していることから
新田義貞・義助兄弟に関連する人物が菩提を
弔うために建てたという説もある。
近世後期に駒止観音として信仰を集めたと
ある。
《参考資料:「東京都の歴史散歩」山川出版社》
……………………………………………
【コメント・感想など】
⚫︎山門:両塀が低いので、山門が高く見える
のだそうだ。銅板葺き。欄間などに彫刻。



門から本堂が見える



⚫︎本堂:銅板葺き。寄棟造り屋根。長い稜線。
正面入口左右の窓が可愛い。「花頭窓」と言う
らしい。左右に二連になっている。
欄間は龍や唐獅子、波に千鳥 雉などの彫刻。
立派な額縁。石庭越しに建つ。


⚫︎鐘楼は門の横だ。
⚫︎長屋門:「ふせぎ」でも有名だ。
漆喰壁が美しい。


(内側から)


⚫︎弘法大師の石像[像の由来の説明]
作:中尾邦三 奈良三十八連隊出願兵
(出兵前の作品)





⚫︎六地蔵だけでない。石仏が並んでいる
ので早速、写真を撮った。(道祖神、馬頭
観音、地蔵菩薩、不動明王など)
境内に入ると静かで樹木も美しく、
掃除が行き届いていた。
✴︎「道祖神」とは、旅の安全や道の安全を
守る神様、それらを祈願して建てられた
石碑や石塔などを指す。外からの災いを
避けるという願いを込めて、集落や村の
入り口にたっていたり故人が安らかに眠れる
ようにあの世とこの世の境界を守るという
意味でお墓の入り口にたっていることもある
そうだ。
〈参考資料:「JUGEMブログ」など〉
・・・道祖神や庚申塔など、地域の信仰
の厚さを感じる。
*なお、円通寺の道祖神は、以前は「上宮
稲荷」の前にあったものだそうだ。
🤨
・資料によって、「どうそしん」は「道祖神」
「同祖神」であったりして漢字ミスだと思って
いたが、意味や役割が違うそうだ。「同祖神」
はその字の通り、特定の氏族や集団に
とって始祖神や祖霊を指し、先祖崇拝や
氏族の繁栄を願う信仰の対象。
ちなみに
円通寺山門にあるのは「道祖神」である。
🧐
⚫︎さらに「道祖神」の別の説明を読んでみた。
「道祖神は、村の守り神として、多くは村の
中心、道の辻、三叉路に立っています。
村人たちが五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄
を祈願するもっとも身近な神、(略)多くの
場合、道祖神と同じところに庚申塔・二十三
夜塔が祀られています。」)
《安曇野市HPより》
→道祖神や庚申塔(前号でコメント)など、
この地域は信仰の厚い土地であったようだ。
⚫︎〈すごいぞ、下宿!〉と思った今回の歩き。
さて、その「下宿」という地名の意味は?
・柳瀬川に沿って広がる下宿地域は、
古くから水の恩恵を受けながら人々の営み
があったと聞く。
・かっては「清戸下宿」と呼ばれていた。
三清戸の台地より下にある宿だから下宿と
名付けられたという説がある。
他には城山(現所沢市)に登って下宿方面を
眺めるとそこは見下ろすような地形になって
おり、清戸番所の下にある宿だから、
清戸下宿というのだという説もある。
《参考資料: HP清瀬市役所)》
・なお、「宿」の意味については「シト(尿)
ジュクの転で柳瀬川右岸のジュクジュクした
湿地を示す。シトは水分の多い事を示し、
関東に多い~宿地名の多くは記録に残され
たもの(東京都新宿区新宿など)以外は街道
の宿場を示すのではなく湿地の地名だ。」
という説明もあった。
《資料:ブログ「目からウロコの地名由来」》
⚫︎不動明王とは・・・

イラスト:「いらすとや」より
(怒った表情だが実は煩悩を断ち切るように
導いてくれる慈悲深い仏様の図)
⚫︎不動明王の光背について
「不動明王は火焔を背負っている」という
ことは常識だと思う。
この炎は、「衆生の煩悩を大智慧の火で焼き
つくして悟りに導きたい」との不動明王の
強い意志(本誓)を現わすものだろう。
しかし、現地ではよく観察しなかったが、
後で円通寺の写真を見ていて光背の中の
「鳥」に気づいた。そして、これを「*鷹」
とする解説を読んだ。
さらに「*鶏」という説明も知った。
①「迦楼羅炎光」
→不動明王の光背は、「迦楼羅炎光(かるら
えんこう)」と呼ばれ、その炎の中に迦楼羅
という鳥の姿が表現されている。
(迦楼羅は、煩悩を焼き尽くす力を象徴する
霊鳥)この鳥は、毒蛇や悪龍をも食らうと
いう伝説を持つ霊鳥であり、不動明王の
煩悩を焼き尽くす力を象徴する存在。
これらの迦楼羅に因んで鶏(ニワトリ)が
不動明王の「お使い」とされ、
また、不動明王は酉歳(とりどし)生まれ
の人の一代守本尊ともされる。
②「鷹」
→鷹は、不動明王の「調伏(ちょうぶく)」
の力を表しており、悪を討ち、衆生の煩悩
を焼き払う不動明王の役割を象徴。
また、空を自在に飛翔し、高いところから
獲物を捉えることから、不動明王が持つ
高い智慧や悪を遠ざける力を象徴している。
・江戸時代の徳川家光公が鷹狩りの際に、
不動明王に祈願して愛鷹が戻ってきたと
いう伝説と関連しているようだ。
徳川家光と不動明王の伝説が結びつき、
不動明王像に鷹が描かれるようになったと
考えられる。
なお、徳川家光が建てた伽藍は現在も残る
「目黒不動尊」である。
《参考資料 「仏像のある暮らし」など
その他 Google検索など》
・・・いろいろ調べていくと面白い。
不動明王の持つ力と役割をより深く理解
できる説だと思う。

⚫︎不動明王に「成田山」と書かれているのは
成田山新勝寺という寺院が不動明王を本尊
としており、信仰の一大中心地であるため。
弘法大師空海が一刀三礼の祈りをこめて
自ら敬刻開眼された、と言われている。
(ちょうどTV番組で「成田山特集」を
やっており、その説明より)
⚫︎鎌倉時代は鎌倉幕府の武家政治が全国を
支配した時代で柳瀬川の上流に武蔵七党の
村山氏が栄えていたそうだが(狭山丘陵沿い)、
その頃の清瀬についてはあまり資料がない
ようである。
しかし、永仁七年(1299年)の年号が読める
「板石塔婆」が円通寺にはあるそうだ。
・[板石塔婆とは]😏
鎌倉時代から安土桃山時代にかけて造られた
供養塔のことで、死者の追善供養や、生前に
死後の供養を行う逆修(ぎゃくしゅう)供養
のために造られ、 また、墓標として使われた
事例も確認できているそうだ。
武蔵武士の信仰がうかがわれ、鎌倉街道を
探索していると街道辻や街道沿いのお寺など、
人目につきやすい所によく板碑を見掛ける
そうだ。
・・・あちこちの観光ガイドにもよく出て
きていたのに私はその意味を知らなかった。
🤨
少し、鎌倉時代のことを振り返って調べて
みたが、歴史家の先生方は口伝や伝説から
いろいろな証拠収集をしてたいへんな学問
のようだ。 でも、おもしろそうだ。
・前号でも紹介したが、庚申塔を探して
いた際、観音坂の小さな塚の上に板碑を
見つけた。木陰で暗く、文字は読み取れ
なかった。この詳細はわからない。
出羽三山をお参りした記念碑(左)と出羽
三山をお祀りした碑(右)ではないかと
説明する人もいるようだ。

⚫︎庚申塔:「駒形青面金剛庚申塔」
六臂 宝暦11年(1761年)建立
(ふせぎの木の下)


(✴︎写真3枚は前号と重複するが掲載する)
⚫︎観世音菩薩像は聖観音とも呼ばれ、
現実のあらゆる災難や苦しみを救済する
仏様として民衆の熱い信仰を受け、
特に馬を持っている人の信仰を集め、
縁日には多くの馬が厄除けに集まったそうだ。
《参考資料 ブログ 「ovanの社会科見学」、
「ヨッシーのほっこり町歩き」など 》

〜*その他のこと*〜
⚫︎円通寺には、災害用の非常用水として
手漕ぎ式ポンプ井戸が用意されているそうだ。
⚫︎戦前の円通寺:
1944年青山国民学校から6年生男子18名
が学童疎開、1945年6年生18人が引き上げ、
3年生女子22名の学童疎開受け入れ。
・1945年4月2日の清瀬空襲で下宿では
一家族で女性子ども3人が犠牲になった。
円通寺には、その清瀬空襲時爆死者の墓誌
がある。
➡︎円通寺の前の通りは古道らしい趣きが
ある。鎌倉街道上道、その昔、この狭い道
を馬で駆け抜けたのだ。
(決して広くはない道幅だが、今も車はよく
通るそうだ。静かさに安心してか、スピード
を上げる車も多いようだ。)


少し歩くと、
「下里八幡神社」(新田家ゆかりの神社)
や「上宮稲荷神社」などの古社寺も多い。
八幡神社の背高巨木26mの欅(清瀬市指定天然
記念物)が遠くからでも見える。
「ふせぎ」や「下宿囃子」(どちらも映像鑑賞可)
などの地域の文化や伝統芸能が継承され、
里の生活の雰囲気が伝わってくる、そんな下宿の
中心的存在がこの円通寺なのだろう。
ゆっくりと訪れてみたい、そんな場所だ。
・・・・・・・・


《写真「ふせぎ」前号と違う角度から》
知らない世界との出会いは、
さらに次号に続く🖐️
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