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Philosophy of casework

哲学論文を掲載しています。大山雄野

『反キリスト者』におけるニーチェの宗教観

2010-06-18 | 論考
1998前期 研究発表

『反キリスト者』におけるニーチェの宗教観
1,すべての価値の価値転換

 ニーチェの晩年の書物 ,Der Antichirist'(1888)は「すべての価値の価値転換」をはかる著作である。その名の通り、ニーチェはこの書においてキリスト教を批判している。同時に仏教をとりあげ、キリスト教を仏教と比較することによっても批判し、そして反宗教者としての立場をとることによって「すべての価値の価値転換」を主張する。



2,反現実的なキリスト教

 ニーチェはキリスト教の信仰を心理学的に分析し、そこに見いだされるルサンチマンを徹底的に拒否する。キリスト教信仰を支えている所の「道徳的世界秩序」とは、原因と結果の自然概念の逆倒であり、「神の意志」は、人間の価値を支配し信仰の神への服従の程度に応じて罰し報いるものとして示される。神の概念は僧侶によって偽造され、「神の国」がでっちあげられる。「神の意志」を熟知させるためにつくられたのが「啓示説」であり、すなわちそれは聖書という文学上の偽造である。これらの神概念のねつ造は、現実性、実在性、科学という「自然なもの」の否定であり、同時に「自然的なもの」への憎悪を生み出す。ニーチェは現実すなわち「自然的なもの」を肯定する。よってそれとまったく相反する道徳や神概念は、空想的諸原因と空想的諸結果とからなる純粋の虚構の世界でしかない。

 その背後にあるのが、形而上学である。カントは物自体という概念、善自体という世界の本質としての道徳の概念をつくりだし、それによって実在性を仮象にでっちあげた。「ドイツ哲学が根本において何であるかをとらえるためにはテービンゲン大学神学寮という語を発しさえすればよい-それは狡猾な神学である(10節)」と、キリスト教を支える形而上学をニーチェは痛烈に批判している。

 現実、「自然的なもの」への不快感、憎悪として生じる苦しみを持つものは、「神の国」にあこがれ、虚構の世界へ逃避する。キリスト教の罪の概念とは、神に対する負い目とそれに応じる罰、神に対する敬虔とそれに応じる救済とから成立している。しかしいくら虚構の世界へと逃避し神の救済をうけても、現実の苦しみはなくならない。それは単なる空想上の復讐でしかない。ここにニーチェはキリスト教信仰におけるルサンチマンを見いだすのである。
 これらの「道徳的世界秩序」は、精神的特権をもつ少数者階級が大多数の大衆を支配するために偽造したものである。僧侶の目的とするのは、大衆を圧制し群畜を形成することによって権力をえようとすることであり、そのための手段必要な概念、義務、象徴が、虚構の世界であり、でっち上げられた道徳である。

 ニーチェはキリスト教の歴史をみることによってそれを明らかにしてゆく。キリスト教の始まりはイエスではなく、パウロである。ニーチェはイエスをニーチェの批判している所のキリスト教からは分離する。イエスは信仰の人ではなく、実践の人である。生の実践のみがそこには存在する。だからといってニーチェがイエスを全面的に肯定しているのはないということはいうまでもない。イエスは誰にも立腹せず、誰をも軽蔑しない。すべての自然的、時間的、空間的、歴史的なものを単なる記号とし、「内面的実在生のみを実在とし、真理とみなした」象徴主義者がイエスである。「神の国」すなわち天国は心の状態であり、心の体験である。だから現実はどこには見いだされることはない。それは幼児のものであり、精神的に後退した子供らしさをもつ「病的な世界」である。
 さて、キリスト教の歴史は、イエスの死によって始まる。イエスの死を機会に福音にもぐりこんだのがパウロの「悪しき音信」である。彼は「復活したイエス」という虚言のもとに、最後の審判を、「神の国」をでっちあげた。キリスト者たちは、実在生も歴史的真理も、さらにはイエスをも破壊して、不死の信仰をつくりあげた。

 もはやキリスト者のなかには、真理などない。キリスト者は「信仰は浄福ならしめる、このゆえに信仰は真である」というが、ニーチェは、信仰が浄福がどうかが証明されていないばかりか、たとえそうであってもそれが真かどうかを証明することはできない、と批判し、「真理は一歩一歩戦いとられるものでなければならない」という。僧侶は何が真であるかを知らねばならない。しかるに僧侶はそれを知らぬ。よって僧侶が真理を語るとき、僧侶は虚言するのである。

3,生の否定
 キリスト教、その信仰は、自然的道徳的虚構世界のねつ造による、実在性の否定や「自然的なもの」の剥奪、それによって生じる自然的、科学的なものへの弱者の憎悪、それを虚構へとむけさせるという、出来損ないの弱者への「同情の宗教」であり、ルサンチマンの宗教である。そしてそれは結局、「権力への意志」の否定であり、「権力にたいする本能」を失う琴であり、「生の否定、非望、毒害」である。そこにはニヒリズム的価値観の支配による衰退と、デカダンス的価値による没落すべき弱さをもった人間の頽廃があるのみである。ニーチェがキリスト教というニヒリズム的価値にかかわるものとして主張しているのは、生の肯定であり、生自身であり、「権力への意志」なのである。



4,頽廃的な仏教

 反キリスト者においてみられるもう一つの宗教、仏教も、それがキリスト教にかわる新たな価値をしめすものではなくそれが「権力への意志」を否定しているという点でとりあげられている。ニーチェは仏教を生理学的角度から眺め、「第一にそれが感受性の過大な敏感さ、苦痛を受け取る能力をもり、第二に門の精神化、論理的手続きをへていきている」という点をあげて、仏教を現実主義的で実証主義的な宗教と見なす。「仏教は、老成の人間たちにとっての苦悩を余りにもやすやすと感受するところの、善良な、温和な、極めて精神化されてしまった種族にとっての宗教である」。仏教には罪に対する闘争がなく、あるのは久に対する闘争のみである。だが仏教もニヒリズム的宗教であり、デカダンス宗教である。仏教においては「権力への意志」が否定されているので、それは「文明の集結と倦怠にとっての宗教」となる。

5,まとめ
 このようにニーチェは、反キリスト者また反宗教者としての立場をとることにより、生自身を「権力への意志」をかかげ、独自の生の哲学を展開し、「すべての価値の価値転換」を行っている。


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