Philosophy of casework

花を観ながら道を歩き、人間存在の深さを精神病理学的に考える。哲学者のたわごと。~大山雄野公式ブログ~

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

★注意事項★

2020-05-29 | はじめに
当ブログは、大山雄野公式ブログです。このブログの記事の全著作権利は、本人である私(大山雄野)に属しています。許可なく、記事を転載・掲載、コピーすることは禁止してください。なにとぞ、ご協力ご理解のほど、よろしくお願いします。
コメント (9)

長居植物園 5・31/アジサイ、キンシバイ、タブノキ、コデマリ、ワルナスビ、スイレン、ハス、センダン、カキツバタ、ムクゲ、アカメガシワ、マテバシイ、キョウチクトウ、カツラ、カタバミほか

2017-05-31 | 雑感






アジサイ











































































カエデ















ヤマブキ













タブノキ









































コデマリ























サキシマフヨウ








ウメ
















ワルナスビ






























アサザ





スイレン




























センダン


























カキツバタ
































シロツメクサ












トウカエデ













トチュウ









































ムクゲ














アカメガシワ


















マテバシイ

















キョウチクトウ



































カタバミ




























キンシバイ




















































クスノキ


















コメント

人格の同一性④

2010-06-18 | 論考
○人格同一性は不確定的である

 パーフィットは人格同一性に関する見解を、還元主義的見解と非還元主義的見解の二つに分類する。還元主義的見解は、ある人物の時間を通じた同一性は、もっと細かいある事実(物理的心理的連続性)が妥当するということだけからなり、それらの事実は人格同一性を前提したりせずに非人格的に記述することができる、と主張する。人格の存在は、脳と身体および一連の相関的な物理的出来事と心理的出来事の発生だけからなる。非還元主義的見解は、人格の同一性は物理的心理的連続性だけからなっているのではなく、それとは別個のさらなる事実からなっているのではければならない、という見解である。人格とは脳と身体、その経験と区別された個別的に存在する実体(霊魂、精神的実体、デカルト的自我など)である。還元主義者は、人格は物理的心理的出来事にすぎないと主張するが同時に、人格とはそうした出来事から区別された実体であると主張することもできる。これは矛盾ではない。ヒュームは心を国家のように考えた。国家の存在は領土で生きているその国民の存在だけを含んでいるが、我々は国家はその国民とその領土から区別された実体であると主張することができる。(しかし国家は人民と区別された個別的なさらなる実体ではない。)還元主義者は、人格が存在するが、我々は人格が存在すると主張することなしに現実の完全な記述を与えることができる、と主張する。金星が存在すると主張するならば、宵の明星が存在すると主張しなくとも、その記述は完全であるように、ある特定の脳と身体および一連の物理的心理的出来事が存在していると主張するならば、ある特定の人格が存在すると主張しなくとも、前者の記述は完全である。還元主義的見解を受け入れるならば、同一性は不確定的である、と信ずるケースがありうる。あるクラブが数年間存在し例会を開いていたが、その後消滅したとする。数年後、クラブのメンバーの一部が集まって同じ名称、同じ規則をもったクラブを結成したとき、このクラブは前のクラブと同一なのか別なのか?という問いは、真でも偽でもないケースがある。クラブの存在が含んでいるのはメンバーがクラブの規則に従った会合を開くということだけであり、そうした事実をすべて我々が知っているとき、「このクラブは同一なのか?」という問いは空虚な問いである、とパーフィットはいう。これは人格同一性の問いについてもあてはまる。先ほどの脳分裂のケースについていうならば、分裂の結果生じた人物B、CはAと同一なのか?分裂するAが他ならぬ私ならば分裂に際して私は死ぬのか死なないのか?といった問いは、空虚な問いである。我々はAとB、Cとの間の、心理的連続性、物理的連続性をすべて知っている。我々は同一性は確定しているはずだ、と考えているが、デカルト的自我のようなものを想定しない限り、このことは真ではない。パーフィットが主張するのはこうした還元主義的見解である。私が分裂した場合、仮に分裂によって私が死ぬとしても、分裂した人物BとCは、私と心理的に連続している。彼らは私の過去の経験を詳細に覚えており、私が分裂する以前に所持していた信念や意図をもって、それらに従って生き続けてゆくに違いない。ここには何も欠けているものではない、とパーフィットは言う。重要なことは私が後の人物と私が心理的(物理的)に連続している、ということである。
 パーフィットが主張することは、我々の常識とは相容れない。私たちは人格とりわけ私の同一性が確定しているはずだ、と信じている。分裂ケースにおいて私が死亡するかどいうかということには答えがないとは思えない。人格の存在はall or nothing であって、未来の人物は私であるか私でないかのいずれかであるはずだ、と考えている。だがパーフィットがいうように、仮にデカルト自我や魂のような実体が存在すると信ずるべき理由がなにもないとするならば、我々が生き続けることによって重要なのは同一性ではなく、心理的(身体的)連続性であるという還元主義的見解を受け入れざるをえないように思われる。パーフィットは還元主義的見解が真であること、非還元主義的見解を信ずべき理由はないことを、さまざまな思考実験を行って論証している。こうした論証が妥当なものかどうかはここでは問わない。パーフィットの指摘において重要なことは、デカルト的自我や魂のような離物的存在者が存在していないならば、人格同一性は確定したものではない、という主張である。

○一人称的見解について

 人格の同一性についてここまで、身体の連続性と心理的連続性という二つの規準について述べ、更に分裂ケースのような思考実験によって人格の同一性は確定したものではない、という見解について見てきた。こうした議論全体に関していえることは、人格の同一性を一人称的見地から考察している、ということだと思われる。しかしながらある一人の人格について(あるいは私について、自己について)の同一性は、その人格以外の他の人格(私以外の他者)との関わりあいの中で成立してくるのではないか。すでに述べたように、ある事物がその事物と同一であるために必要なことは、時空的連続性があるということのみにあるのではなく、事物が一定の機能や体制をたもっているということにもある。そしてそうした事物の機能はそれと関わり合う私たちとの関係について考えなければ、十分にとらえきることはできないだろう。同じ事が人格の同一性についてもいえる。人格の同一性は、デカルト的自我のような、物理的心理的連続性以外のさらなる事実ではないかもしれないが、それは物理的心理的連続性以外のさらなる関係的事実であるのかもしれない。
 パーフィットは心理的連続性を重要視したが、たとえば胎児は心理生活を送っていると通常は考えられないし、事故で意識を失った人間にも心理生活があるとは思えない。そして胎児や意識を失った人間が人格であるかどうかは、そうした人たちにたいして私たちがどう関わり合うのか、という事実に存するように思われる。
 パーフィットが人格の同一性は確定したものではない、ということをいったとき、その結論だけをとってみればおそらく彼は正しいことを指摘していたと思われる。しかし彼が、デカルト的自我の存在を執拗に攻撃したことからもわかるとおり、パーフィットの人格についての見解は、常に一人称的な見地からのものであった。パーフィットはいっている。「私の存在がそのようなさらなる事実であると信じていたとき、私は自分自身の中に閉じこめられているように思われた。私の生はガラスのトンネルのようだった。私はそれを通って毎年一層早く動いていき、その端には闇があった。私が見解をかえたとき、私のガラスのトンネルの壁は消滅した。」「これらの議論についてじっくり考えることは、私と他の人々との間のガラスの壁を取り去る。そして今もいったように、私は自分の死を前よりも気にしなくなった。私の死とは、ある時以後の私の現在の経験とある仕方で関係している経験がおこらなくなるという事実に過ぎない。これがそれほどまでに重要なことでありうるだろうか?」パーフィットは「私(パーフィット)が生き続けることにおいて重要なことは何であるか」という所から出発したため、人格が他の人格との関わりあいのかなかで成立するという三人称的見地にたつことができなかった。そこで人格の同一性を、関係的事実から考えた議論の一つとして、再びロックの見解について述べてみることにする。


○再びロックの見解
コメント

人格の同一性③

2010-06-18 | 論考
3,記憶喪失

 反論はまだ残されている。それはある人間は完全な記憶喪失になっても同一人物として生き続けることがあるはずだ、と考えられるように思われるということである。ここでは記憶の直接的連結も連続的な記憶の連鎖もないだろう。
 ここで注意されなければならないのは、記憶喪失ということで何を意味しているか、である。通常の健忘症は回復可能な状態である。それゆえここでの記憶喪失はいかなる方法をもってしても回復不可能な哲学的記憶喪失とでもよばれるべきものでなければならないのだが、はたしてそんな状態になっても人は生き続けることが可能なのか。記憶が経験の記憶のみを意味するのならば、それは可能だろう。だが仮に記憶ということで、経験の記憶に加えて事実の記憶や方法の記憶すらも失ったとするならば完全な記憶喪失になったものが生き続けられるというのは疑わしい。なぜならあらゆる種類の記憶が喪失するということは脳破壊に近い状態だからである。しかし仮にある人が事故にあってあらゆる種類の記憶を失い、脳を外科医が手術するこによって治療して彼が生き続けることができたとする。だがその時彼が前と同じ人格であるかどうかは決して明らかではない。しかしあらゆる記憶を失った後でも前と同じ人格であると特定することのできる特性(性格や才能や興味やしぐさなど)があると考えることができる。そこでこの場合、完全な記憶喪失になっても同じ人格であるということになり、人格同一性の記憶理論は偽となる。
 それゆえ人格の同一性の記憶理論は次のように修正されなければならない。人物p1が人物p2と同一であるためには、p1とp2の間に直接的な心理の連結をもった人物の鎖の連なり(心理的連続性)が存在し、この心理的連続性は正しい種類に原因をもっていなければならない。ここで心理的に連結しているというのは、記憶の連結があるということのみならず、性格や興味や才能など他の心理的特徴の連結をも含んでいる。また意図や欲求とそれによって引き起こされた行為なども含んでいる。


○心理的連続性と身体的連続性

 記憶を含む心理的連続性が人格の同一性にとって重要なのは、それが因果的連続性一般の特殊な場合だと考えられるからである。再びブラウンソンの例に戻ろう。ブラウンソンの記憶主張とブラウンの過去の経験との間には因果的な結合があり、もしブラウンの過去の経験が異なっているならば、ブラウンソンの記憶主張も異なっていただろう。同じことが記憶以外の性格や才能や性向や信念などについてもあてはまる。だがブラウンソンの例から人格の同一性の規準は心理的連続性にあるということは、人格同一性の規準の中に身体の連続性は全く含まれない、ということではない。我々は身体の連続性が人格の同一性の一部ではない、という理由を未だ見いだしてはいない。前にも述べたがブラウンソンがブラウンであると我々がいうのは、なんといってもブラウンソンがブラウンの脳をもっているからだと言う人があるかもしれない。身体から自由に浮遊する魂のようなものを想定しないかぎり、全くの物理的連続性が存在することなしに身体が交換したという事例を想定することはできない。
 シューメイカーは脳状態移植装置とよばれるものをもつ社会を想像している。そこでは或る特殊な環境のため身体は数年の間しか健康を保つことができず、人々はつねに自分のクローン人間を準備をしてそれに脳状態を転送することにより身体を交換している。そしてこの場合、脳そのものが移植されているのではなく、脳のもつ情報のみが転送されているので、脳の連続性(身体的連続性)は存在してしない。シューメイカーはもしそうした社会に我々が直面したならば、彼らが「人格」によって意味しているものは、我々が人格によって意味しているものと同じであるとする強い理由がある、という。彼らは我々と同じものを人格とみなすし、人格同一性と道徳的責任や財産の所有権などとの結びつきも、我々と同じである。脳状態移植装置は人物維持装置であるとみなすべきだ、と彼はいう。
 シューメイカーは脳状態移植装置を意味あるものとするために、心の理論の一つである機能主義(functionalism)に訴えかける。機能主義的立場にたつならば、心的状態が身体的に実現されるためには、心的状態が後続する状態を含んだ形で同じ人物の心的状態に対して機能的に固有な因果関係に発つ可能性にある、ある身体的なメカニズムの存在が必要であるということになるが、情報を保存するそうしたメカニズムは、いかなる一つの物的身体(脳)に存することもなく、一人の人物に依存することもない。機能主義は唯物論と両立するゆえに、浮遊する魂のようなものを想定しなくても、いかなる身体の連続性を必要とすることなく、心理的連続性を保つことができると、我々は想定することができる。
 機能主義にはいくつかの批判があり、機能主義が正しいとする保証はない。しかし仮に今機能主義が説得力のあるものとして、脳状態移植装置が人間維持装置であると想定できると仮定したとしてもなお、これに対しては困難が待ちかまえている。


○複製人間

 それは複製人間の思考実験によるものである。仮に脳状態移植装置が誤って機能し、人物Bの脳の中に人物Aの脳の状態を作りはしたものの、そうした状態を人物Bだけではなくて人物Cの脳にもつくりだしたとしてみよう。するとこの場合BとCは心理的には連続していることになるが、二人ともAと同一人物であるということはできないだろう。同一性は一対一の関係でなければならない。またBかCのどちらかがAであると考えたとして、さてどちらがAなのかその理由はこの理論からは明らかではない。どちらもAと心理的に連続しているのである。ではどちらもAではないというべきであるとするならば、たとえ脳状態移植装置が正常に作動してBかCどちらか一方が生じたとしてもその人物はAと同一ではないと考えなければならなくなる。
 ここでこうした不都合を避けるために心理的連続性の規準に「分岐していない」という条項を加えて修正することが可能である。だが更に次のような例を考えてみよう。脳状態移植装置がAの脳状態をBに移植し、そのほか誰の脳にも同じような状態をつくり出さなかったとする。しかしここでまた誤って作動しAの脳状態を消し忘れたとする。BはAと心理的に連続しているが、もとよりAが生き残っている。この場合心理的連続性は分岐しているが、後のAは前のAと同一であると強く言いたくなる。そこでさらなる修正として「心理的に分岐していないか、あるいは分岐していても前の人物と最も近接しているものが同一人物である」という条項を加えなければならない。前のAと最も近接た心理的連続性をもった人物はBではなくてAである。だがしばらくしてAが死亡したとしよう。この場合もとの人物Aと最も近接した人物はBということになる。そこでBがAと同一人物であるといったとするならば、では後のAが死ぬ前の間のBは誰だったのか?Aとは全く異なる人物が後のAが死亡したとたん別人になったと考えるのはばかげている。では彼はずっとAだったのか?
 バーナード・ウィリアムズは、ある人物が未来の人物と同一であるか否かは、関係項に成立する内在的特徴だけに依存していなければならない、そして人格の同一性は重要な意義をもつゆえに同一性が成立するか否かはささいな事実に依存してはならない、という。もし我々が非分岐的な心理的連続性の規準を採用するならば、BがAと同一人物であるかどうかは、それとは別の人物Cが存在するか否かに依存することになり、内在的特徴だけに依存するという条項に反している。又分岐していてもかまわないが、Aともっとも近接している人物が同一であるという規準をさいようしたとするならば、BとCどちらか一方がAであると想定することができるが、両者のAとの心理的連続性の度合いは程度の差ということになり、これは同一性が些細な事実に依存してはならない、という条項に反することになる。こうした複製人間について考えてみると、心理的連続性が、人格同一性の規準として適切であるとはいえなくなってくる。
 では我々は、人格同一性の規準として何を採用すべきなのか。心理的連続性でないとするならば、それは身体(脳)の連続性ということになるのだろうか。しかし今見てきたことは、脳の連続性についてもあてはまる。論理的には心理的特徴が分裂可能であるのと同様に、脳も分裂可能だと想定することができる。デヴィット・ビッキンズの思考実験のように、左右の大脳半球を切り離して、二人の別々の身体に移植したとする。心理的連続性で「最も近接している」という条項を付け加えたように、ここでも「脳の50%以上を所有している」という条項を付け加えたとしても、ではもとの人物Aの脳を51%所有している人物Bと49%所有しているCとでは、ほとんど差異がないにも関わらず、CではなくBがAと同一であるということになるが、人格の同一性はささいなことに依存してはならないと考えた場合、脳の連続性は人格同一性の規準として適切ではないことになる。
 ここで我々は二つの選択肢をとることになる。一つ目は、人格の同一性は心理的身体的連続性に存することはなく、それをこえたさらなる事実(霊魂、精神的実体)に存する、という見解である。古来より様々な宗教が、生前や死後が実在するということ、人間は本質的に物質とは区別された霊魂と呼ばれるものであること、を説いてきている。こうした信仰は科学は発達し唯物論的見解が常識となってきている今日においても、一部の人々の間で根強く信じられている。霊魂とは何なのかについては宗教の間で細かな差異はあるだろうが霊魂の実在を信じる者は、人格同一性の問題に関しては、身体的連続性や心理的連続性にその規準があるのではなく、それをこえたさらなる事実にあるのだ、と主張するだろう。
 しかしそうした霊魂のようなものを想定しないならば我々は次のような見解にたどりつく。人格の同一性の規準は身体的心理的連続性以外のさらなる事実にあるのではない。身体的心理的連続性が人格同一性にとってすべてである。そして分裂ケースのような場合、AはB、Cと共に二人の人物として生き続けるというべきである。人格同一性は確定したものではなく、程度の差の問題である。こうした見解はデリック・パーフィットによって主張された。

コメント

人格の同一性②

2010-06-18 | 論考
○ロックの見解

 ロックは『人間知性論』第27章「同一性と差異性について」の中で人格の同一性について論じている。ロックはまず人格の同一性と人間の同一性を区別する。人間の同一性は、人間以外の動物や植物などの有機物の同一性と同じく、絶える変わって物質分子が同じ体制の身体へ継続して生命あるように合一し、これによって同じ連続的生命を共にする点に存する。一方人格とは、「理性と省察とをもち、自分自身を自分自身と考えることのできる、思考する知能ある存在者、違う時間と場所で同じな思考する事物」(1)である。ロックは人間という観念をほぼ動物と同じとみなしていて、一方で人格は思考をもつものと考えているので、たいへん知能のある理知的な猫やオウムがいたならば、その猫やオウムは人格である、という。また思考は意識によってなされるゆえ、「この意識にだけ人格同一性すなわち理知的な存在者の同じなことが存する。ある過去の行動あるいは思想へ及ぼせる限り、それだけ遠くその人物の同一性は達する。当時あったのは今と同じ自分であり、あの行動がなされたのは今それを省察するこの現在の自分と同じ自分によってなのである。」(2)そして人格の同一性は、実体の同一性とは異なる。人間や人間の意識が、もし仮に非物質的実体や霊魂などの実体に結びつけられていたとしても、それらの実体の同一性と人格の同一性とは関係がない。同じ実体であれ違い実体であれ、同じ意識が保たれるならば人格の同一性は保たれる。前世が存在すると説くもので、実は自分は過去にソクラテスであったというものがあったとして、彼がソクラテスの行動や思想を何一つ意識しないならば、彼の魂がソクラテスの魂と同一であったとしても、彼はソクラテスと同一人物ではない。ある王公の霊魂がその王侯の過去の生活の意識を伴って、靴直しの身体に靴直し自身の霊魂が入るや否や入り込み宿ったとすると、たとえ彼は同じ「靴直し」ということができたとしても、以前と同じ人格であるということはできず、彼は王侯と同じ人格となる。前者は非物質的実体(魂)が同じでありながら異なる人格となりうる例で、後者は同じ人間であるが同じ人格でない例である。「仮にもしソクラテスとクイーンバラ現市長とが意識の同一性で一致すれば、二人は同じ人格なのである。目覚めているソクラテスと眠っているソクラテスという同じソクラテスが同じ意識にあずからないとすれば、目覚めているソクラテスと眠っているソクラテスとは同じ人格ではない。」(3)
 ロックの言いたいことは、人格の同一性が意識に存するということ、そして人格の同一性は実体の同一性とは異なる、ということである。ロックは記憶という言葉を用いてはいない。しかし彼があげた例から考えてみると、意識の同一性とは、主に記憶の同一性ということで考えられる。少なくとも後の哲学者達は、人格の同一性の記憶理論の源泉をこのロックの意識の同一性にみいだしたのである。次にこのロックの見解に対するいくつかの反論について考察することによって、記憶-規準理論が如何なる形で修正されねばならないかについて述べることしよう。


○記憶理論への反論
 
1,推移律

 ロックは人格の同一性が意識(記憶)の同一性に存すると主張した。定式化してみるとこうなる。時点t2に存在している人物p2がそれより以前の時点t1に存在していた人物p1と同一であるのは、p2がp1の過去の経験や行為や思想を記憶しているとき、そしてそのときに限る。まずここで記憶ということで意味しているのは、個人的な経験(出来事)の記憶である。記憶といってもいくつかの種類がある。個人的な経験の記憶は、たとえば私は10年前に大阪城へ行ったのを覚えている、というような記憶である。それに対して、1583年に豊臣秀吉が大阪城を建立したのを記憶しいてる、という場合の事実の記憶がある。また私は自転車の乗り方や海での泳ぎ方を記憶している、という方法の記憶というべきものもある。今問題になっているのは個人的経験の記憶である。さてそこで第一の反論が生じる。この反論はバークリやトマス・リードによって提出された。リードは勇敢な軍人の例をあげて、ロックの説明が自己矛盾していることを示す。あるとき一人の少年が果樹園に盗みにはいりむち打たれる。何年か後に彼は若い軍人となり、戦争で勇敢な働きをする。そのとき彼は少年の頃むち打たれたことを覚えている。それから何年かがたち、彼は年輩の将軍になり、勇敢な戦いは覚えているが、むち打たれたことは覚えていない。そこでロックの理論によれば、この将軍は少年と同一人物であるちお同時に同一人物ではない、ということになる。リードはここで推移律に訴えている。同一性は推移的でなければならないゆえ、ロックは矛盾に陥ってしまう。
 この反論には次のように応えることができるだろう。ある人が過去の記憶をもっているということは、彼が過去の出来事を思い出すことができるということであって、現に思い出しているということではない。王侯はしかられた少年のことを一時的に忘れていたとしても、思い出せる記憶痕跡をもっているならば、王侯は少年と同一である。ロックは過去の行動を「現在と同じ意識をもって反復できる限り」人物は同一であるといっている。だが、これについてはむち打たれたのを憶えていない、というのは、完全に忘れたということを意味している、ととらえることができるので、可能性だけでは十分ではない。そこでロックの単純なバージョンは次のように修正しなければならなくなる。人物p2が人物p1の経験を記憶しているとき、p1とp2が同一であるというのは、p1とp2のp間に記憶の継続性があればよい、ということを意味する。p1とp2の間に、p2の経験の記憶をもったp3、p3の記憶をもったp4、p4の記憶をもったp5・・・・などの人物が連なっていて、p2がこの最後の人物の記憶をもっているとき、p1とp2は同一となる。人格の同一性の規準はこの記憶の連続性にある。

2,循環

 次に見る批判は、ロバート・サウスやジョセフ・バトラーによって提出されたものである。それは記憶が人格同一性によって定義されなければならないゆえに、人格の同一性を記憶によって定義することは循環に陥っている、というものである。「人格の同一性の意識は前もって人格の同一性を前提としているのである。だからこそ、その意識は人格の同一性を構成することができない。このことは他のどんな場合にも、知識は知識が前提とする真理を構成することができないのと同じである。」
 さてこれにたいしては次のように応えることができる。デリック・パーフィットは記憶を疑似記憶という観念で定義しようとしている。
(1)私はある経験をもったことを覚えているような気がする。
(2)誰かが実際にこの経験をもった
(3)私の判明な記憶は正しい種類の仕方で、その過去の経験に起因している。
(【注】-ここで「正しい種類の仕方で過去の経験に起因している、となっているのは、単なる因果関係というだけでは記憶しているといえないケースがあるからである。たとえば私は十年まえに大阪城へいったがそのことを完全に忘れている。私はしかし忘れる前に友人にそのことを話す。ある催眠術師が友人から私が大阪城へいったことを聞いて、潜在意識から呼び覚ますのではなくて単に暗示をかけることによって私の中に10年前に大阪城へ行ったという記憶を植え込む。このとき、私の記憶は因果連鎖をたどってゆくと、私が経験したことに由来しているが、この場合私は記憶しているとはいえない。それゆえ因果関係は正しい種類の因果関係でなければならない。)
もし仮に記憶をこのように定義できるのならば、循環は免れることができるだろう。しかし私たちは自分以外の誰かの経験をもつことなど可能なのか?パーフィットはそれは可能であるという。外科医はある人物の脳の中に別人の脳の中の記憶の痕跡のコピーをつくり出す方法を開発し、その結果他の人々の過去の経験を疑似記憶することができるようになると想定できる、とパーフィットはいう。
コメント