Philosophy of casework

哲学論文を掲載しています。大山雄野

人格の同一性③

2010-06-18 | 論考
3,記憶喪失

 反論はまだ残されている。それはある人間は完全な記憶喪失になっても同一人物として生き続けることがあるはずだ、と考えられるように思われるということである。ここでは記憶の直接的連結も連続的な記憶の連鎖もないだろう。
 ここで注意されなければならないのは、記憶喪失ということで何を意味しているか、である。通常の健忘症は回復可能な状態である。それゆえここでの記憶喪失はいかなる方法をもってしても回復不可能な哲学的記憶喪失とでもよばれるべきものでなければならないのだが、はたしてそんな状態になっても人は生き続けることが可能なのか。記憶が経験の記憶のみを意味するのならば、それは可能だろう。だが仮に記憶ということで、経験の記憶に加えて事実の記憶や方法の記憶すらも失ったとするならば完全な記憶喪失になったものが生き続けられるというのは疑わしい。なぜならあらゆる種類の記憶が喪失するということは脳破壊に近い状態だからである。しかし仮にある人が事故にあってあらゆる種類の記憶を失い、脳を外科医が手術するこによって治療して彼が生き続けることができたとする。だがその時彼が前と同じ人格であるかどうかは決して明らかではない。しかしあらゆる記憶を失った後でも前と同じ人格であると特定することのできる特性(性格や才能や興味やしぐさなど)があると考えることができる。そこでこの場合、完全な記憶喪失になっても同じ人格であるということになり、人格同一性の記憶理論は偽となる。
 それゆえ人格の同一性の記憶理論は次のように修正されなければならない。人物p1が人物p2と同一であるためには、p1とp2の間に直接的な心理の連結をもった人物の鎖の連なり(心理的連続性)が存在し、この心理的連続性は正しい種類に原因をもっていなければならない。ここで心理的に連結しているというのは、記憶の連結があるということのみならず、性格や興味や才能など他の心理的特徴の連結をも含んでいる。また意図や欲求とそれによって引き起こされた行為なども含んでいる。


○心理的連続性と身体的連続性

 記憶を含む心理的連続性が人格の同一性にとって重要なのは、それが因果的連続性一般の特殊な場合だと考えられるからである。再びブラウンソンの例に戻ろう。ブラウンソンの記憶主張とブラウンの過去の経験との間には因果的な結合があり、もしブラウンの過去の経験が異なっているならば、ブラウンソンの記憶主張も異なっていただろう。同じことが記憶以外の性格や才能や性向や信念などについてもあてはまる。だがブラウンソンの例から人格の同一性の規準は心理的連続性にあるということは、人格同一性の規準の中に身体の連続性は全く含まれない、ということではない。我々は身体の連続性が人格の同一性の一部ではない、という理由を未だ見いだしてはいない。前にも述べたがブラウンソンがブラウンであると我々がいうのは、なんといってもブラウンソンがブラウンの脳をもっているからだと言う人があるかもしれない。身体から自由に浮遊する魂のようなものを想定しないかぎり、全くの物理的連続性が存在することなしに身体が交換したという事例を想定することはできない。
 シューメイカーは脳状態移植装置とよばれるものをもつ社会を想像している。そこでは或る特殊な環境のため身体は数年の間しか健康を保つことができず、人々はつねに自分のクローン人間を準備をしてそれに脳状態を転送することにより身体を交換している。そしてこの場合、脳そのものが移植されているのではなく、脳のもつ情報のみが転送されているので、脳の連続性(身体的連続性)は存在してしない。シューメイカーはもしそうした社会に我々が直面したならば、彼らが「人格」によって意味しているものは、我々が人格によって意味しているものと同じであるとする強い理由がある、という。彼らは我々と同じものを人格とみなすし、人格同一性と道徳的責任や財産の所有権などとの結びつきも、我々と同じである。脳状態移植装置は人物維持装置であるとみなすべきだ、と彼はいう。
 シューメイカーは脳状態移植装置を意味あるものとするために、心の理論の一つである機能主義(functionalism)に訴えかける。機能主義的立場にたつならば、心的状態が身体的に実現されるためには、心的状態が後続する状態を含んだ形で同じ人物の心的状態に対して機能的に固有な因果関係に発つ可能性にある、ある身体的なメカニズムの存在が必要であるということになるが、情報を保存するそうしたメカニズムは、いかなる一つの物的身体(脳)に存することもなく、一人の人物に依存することもない。機能主義は唯物論と両立するゆえに、浮遊する魂のようなものを想定しなくても、いかなる身体の連続性を必要とすることなく、心理的連続性を保つことができると、我々は想定することができる。
 機能主義にはいくつかの批判があり、機能主義が正しいとする保証はない。しかし仮に今機能主義が説得力のあるものとして、脳状態移植装置が人間維持装置であると想定できると仮定したとしてもなお、これに対しては困難が待ちかまえている。


○複製人間

 それは複製人間の思考実験によるものである。仮に脳状態移植装置が誤って機能し、人物Bの脳の中に人物Aの脳の状態を作りはしたものの、そうした状態を人物Bだけではなくて人物Cの脳にもつくりだしたとしてみよう。するとこの場合BとCは心理的には連続していることになるが、二人ともAと同一人物であるということはできないだろう。同一性は一対一の関係でなければならない。またBかCのどちらかがAであると考えたとして、さてどちらがAなのかその理由はこの理論からは明らかではない。どちらもAと心理的に連続しているのである。ではどちらもAではないというべきであるとするならば、たとえ脳状態移植装置が正常に作動してBかCどちらか一方が生じたとしてもその人物はAと同一ではないと考えなければならなくなる。
 ここでこうした不都合を避けるために心理的連続性の規準に「分岐していない」という条項を加えて修正することが可能である。だが更に次のような例を考えてみよう。脳状態移植装置がAの脳状態をBに移植し、そのほか誰の脳にも同じような状態をつくり出さなかったとする。しかしここでまた誤って作動しAの脳状態を消し忘れたとする。BはAと心理的に連続しているが、もとよりAが生き残っている。この場合心理的連続性は分岐しているが、後のAは前のAと同一であると強く言いたくなる。そこでさらなる修正として「心理的に分岐していないか、あるいは分岐していても前の人物と最も近接しているものが同一人物である」という条項を加えなければならない。前のAと最も近接た心理的連続性をもった人物はBではなくてAである。だがしばらくしてAが死亡したとしよう。この場合もとの人物Aと最も近接した人物はBということになる。そこでBがAと同一人物であるといったとするならば、では後のAが死ぬ前の間のBは誰だったのか?Aとは全く異なる人物が後のAが死亡したとたん別人になったと考えるのはばかげている。では彼はずっとAだったのか?
 バーナード・ウィリアムズは、ある人物が未来の人物と同一であるか否かは、関係項に成立する内在的特徴だけに依存していなければならない、そして人格の同一性は重要な意義をもつゆえに同一性が成立するか否かはささいな事実に依存してはならない、という。もし我々が非分岐的な心理的連続性の規準を採用するならば、BがAと同一人物であるかどうかは、それとは別の人物Cが存在するか否かに依存することになり、内在的特徴だけに依存するという条項に反している。又分岐していてもかまわないが、Aともっとも近接している人物が同一であるという規準をさいようしたとするならば、BとCどちらか一方がAであると想定することができるが、両者のAとの心理的連続性の度合いは程度の差ということになり、これは同一性が些細な事実に依存してはならない、という条項に反することになる。こうした複製人間について考えてみると、心理的連続性が、人格同一性の規準として適切であるとはいえなくなってくる。
 では我々は、人格同一性の規準として何を採用すべきなのか。心理的連続性でないとするならば、それは身体(脳)の連続性ということになるのだろうか。しかし今見てきたことは、脳の連続性についてもあてはまる。論理的には心理的特徴が分裂可能であるのと同様に、脳も分裂可能だと想定することができる。デヴィット・ビッキンズの思考実験のように、左右の大脳半球を切り離して、二人の別々の身体に移植したとする。心理的連続性で「最も近接している」という条項を付け加えたように、ここでも「脳の50%以上を所有している」という条項を付け加えたとしても、ではもとの人物Aの脳を51%所有している人物Bと49%所有しているCとでは、ほとんど差異がないにも関わらず、CではなくBがAと同一であるということになるが、人格の同一性はささいなことに依存してはならないと考えた場合、脳の連続性は人格同一性の規準として適切ではないことになる。
 ここで我々は二つの選択肢をとることになる。一つ目は、人格の同一性は心理的身体的連続性に存することはなく、それをこえたさらなる事実(霊魂、精神的実体)に存する、という見解である。古来より様々な宗教が、生前や死後が実在するということ、人間は本質的に物質とは区別された霊魂と呼ばれるものであること、を説いてきている。こうした信仰は科学は発達し唯物論的見解が常識となってきている今日においても、一部の人々の間で根強く信じられている。霊魂とは何なのかについては宗教の間で細かな差異はあるだろうが霊魂の実在を信じる者は、人格同一性の問題に関しては、身体的連続性や心理的連続性にその規準があるのではなく、それをこえたさらなる事実にあるのだ、と主張するだろう。
 しかしそうした霊魂のようなものを想定しないならば我々は次のような見解にたどりつく。人格の同一性の規準は身体的心理的連続性以外のさらなる事実にあるのではない。身体的心理的連続性が人格同一性にとってすべてである。そして分裂ケースのような場合、AはB、Cと共に二人の人物として生き続けるというべきである。人格同一性は確定したものではなく、程度の差の問題である。こうした見解はデリック・パーフィットによって主張された。


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