こんばんわ
約一年間、カーネーションの歴史をご紹介してきませんでしたが、
また再開したいと思います。
カーネーションは東京、神奈川、静岡、千葉と生産が広がってきます。
さらに全国へと広がりを見せます。
そこには先人たちの知恵や努力が描かれています。
このカーネーションの歴史を執筆したのは、日本カーネーション界では知らぬ者はいないというほどの
カーネーションの第一人者の宇田明先生です。
宇田先生は現在、宇田花づくり研究所代表・株式会社なにわ花いちば テクニカルアドバイザー
(社)日本花き生産協会カーネーション部会技術顧問を歴任していらっしゃいます。
昨年2012年には第20回松下幸之助花の万博記念賞奨励賞受賞されています。
その講演会の内容はこちらです
カーネーションの歴史 東京から地方へ Vol.17
☆千葉編
3.芳川顕正伯爵
1919年(大正8年)、貴族院議員で大臣も務めた芳川顕正伯爵が
白浜町下沢に別荘を建てました。千葉のカーネーションは、その時、嫡子芳川寛治伯爵が
温暖な気候に目を付け、30坪のガラス温室に、カーネーションとバラを栽培し、出荷
したのが、はじまりです。
このころにはガラス温室が珍しく、各地より見学者が大勢来たようです。
ちなみに芳川寛治伯爵は曾禰荒助子爵の次男として生まれます。のち芳川顕正伯爵の四女・鎌子さんと
結婚して芳川家の婿養子となります。1920年(大正9年) 、顕正伯爵の死去にともない伯爵を襲爵しますが、
以後は実業界での活動に専念、後に台湾鉱業、磐城鉱業、足利紡績の社長などを歴任する活躍を見せました。
芳川顕正伯爵はこんな人
(コトバンクより)
生年: 天保12.12.10 (1842.1.21)
没年: 大正9.1.10 (1920)
明治大正期の官僚。徳島県出身。父は原田民部,母は慶子。浅野玄碩より医学を学び,高橋文昨の養嗣子となる。
文久2(1862)年以降,長崎で医学修業の傍ら,何礼之,瓜生寅 に英学を学び,伊藤博文と交遊。慶応3(1867)年,鹿児島に赴き,
海軍所の賓客として航海,数学,兵学書の翻訳に当たる。明治1(1868)年,芳川と改姓。徳島の洋学教授を経て,3年大蔵省に出仕,
翌年にかけて伊藤博文と渡米し貨幣・金融制度調査に従事。帰国後,紙幣頭,工部大丞,工部大書記官,電信局長などを歴任した。
12年から翌年にかけてのイギリス出張では万国電信会議に出席。外務少輔,工部少輔を経て,15年から3年間,東京府知事を務め,
地区改正や築港に尽力した。その後,内務大輔,内務次官として山県有朋内務卿・内相を補佐。23年,第1次山県内閣の文部大臣となり,
教育勅語の制定に関与した。以後,司法,内務,逓信の各大臣を歴任した。この間,宮中顧問官兼内蔵頭,兼帝室会計審査局長,
中央衛生会長などとなる。33~37年,貴族院伯爵議員。43年以降一時の中断を除いて枢密顧問官。43年から翌年,国学院大学学長,
皇典講究所総裁を務める。45年から大正6(1917)年まで枢密院副議長。長崎時代,英国帰りで会話はできても読み書きが不自由な
伊藤博文に英文法を教えたのが,官途につくきっかけとなった。