文齋窯の小川文齋です。
小川文齋伝なんてすごい題名にしましたが、
気楽に読んで頂けたらなー、と思います。
少し長くなるので、何回かに分けてお話ししたいと思います。
初代 小川文齋は文化六年(1809年)、
加賀国能美群若杉村で生まれたそうです。
今で言うと石川県小松市になります。
通称を文助、名を久右衞門と言いました。
年少の頃から製陶をを志し、
文政年間にはいろいろな陶業地をまわり
製陶技術や築窯法を学びました。
特に陶窯築造に精通していた様です。
天保五年、磁器の時代の到来を感じるや
肥前有田に向かい、そこで丸窯式築窯の研究に専念する。
いわゆる登り窯の作り方です。
天保10年、有志者の依頼により
大阪天満源八町樋ノ口に登り窯を築く事になった。
これが31才の時であり、初仕事でもありました。
その後、天保の改革直面し、
水野越前守の緊縮令により製陶界は衰退することになりました。
文助も築窯の腕を振るう機会もなく
天保十四年京都の清水坂に移り
亀屋平吉の工場で製陶に従事していました。
弘化二年水野老中の失脚により幕府の禁令もゆるみ
庶民文化は反映を取り戻す事になる。
文助の元にも湖東焼藩窯から
有良磁器を焼くための丸窯築窯の要請が来る。
彼は早速、彦根の俗称茶碗山を訪ね
絵師森部佐吉の元に身を寄せながら
五間丸窯(五の間まである登り窯)の築窯にあたった。
そんなとき、佐吉の元に一条家領鹿背山から
欠陥窯の相談が持ち込まれる。
文助の運命の大きな岐路がやってきたのである。
その1はこのあたりで。
ありがとうございました。
次回はこの続きを書きたいと思います。