一猛斎芳虎『武者鑑 一名人相合 南伝二』(安政6)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1312408/1/1
「人相合」は、にんそうあわせ でしょうか。古人の人相をからめた話。
「丹後局」の「西国に連綿たる源氏」は島津氏で、初代の惟宗忠久が源頼朝と丹後局の子という伝説によった話。
丹後局《たんごのつぼね》
局《つほね》は優《ゆう》にやさしき女性《によしやう》なれば頼朝《よりとも》深《ふか》く寵愛《ちやうあい》をなし給ふによつていつしか懐妊《くわいにん》ありける由《よし》を御䑓所《みだいどころ》の聞《きゝ》玉ひて嫉妬《ねたまし》きことに思《おも》ひ何卒《なにとぞ》してなきものにせんと腹心《ふくしん》の者《もの》に言付《いひつけ》て局《つぼね》を由井《ゆゐ》が濱《はま》に人《ひと》しらず殺《ころ》させんとし給ふを重忠《しげたゞ》は四相《しさう》をさとる人なれば局《つぼね》の死相《しさう》あるを視《み》て大いに驚《おどろ》き是《これ》御䑓所《みだいどころ》の嫉妬《しつと》に殺され給ふらんとて計事《はかりごと》を廻《めぐ》らして西国《さいこく》の方《かた》へ落《おと》しまいらす
途中《とちう》摂州《せつしう》住吉《すみよし》の境内《けいだい》にて目出度《めでたく》若君誕生《わかぎみたんじやう》あり 則《すなはち》此君《このきみ》を始祖《しそ》として今猶《いまなほ》西国《さいこく》に連綿《れんめん》たる源氏《げんじ》あり
夫《それ》死相《しさう》は色《いろ》を以《も》て多《おほ》く知《し》るといへば今《いま》こゝには詳《つまひらか》にせず 書《しよ》によつてもとむべし
畠山重忠の人相の出典はわかりません。よく知られた話ではない?
秩父庄司重忠《ちゝぶのせうじしげたゞ》
重忠《しげたゞ》は畠山重能《はたけやましげよし》の男《なん》なり強力無双《がうりきぶさう》にして坂東《ばんどう》に並《なら》ぶ
ものなし 然《しか》も清直《せいちよく》にして忠義《ちうぎ》金鉄《きんてつ》のごとく
戦功《せんこう》数多《あまた》ありて鎌倉《かまくら》第一《だいゝち》の忠臣《ちうしん》
なれば北條父子《ほうでうふし》豫《かね》て大望《たいもう》の企《くはだて》あれば
邪魔《じやま》なりとて重忠《しげたゞ》謀叛《むほん》のよしを
實朝将軍《さねともしやうぐん》に申《もふし》て是《これ》を不意《ふい》に
討《うち》重忠《しげたゞ》勇《ゆう》なりといへど大軍《たいぐん》に
敵《てき》しがたく愛甲《あいかう》三郎の矢《や》に當《あた》つて
死《し》す 時《とき》に年《とし》四十二才なり 人《ひと》皆《みな》
忠勇《ちうゆう》を称《しよう》して惜《をし》まぬものなし 重忠《しげたゞ》は
面体《めんてい》威《ゐ》あつて猛《たけ》からず 堂々《たう/\》たる容儀《やうぎ》あれど鼻《はな》の
根元《こんげん》に横《よこ》すじありて眼《め》の中《うち》へ入込《いりこん》でありしが
是《これ》不時《ふじ》の難《なん》にあふ危《あやう》き相《さう》なりしといふ
清水冠者義高《しみづのくわんじやよしたか》
義高《よしたか》は義仲《よしなか》の一子《いつし》なるが鎌倉《かまくら》へ人質《ひとじち》として来《きた》りけるを頼朝《よりとも》悦《よろこ》びて養子《やうし》として
大姫君《おほひめぎみ》と娶《めあは》さんとて止《とゞ》めおかれしが
義仲《よしなか》の亡《ほろ》びて後《のち》密《ひそか》に義高《よしたか》も失《うしな》はんとの沙汰《さた》あれば
附人《つきびと》として来《きた》りし海野《うんの》幸氏《ゆきうぢ》勧《すゝ》めて
鎌倉《かまくら》を忍《しの》び出《いで》て落行《おちゆく》に武州《ぶしう》
入間川原《いるまがはら》にて追手《おつて》の為《ため》に殺《ころ》さるゝ
義高《よしたか》は古今《こゝん》の美男《びなん》なれど勇《ゆう》もなく
智《ち》もなく敢《あへ》て賞《しよう》する所《ところ》なかりししが
世人《せじん》多《おほ》くは男女《なんによ》に限《かぎ》らず美貌《びぼう》を好《この》むといへど別《べつ》して男子《なんし》たるものは智勇《ちゆう》さへあれば
美顔《びがん》ならぬを社《こそ》好《よし》といふべし
大姫君《おほひめぎみ》
姫《ひめ》は頼朝《よりとも》の女《むすめ》なり させる
美色《びしよく》はなけれど飽《あく》まで貞心《ていしん》深《ふか》く頼朝《よりとも》より
義高《よしたか》に娶《めあは》さんとのことゆへ今日《けふ》や明日《あす》やと待《まつ》うちに義仲《よしなか》亡《ほろ》びて後《のち》義高《よしたか》は藤内光澄《とうないみつずみ》の
為《ため》に討《うた》れしと聞《きく》より深《ふか》く歎《なげ》き悲《かなし》みて飲食《いんしよく》更《さら》に
咽《のんど》へ下《くだ》さずありければ御䑓所《みだいどころ》は大いに驚《おどろ》き光澄《みづずみ》を義高《よしたか》
の仇《あだ》として斫《きら》しむといへど大姫《おほひめ》弥《いよ/\》眷恋《けんれん》の情《じやう》篤《あつ》く竟《つひ》に
漿水《しやうすい》を断《たち》て死《し》し給ふ 是《これ》や寔《まこと》の貞女《ていぢよ》ともいふべき 然《さ》れば
容貌《やうぼう》の清《きよ》からずとも其名《そのな》は清《きよ》く末世《まつせ》の今《いま》に高《たか》し
鶴亭秀賀筆記
一猛齋芳虎画
容貌の話で中身重視の論調にするのは当時の風潮?
容姿をほめられてむしろ侮辱に感じるという感覚も大昔からあったのでしょうか。
絵には特に人相の特徴はなく、美男美女?
https://dl.ndl.go.jp/pid/1312408/1/1
「人相合」は、にんそうあわせ でしょうか。古人の人相をからめた話。
「丹後局」の「西国に連綿たる源氏」は島津氏で、初代の惟宗忠久が源頼朝と丹後局の子という伝説によった話。
丹後局《たんごのつぼね》
局《つほね》は優《ゆう》にやさしき女性《によしやう》なれば頼朝《よりとも》深《ふか》く寵愛《ちやうあい》をなし給ふによつていつしか懐妊《くわいにん》ありける由《よし》を御䑓所《みだいどころ》の聞《きゝ》玉ひて嫉妬《ねたまし》きことに思《おも》ひ何卒《なにとぞ》してなきものにせんと腹心《ふくしん》の者《もの》に言付《いひつけ》て局《つぼね》を由井《ゆゐ》が濱《はま》に人《ひと》しらず殺《ころ》させんとし給ふを重忠《しげたゞ》は四相《しさう》をさとる人なれば局《つぼね》の死相《しさう》あるを視《み》て大いに驚《おどろ》き是《これ》御䑓所《みだいどころ》の嫉妬《しつと》に殺され給ふらんとて計事《はかりごと》を廻《めぐ》らして西国《さいこく》の方《かた》へ落《おと》しまいらす
途中《とちう》摂州《せつしう》住吉《すみよし》の境内《けいだい》にて目出度《めでたく》若君誕生《わかぎみたんじやう》あり 則《すなはち》此君《このきみ》を始祖《しそ》として今猶《いまなほ》西国《さいこく》に連綿《れんめん》たる源氏《げんじ》あり
夫《それ》死相《しさう》は色《いろ》を以《も》て多《おほ》く知《し》るといへば今《いま》こゝには詳《つまひらか》にせず 書《しよ》によつてもとむべし
畠山重忠の人相の出典はわかりません。よく知られた話ではない?
秩父庄司重忠《ちゝぶのせうじしげたゞ》
重忠《しげたゞ》は畠山重能《はたけやましげよし》の男《なん》なり強力無双《がうりきぶさう》にして坂東《ばんどう》に並《なら》ぶ
ものなし 然《しか》も清直《せいちよく》にして忠義《ちうぎ》金鉄《きんてつ》のごとく
戦功《せんこう》数多《あまた》ありて鎌倉《かまくら》第一《だいゝち》の忠臣《ちうしん》
なれば北條父子《ほうでうふし》豫《かね》て大望《たいもう》の企《くはだて》あれば
邪魔《じやま》なりとて重忠《しげたゞ》謀叛《むほん》のよしを
實朝将軍《さねともしやうぐん》に申《もふし》て是《これ》を不意《ふい》に
討《うち》重忠《しげたゞ》勇《ゆう》なりといへど大軍《たいぐん》に
敵《てき》しがたく愛甲《あいかう》三郎の矢《や》に當《あた》つて
死《し》す 時《とき》に年《とし》四十二才なり 人《ひと》皆《みな》
忠勇《ちうゆう》を称《しよう》して惜《をし》まぬものなし 重忠《しげたゞ》は
面体《めんてい》威《ゐ》あつて猛《たけ》からず 堂々《たう/\》たる容儀《やうぎ》あれど鼻《はな》の
根元《こんげん》に横《よこ》すじありて眼《め》の中《うち》へ入込《いりこん》でありしが
是《これ》不時《ふじ》の難《なん》にあふ危《あやう》き相《さう》なりしといふ
清水冠者義高《しみづのくわんじやよしたか》
義高《よしたか》は義仲《よしなか》の一子《いつし》なるが鎌倉《かまくら》へ人質《ひとじち》として来《きた》りけるを頼朝《よりとも》悦《よろこ》びて養子《やうし》として
大姫君《おほひめぎみ》と娶《めあは》さんとて止《とゞ》めおかれしが
義仲《よしなか》の亡《ほろ》びて後《のち》密《ひそか》に義高《よしたか》も失《うしな》はんとの沙汰《さた》あれば
附人《つきびと》として来《きた》りし海野《うんの》幸氏《ゆきうぢ》勧《すゝ》めて
鎌倉《かまくら》を忍《しの》び出《いで》て落行《おちゆく》に武州《ぶしう》
入間川原《いるまがはら》にて追手《おつて》の為《ため》に殺《ころ》さるゝ
義高《よしたか》は古今《こゝん》の美男《びなん》なれど勇《ゆう》もなく
智《ち》もなく敢《あへ》て賞《しよう》する所《ところ》なかりししが
世人《せじん》多《おほ》くは男女《なんによ》に限《かぎ》らず美貌《びぼう》を好《この》むといへど別《べつ》して男子《なんし》たるものは智勇《ちゆう》さへあれば
美顔《びがん》ならぬを社《こそ》好《よし》といふべし
大姫君《おほひめぎみ》
姫《ひめ》は頼朝《よりとも》の女《むすめ》なり させる
美色《びしよく》はなけれど飽《あく》まで貞心《ていしん》深《ふか》く頼朝《よりとも》より
義高《よしたか》に娶《めあは》さんとのことゆへ今日《けふ》や明日《あす》やと待《まつ》うちに義仲《よしなか》亡《ほろ》びて後《のち》義高《よしたか》は藤内光澄《とうないみつずみ》の
為《ため》に討《うた》れしと聞《きく》より深《ふか》く歎《なげ》き悲《かなし》みて飲食《いんしよく》更《さら》に
咽《のんど》へ下《くだ》さずありければ御䑓所《みだいどころ》は大いに驚《おどろ》き光澄《みづずみ》を義高《よしたか》
の仇《あだ》として斫《きら》しむといへど大姫《おほひめ》弥《いよ/\》眷恋《けんれん》の情《じやう》篤《あつ》く竟《つひ》に
漿水《しやうすい》を断《たち》て死《し》し給ふ 是《これ》や寔《まこと》の貞女《ていぢよ》ともいふべき 然《さ》れば
容貌《やうぼう》の清《きよ》からずとも其名《そのな》は清《きよ》く末世《まつせ》の今《いま》に高《たか》し
鶴亭秀賀筆記
一猛齋芳虎画
容貌の話で中身重視の論調にするのは当時の風潮?
容姿をほめられてむしろ侮辱に感じるという感覚も大昔からあったのでしょうか。
絵には特に人相の特徴はなく、美男美女?
