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拾い読みノート

本の検索の記録、つぶやきの再利用など。

木曽義高と海野重氏の歌(平家物語)

2023-07-11 23:35:55 | 歴史
平家物語 長門本の木曽義隆(義高)と海野重氏の歌。
「はやきつる」は「我が(ワカ)来つる」の誤写かも。

平家物語 長門本 巻十三
https://www.digital.archives.go.jp/img/3669934/36

清水冠者には おなしとしなる さふらひ二人うふこやの太郎行氏海野小太郎重氏といひける物をそ つけたりける
清水冠者は みちすから なきけれは いかにかくは わたらせ給そ おさなけれとも 弓矢の家にむまれぬるは さは候はぬ物を まさなしと申けれは 義隆かくそいひける
はやきつるみちの草はやかれぬらん あまりこかれて物をおもへは といらひたりけれは 重氏
思には道の草はもよもかれし 涙の雨のつねにそゝけは

武者鑑 一名 人相合(丹後局、畠山重忠、木曽義高、大姫)

2023-07-08 00:30:52 | 歴史
一猛斎芳虎『武者鑑 一名人相合 南伝二』(安政6)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1312408/1/1

「人相合」は、にんそうあわせ でしょうか。古人の人相をからめた話。

「丹後局」の「西国に連綿たる源氏」は島津氏で、初代の惟宗忠久が源頼朝と丹後局の子という伝説によった話。

丹後局《たんごのつぼね》
局《つほね》は優《ゆう》にやさしき女性《によしやう》なれば頼朝《よりとも》深《ふか》く寵愛《ちやうあい》をなし給ふによつていつしか懐妊《くわいにん》ありける由《よし》を御䑓所《みだいどころ》の聞《きゝ》玉ひて嫉妬《ねたまし》きことに思《おも》ひ何卒《なにとぞ》してなきものにせんと腹心《ふくしん》の者《もの》に言付《いひつけ》て局《つぼね》を由井《ゆゐ》が濱《はま》に人《ひと》しらず殺《ころ》させんとし給ふを重忠《しげたゞ》は四相《しさう》をさとる人なれば局《つぼね》の死相《しさう》あるを視《み》て大いに驚《おどろ》き是《これ》御䑓所《みだいどころ》の嫉妬《しつと》に殺され給ふらんとて計事《はかりごと》を廻《めぐ》らして西国《さいこく》の方《かた》へ落《おと》しまいらす
途中《とちう》摂州《せつしう》住吉《すみよし》の境内《けいだい》にて目出度《めでたく》若君誕生《わかぎみたんじやう》あり 則《すなはち》此君《このきみ》を始祖《しそ》として今猶《いまなほ》西国《さいこく》に連綿《れんめん》たる源氏《げんじ》あり
夫《それ》死相《しさう》は色《いろ》を以《も》て多《おほ》く知《し》るといへば今《いま》こゝには詳《つまひらか》にせず 書《しよ》によつてもとむべし


畠山重忠の人相の出典はわかりません。よく知られた話ではない?

秩父庄司重忠《ちゝぶのせうじしげたゞ》
重忠《しげたゞ》は畠山重能《はたけやましげよし》の男《なん》なり強力無双《がうりきぶさう》にして坂東《ばんどう》に並《なら》ぶ
ものなし 然《しか》も清直《せいちよく》にして忠義《ちうぎ》金鉄《きんてつ》のごとく
戦功《せんこう》数多《あまた》ありて鎌倉《かまくら》第一《だいゝち》の忠臣《ちうしん》
なれば北條父子《ほうでうふし》豫《かね》て大望《たいもう》の企《くはだて》あれば
邪魔《じやま》なりとて重忠《しげたゞ》謀叛《むほん》のよしを
實朝将軍《さねともしやうぐん》に申《もふし》て是《これ》を不意《ふい》に
討《うち》重忠《しげたゞ》勇《ゆう》なりといへど大軍《たいぐん》に
敵《てき》しがたく愛甲《あいかう》三郎の矢《や》に當《あた》つて
死《し》す 時《とき》に年《とし》四十二才なり 人《ひと》皆《みな》
忠勇《ちうゆう》を称《しよう》して惜《をし》まぬものなし 重忠《しげたゞ》は
面体《めんてい》威《ゐ》あつて猛《たけ》からず 堂々《たう/\》たる容儀《やうぎ》あれど鼻《はな》の
根元《こんげん》に横《よこ》すじありて眼《め》の中《うち》へ入込《いりこん》でありしが
是《これ》不時《ふじ》の難《なん》にあふ危《あやう》き相《さう》なりしといふ


清水冠者義高《しみづのくわんじやよしたか》
義高《よしたか》は義仲《よしなか》の一子《いつし》なるが鎌倉《かまくら》へ人質《ひとじち》として来《きた》りけるを頼朝《よりとも》悦《よろこ》びて養子《やうし》として
大姫君《おほひめぎみ》と娶《めあは》さんとて止《とゞ》めおかれしが
義仲《よしなか》の亡《ほろ》びて後《のち》密《ひそか》に義高《よしたか》も失《うしな》はんとの沙汰《さた》あれば
附人《つきびと》として来《きた》りし海野《うんの》幸氏《ゆきうぢ》勧《すゝ》めて
鎌倉《かまくら》を忍《しの》び出《いで》て落行《おちゆく》に武州《ぶしう》
入間川原《いるまがはら》にて追手《おつて》の為《ため》に殺《ころ》さるゝ
義高《よしたか》は古今《こゝん》の美男《びなん》なれど勇《ゆう》もなく
智《ち》もなく敢《あへ》て賞《しよう》する所《ところ》なかりししが
世人《せじん》多《おほ》くは男女《なんによ》に限《かぎ》らず美貌《びぼう》を好《この》むといへど別《べつ》して男子《なんし》たるものは智勇《ちゆう》さへあれば
美顔《びがん》ならぬを社《こそ》好《よし》といふべし


大姫君《おほひめぎみ》
姫《ひめ》は頼朝《よりとも》の女《むすめ》なり させる
美色《びしよく》はなけれど飽《あく》まで貞心《ていしん》深《ふか》く頼朝《よりとも》より
義高《よしたか》に娶《めあは》さんとのことゆへ今日《けふ》や明日《あす》やと待《まつ》うちに義仲《よしなか》亡《ほろ》びて後《のち》義高《よしたか》は藤内光澄《とうないみつずみ》の
為《ため》に討《うた》れしと聞《きく》より深《ふか》く歎《なげ》き悲《かなし》みて飲食《いんしよく》更《さら》に
咽《のんど》へ下《くだ》さずありければ御䑓所《みだいどころ》は大いに驚《おどろ》き光澄《みづずみ》を義高《よしたか》
の仇《あだ》として斫《きら》しむといへど大姫《おほひめ》弥《いよ/\》眷恋《けんれん》の情《じやう》篤《あつ》く竟《つひ》に
漿水《しやうすい》を断《たち》て死《し》し給ふ 是《これ》や寔《まこと》の貞女《ていぢよ》ともいふべき 然《さ》れば
容貌《やうぼう》の清《きよ》からずとも其名《そのな》は清《きよ》く末世《まつせ》の今《いま》に高《たか》し

鶴亭秀賀筆記
一猛齋芳虎画


容貌の話で中身重視の論調にするのは当時の風潮?
容姿をほめられてむしろ侮辱に感じるという感覚も大昔からあったのでしょうか。

絵には特に人相の特徴はなく、美男美女?

漆取之図(大日本物産図会)

2023-07-07 00:42:01 | 歴史
昔は田畑の近くに漆の木を植えることもあったそうで、漆掻きの人に立ち木のまま売って、伐採後また育てたとか。日常的な光景だった樹液の採取は、今では意外なことのように受け取られて、それが関係ない話に利用されていたり…

大日本物産図会(錦絵物産図会) 80枚
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/yo01/yo01_04265/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/yo01/yo01_04265/yo01_04265_0001/yo01_04265_0001.html
8
同國漆取之圖
漆《ウルシ》樹は雌雄《メヲ》の二種《シユ》あり
雌木《メボク》は実《ミ》を結《ムス》び蠟《ラウ》を取べく
雄《ヲ》木は実なし刊漆《ウルシ》をとる也
時侯《ジコウ》は半夏生より初り
十月に終る 其取法《トリカタ》樹《キ》に
段々《ダン/\》傷《キズ》を付口より流《ナガル》るゝ
夜《シル》を鉄の箆《ヘラ》にて掻《カキ》取り腰《コシ》に
付たる竹づゝに請《ウケ》 とめ枝を切て
水に浸《シタ》し傷を付て液を掻とる也



弘法大師修請雨経法降雨語(今昔物語集)

2023-07-06 00:06:44 | 歴史
弘法大師が神泉で雨乞いをした話。善如龍王は、五尺の蛇の頭に乗った五寸の金色の蛇?

今昔物語集 巻14
弘法大師修請雨経法降雨語 第四十一
https://dl.ndl.go.jp/pid/2558957/1/47

今昔□□天皇ノ御代ニ天下旱魃シテ万ノ物皆焼畢テ枯尽タルニ天皇此レヲ歎キ給フ 大臣以下ノ人民ニ至マテ此ヲ歎カスト云フ事無シ 其ノ時ニ弘法大師ト申ス人在マス
僧都ニテ在シケル時ニ天皇大師ヲ召テ仰セ給テ云ク 何ニシテカ此ノ旱魃ヲ止テ雨ヲ降シテ世ヲ助ベキト 大師申テ云ク我カ法ノ中ニ雨ヲ降ス法有リト 天皇速ニ其ノ法ヲ修ベシトテ大師言ハニ随テ神泉ニシテ請雨経ノ法ヲ修メシメ給フ 七日法ヲ修スル間壇ノ右ノ上ニ五尺許ノ虵出来タリ
見レハ五寸許ノ虵ノ金ノ色シタルヲ戴ケリ 暫許有テ虵只寄リニ寄来テ池ニ入ヌ 而ルニ廿人ノ伴僧皆居並タリト云ヘトモ其ノ中ニ止事無キ 伴僧四人コソ此ノ虵ヲ見ケレ僧都ハタ更也 此レヲ見給フニ一人止事無キ伴僧有テ僧都ニ申シテ云ク 此ノ虵ノ現セルハ何ナル相ソト
僧都答テ宣ハク 汝チ知ラスヤ 此ハ天竺ニ阿耨達智池ト云フ池有リ 其ノ池ニ住ム善如龍王此ノ池ニ通ヒ給フ 然レハ此ノ法ノ験シ有ラムトテ現セル也ト 而ル間俄ニ空陰テ戌亥ノ方ヨリ黒キ雲出来テ雨降ル事世界ニ皆普シ 此レニ依テ旱魃止ヌ
此ヨリ後天下旱魃ノ時ニハ此ノ大師ノ流ヲ受テ此ノ法ヲ伝ヘタル人ヲ以テ神泉ニシテ此ノ法ヲ行ハルゝ也 而ルニ必ス雨降ル其ノ時ニ阿闍梨ニ勧賞ヲ給ハル事定レル例也 今ニ絶ストナム語伝ヘタルトヤ

『高野大師行状図画(絵)』第八 神泉祈雨
https://dl.ndl.go.jp/pid/2567446/1/27

信濃国浅間山大焼書図

2023-07-04 23:47:05 | 歴史
災異『信濃国浅間山大焼書図』
http://www-moaej.shinshu-u.ac.jp

最後のパロディ部分です。今はこんなことはできないでしょうか……
(※マークはコメント。)

大変の三夕暮

 西行法師 涼月はしめの八日 下総なる戸根川の辺りにて
心なき身にもあわれは知られけり 死人流るゝ川のゆふ暮

 寂蓮法師 叔月のはしめ信濃なる浅間にて
あわれさは そのかずとしもなかりけり 焼立山の煙の夕暮

 定歌卿 上野国吾妻郡にて
見渡せは家も土蔵もなかりけり 吾妻うづむ泥の夕暮

米高倉の御宇 油の高直殿より物の高村小野之小町卿に
歌よめと有りけれは
わんの内は有りし昔にかわらねど 飯くふ人の内そゆかしき
と詠ければ いみじく申たりとて しんこじき集に入られたり

(※小野篁、新古今集。歌の意味は、食べ物が増えたわけではないのに、値上がりのために、懐の内が慎み深い?)

中渕困窮
水はまし藝者はにげて茶屋は出ず是でなかずにいられましやうか

(※本歌不明。「泣かずに」(中洲に?)は瞽女唄『葛の葉子別れ』が有名?)

高砂
高砂や この裏店の戸をあけて つき米買に いてしほの
なみの袷や嶋布 子もりあるのをおきすてゝ はやすぎわひに つきにけり/\

(※「嶋布」の読みは「しまのぬの?」 「つき米買」は噴火噴石の音の比喩?)

米穀高直の御代

 玉津嶋大明神 和歌の神
立帰り又も此地に住やらん名もはつかしき下々の裏店

 住吉大明神
直《ね》や高き 米やすくなき町方の 行末は猶 しづや泣らん

 人丸大明神
だん/\と あかりし米の朝ゆふに人かくれ行 店をしぞ思ふ

(※本歌は和歌三神。立ち返り、夜や寒き、ほのぼのと)

百人一首

 天地天動
兄が田もかりたる店(※たな?)の苫ふきも我子供まで泥に埋つゝ

 お江戸の千人
搗見れば ちゞに臼てそ かなしけれ 我身ひとりの米にはあらねど

 乱家
此度は物もとりあへず浅間山 焼石の飛ぶ煙のまに/\

人寂業
哀れぞといふべき人ももろ共に泥の中にぞうづむべきとは

大事の三扁(?)
浅間山いかなる故に焼出せば逃たる人はのがれやはしる

(※天智天皇、大江千里、菅家、謙徳公 (人?僧?の死の宿業?)、大弐三位(カルタの「三遍まわって」?))

狂歌
浅間しや冨士より高き米相場 火の降る江戸に砂の降るとは
外は灰 内は火のふる米相場 六斗の辻にまよひ升とは

 三夕
心なき人も哀れにおもひけり やすい米買 門ト(※かど?)の夕くれ
見渡せは米も心もあかりけり 裏の店子の喰はぬ夕暮
淋しさは其色里もつまりけり 粥たく家のすまぬゆふ暮

 狂歌
親者は毎日三斗五升願へ 我が子共らを四斗に升とは
 返歌
此米を四斗弐升とは壱石な 願を上げて五は斗弐升

(※三度後生願え、使途(≒徒弟)にしようとは(困窮し子供を奉公に出した親が神仏の加護を願う?) この子めを、一酷な? 御法度にしよう?)

 悪たい
田侍(※やぼ?)たいあいつらか 井伊かとおもつて なりあかりの
くせに 旦那さまの気に か納やうに お嶋津だの御けん
やくだのと古田めこかしに うぬらが田沼へ水野を引工面
斗り 米倉へ しこたま積んておいて 信濃者程 くらい
なから牧野ものに甲斐を喰へなんと うぬらが飛騨
るへ目をせねへから御救の御給侯のといふ事はこんな
時に出さねへで伊豆出るこんだ あの鳥居も
ないやつに無水に御加増やつて軍の時は赤ゐ具足
を着て桑原/\といふてゐるてあらふ奏者ねへ寺社ア
なんと思ふ 相手 そんな石見をいふねへ

(※家名や職名の駄洒落? 御始末、ひだる、いつ 、取り柄、嫌味)

 貧衆 米高高利《コメタカガウリ》 浅安村
  困窮山 ひんかう寺
開帳 御本尊 御丈つけて七合 小身の泪如来 町人の御ひ(※請ひ?)

下《サゲ》度相(※わたらい?)する輩はひだるへしとの御誓願也
 霊宝は きらず丸の長刀 小米作りの御古刀
非人上の御筆
 いろりの下 蜘の巣かけきりのまんだら
米びつあかずの名号
 貧乏上人の御筆也
妻子還ざりの大屋さん(※大伴家持?)家賃とらずめいわく
 ほう/\大事(※弘法大師?)の御筆

(※御開帳の見世物(とんだ霊宝 とか)の見立て? 元ネタが想像できず かなり見当違いかも)

本町明店(※あきだな?)におゐて令開帳者也
天明三卯年
 蒙御免 六月十(※?)四日より 雨て幾日共無し 角力興行
  取組
一 北國  螺ヶ抜 一 山津波 出水川
一 會津山 雷電  一 浅間山 火出野
一 山分  鳴風  一 大穴  曇渡り
一 砂降り 諸国  一 闇野  江戸ヶ崎
一 水道切 難渋  一 暑ヶ灘 涼み野
 右之通取組諸国難義之由 奉入御覧候