偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏823高宕山(千葉)仁王

2018年11月30日 | 登山

高宕山(たかごやま) 仁王(におう)

【データ】 高宕山 330メートル▼最寄駅 JR内房線・上総湊駅▼登山口 千葉県富津市宇藤原▼石仏 高宕山山頂した観音堂入口。下地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼50】 房総は山国、地形は複雑きわまりない。高い山はないが低い山が重なり、山ひだをぬうように川が蛇行して流れている。流れに付き合うように道も蛇行を繰り返す。房総の人はこの曲がりくねった谷を「川まわし」という土木工法で耕地に利用した。蛇行した川をトンネルで直結し、水をぬいた川床を田畑として耕すという方法だ。山が深い高宕山一帯もこのような地形が目立つ。
 高宕山の山頂は大きな岩峰、この岩を利用して高宕観音があり、御堂の入り口には石像仁王が倒れていた。仁王は寺院の山門に、向かって左に口を開いた阿形(あぎょう)、右に閉じた吽形(うんぎょう)の阿吽二体で立ち、伽藍を守護している。仁王のほとんどは木像だが、大分県の国東半島のように石像仁王が寺院前に立つ地方は珍しい。関東での石像仁王は少なく、埼玉県小鹿野町の秩父札所三十一番・観音院のものが秀作かつ日本一大きいといわれている。高宕山の仁王は風化が進み、阿形はかろうじて立っているが、吽形は倒れたままで、頭部が草むらのなかに転がっていた。
 昭和54年正月、二度目の高宕山へ登ったとき目にしたのは、倒れていたはずの阿形の立ち上がった姿だった。頭部は半分吹き飛んで痛々しいが、つり上がった左目と大きく裂けた口だけで憤怒の形相を充分に表していた。転がっていた首も厚い胸の胴体にコンクリートでしっかり固定されたので、二度と落ちることはないだろう。両手も欠けているが、頭部とのバランスを考えるとこの方が収まりがいい。両足も無いが下半身はコンクリートの台座に埋め込まれたので、もう倒れることはない。修復工事をしたのは山麓の宇藤原の人たちに違いない。
 仁王から高宕観音へは石段が一直線に続く。房総特有の砂岩を利用した石段は真ん中が擦り減って窪んでいる。どれだけの人がこの石段を登ったことか、高宕観音の信仰の篤さが刻まれていた。
【追加】 下写真は昭和52年の高宕山仁王・吽形と、倒れていた阿形。


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石仏番外 鋸山(千葉)石切り場

2018年11月26日 | 登山

鋸山(のこぎりやま) 石切り場(いしきりば)

【データ】 鋸山329メートル▼最寄駅 JR内房線・浜金谷駅▼登山口 千葉県富津市浜金谷駅▼石仏 地図の赤丸印は石切り場▼地図は国土地理院ホームページより

【独り言】 鋸山には〝日本寺の石仏群〟と〝房州石の石切り場跡〟という、全く違う二つの顔があります。日本寺の境内に点在する石仏群しか見ていない人にとっては、房州石の石切り場跡の垂直な石壁に圧倒されるはずです。しかし観光で訪れた人が石切り場、そして鋸山山頂まで足をのばすのは、足元が悪いのでちょっと危ないです。私のおすすめ登山コースは、浜金谷駅から沢沿いに歩いて鋸山の東の肩に出る道ですが、今は荒れているため入山禁止になっています。


 石切り場へは寺の境内からも入れますが、ここは浜金谷駅から登る〝車力道コース〟がおすすめです。車石は切り出した石を運ぶ運搬車で、車力道は切り出した石を運び出した石畳の道です。鋸山の石は柔らかい砂岩で、山の斜面を上から豆腐のように切り出していきました。その結果垂直の壁ができたのですが、質の良い石を求めて横にも切り進めたため、今に残る幾何学的な造形美ができたそうです。その採石も30年前に終わって、いまはツル系の植物が岸壁に彩りを添えています。その様子を写真で案内しました。



 石切り場の一角に石祠がありました。石切り場の神なのでしょうか。石切り場の西側は日本寺の境内で、入ってすぐにあるのが百八観音です。石切り場を利用して昭和41年に完成しました。

【追伸】JR浜金谷駅のホームには登山者と観光客が降りたちます。駅前から左の路地へ歩き出しますが、登山者次の三叉路で左の登山コースへ、観光客は右へ入ってロープウェー駅へ向かいます。石切り場、石仏群、山頂からの展望といろいろな楽しみ方ができる鋸山です。石仏を案内するブログでは、鋸山ならではの石仏を取り上げてきましたので、次に紹介しておきます。
 薬師如来
 安底羅大将、武田石翁
 
 愚伝、大野英令






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石仏番外 鋸山(千葉)愚伝、大野英令

2018年11月23日 | 登山

鋸山(のこぎりやま) 愚伝(ぐでん)、大野英令(おおのひでのり)


【データ】 鋸山329メートル▼最寄駅 JR内房線・浜金谷駅▼登山口 千葉県富津市浜金谷駅▼石仏 中腹の通天窟、地図の赤丸印。青丸は大野英令墓碑▼地図は国土地理院ホームページより

【独り言1】 愚伝(1729~1812) 鋸山日本寺の案内には、「初めは法相宗に属し、次いで天台、真言宗を経て徳川三代将軍家光公納世の時、曹洞禅宗となって今日に及んでいます」とあります。愚伝は南房総市本織生まれ、日本寺曹洞宗9世で中興の祖ともいわれている高雅愚伝です。愚伝は日本寺の住職として50年以上も務める間に、五百羅漢や百体観音の造立や堂宇の整備に尽くしたことから、中興の祖と称えられています。その石像が中腹の通天窟に祀られています。




 通天窟は10世東永撮伝によって建てられ愚伝の墓所です。岩屋を利用した宝形造りの霊廟は、柱から屋根・擬宝珠まですべて石造りで、屋根正面には天女が舞う破風を乗せ、欄間には兎が遊んでいます。窟内正面に三体の石像が祀られ、正面が曹洞宗開山の道元(1200~1253)、左右に曹洞宗中興の瑩山(1268~1325)と愚伝でしょうか。どちらが愚伝なのか、銘はありません。
 三体の頭上には「光朙□」の扁額が架かります。読めない□は藏でしょうか。そうすると「光朙藏」となります。「光明藏三昧」は永平寺二世弧雲懐奘の著書で、只管打坐(しかんだざ=ひたすら坐禅をすること)を説いた道元の仏教に対する考えの粋を一冊にまとめたものだそうです。そうするとこの通天窟は愚伝の霊廟だけでなく、光明藏三昧のお堂でもあるわけです。
 

【独り言2】 大野英令(おおのひでのり=1750~1798) 愚伝の石仏造立を請け負ったのが大野英令でした。大野甚五郎の名で知られた木更津の石工です。その墓碑が鋸山中腹の羅漢群の一角にあります。正面中央に「皈真芳譽道珍居士之塔」、その両脇に功績が刻まれています。「石工大野英令登山而尢日刻羅漢之石像山□□/許之爾來二十年中千二百羅漢百番観世音/種々之形像□刻□命哉寛政十午歳五月十□九/時四十八歳臨終正念如眠逝去門人揮涙卒塔云」とあります。甚五郎は弟子とともに二十年で1200の来館と100番観音を彫り上げ、48歳で逝去したことが刻まれています。石工としては働き盛りのときに、いい仕事をした大野英令でした。仕事を依頼した愚伝はその14年後に入寂し、通天窟はその後の建立です。


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石仏822鋸山(千葉)狐

2018年11月19日 | 登山

鋸山(のこぎりやま) 狐(きつね)

【データ】 鋸山329メートル▼最寄駅 JR内房線・浜金谷駅▼登山口 千葉県富津市浜金谷駅▼石仏 仮本堂の手前の乾坤稲荷、地図の赤丸印口▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです

【里山の石仏巡礼49】  鋸山の天をつくように大きな薬師如来磨崖仏の広場でのこと。子供が昼食の焼肉弁当の肉をつまんだ瞬間、バサッと音がして、手から箸が消え、弁当が落ちだ。向かい会っていた家内の弁当も何かが当たって転げ落ちた。空を見ると箸をワシ掴みにしたトビが上昇して行った。子供にも家内にもケガがなかったこともあり、その見事さに唖然として見送った。鋸山の石仏群のなかにいろいろな動物探しをした後のこの一件、野生動物の生きざまに感心してしまった。
 木更津の石工・大野甚五郎とその弟子が刻んだ鋸山の羅漢石仏は千五百数十体にも及んだ。江戸時代の安永から寛政にかけて二十一年間かけての仕事であった。この山にはほかにも昭和四十年代に巨大な百尺観音(聖観音の磨崖仏)や薬師如来が造立され、山全山に石仏が安置されている。そのなかから動物にかかわる石仏は、亀に乗る竹生島観音、亀趺(きふ)、文殊菩薩の獅子、普賢菩薩の象などがある。十六羅漢の一人で虎をしたがえた跋陀羅(ばだら)尊者と龍に乗る半托迦(はんだか)尊者は見上げるような岩場にあり、なかなか見つからない。鋸山は全山日本寺の境内。寺の山号は乾坤山、乾は戌亥(北西)、坤は未申(南西)で、いずれも動物に関係している。
 洪水のような石仏群から解放され、仮本堂まで下ると乾坤稲荷があった。小さな社の入口では狐の石像が遊ぶ。親子らしく、大胆なポーズを取る親狐に較べ、子狐は穴から不安そうな顔で外を見る。寺の案内には「荼吉尼天を祀る乾坤稲荷」とある。狐は稲の神・稲荷の使いとして、稲荷社にはかならず祀られる。一方荼吉尼天(だきにてん)は人間の死を六か月前に察知する神通力を持つ恐ろしい仏で、狐に乗る姿に表現され、稲荷と同一視された。稲荷は後に屋敷神や商売の神として建立され、阿吽の狐の石像が狛犬代わりに造られた。

【追加】下の写真は昭和53年撮影の文殊の獅子と普賢の象、跋陀羅尊者と虎。鋸山の薬師如来はこのブログの№58で案内した。


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石仏821富山(千葉)十一面観音菩薩

2018年11月16日 | 登山

冨山(とみさん) 十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)

【データ】 冨山350メートル▼最寄駅 JR内房線・岩井駅▼登山口 千葉県南房総市(富山町)合戸の福満寺▼石仏 双耳峰の南峰にある観音堂、地図の赤丸印口▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです
【里山の石仏巡礼48】  富山は水仙と滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の主人公・伏姫と飼い犬の八房が住んだ岩屋があることで知られている。初めて登ったのは昭和53年、合戸にある福満寺からの参道にはいくつかの道標が残されていた。山頂からは伏姫の岩屋に下ったが、踏み跡がわずかに残る程度の道がついていた。その5年後に登ったときには伏姫の岩屋一体に遊歩道ができていて様変わりしていた。

 富山は双児峰で南峰には観音堂がある。その一角に目を見張るような仏像が二つあった。一つは山門の阿吽二体の仁王像、細身で躍動感には欠けるが均整のとれた素晴らしい像容だった。しかし目に水晶でも入っていたのだろうか、二体ともくりぬかれて痛々しい。さらに阿形(あぎょう)は右腕が失われて哀れな姿で立っていた。もう一つは境内奥にある十一面観音菩薩石像。頭上に阿弥陀の化仏(けぶつ)と十一面は仏像の形を定めた儀軌にのっとったもので、木彫にも劣らない慈悲に満ちあふれた表情だ。台座に「享保十四年 合戸村川名金右衛門」と刻まれている。『富山町史』によると、川名金右衛門は富山の南にある合戸村で名主を勤めた者とあり、川名家は代々金右衛門を名乗ったという。
 十一面観音の頭上には阿弥陀の化仏があり、それを取り巻くように菩薩面三、瞋怒(しんぬ)面三、狗牙上出(くげじょうしゅつ)面三、大笑(だいしょう)面一、あわせて十一面になる。しかし石仏ではみな同じような顔が並び、かならずしも十一面あるとは限らない。富山の十一面観音も同じ顔が並ぶ。
 平成16年の正月、久しぶりに水仙の花を見ながら富山に登った。道端や田畑の土手に咲く水仙は以前よりはるかに増えていた。ところが富山の仁王門は跡かたもなく消え失せ、礎石だけが残されていた。初参りに登ってきた老女の話では「数年前の台風で仁王もろとも崩れ落ちてしまった」という。妙に明るくなってしまった石段を登り観音堂の境内に入ると、十一面観音は変わりなく立っていた。

【追加】下の写真は昭和53年撮影の仁王門の仁王。





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石仏番外 榛名・鐘撞山(群馬)御嶽大神・阿夫利大神、権現

2018年11月12日 | 登山

榛名・鐘撞山(かねつきやま) 御嶽大神(おんたけおおかみ)・阿夫利大神(あふりおおかみ)、権現(ごんげん)


【データ】 榛名・鐘撞山 838メートル▼最寄駅 JR上越・北陸新幹線・高崎駅▼登山口 群馬県高崎市箕郷町中野▼石仏 琴平山山頂、地図の赤丸印口。黒丸は登山口▼地図は国土地理院ホームページより


【独り言1】 鐘撞山へは、美郷町中野から榛名湖へ抜ける道にある「榛名山常夜燈」銘の笠塔の先から登りました。電柱に「NTT善地子218」のプレートがあるところです(この先、橋を渡ったところに登山口の標識があり、こちらがメーンか)。歩き出してすぐ左の尾根にとりついて、後は尾根通しに登ると鐘撞山です。道はありません。
 山頂に立つのは「御嶽大神 阿夫利大神」の二柱を並列させた石塔です。高さ85センチの大きな石塔は新しい造立のようで、周辺に転がる石造物の破片や石祠から、かつてはそれぞれの石塔だったものが壊れたため、合祀したものと思われます。御嶽大神は木曽の御嶽山の神、阿夫利大神は相模の大山の神です。かつては御嶽山座王権現と、阿夫利山大権現(石尊大権現)でしたが、どうして権現が大神になったのでしょう。

【独り言2】 権現 権現は仮の姿で現れるという意味です。日本の神々が〇〇権現と称されるようになったのは、本地垂迹思想(仏菩薩が日本の神の姿を仮て現れる)が発達した平安時代から鎌倉時代にかけてでした。ですから○○権現には必ず本地仏(本来の仏)があります。例えば白山権現なら十一面観音、立山権現なら阿弥陀如来、富士権現は大日如来ということになって、とくに修験の修行地となった山岳では権現化が進みました。木曽の御嶽は蔵王権現、相模の大山は不動明王でした。八幡や春日も、秋葉も金毘羅も権現になりました。この権現を禁止したのは明治の神仏判然令でした。廃仏毀釈に突き進んだこの判然令は、仏教的な権現を禁止する動きにもなって、特に神社の祭神は記紀に登場する日本神話の神々の祀り直されていきました。そういう流れがあって、鐘撞山の御嶽の神と大山の神は「御嶽大神 阿夫利大神」というふうに祀り直されたのではないでしょうか。
 神仏判然令の一つを、村上重良氏の『国家神道』(注)から、読みやすく書き直して紹介します。
「中世以来、なに権現、あるいは牛頭天王など、その外仏教語を以って神号にしている神社が少なくない。何れも、その神社の由緒を委細に書いて、早々に届け出すこと。仏像を以って神体としている神社は、以後改めること。加えて、本地などと唱へ、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口・梵鐘・仏具などの類を置いてあれば、早々に取り除くこと」
(注)村上重良著『国家神道』昭和45年、岩波新書770 

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石仏番外 榛名・琴平山(群馬)境石

2018年11月09日 | 登山

榛名・琴平山(ことひらやま) 境石(さかいいし)

【データ】 榛名・琴平山 553メートル▼最寄駅 JR上越・北陸新幹線・高崎駅▼登山口 群馬県高崎市箕郷町松之沢▼石仏 琴平山山頂、地図の赤丸印口。黒丸は登山口▼地図は国土地理院ホームページより


【独り言】 いつものことですが、地図に神社記号があるので社殿があり、もしかすると石造物があるかもしれない……、琴平山もこんな感じで登りました。そしていつものことですが、踏み跡程度の道も消えてしまいました。たどり着いた山頂には、倒木で壊れた琴平の社殿が藪に隠れていました。琴平山の社殿ですから、四国の金毘羅様を勧請したものなでしょうが、いつの頃に勧請され、どのように祭祀されてきたかはわかりません。

 なんとか見つけた石造物が「陸軍」銘の石柱です。琴平山の東側一帯は陸上自衛隊相馬原演習場ですから、その前の米軍演習場からさらに前の陸軍演習場時代の境界を示す境石なのでしょう。一辺15センチの大きさは一等三角点(18センチ)には負けますが、立派に見えるのは「陸軍」という文字のせいなのでしょうか。造立当時の陸軍の勢いがそのまま立っているという印象です。同じものが山頂近くにもう一本ありました。その近くに「防衛庁」の境石もありました。こちらはコンクリート製でなんとも頼りない印象です。相馬ヶ原の歴史を『箕郷町誌』(注)から簡単に振り返ってみます。
 相馬ケ原は元禄時代の昔から秣場(まぐさば)として、また屋根用の茅採り場として高崎以北の農家にとっては重要な場所だったそうです。明治に御料地となっても農民の出入りは許されていたようですが、明治43年に陸軍演習場となってから演習場は順次拡張されていきました。それでも演習場内への立ち入りは差ほど厳重ではなく、周辺住民の干し草刈、茅採り、炭焼きなども認められていたようです。そのような時代に立てられた牛馬の供養塔がガラメキ温泉近くにありました=下写真=。

 しかし先の大戦で演習場が米軍に接収されてからは、相馬山一帯も含めた膨大な土地の接収と住民立ち退きが命じられ、立ち入りも禁止されてしまいました。先に案内したガラメキ温泉も80時間内の立ち退きで大変だったようです。さらに演習による土地の荒廃、土砂の流出、井戸水の枯渇など、山麓住民の苦しみは大変なものだったようです。
 米軍の演習場が変換されたのは昭和33年でした。翌年から自衛隊の駐屯がはじまり、演習場は縮小、河川の砂防、道路の復元などが行われて、今日に続いています。
(注)『箕郷町誌』昭和50年、箕郷町誌編纂委員会 

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石仏820榛名・ガラメキ温泉(群馬)薬師如来

2018年11月05日 | 登山

榛名・ガラメキ温泉(がらめきおんせん) 薬師如来(やくしにょらい)
【データ】 榛名・ガラメキ温泉 890メートル▼最寄駅 JR上越・北陸新幹線・高崎駅▼登山口 群馬県高崎市箕郷町松之沢▼石仏 ガラメキ温泉跡、地図の赤丸印口▼地図は国土地理院ホームページより
【独り言】 このコースの入口には「関係者以外立ち入り禁止」の看板と柵があります。ここに取り上げる石仏は現在立ち入り禁止になっているところにあるもので、昔の記録から案内します。


【案内】 ガラメキ温泉温泉がいつごろからあったのはわからない。家屋が撤去されたのは昭和21年。戦前まで相馬山山麓にあった陸軍演習場が米軍に接収され、かつ演習所拡張のための家屋撤去であった。温泉の規模は現地に残る温泉跡地の石垣から、数軒の建物が想像できるが、その奥に祀られた石造物からその歴史も知ることができる。石造物の中心は「明治十五午年」銘のある薬師如来。台座には「上刕碓氷郡」銘もある。脇の石祠には「明治廿一年ガラメキ温泉 箕輪本町中村平作建立」とある。他にも庚申塔が二基。これとは別の沢筋に「薬師如来 明治三十五年」「大黒天 明治三十一年湯元松本福次郎」「不動明王 大正元年」の文字塔もあった。造立者は個人が多い。明治のなかごろから大正にかけて、ガラメキ温泉ではさまざまな信仰に基づく石造物が、家ごとに造立されていたようである。この時代、温泉がもっとも繁盛したときなのであろう。山麓から相馬山の黒髪山神社へ参る黒髪山講の人たちも立ち寄ったに違いない。
 薬師は医薬の仏で、「温泉は薬師如来の霊力によって、人々に与えられた薬湯であると信じられ」(注1)古くから温泉に祀られてきた。ガラメキ温泉でも丸彫り坐像と文字塔があったので、温泉にはなくては何らない薬師との認識からの造立であろう。
 ガラメキ温泉に接収の命が出たのは昭和21年4月11日。『榛東村誌』(注2)には、米軍配下の「群馬軍政部は県知事に対して突如として相馬ヶ原演習場の接収を通告(略)。立ち退きは八十時間以内に実施せよという極めて厳しい要求であって、ガラメキ鉱泉の宿はこの時、相馬村民総出で解体して区域外に搬出している」と記されている。
(注1)大森恵子著「因幡薬師と山陰地方の薬師信仰」昭和61年、雄山閣『民衆宗教史叢書⑫薬師信仰』には、薬師堂に参詣してから入湯する兵庫県城崎温泉、入湯作法にのっとり入湯する山形県今神温泉の事例を紹介している。
(注2)『榛東村誌』昭和63年、榛東村誌編さん室

【独り言】 温泉の薬師石仏について、榛名とは方向違いの赤城から案内します。赤城山の南山麓に小さな温泉がいくつかあり、薬師石仏探しをしたのは20年も前のことで、そのときの記録からです。

 一つは滝沢温泉でした=写真上=。「温泉宿の主人が案内してくれて所在地がわかった薬師如来は、宿手前の山裾のお堂に納められていた。旅館で建てたというお堂はまだ新しく、信仰の形跡はまったくなかった」。そのときのメモに「台座に文字があるが不明」とありました。
 一つは赤城温泉です=写真下=。「薬師如来の石仏は総本家旅館の住人に尋ねてわかった。石仏玄関先の左手、石段を登った先にある薬師堂の裏手にあった。山中に造られた岩屋のなかに納められていた。岩屋というより人工的な穴に見え、ここに宮城村の指定文化財になっている旨の標識がたっていて、応仁元年(1467)と案内されていた」そのときのメモには「岩屋に石仏二体。一つは薬師如来坐像、一つは不明坐像」とありました。

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八千代新川千本桜18-11

2018年11月04日 | 


 4日、メンバー3人で桜の剪定をしました。桜木の根元から出るヒコバエのカットが主な作業です。台風で根本から倒れた桜もヒコバエを伸ばしていました。おそらく接木の台木にした桜です。どんな花が咲くのか、これば伸ばしてみることにしました。
 10月に年々貧相になると書いた10月桜が満開です。咲き方が見事なので以外です。

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屋上菜園 風除けネット

2018年11月03日 | 屋上菜園


 10月中旬に玉ネギ苗100本とニンニク種20個植えました。我が家の玉ネギ消費が多いのか、この5月末に収穫した40個は4か月でなくなっていました。そこで今年は欲張って100本にした次第です。それから昨年は植えてすぐ台風でダメになった苗があったので、今回は風除けとして虫除け用のネットを張ってみました。効果のほどはわかりませが、うまく張れて気に入っています。この光景は家庭菜園でもよく見かけているもので、もっと早く取りいれるべきでした。

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大法輪11月号

2018年11月02日 | 


大法輪閣から「大法輪」11月月号が届きました。
特集「暮らしの中の神さま・仏様」です。
このなかの「山の神仏」は偏平足が担当しました。

〈特集・暮らしの中の神さま・仏さま〉
【Ⅰ】日本全国地元の大切な神さま・仏さま
【Ⅱ】身近な神さま・仏さま
   日本中で人気のある仏さま・神さま
   病気を治す神仏
   財福をもたらす神仏
   縁結びの神仏
   子供を守る神仏
   道端の神仏
   家を守る神仏
   来世・追善供養の神仏
   農民・漁民の神仏
   職人たちの神仏
   水と火の神仏
   山の神仏
【Ⅲ】日本の芸能に溶け込む神仏への信仰心
【Ⅳ】いま人気の神さま・仏さま

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