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偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏882大平山(山梨)機山公

2019年11月15日 | 登山

大平山(おおひらやま) 機山公(きざんこう)

【データ】 大平山 1188メートル最寄駅 JR身延線・甲斐常葉駅登山口 山梨県身延町折門の御弟子集落跡石仏 大平山の南の山神峠、地図の赤丸印。黒丸は登山口地図は国土地理院ホームページより


【案内】 御弟子の集落跡から大平山へは、折八分校跡の碑がある手前、石段上に道祖神や馬頭観音の石仏が並ぶところが入口。右に登ると神社があり、細い踏み跡をたどると明瞭な峠道となる。登り着いた峠は山神峠。神社と寺院の大きな建物が二棟向かい合っている。その間に「機山公」の石碑が立つ。機山は武田信玄の戒名「法性院機山信玄」、碑の頭に家紋の武田菱入っている。高さ75センチの大きな自然石だ。造立年銘はない。山梨の戦国武将といえば武田信玄である。機山公とも称されたその石碑が、どうしてこのような山中に立っているのだろか。明治の山梨県史を探ってみた。
 まず「機山」だが、この名は武田信玄の道号(仏道に入っての名前)であり戒名でもあった。しかし信玄の死後、江戸幕府の直轄地となった甲斐で信玄を祀る動きはなく、かつての家臣団とその末裔が甲州市の恵林寺や甲府の大泉寺などでの法要が細々と営なまれていただけで、武田神社などは存在しなかった。それに対して庶民の信玄に対する愛着は深く、信玄がつくったとされる甲州三法(大小切税法・甲州枡・甲州金)という甲州だけの特殊な経済制度を明治になっても通していた。これを撤廃しようとした明治政府に対して起こしたのが明治5年の〝大小切騒動〟だった。これを鎮圧した明治政府がとった対応は庶民の信玄崇拝の切り離し、親をも追放する信玄悪人説だった。時を同じくして起こっていたのが自由民権運動。これに危機感をいだいた明治政府が次に打ち出したのが、郷土の偉人を貶めるのではなく、崇拝だった。明治13年の天皇巡幸を機に、武田ゆかりの寺社の保存や下賜もおこなわれた。これにより信玄を祀る武田神社創建の話も持ち上がったのである。大正4年には信玄に従三位が追贈、これを契機に神社創建が進んで、大正8年に竣工した。
 明治から大正にかけての山梨における信玄の扱い簡単にあげたが、このどこかで石碑「機山公」も造立されたと思われる。
【参考文献】
『山梨県史 通史編5』平成17年、山梨県
及川祥平著『偉人崇拝の民俗学』平成29年、勉誠出版



【独り言】 山神峠に建つ神社は皇太神社(こうたいじんじゃ)、お寺は地蔵堂です。皇太神社は天照大神を祀る伊勢神宮です。山神峠の神社社殿内の、昭和58年に造られた「屋根替(改造)工事」の芳名板に、「昭和五十三年四月皇太神社完成」「昭和五十四年十一月地蔵堂完成」とありました。芳名者は折門区の28名。総工事費81万円、労力奉仕60人とありますから、集落の人たちが寄付をしなおかつ手弁当で修理にあたったのでしょう。
 同じ社殿内にあるもう一つの絵馬、こちらも昭和58年奉納のものには「廃墟の故郷」の歌が記されていました。
「一 南アルプス望みつつ/尋ね来ました故郷は/人の済まない折門で/上と下との姉妹村/生まれ育ったこの村の/歴史閉じて拾余年/消えた灯目に浮かぶ」。以下四番まで、かつての故郷をなつかしむ様子が歌われていました。そして末尾に「上下折門は昭和四十五年五00年の歴史を閉じ全戸転出し それぞれ新天地に移住した 過疎と言ふ時代の波に変せんのの姿をこの歌に記し 永久に伝えるものである」とありました。
 この流れを整理すると、昭和45年に廃村となったものの、昭和5354年で寺社の屋根を修理し、昭和58年にその芳名板と廃墟の歌の絵馬を奉納したことになります。廃村になっても寺社を守っていたのです。山中で会ったキノコ採りの夫婦は、少し前までお祭りもやっていたと話していました。


 地蔵堂は、石仏を本尊として祀っていたようです。壊れた祭壇に3体鎮座していました。

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