偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏796虫倉山(長野)十三仏、作仏聖・山居

2018年05月18日 | 登山

虫倉山(むしくらやま) 十三仏(じゅうさんぶつ)、作仏聖・山居(さんきょ)

【データ】 虫倉山 1378メートル▼最寄駅 JR北陸新幹線・長野駅▼登山口 長野県長野市中条御山里の不動滝、地図の黒丸印▼石仏 小川村稲丘の薬師コース下部、地図の赤丸印。青丸は不動明王▼地図は国土地理院ホームページより
【案内】 虫倉山への登山口の一つの薬師尾根コースに十三仏の石仏を祀った岩屋・薬師洞窟がある。十三仏は、初七日から三十三回忌までの13回の追善供養の忌日に配された仏たち。登山口にある小川村の案内には、「洞窟の中に薬師如来が祀られ、洞窟の壁面には地域の崇敬者の祈願がこめられた一九体の石仏が安置されている。元禄年間、作仏聖、単衣木喰山居がこの洞窟にこもり、五穀断による苦行を続けながら、念仏とともに仏像を彫ったという」とあり、「薬師岳霊場入口 是ヨリ三丁 天保十五年(1844)」の道標も立っている。その洞窟は沢沿いの急な道を登った先の岩場の下にあった。
 洞窟の奥にある木祠が薬師堂。その奥に地蔵、手前に千手観音の石仏が立つ。十三仏はこれらの手前に不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・千手・弘法大師・薬師・聖観音・勢至と並ぶ。千手と弘法大師を外した9尊が十三仏で、残る大日は洞窟の手前に、阿弥陀・阿閦・虚空蔵は洞窟の岩場を左から回り込んだ岩穴に納められていた。一緒に並べられていないのは、岩屋にそのスペースがなかったためか。弘法大師は丸彫りで、特別に彫り窪められた場所に納められていて、十三仏以前に鎮座していたような印象である。案内では、木食山居がこの石仏に関わったかのような印象だが、これについては【独り言】で触れたい。
 石仏はどれも丸顔でおだやかな表情、持物も丁寧に彫られている。

【独り言1】 不動明王 十三仏から虫倉山へ登る薬師コースは厳しいので、今回は一番楽な不動滝からの道を利用しました。清水の集落から不動滝の先までは林道が通じています。このコースの名称になった不動滝の中ほどには不動明王が祀られています。近づけない場所ですので、不動の詳細はわかりません。
 山頂は南東側が崩れて立ち入り禁止のロープが張れていました。前にこの山頂にあった「願いい石」を案内したのは7年前です。その石は全部なくなっていました。

【独り言2】 作仏聖・山居 書棚に高橋敬造氏が出した『きしりに彫る』(注1)という本があります。30年ほど前、初めて鬼無里に行ったとき求めた本です。高橋氏は神奈川県平塚市で食堂を営みながら、木片に彫刻をするのを趣味としていた人です。そんな人が山居仏に魅せられ、店をたたんで鬼無里に移住し、農家を訪ねて忘れられていた山居仏をまとめたのがこの本でした。〝きしり〟は「いろりの横の薪置場」だそうで、山居は薪に仏像を彫ったと高橋氏は想像しているようです。
 山居は江戸時代の元禄(1689~1704)前後に鬼無里村や小川村で念仏布教をした作仏聖です。『むしくら』(注2)によると、虫倉山は作仏聖・弾誓一派の聖地で、山居はこの一派の明阿より作仏を学んだとしています。仏像は20センチ前後の大きさしかありません。円空のような激しさはなく、木喰行道のような豊満でもない、小さな素朴な仏像を造りました。その数は、小川村だけでも高山寺の千体仏のほかに68体です。『きしりに彫る』には鬼無里村の69体が紹介されていました。
 弾誓一派は石仏も数多く造っています。薬師洞窟の案内にある〝山居が洞窟にこもり、念仏とともに仏像を彫った〟ということは、山居が十三仏を彫ったということなのでしょうか。しかし山居が石仏を彫ったという形跡はありません。洞窟内にある石仏は別の人が彫っただと思います。
(注1)高橋敬造著『きしりに彫る-鬼無里の山居仏』昭和61年、ふるさと草子刊行会
(注2)『むしくら』平成6年、虫倉山系総合調査研究会


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