偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏656弘法山(神奈川)鬼鹿毛馬頭観音

2016年04月25日 | 登山

弘法山(こうぼうやま) 鬼鹿毛馬頭観音(おにかげばとうかんのん)

【データ】 弘法山 235メートル▼最寄駅 小田急線・秦野駅▼登山口 神奈川県秦野市上大槻の白山神社▼石仏 弘法山山頂、地図の赤丸印。青丸は洞窟がある長福寺▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 鬼鹿毛は、説経節に登場する小栗判官の愛馬名。武田信玄の父が所有した馬も鬼鹿毛で、信玄が欲しがったが譲らなかったという話もあって、名馬として知られている。その名が入った鬼鹿毛馬頭観音の文字塔が丹沢の弘法山に立てられたのは「明治三十年」。「秦ノ町土屋仙次郎」が施主で、「セハ人」として秦野町8人、今川町1人の名が連ねられ、「信徒中牛馬安全守」とも刻まれている。秦野町も今川町も秦野市の中心部の旧名。
 地元の古老の話によると、明治30年ごろの秦野は葉たばこの産地で、それを馬車に積んで東海道線の二宮駅まで運んでいたので、馬や博労がたくさいたという。これが馬車鉄道になり、後に軽便鉄道になって昭和2年に小田急線が開業すると徐々に衰退していったらしい。石塔にある「信徒中」は馬を扱う人たちが馬の安全を祈願した組織。その祈願先としてこの地方では、秦野市の西の静岡県小山町にある円通寺が知られている。
 円通寺は小栗判官の愛馬鬼鹿毛を供養するため祀った馬頭観音が本尊とした寺である。『小山町史』(注)によると、この寺で馬屋祈祷(畜舎において牛馬の安全祈願)を始めたのは、幕末のころの住職・柏英。年中布教に出かけた柏英の足跡は、静岡はもとより山梨や神奈川まで広まった。また、布教は代々住職に引き継がれ、その結果昭和初期には草競馬の馬場や軍馬の鍛錬所まで出かけて清めたという。いまでも馬主や調教師の信仰が厚く、御札の届け先は牛馬肉商、獣医、競馬のトレーニングセンターなど多岐にわたっている、とその繁盛ぶりを紹介している。
(注)『小山町史・第九巻民俗編』(平成5年、小山町史編さん専門委員会)


【独り言】 丹沢の弘法山へは、秦野駅から権現岳経由で登りました。この一帯は公園になっていて、車でも行ける秦野市民の山と言った感じの里山です。弘法大師が開いた山という伝承もあり、山頂に大師を祀る御堂と、鐘楼、井戸と露座の弘法大師石仏=写真上=などがありました。




 下りは南山麓の里道を歩いて、長福寺という本堂と墓地が少しあるだけの無住の寺で足を止めました。そこで見たのは、入り口に「愛染明王・毘沙門天・吒枳尼天・大辧才天・不動明王」の五仏銘がある洞窟。入るとすぐ左右に分かれ、□型に掘られた洞窟でした。その正面と角ごとに祀られたのが五仏。しかし像容があるのは不動明王と毘沙門天だけ、残りの三仏は石祠でした。洞窟の詳細はわかりませんが、入り口に「天下泰平 五穀成就 嘉永五壬子歳(1852)」の銘がありました。それにしても意味不明な仏の組み合わせです。左右に愛染と不動を置いたのは、修験者が背負う笈を想像させます。また洞窟上の荒れた僧侶の墓地には、頭に大日如来の種字アーンクを置き「開山榮法印 寛永三丙寅天(1626)」銘の卵塔がありました。栄法印はこの地で修業を始めた修験僧なのでしょうか。洞窟の入り口には嘉永の銘がありましたが、この洞窟は江戸時代初期の榮のころからあったかもしれません。
 寛永の少し前ですが、丹沢の大山山麓の淨発願寺や、箱根塔ノ沢の阿弥陀時などの洞窟で、作仏聖といわれた弾誓が修業しています。これ以後丹沢山麓では江戸時代を通じて、徳本はじめ多くの念仏行者が活動したところでした。


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