偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏番外 駒ヶ岳(岩手)境石

2019年07月15日 | 登山

駒ヶ岳(こまがたけ) 境石(かさいいし)

【データ】 駒ヶ岳 1129メートル最寄駅 JR東北本線・金ケ崎駅登山口 岩手県金ケ崎町西部の駒ヶ岳登山口石仏 駒ヶ岳山頂、地図の赤丸印地図は国土地理院ホームページより

【独り言】 駒ヶ岳山頂の駒岳神社前、石段を登った正面に記念碑のような石が立っていました。少し邪魔になるような場所に立つのですからよほど大事な石なのでしょう。しかし銘はありません。書物を探したら、延享4年(1747)ごろの旅日記で門屋光昭氏校註の『従花巻夏油温泉迄一見記』(注)の「従湯駒ヶ嶽迄」に次のような一文がありました。「御堂の御拝口の前に高サ弐尺斗の石塔のごとき石立て有。此石より戍亥(北西)の方は南部御領の者すわり排する由。丑寅(北東)の方は仙臺者の拝する由」
 要するに、御堂は南部領と仙台領の境に立っていて、南部領の人は御堂に向かって右側、仙台領の人は左側から参拝するというのです。駒岳神社前の邪魔な石は南部藩と仙台藩の境界に立てた境石だったのです。
 同書の「岳より日陰村迄」の註釈には、下山道にある「御境塚」が何度か出てきます。これは「寛永十九年(1642)に築いた藩境塚。駒ヶ岳の立石を一番として、以下二・三・四番と続き、本文に登場する高森頂上が五番・大平が六番・水沢森が七番塚となっている(略)その間に沢山の小塚が作られている」とあります。戦国時代は領地の取り合いでしたから境界の不明なところが多かったようです。これが江戸時代になると藩同士の境界地をめぐる紛争が発生し、特に仙台藩と南部藩の境界は論争がつづいて協議の結果、御境塚を築いて境をはっきり決めたそうです。この境塚は駒ヶ岳から始まり、はるか東の太平洋の釜石唐丹湾まで造られました。
 浅田次郎氏の読売新聞朝刊連載小説「流人道中記」(7月9日付)に、仙台・南部の境界のことが書かれていました。「三代大猷院様の時代に幕府が仲立ちし、お国境がようやく定まった。その折に造られた境塚は、街道沿いにとどまらず東西の山稜を跋渉して遥か釜石の海辺に至るまで、四百六十基を算えるらしい」とありました。460という数、浅田氏がどの資料から引いてきたかわかりませんが、すごい数があったんですね。



 それから山頂の御堂ですが、堂内には三頭の馬の木彫が祀られていました。新しい感じですから、平成22年に駒堂を建て替えたとき造り変えたのでしょう。「従湯駒ヶ嶽迄」によると、駒堂は南部と仙台の合同で建て、鍵も外は南部、内は仙台藩の別当が持っており、仏体と名付けた駒もそれぞれの藩で納めたことが書かれていました。馬も二頭でいいはずですが、どうして三頭祀られているのかはわかりません。

 上の写真は駒岳神社脇の昭和18年造立の「馬頭観世音」塔。
(注)門屋光昭氏校註『従花巻夏油温泉迄一見記』昭和53年、和賀町史談会
【参照】石仏862駒ヶ岳(岩手)賽の河原、地蔵菩薩


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