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売り言葉を買いに

行きましょうか。

兎角、知覚と自覚を比較する勿れ。

2013-11-09 23:07:27 | Weblog
僕らは永遠とも呼べる長い長い旅路の中を生きる。その中で、たまたま見つけた可愛らしい花を愛で、たまたま聞いたメロディーを口ずさみ、たまたま触れた手を握り生きていく。そのたまたまの出来不出来こそが人生の鮮やかさである。

たまたま観に行った演劇で、内容の素晴らしさに胸を振るわせた少し癖の強い髪質の若いイタリア人が、「Bravo」と発する。
たまたま観に行った演劇で、内容の素晴らしさに言葉を失った直毛を綺麗に分け目を付けた初老の日本人が絞り出すように「べらぼう」と発する。

たまたま乗った鈍行で、目の前で化粧を始めた女性を見て顎が綺麗に縦に割れたアメリカ人が「Cheek show」と見遣る。
たまたま乗った鈍行で、目の前で化粧を始めた女性を見て顎が綺麗に横に分かれた日本人が「ちくしょう」と訝しむ。

僕らは一瞬とも呼べる短い短い一点の灯火である。その中で、溜まりに溜まった洗濯物を睨み、溜まりに溜まった吸い殻を蹴散らし、溜まりに溜まった未読の本を足の甲に落とした僕は、「Oh,my god」と神に嘆けばいいのか、「お前がっ」と鏡に向かって片付けしてない自分を叱責すればいいのか判らないままでいる。

多分きっと、それはどちらも同じことなのだけれど。

自意識のゆりかご、またはその透過率の是非について。

2013-06-12 23:58:06 | Weblog
誰かの抱擁を待つ腕の様に横に伸びた枝は、近くに寄れば空の青を奪うほどの葉を湛えていた。目を焦がす陽光などは感じられず、風になびけば微かに影に隙間が生まれる。にわか雨程度なら濡れる心配もなかろうという木だった。

僕の自意識を比喩するなら、こういう事になる。実際はペンペン草程度だが。

我ながら大層な自意識だ。誰かに見られているんじゃないのかという余りにも判り易い杞憂のせいで、毎日くたくただ。
特に電車なんかその顕著な例で、座席に一人分の隙間があっても決して座れない。そんなハードな状況に身を、もとい限定的に尻を置くぐらいなら同じ距離を踏破する方が断然気楽だ。乗客数の多い車内ではほとんど息を止めている。その心肺機能のタフさといったらアマチュアながらに海女も息を呑むに違いない。

読む本もまた、頭を悩ませる懸案の一つだ。

思うところあって宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を再読しているのだが、これは決して車内では開かないし取り出しもしない。誤解の無い様に断っておくが、これは本当に良い本なのだ。
新潮社から刊行された文庫版だが、是非ともお勧めしたい一冊であることは間違いない。この一冊で表題の銀河鉄道の夜を始め、よだかの星、オツベルと象、セロ弾きのゴーシュといった名作を五百円未満で読めるのだから凄い。ただ、その余りに有名な作品が列挙されるだけに、読むことに対して一種の気恥かしさがつきまとうのだ。これに類する作品にはサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」や、太宰治の「こころ」なんかが挙げられると思う。思春期に多大な感慨を与えてくれた作品を、今、三十歳を迎えようとするこの時期に人前で読むことに感じる背徳感たるや、筆舌に尽くし難いものがある。

だって考えてもみたまえ。

もし乗った電車でたまたま居合わせた人が背表紙を見て、「ははあ、この人はいわゆる永遠の青春を味わっているのだな」なんて思われでもしたら即自決ものだ。こちらが幾ら仕事上夏に向けて宇宙のコーナーの変更を考えていてその一環としてのこの一冊で、と事情を必死に説明したところで、「原点に回帰することでの自我の再確認ですか」などと優しい眼差しでも向けられてしまったら、気恥かしさのあまり憤死だ。もうだめだ。きっとこちらの事情など意にも介さず、悦に入ったその人は続けるだろう。屈託のない純粋な善意という暴力で追い打ちをかけるように、「私にもそういう時期がありましてね」などと言うのだろう。意思を曲解され、加えてそれに同調され許容されることに覚える屈辱感と虚無感で僕のこころはズタボロだ。銀河鉄道で遠くに連れ去られ、黄金のライ麦畑の中で消えていきそうになるに違いない。僕はまだその状況を救う適切な言葉も、心に届く特効薬も知らない。

そんな状況が怖くてカフェで本を読んでみるが、電車と同じ様な気分だった。なんで客自体がディスプレイみたいになってるんだろうか。ガラス張りで外から見えることの意味ってなんだ。グラスの水を頻繁に注ぎにくる意味ってなんなんだ。お洒落なカフェの中の自分が主人公である必要性なんて全くなくて、物語の主人公の事を考えさせろと思う。コーヒーをブラックで飲んだら格好つけてると思われるんじゃないかと戦々恐々としながら、ただでさえ深煎りしすぎてまずいコーヒーを苦々しい顔で飲み干した。

喫茶店で本を読む。ぐだぐだのソファにだらっと座って本を読む。店内のBGMより店主が見るためのテレビの音量の方が大きいぐらいで丁度いい。名前も知らない、大きな観葉植物の鉢植えに隠れて本を読むのだ。それもひょっとするとそう見られたいという自意識の顕れなのかもしれないな、と思いつつ。

口上の向上と未確認の恒常。

2013-05-26 02:07:22 | Weblog
人間なんて滅亡して、動物だけの星になればいいのに。

財布や携帯電話を家に忘れた時に強く思う。そんなモンに振り回されたくはないのだ。掌に収まるサイズの物が無いだけで1日がまともに送れないなんて、ミトコンドリアに対してどれだけ失礼な振る舞いだろうか。そしてまた振る舞いなんかを体裁として気にしている人間である自分に再度腹を立て、思う。

人間なんて滅亡して、動物だけの星になればいいのに。

とはいえ、数多の人たちに支えられ、迷惑をかけて今まで生きてきて、これからも生きていくのだ。よろしくお願いします。


さて。


冒頭の文だけで察してもらえるかは判らないが、動物が大好きだ。できることならば来世は象でお願いしたい。これは、食べたい時に食べ、寝たい時に寝て、発情期がくれば相手を探すといったように、人間的である前に動物的でありたいという憧れの投影としての愛情だと思う。しかしその愛故に、言葉という文明を持った現代の人間社会の潮流は、僕の胸を大きく傷つける。

言語が成立して何年経つかは知らないが、日々進化する言語は一つの到達点を見つけた。

それは、「上手いこと言ったモン勝ち」という到達点だ。

幼い頃に思い知らされた、大人の圧倒的な語彙力。それになんとか近づいてやろうと研鑽を重ねてきた。愛の言葉なんかはその顕著な例で、人は思い思いに月だの花だの味噌汁だのに愛を込めた。「アイシテル」の五文字が持つ圧倒的な力を忘れ、それぞれに上手いこと言い始めた。「上手いことシンドローム」とでも呼ぶべき、忌々しい状況である。

そして、問題はここからだ。

上手いことの金字塔、諺。この諺こそが僕を傷つけ、世を嘆かせた。

思いつく限りで動物に関する諺を思い浮かべていただきたい。
きっと心の優しいあなたなら気付いただろう。

諺は、一体どこまで動物を卑下しているのか。

まるで約に立たないこと前提の様な言い草で猫の手を借りたいと宣う。侮蔑を込めて豚に真珠と嘲る。皮肉たっぷりに猿も木から落ちると罵る。まるで人間「様」とでも言いたげな語り草だ。

その中でもとりわけ、馬に対する辛辣さは筆舌に尽くしがたい。

勝手に耳元で念仏を唱えられ、生き馬に至っては目を抜かれるのだ。更にはどこの馬の骨ともしれないなんて、最早馬である必要性など皆無で、何を言っているかすらよく分からない。娘が結婚相手として紹介してきた男が、余程面長であったとしても馬の骨だなんて形容しないだろう。語呂に任せて言ってはいるが、ウマいことすら言えていないのだ。ウマにも関わらず、だ。

あんなに優しい目としなやかで美しい肉体を持った馬が、何故ここまで酷い言われようをしなければならないのだ。古来より人類と共に歩んできた馬が、ここまで軽視されることに疑問を感じずにはいられない。その疑問を考えている内に、僕は一つの可能性へと辿り着いた。

ひょっとして、UMAか。

説明など不要かもしれないが、UMAとはイエティやネッシー、キワモノでいくとチュパカブラやスカイフィッシュといった、未確認生物の略称である。

これを先程まで馬だと思い込んでいた諺に組み込んでいく。

UMAの耳に念仏。
そりゃあ届かないと思う。届いたとしても、信じるが故に不確かな存在という哲学や禅問答のような話になってしまう。

生きUMAの目を抜く。
仮にこのUMAがスカイフィッシュだとすると、その速さは最早音速などでは追いつかない。

どこのUMAの骨ともしれない。
そりゃあ分からないハズだ。
ひょっとしたら人類で初めてその骨を見ているのかもしれないのだから……。


未確認であるが故に、畏怖と希望を持ってUMAとしたに違いない。人類の発展の礎となった好奇心と、夢を見続けることを許容する優しさが、そこには確かに存在した。

長い歴史の中、人は過ちを繰り返し忘れていく。何か大切なものを失くしそうな時、少し立ち止まって傍らを見て欲しい。
きっといつもと変わらぬ優しい眼差しで、馬はそこにいる。





嗜好と思考の指向。

2013-05-25 00:13:53 | Weblog
この世の中で、年齢認証ほどつまらないものは無い。

思春期真っ只中の深夜2時、夜道に溶け込みやすいよう真っ黒な上下で揃え、わざわざ自転車のスタンドを手で起こしてまで音を消し、ようやく辿り着いた秘密の自動販売機に運転免許証での年齢認証があったことを今でも覚えている。本当につまらない。
少しばかり若作りし、髪の毛なんかもツンツンにしちゃったりしてんのに、タバコも酒も年齢認証の必要があった試しがない。本当に本当につまらない。
そんな確認ももう必要の無い年齢になって、当たり前のようにコンビニのタッチパネルを無味乾燥にポチっと押す日々。本当に本当に本当につまらない。

大人であることの証明ならば、他にもっと色々あるだろうと常々思っている。

例えばこんなのはどうだろうか。

レジ台に置かれた林檎とナイフ、そして布巾。もちろん大人ならば林檎の皮を薄く剥くことなど朝飯前でなければならない。しかし注意していただきたいのは、綺麗にひと繋ぎで剥けた皮をこれみよがしに店員に見せようものなら即アウトだ。なぜならそんなことで大人は喜ばないからだ。当然であるかのようにナイフを置き、布巾で手を拭ってビールを買うのだ。

例えばこんなのはどうだろうか。

およそ7~8mほどの幅の川へと連れていかれる。そこで薄く平べったい石を手渡される。これを対岸まで投げて下さい、との言葉。そこで水切りなんてしようものならやはり即アウトである。最早届くかどうかなど問題ではない。投げる際の腕が、肩より上か下かで全ては決まる。水切りに挑戦した者は、届こうが届かまいが到底大人とは思えぬ目の輝きでこう言うだろう。「もう一回!」そんな者たちを尻目に、大人はタバコの煙をくゆらせる。

例えばこんなのはどうだろうか。

秘密の自動販売機の横で、女性がさめざめと泣いている。見て見ぬ振りをして立ち去る者は論外で、結果としても目的のホニャララを購入する事ができないから即アウトである。大人ならばハンカチの一つや二つ、サッと取り出せて然るべきだ。雨が降っているなら傘をさすのもいい。トレンチコートを渡し、襟を立たせてあげるのもいいだろう。そして、何は無くとも抱擁だ。がむしゃらに性を貪るようでは到底大人とは言えない。トレンディなりなんなり、状況でエロスを盛り上げてこそ大人である。

人が人を裁く事も、人が人を大人かどうか決める事も、所詮は社会の枠組みの中の既定路線だ。合理性を突き詰めた結果、息苦しい思いをしている全ての人が少しでも面白く生きていけるような世の中になればいい。

実際はそんなになったら面倒臭くていけないなと思いつつ、コンビニのタッチパネルを言われるがままに押している。

ひょっとするとそれは既に、大人の矜持なのかもしれない。

ポケットの中の仮想と現実の玄関。

2013-04-18 01:16:42 | Weblog
およそ7年。

産まれたばかりの子も小学生になり、職場なら中堅として責任を肩に感じる。新築でも7年経てばボロも出てくるだろうし、恋人ならば2人目ができたって何もおかしくはない年月だ。

思い出してみて欲しい。7年前のあなたは一体どこで何をしていただろうか。
僕は後ろ髪だけ長い坊主という珍妙な髪型だった。

7年前からすると、本質的な性格などはさておき結構な様変わりをしたのではないだろうか。友人たちでいえば結婚・出産を経験した者もいるし、会社を立ち上げた者もいる。そういった大きな変化を感じられるのが7年という歳月だ。しかし、いくら指折り数えてみたところで胸を張って変化を挙げられる事ができない人もいる。僕だってどっちかというとその立場に属する。それでも何も変わっていないなんて事はなく、見て、聞いて、触れてきたものの数だけ確実に変化はしているのだ。それは万人が共通して胸を張れる数少ない事柄の一つだ。大きくなったね、おめでとう。大きくなったよ、ありがとう。

さて、この辺りで本題に入ろう。


どうぶつの森だ。


僕自身はプレイした事、実際の画面ですら見た事が無いので伝聞にしか頼れないのだが、それはもう飛ぶ鳥を落とす勢いで売れているそうだ。どうぶつの森というからにはなんらかの鳥も出ているだろうし、実際には飛び立ちまくりだと思うのだが、まあ破竹の勢いだそうだ。同い年のHR/HM好きですらハマったというのだから、そりゃもう破竹である。ひょっとしてなんらかの形でハリウッドが関わったんじゃねーのかっつーぐらい破竹であると推察される。地球とはいかないまでも、ニューヨークが破竹で危機に陥るぐらいは予想されうる範囲だ。まさかいないとは思うが、破竹を「はたけ」と読んだ奴はシングルベッドで寂しく寝てなさい。しっしっ。

何はともあれ、どうぶつの森である。

ここまで破竹のゲームであるからには当然内容が気になるのだが、どうやら聞くところによると、とあるどうぶつの森において、同盟を作り、政治を働かせ、国家の最小単位である住まいを確立していくという三国志さながらの群雄割拠ものらしい。大人ならばいざ知らず子どもは国作りを楽しめるのかと考えたが、そういえば小学生の頃から横山光輝の三国志を読んでいた奴がいたなあと思い出し、一人納得である。

そのどうぶつの森の新作が、もう半年程前にはなるのだが任天堂の携帯ゲーム端末にて7年ぶりにリリースされたという事だった。あまりに面白いと皆が口を揃えて言うものだから、気になってゆるゆる調べていたところ、なんだか妙な事に気がついた。

第一弾のタイトルを御存知だろうか。「おいでよ どうぶつの森」である。
そして先日発売されたタイトルは、「とびだせ どうぶつの森」である。

一体、どうぶつの森で何があったというのか。

おいでよ、という言葉は非常に甘い。自身の存在価値を集団の中に内包し、許容する究極の甘言だと思う。あっち行っての排他性をを、そっくりそのまま返したと考えて頂ければどんなにスウィートか分かって頂けると思う。あっち行ってにはあっち行ってなりの良さがあるのだが、それはまた別の機会に分かる人たちだけで集まって話そうじゃないか。分からない人はあっち行ってて下さい。

とびだせ、は非常に難しい。発展的なとびだせと逃走としてのとびだせがあるからだ。
発展的なとびだせならば話は簡単なのだ。どうぶつの森を統治し、新たな領土を目指すコロンブスよろしく大航海時代的なものかなあと推察したり、日ノ本を抜け唐入りを目指す秀吉や信長的な戦国ものかと考察できる。
問題は逃走としてのとびだせだった場合である。借金取りのハイエナ野郎からの逃走なのか、狸に化かされ連帯保証人にでもなったのか、はたまた凶暴な熊が出現したのか。それとも都市開発の魔の手がそこまで迫っていながらの苦肉の選択だったのか。

そんな事を考えながら玄関マットと必死に闘う野良猫を見ている。
7年前は誰かのセーターを相手に闘っていたのかもしれない。

7年という歳月がもたらす変化がどんなものであったのか、まだ僕には分からニャい。


前門の虎の肛門はおろか。

2012-10-31 01:20:28 | Weblog
物心ついた頃から、ずっと自分で移動する事が好きだった。回りくどい書き方になってしまったが、それは徒歩であったり、自転車であったり、自動車であったりと年齢を重ねる度に変わっていった。

ある時はもの凄く歩いたし、ある時はもの凄く漕いだ。そしてここ何年かはもの凄く踏んでいる。お遍路に出たワケでもないし、自転車で日本一周したワケでもないし、長距離トラックの運転手に比べればなんてことのない距離の移動だが、まあ割と移動距離の多い人生だと思う。

時間さえ許すならば、歩いて移動する事に不満は無い。
今はもうしないが、自転車の二人乗りでは絶対に漕ぎ手に回りたい。
人に運転して貰うより、自分で運転している方がずっと気が楽だ。

人を信頼していないのでは無くて、ただ単に自分で移動する事の方が好きなんだと思う。

そして、今日もまた、いつもの様に自動車を運転していたのだった。

職場が割と市街地の中心部に位置するため、安めの駐車場にアクセスするには路地裏をぐりぐりと入っていかなくてはならない。自転車や歩行者がいれば、徐行しなければ危険だと感じる程度の幅員だ。GRAND THEFT AUTOに傾倒しているワケでも無いし、そんな世紀末に生きているワケでも無いのでしっかりと徐行している。隣席に誰もいないのが口惜しい程に惚れ惚れする様な安全運転だと思う。そして、今の今まで、僕はそれを正義だと信じて生きてきた。けれど。

正義なんて、戦場に赴く兵士でさえもその意味を答える事なんて出来はしないのだ。

僕らは若かりし頃、自転車をどうやって漕いでいただろうか。その一歩は、決意を胸に秘め、理由なき反抗と超えていける絶対の自信の顕れではなかったか。

そう。僕らはいつだって力強く一歩を踏み出してきた。

立ち漕ぎだ。

君の街まで向かう時。遅刻しそうな時。新しいCDを買った時。風が気持ち良くて泣けそうな日。突然の雨に打たれて泣きそうな日。初めてキスしたあの日だって、僕はずっと立ち漕いできた。サドル盗まれてんじゃねえのかってぐらい、立ち漕いできた。君を自転車の後ろに乗せて立ち漕ぎした時は、目の前にツーケーだったのだから心中穏やかでは無かっただろう。すまない。何はともあれ立ち漕ぎこそが十代の象徴であると断言しよう。

僕にとってはもう十数年前の事ではあるが、無力さに拳を固める世代にとって、立ち漕ぎは普遍のものであると信じている。それを再認識できる程に、目の前の若者は自転車を勇ましく立ち漕ぎ始めたのだった。

ただ、前を行く立チ漕ギストは、スカートを纏った女子高生なのだった。

この状態で徐行する事は、まったく容易い事ではあるのだが、そんなの本当に字面通りの変態紳士なんじゃあないのか。「あなたの行く手を脅かす者ではありません。さあ。どうぞお先に」とは思うものの、目の前に広がるのは風に吹かれれば飛んでしまいそうなスカートと自尊心なのだ。しかしここで急加速して横を通り過ぎようものなら、僕の起こした一片の風は世界に深刻なダメージを与えるに決まっている。それだけはダメだっ!しかしその前にこの状態で事故でも起こそうものならそれは前方不注意による事故なのか、いやいや、どっちかっていうと前方過注意かってぐらいに注意はしているぞ。いやいや注意といってもスカート中心にしているワケではなくてこの十代特有のね、怒りといいますか、そういったね、あの、その、ほら、立ち漕ぎがやっぱり速いなあーとか今日って別にそんな風強くないよなーとかこんな風に言うとますます変態紳士っぽくて嫌気がさしうわあああああ。


人は、それぞれの正義を胸に、今日を、明日を生きる。


ただ、それが揺らぐ事だってあるのだ。


スカートの裾の様に。

奥行を知った素粒子の喜び。

2012-10-11 01:25:10 | Weblog
ある問題を抱えた時、人は主観と客観の二面でその問題に対峙しようとする。お悩み相談なんかがその顕著な例である。そして正答に最も近い思考へと近づいていこうとするのだが、果たして本当にそこには二面しか存在しないのであろうか。頑なに、或るもう一面の存在を忘却の彼方へと追いやってはいないだろうか。

それは、茶々を入れたがる自分の存在だ。

「おいおい、俺はそんなキャラじゃないだろう」

「うわー、私がここで花火ブチ上げたらどうなるだろう」

等々。

変化系ではあるが、真剣に悩んでいる時に限って風呂の湯のたまり具合をちゃんと確認しにいくのもそうであるかもしれない。


『3』は人を『ばか』へと導く。


例えば信号機。もちろん三色あって初めて有用に活用できるというのは納得できるのだが、赤で止まれ、青で進め、では黄色は何か。人や地域によって諸説あろうが、やれ「気をつけて進め」であったり、やれ「止まる準備をしろ」であったり、およそこの高度情報化社会において考えられない程のばかっぷりである。

また、こんな逸話をご存知だろうか。

「一本の矢は簡単に折れるが、三本の矢は折れない」

毛利元就が残したと言われる、実に有名な逸話だ。これもまたばかな話である。

三人の兄弟になぞらえてこう言ったのであろうが、本当に家督に重きを置き行く末を心配するのであればぐわしと矢を掴み、家臣共々団結すればその矢は決して折れないとでも言うべきであろう。まあ親ばかだったのだと思う。

燭台に灯された三本のロウソクはどうか。想像してみて欲しい。真ん中の一本が太いロウソクであったり、一段高い位置で燃えてはいないだろうか。それに効果音を付けるとしたら、十中八九「でーん」である。完全にばかだ。

もう一度言う。


『3』は人を『ばか』へと導く。


団子だってそうだ。よもぎと白団子に餡子を乗っけて、串に刺さって皿に乗ってりゃ良かったのだ。それだけで茶が何杯いけるだろうか。だが人はすぐにばかになる。

三色団子の登場である。

春の情景を意識し作られたらしいが、春は目の前に広がっているのだ。花を愛でろよ新芽に触れよと言いたい。雪の深い場所でそれでもいつか訪れる春を思いながらというならまだ分かるが、どうせこんなばかな食べ物を作るのは上方文化と相場が決まっている。ばか騒ぎに全力を注ぐ、江戸町人達の仕業だ。花見に心血注ぎすぎた副産物であろう。


『ばか』の前に人は余りにも無力だ。


親、子、丼、ドン!
なんてばかなんだろう。作り手のしたり顔が目に浮かぶようだ。

炙り、チャーシュー、丼、ドン!
バーナーを片手にしたばかな作り手の屈託の無い顔が眩しい。

もう一回、遊べる、ドン!
これはまあ、元からばかだからいいか。


『ばか』の魅力の前に人は余りにも無力だ。


この記事を書こうと思ったきっかけは、生シラス丼が食べたいと純粋に思ったからだった。

生、シラス、丼。

好きなものを好きな様にやっちゃいました!どうぞ!という感が溢れているこの丼を、いつか屈託のない笑顔で食べに行こうと思う。ずっと『ばか』でいたいという気持ちを一杯の丼の前に誓おう。

素晴らしく『ばか』な、この愛が溢れる世界に、おやすみ。




越えるラジオの境界線。

2012-08-02 05:35:06 | Weblog
『ネタフリは完璧に決まった。奴らは必ずこの障子を開けるだろう』

先日の鳥サミットの際、ダチョウにネタフリの極意を教わった。絶対に開けてはなりません……と素人ながら完璧に決まったネタフリは、夫婦の顔を見ればその成果を窺い知れた。

鶴の予想が確信に変わる頃、セコンド鶴がぽむりとグローブを叩く。長くしなやかな首を持ち上げ、ゆっくりと目を開けると、薄暗い部屋に仰々しくも赤い正方形のリングが映った。大きく首を回し、スタートラインに立った短距離走者の様に胸に手を当て、あの日の誓いを強く握った。

ガタリ、と音を立てて障子が開く。片膝を立てたおばあさんの向こうに、農作業と日々行き交う山道によって鍛え上げられたおじいさんの姿。軽くステップを踏みながらおじいさんは部屋へと入場する。応えるように鶴もまた一歩を踏み出すのだった。

握った鍋へおばあさんがお玉を振り下ろす瞬間を、夜は待っている。静寂を一層深めて、ただじっと待っているのだ。

『鶴の腕試し』

受けた恩を忘れまいと、ここまでやってきた。山道を辿れば家までの道も判るだろうと思っていたが、まさかアパートだったとは……。

四階建て六部屋分の内、一階の駐車場部分を除く十八部屋。一発で当ててみせる!

『鶴の運試し』

活力揺れる海原で。

2012-07-07 23:39:27 | Weblog
世の中に、完全に間違っているなんてものは存在しないのだ。

と、長年言い続けてきた。まあ体の良い言い訳染みた文言であることは認めるが、現在の僕の姿、形、発言、思想に至るまで随分と長く影響し続けてきた言い回しだ。そうでなきゃ今頃もっと可愛らしく、愛玩用佐藤として育っていたハズである。

そんな僕の脳内に、梅雨空を切り分け降り注ぐ陽光と共に天啓とも言える一つの革命が起きた。

ひょっとして、これは、完全なる間違いかもしれない。

そんな僕の脳内革命を、ひっそりと貴方に届けようと思う。

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一片、また一片。

そうやって積み上げていく過程を理解できないという者も多くいるが、一度形を成した姿を見れば皆、嘆息を漏らす。これには不可能を可能とするに等しい、あたかも中世の才人が追い求めた錬金術のような凄絶なロマンが詰まっている。洋上に浮かぶひとひらの木の葉の様な船を、そのまま掬い取って手中に納めるような途方もない悦楽のロマン。

私の趣味はボトルシップ制作だ。

思い立ったのは、知人から一本の洋酒を頂戴した事からであった。私と同様に所帯を持たず、自由気ままな渡り鳥の様な生活を送る彼は、首都の名すら判らぬ街へと度々赴き、その度に私に一本の酒と一本では到底語りつくせぬ土産話を持ち帰ってくるのだ。土地の酒を交わしながらその土地の話を聞くのは感慨も深く、私は彼と共有するその時間が好きだった。そしていつだったか、船に揺られ島々を転々としていたという話を聞いた時、捨てるのもしのびなく思っていた空き瓶たちに役割を与えてやろうと思ったのだ。

この考えは彼も甚く気に入った様で、飾るに相応しい、少し大きめの透明な瓶の酒を買ってきてくれる事が多くなっていった。その分だけ酔いも回り、若かりし頃の様に酒を飲む為に酒を飲む様になってしまったのは彼と私の苦笑いの思い出である。

そうやって過ごした時間の分だけ私の作品は上達していった。
最初の頃は乗船拒否もやむなしだったものが、今では自身が身を委ね遥かなる水平線を目指したいと思える程の立派な帆船になった。きっかけを与えてくれた彼も私の作品に目を丸くし、遂にはこう言った。

「コンテストにでも出してみないか」

この一言が私に火を付けた。この細々した気の遠くなる様な作業を延々と続けられたのは、元来よりの私の性質である負けん気の強さによるものである。それを知ってか知らずか、彼らしいと言えばそれまでだが放蕩気質なその一言が無責任にも私の心に火を灯してしまったのだ。

それからの月日は、全てを飲み込む創造記の濁流の様な速さで流れ過ぎていった。
仕事もそこそこに家に飛んで帰り、ピンセットと格闘する毎日を過ごす。
決して上手くいくばかりでもなく、時には全てを灰燼に帰してやろうかと思う事もあったが、彼と酌み交わした一杯一杯が私の血肉となり指先へと伝わる。
創造の喜びが、かつてない程の充実感、高揚感で私の日々を満たしていった。

そうして出来上がった、私の苦心と情熱を帆に受け大きく胸を張った帆船カティサークは、表彰台に、ただ一つだけを見上げる場所へと置かれた。

初の挑戦で二位なら僥倖というものだろう。だが、私をここまで連れてきたもの、彼と過ごした日々を思うと、到底作り笑いすら浮かべる気にもなれなかった。周囲からの賛辞をそこそこに遮り、私は表彰台へと歩み寄る。次回、必ずやその場所を掴み取るために、しっかりとその場を目に焼き付けておこうと思ったのだ。

皮肉の一つ、悪態の一つでも吐いてやろうと一位の作品を見やる。瞬間、自分の邪さを恥ずかしく思った。いや、恥ずかしいという感覚を抱く事すらその造形の前では許されなかった。ただ純粋に、その一隻の船と出会えた喜びが、私を包んだ。

それは、真の芸術と呼ぶべきものだった。

水を掻き分け進む為に、これ程まで適した形があったのかと思わせる、流麗な船体。
作り手、作り手を支えている者、乗り手、その乗り手を見送る者、積荷を預ける者、それを心待ちにしている者、そのすべての者の、明日への希望を受け、凛と前を向く船首。
その者達の背を優しくも強く押し出す祝福の風を、その身に託され大きく膨らんだ帆。
遥かなる水平線へと今まさに航海中の船を、そっ、と掬い取ってきたような、途方もない躍動感。

私が目指した到達点が、そこにあった。

どれ程の時間、その船を見ていただろうか。一言も話さず、じっ、とその船を見つめる内、私の中の奇妙な感覚に私は気付く。これ程までに美しいものを目の前にしているのも関わらず、その感覚は荒れ狂う海原の様な黒さで、私を飲み込もうと勢いを増していく。これ程までに美しく、自身が追い求めていた造形をそのまま具現化した様なこの船に、感謝する事はあっても、まさか、壊してしまいたくなっているなんて。

この瓶を叩き割って、海原を駆けるこの船を見てみたい。

この瓶に閉じ込められた、呪われた船を私の手で。

踏みつけて粉々に砕いてやりたい。

鷲のマークの封印を解いてやりたい。

なんで茶色く分厚い瓶なんかに。

タウリン1000mg配合の海って一体なんだよ。

なんでリポビタンDの瓶なんかに。

靴底に絨毯が逆毛立つのを感じる。
空調の効いたこの部屋で、鼻をすすって初めて自分の視界が滲んでいる事に気付いた。涙が頬を伝い、顎の先に雫となって落ちるのと同時に、私は外へと駆ける。途中、見知らぬ肩にぶつかっても振り向きもせず、逃げる様に会場を後にした。

「ああ、2位入賞。なかなかなモンだろう」

呂律が回らなくなりかけた声で、彼に報告を入れた。
未だ流れる涙も掠れた声も、OneCup大関で流し込んでしまえば不自然にもならないだろう。

電話を切って、行きがけに見かけた小さな公園のベンチに腰を下ろす。

一気に流し込んだ酒が、ぐるりと頭を回る。

さっきのコンビニの店員は、泣きながら酒を買う男を見て何を思っただろう。

握り締めたままの瓶を、ぼんやりと眺める。

彼の好きな船でも作って、プレゼントにでもしてやろうか。

酒と涙で厚く腫れた目蓋をこすり、一つ作り笑いを浮かべ、空の瓶を良く晴れた空へとかざした。

透明な、瓶底の様な月が青空に浮かんでいた。

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scene.2 壊れたペプチド

2012-05-19 09:46:56 | Weblog


いつだって僕らは否定するには若過ぎて、肯定するには年を重ね過ぎた。


「彼と私の話はこれで終わり。せっかくなんだから飲みましょ?」
琥珀色の水面から目を離し、彼女の方へと視線を移した。
艶のある整った唇から離れた淡いホワイトのカクテルがふわりと揺れ、グラスに結露した水滴が流れ落ちた。白くて綺麗な絹のような指だった。音を立てずコースターに置かれたグラスの中で、綺麗な波が一度大きく弧を描いた。グラスを離す指の先が先程流れ落ちた水で濡れている。その水滴の中に少し控えめな天井の照明が映り込み、二度と目にすることができない様な宝石を造りだしている。僕に詩人の才があれば、この瞬間の美しさを永遠に後世に伝えていけるのに。僕に彫刻の才があれば、世界中を這い回ってでもこの宝石を収めるための台座を作るのに。こんなに美しい所作で、こんなに美しい宝石を携えた目の前のこの女性は、こんなにも美しいのに。

なぜこんなにも悲しそうにしているんだろう。

僕が彼と彼女に出会ったのはもうかれこれ10年も昔のことで、僕らは同じ中学校の先輩と後輩だった。8年前にはもう彼と彼女として考えることが当然であったし、5年前に二人が同じ未来を見据えていることも知っていた。数ヶ月前にはお互いの歯ブラシが並んでいるのを見てももう何も思うことが無くなっていたというのに、今、彼女の隣に彼はいなかった。
彼女の話へ何か返そうと言葉を探すが、目に映るのは洋酒のラベルばかりで救いが無い。一つ呼吸を置こうと、煙草の入った胸ポケットに伸ばした手を、慌ててネクタイを緩める手へと変えた。彼に教わった煙草の、よりにもよって同じ銘柄を出すことは僕には出来なかった。
「ごめんね、変な気を使わせちゃって。」
音を立てず彼女は笑った。全て見透かされているのは明白で、上手くやれない自分に腹が立つ。
「ちょっと息苦しかっただけですよ。」
精一杯の言い訳を残して天井を仰いだ。同時に、彼のことを思う。
彼は、決して主役になるようなタイプではない。十分にその素質はあるのだが、いつも誰かを支えることに喜びを見出していた。彼の世話になった人の数は、僕個人だけでも数え切れない。自分のことなど二の次で、どんな色にも柔軟に対応するが、彼らしさは決して消えることはない。そんな姿に憧れていた。
カレーの隠し味に使われても、パスタのソースをはじめ他の国のどんな食材と仕事をさせられても、醤油である彼らしさは決して色褪せる事無くそこにあった。豆腐である彼女との姿をずっと見ていたいというのは、味噌である僕のただのエゴに過ぎないのかもしれない。ただ、誰になんて言われようと、甘言に惑わされてソフトクリームになんてなって欲しくなかった。
「SOYJOYだったら許せたのかな……。」
触れてしまえばすぐにでも崩れそうなその肩を優しく支え、僕は決意を口にした。
「僕が一緒にいます。だから……だから豆乳になんてならないで。」

醤油ソフトだって、口にすれば決して不味い筈がないのは分かっている。僕の憧れた彼が支えているんだから、間違いなんてあるはずもない。だけど、いつだって僕らは否定するには若過ぎて、肯定するには年を重ね過ぎた。

カウンターに、弱々しいスポットライトが影を落とす。
二つの並んだグラス。
片方のグラスに残った鰹出汁。

その琥珀色の影が、優しく僕らを包み込んだ。

豆腐の味噌汁、最高。