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売り言葉を買いに

行きましょうか。

scene.1 中臣モカマタリ

2012-05-17 01:36:20 | Weblog


円筒型にくり抜かれた空は狭く、変わり映えもしなかった。


一体どれくらいここで揺られているのだろうか。空はここに連れて来られた時と全く同じで、頼りないながらも少し優しい色合いを帯びていた。生まれ育った土地の、海をそのままひっくり返した様な青の深さと対比しようもない空に、戸惑いを感じた事を思い出した。
それにしても、暑い。突き刺すような陽光には慣れていたのだがこの暑さはまるで質が違う。地面からの熱をダイレクトに受けるこの感じは、まるで夏場のタイヤにでもなった様だ。段々と焦げるように黒くなっていく肌に、路面を伝う轍を想起したその時、

「ガタン」

少しばかりの余白を持って、随分と前から絶えず続いていた振動が止まった。
振動が収まると同時に吹いてきた風は焼けた我が身に心地良く、大きく呼吸をして体を楽にする。まだまだ地面は陽炎が立つ程に熱を蓄えているが、身を冷ます風からの開放感で先程よりは気にならない。
「まったく酷いところだな。」
声のした方を見やると、この暑さのせいなのか生まれつきなのか、随分と肌の黒い男がこちらを見て呟いていた。
「タバコ、あるかい。」
「いや、生憎。最後に吸ったのは白い雲を見上げながらってのは覚えてるんだが。」
「ああ、全く一緒だな。」
そこまで言い終わると互いに視線を空へと移し、状況と、虚しく煙を吸ったつもりの境遇に溜息を一つ、同時に吐き出した。そこに浮かぶはずだった白い雲を思い、余計な意味が込められた小さな溜息をもう一つ漏らす。辺りをぐるりと見回すと皆同じ様な状況なのだろうか、未だ立ち昇る陽炎が知らない溜息に揺られ視界の先を誤魔化した。
「どこの出だい。」
黒い肌に少しヤニで黄ばんだ歯をちらつかせて、男は退屈そうに聞いた。
「イエメンって聞いた事あるかい。」
同じぐらい退屈そうに答えを返す。話相手が見つかって少しは興が湧いたとはいえ、相手は見知らぬ男だ。これが女性なら、とも思うがこの状況では高望みが過ぎるってものだろう。
「行ったことはないが聞いた事はあるな。確か中東の方だろう。」
「そう、砂と水、暑さと寒さが一緒にあって、おまけに対岸は火事どころか紛争中なんていうあべこべで物騒なところさ。もっとも渡りさえしなきゃ落ち着いてはいるがね。君はどこなんだい。」
自分の国を語るのに酷い言い草だが、変に国の自慢に取られるよりはマシだ。嘲笑気味に、端的に。
「俺はインドネシアだ。島ばっかりでだらりと横に伸びてる。あんまりにも数が多いもんでどこからどこまでが自分の国なのかも判りゃしない。火の気こそないがあべこべで変なところさ。」
相手もこちらと同じ調子で返事を寄越す。良かった、と安堵した。皮肉な言い回しに好感が持てる相手は貴重な友人になり得る。これなら会話を続けても苦にはなりそうもない。
「インドネシアか。水に困る事は無さそうだが、その分水に苦労しそうだな。どうだったんだい。」
体をわずかに相手の方に向け、探る様に皮肉を込めて会話を促す。
「俺は高地の出だから何も困る事は無かったが、随分とやられた奴もいるらしい。飲み水にも困るってのは想像以上に過酷なようだぜ。」
黄ばんだ歯を剥き出しにして、自嘲気味に男は続ける。
「もっとも、今は自分がそうみたいだがね。」
上を向いて溜息混じりに言ったその一言で、ひどく焼けた地面に奪われていった水分の事を思った。

ガスが抜けきるまでまだ時間がかかるだろう。ミルを持ち出して僕はその時を待つ。
フライパンの上で語る酸味の強い男と、クセと言い換えれる程のコクを持った男。

一杯のカップの中で、彼らは意気投合できるだろうか。ブレンドの憂鬱は、語らう男達の背中に預けられた。

少し欠けたカップの縁が、行く末の先を思い微笑みを称えていた。

花粉猩々世を憂う。

2012-03-11 21:45:48 | Weblog
僕は都会人。歩きながら飲み物が飲めるんだ。

僕は都会人。花粉が舞う季節は少し憂鬱なんだ。

僕は都会人。飲み物はあったかいお茶がマスト。日々の喧騒を逃れてホッと一息つくのさ。

口径の大きなあったかいお茶を歩きながら飲むとバッサバサこぼれてくるのさ。

危うく鼻水茶になるとこだったのさ。

僕は都会人じゃない。不遇の事態にスルリと対応できる程スマートに出来ていないのさ。

最後に、今日という日に一念を起きつつ。御冥福と御健勝を願って。

きっと其処は暖かくって。

2011-12-17 17:11:48 | Weblog
長めのマフラーを巻いた女の子の、ポコッと膨らんだ後頭部が好きだ。
しかしこれは犬や猫のポコッと膨らんだ腹部に触れたい、あわよくば枕にしたいという欲求にまるで一緒だと気づいた。

そして多くの場合、伸ばした手は引っ掻かれるのだ。

そうした所謂、『ちょっかい』が割と好きな僕は、いつも生傷が絶えない。手や、心に。

痛いよう、痛いよう。侮蔑の目が痛いよう。

胴長1メートルの逡巡。

2011-12-16 19:21:59 | Weblog
ガランとした木造家屋の2階部分で、今年の初雪を見送っていた。
汗ばんだ体の中、バールのようなものの冷たさだけが、私に冬の厳しい寒さを伝えていた。

バールのようなもの。

私が手にしているのは確かにバールだ。だが、その場に居合わせない私以外が、私の為した軌跡を見てバールを使ったということを厳密には断定できない。バール以外の道具を使っても同様の状態にすることは可能だからだ。

バールはベールに包まれたのだ。ポールはプールでビールを飲んだのだ。

まるでシュレディンガーの猫のような、詭弁に満ちた話だ。

しかしながら、この世界の境界は案外と曖昧にできている。その境界を、知る事や学ぶ事、経験する事で明瞭にしていく様を分別をつけると呼ぶ。そして分別のつく大人とは、ある事象と対面した際、上記の経験則からこれからの反応をある程度予測し的確な対応を選択できる人の事である。
実にシビれる存在だ。

しかし、そんな予定調和な世界で楽しいと感じれる人が今どれくらいいるだろう。皆嬉しい誤算が好きで、何処かで誰かに巻き込まれたいという願望をひた隠しにしてはいないだろうか。

私は、そんな人達にそっ、とバールのような猫を差し出せる存在でありたいのだ。

曖、昧、me、mine。

良ィー火ッ火ッ火。

2011-12-14 10:00:31 | Weblog
朝日が覗くその3秒前に、シガーソケットを押し込むのは僕の隠れた楽しみだ。

という場合はまあ例外として、基本的には日常生活の中では火を使いたいのだが最近の簡易ライターは極悪だ。新しくなったばかりの頃はまさかライターで僕のお茶目な筋繊維が悲鳴を上げるとは思わなかった。

火は、恐らく人類が最も早く手にした自然界の力であるとは思うのだが、未だその力は制御も能わず僕らに畏怖を以て介在し続けている。

誰かに垂らす為に灯した蝋燭で自分が火傷する。チャーハンの仕上がりがベタついている。思わぬ火柱で前髪がチリチリになる。

全て火によってもたらされる寓話だ。自然の力の前に、人は皆無力だ。だからこそ神聖さを感じるのだが。

しかし昨今。先述のライター然り、その尊い輝きから目を背け危険性ばかりを叫ぶ痴れ者のなんと多きことか。IHクッキングヒーターによる駄炒飯が皿の端にこびりつき、マッチ売りの少女もグレてタバコに火を灯す始末。

余談ではあるが、よく耳にすると思う。マッチョ売りの少女。
考えてもみたまえ。それは人身売買だ。マッチョに人権は無いというのか。否。
ミミズだってオケラだってアメンボだってマッチョだって、みんなみんな自分に与えられた生にプロテインを溶かして飲み込んでいるのだ。

閑話休題。

幾つもの火が、風に吹かれて消えている。決して全てが消えることなどもありはしないだろうが、人知れず消えていく火のことを思うと心中穏やかではない。特に、この先いち早く消えていきそうな五右衛門風呂、またの名をドラム缶風呂が僕の心を締め付ける。

僕は駄目人間だ。だから路上生活に並々ならぬ憧れがある。いつか愛犬と公園のベンチでひっそりと息を引き取りたいと、本気で考える事もある。そして路上生活には五右衛門風呂が付き物なのだ。

無法の象徴のような五右衛門風呂は、新聞や求人情報誌といった社会性の象徴を燃やして火種にする。しかし現状を鑑みるに、IH五右衛門風呂ヒーターの登場はすぐそこまで迫っているのかもしれない。

人が火を起こす時、多く人の表情は真剣である筈だ。そこには畏怖の対象と相対し、それを自らが扱うという人間の根幹からのロマンがある。

ロマンの無い人生は心の底から嫌なんだ。

そう、それはまるで世界樹の根の様に。

2011-11-24 21:21:09 | Weblog
僕は全身、自分の体の使えるパーツ全てを使って生きている。
無駄なパーツは曲がりくねった毛先ぐらいのものだ。

とあるブログから、好きな本、好きな音楽、好きな映画がかなりコアな所で一緒の女性を見つけた。
誰にも共感を得られなかったものばかりだったので、当然のように僕は恋に落ちた。
地面を掘って出てきた壷を開ける時の様な胸の高鳴りでそのブログを読み漁った。
その人は笑顔で彼氏の誕生日を祝っていた。

僕の恋は指先から始まって指先で終わりを告げた。

緊張と希望が入り混じった、鰹出汁と昆布出汁の割合を決める時の様な入部だった。
初めてグラウンドに足を踏み入れた時の事を未だに覚えている。
悠々とグラウンドを駆けるヒーローになったことも、一球を逃した結果異教徒の様な扱いを受けた事もあった。
最後の試合、僕の足元数センチの所で勝敗は決した。

僕の青春のおよそ半分は爪先から始まって爪先で終わりを告げた。

暖かく、柔らかで、こんな匂いなのかと思ったはずだった。
全身を使って生きて、全身で全てを感じ、全身でぶつかって、全身で嘘をついた。
爪先であなたの元へ行き、指先で子の頭を撫でるだろう。
そして全身を休める時を待ち、一番最期に全身に労いの言葉をかけるのだろう。

僕の全ては脳から始まって脳にさよならを告げることだ。

僕は全身、自分の体の使えるパーツ全てを使って生きているのだろうか。
経験も体験も全身で感じていたい。自分の一部である脳だけのものにしておきたくない。これを嫉妬と呼べるのだろうか。

大海に漂うプランクトンが幸せな夢を見ているのは、君と僕だけの秘密だ。
ひょっとしたらそれが僕自身で君そのものっていうのも、まだ秘密だ。

脳が全てを司るなんて面白く無い事は他に無い。
だからこそ僕は無駄なうねりの毛先を誇りに思う。

まだ髪は伸ばします。

禊を終えて。

2011-11-23 00:00:01 | Weblog
11月23日。良い文の日である。
本当にそんな日があるのかは知らないが、この日から文章を書こうと数日前から心に決めていた。

さあ、書くよ。

基本的に僕の文章というのは、僕なりのユーモアを如何に表現するか、に集約される。
元より人に意思を伝える事が極端に苦手なため、啓蒙的な内容は書けないし、書きたくない。
それならば、夜明けの自慰にも劣るこの行為を再開するならば。

思いっきり人を食った文章を書きたいと思う。

ありったけの念を込め、視力が悪くなる呪いを込めて一文を書きながらもその裏で眼鏡・コンタクト業界からの賛辞を心待ちにする様なふてぶてしさで。
子猫をあやす人の所へ全裸で突撃するような残忍さで。
カラーひよこを子供らに騙し売りながら、親が文句を言いに来る前にその売り上げで次の土地にいる女性に花束を捧げるような軽薄さで。
手の届かない所で折れてしまった枝のようなどうしようもなさで。

踏まれ、蹴散らされ、雨に打たれ、最早クズみたいな木綿のハンカチーフのように、通りがかった何台かのごみ収集車の内の1台に乗った作業員2人の内の片方1人にやっと気付いて拾ってもらえるような。

読んだ人が時間を無駄にしたことも忘れてしまえるような文章を、僕は書いてゆく。
そのハンカチーフを額に入れようが鼻をかもうがまた捨てようが、好きにすればいい。

ただ一つ。

僕は、君を食うよ。

俺があいつであいつがメカで。

2011-08-07 02:58:21 | Weblog
私の性別は男である。

異論が多く飛び交うであろうし、私自身もたまに怪しいものではあるが、トイレ、病院の診察券、パスポート、髭だらけの寝起きの顔、様々な事項から推察するに男であることは間違いなさそうだ。もし異論を唱える方がいるのなら私に直接言うがいい。抱いてやる。

暫定男として産まれ、暫定男として育ってきたからには譲れないものがある。

それは『工業製品熱』だ。

ホームセンター、工具店、PC関連の店で『ほほぅ』とした顔の男たちを見かけた事があると思う。あれこそが欲を解放された男の原始のララバイである。

ラチェットの歯車が一つ回る毎、男の鼓動は高まるのだ。インパクトが男にもたらすインパクトは筆舌に尽くし難く、ハードボイルドにハードディスクを俺色フォーマットするのだ。

さて。

上記を踏まえた上で出会いが無い、いい男がいないとお嘆きの貴女に、僕は一つ提案しようと思う。

メカになってはいかがだろうか。

勿論サイボーグクラスともなると日常の生活に支障が出るであろう。逆に捗ってしまうかもしれないが。
さすがに僕の彼女はサイボーグ、とは困る男性が多いと思う。映画でも困ってたみたいだし。
論拠も述べておこう。
幼い頃、骨折してしまった友人の車椅子、松葉杖、ギブス。群がっていたのは男ばかりでしょう。多段変速機構に夢中になっていたのは男ばかりだったでしょう。
男はメカに対する憧れを持ちながら、密接に関わる外部にしかその憧れを投影する事が出来ない哀れな生き物なのだ。

大体が男というものは行き過ぎず、引っ込み過ぎずという昼は清純派、夜は情熱派のような大いなる矛盾を求める大馬鹿者ばかりだ。そのくせ自分は変化を嫌うという、とんだ痴れ者なのだ。ごめん。

そんな醜い男たちを内包し、貴女の虜とする一つの手段。

メカ化。

なに、メカ部分は簡単なものでいい。

断言しよう。

手の側面から包丁が出てくるだけで貴女は一生男に困らない。もしくは秘密結社に困らない。

断言しよう。

首の後ろにインプットジャックがあるだけで貴女の耳元では常に愛が囁かれ続けるだろう。もしくは特別な任務が囁かれ続けるだろう。

実に簡単な事なのだ。

レッツ・変形。

80年代偶発的絵空事ムーヴメント。

2011-07-29 00:26:51 | Weblog
「女子高生のカリスマ」と呼ばれている歌手がいた。
世代によって様々ではあるだろうが、割と近年、そう呼ばれている人がいた。
その人は今では「世代の代弁者」と呼ばれている様だ。

言いたい事があるなら面と向かって言いたまえよ、とは思うが、僕は残念ながらピッチピチでもキャッピキャピでも無いのでその心情をゼロから理解するに至らないのが現状である。非常に、残念だ。残念だ。

残念がっていても仕方がないので、自分の立場に置き換えてみる事にする。

僕が「代弁者」として崇めてきたのは、思えばやはり音楽を糧に生きている人が多かったと思う。

THE WHOから「音がデカイのはそれだけで気持ちが良いもんだ」と言ってもらえた。
THE CLASHから「気に入らないなら変えればいい」と言ってもらえた。
コルトレーンから「愛こそすべて」と言ってもらえた。
RHCPから「馬鹿になれば楽しい」と言ってもらえた。
RATMから「思考を行動で表せ」と言ってもらえた。
HUSKING BEEから「どうしようもないけどどうにかなるよ」と言ってもらえた。
井上陽水からは「探し物はなんですか」と訊ねられた。

青春期だけでもこれだけの事を代弁してもらっていた。
この場合は発言に依存していただけの様にも思えるが、今でも影響され易い我が人格を考えれば納得の限りである。
しかしこんな事は問題ではない。問題は今まで代弁してもらっていた事を自分の言葉で伝える事が出来るか否かだ。

人と会話をするのが本当に凄く苦手だ。掛けるべき言葉にいつも迷っている。
代弁者達の言葉を受けて育った代弁者として伝えたいのはただ一つ。
「やりたいようにやれ」
この一言だけだった気がする。
この言葉の無責任な横暴さに責任が取れず、いつも困った顔をして人と話すのだ。
そして、それを説き伏せれる程、僕は高尚じゃない。

そして冒頭を振り返り、言いたい事があっても面と向かって言えていない自分に愕然とする。

なんと、己が身はピッチピチでキャッピキャピであったか、と。残念だ。

ちなみに元「女子高生のカリスマ」、現「世代の代弁者」のCDジャケットはデヴィッド・ボウイにそっくりであった。
そう、きっと彼女はこう伝えたかったに違いない。

「化粧、大事」と。

人生はブルースだね。 


昨日今日明日、変わり行くfin.

2011-07-07 22:13:45 | Weblog
誰かの家にお邪魔したとして。

時代が時代なもんで、多くの人はPCを所有していると思う。

PCを所有していれば当然、ディスプレイという物が傍らに置いてあると思う。近年じゃあすっかり液晶が主流で、メーカーセットだったりワイドだったりノート型だったり。未だに奥行きがすごかったりする人もいる。様々だ。

PCというものは、巷説定義は様々であるだろうが情報を引き出し、効率良く演算する為のものである。それが例え桃色遊戯を観賞する為にしかそれを灯されないとしても、そこには情報のファイルがあり、複雑な数式の演算によって映像として放出される。

誰かの家にお邪魔したとして。

その人が所有するPC、ディスプレイを見て違和感を覚える事がある。
最近気付いたのは、大きい画面だな、小さい画面だな、と思うのは決して即物的な意味合いだけでは無かったという事だ。

人は超高性能なPCである、という言い回しは人が演算処理の代替品としてPCを初めて起動させた時からの普遍的な前提であると思う。そしてある特定の人をPCとして見た時、その傍らに置かれているディスプレイは果たしてその情報量に応じたものであるだろうか。

単純に記憶はハードディスクだ。思考のプロセスはCPUの性能だろう。サウンドカードは声色、歌声、楽器を演奏する人ならその音色。グラフィックカードは絵心や写真を撮るときの感性。USB端子をはじめ様々な端子を持っているのは他者との互換性に秀でているのか。

フラリと尋ねた君の部屋、例えばそう他愛も無い話。そこから話は広がって、宇宙の隅を見たとしよう。倫理の果てを聞いたとしよう。それはきっと文字だけじゃなく、君が見て感じてきた世界の事。君がその生涯をかけて手に入れた情報の全てを映し出すそのディスプレイは、きっと100インチでも足りないと思うんだ。幾つもフォルダを重ねて開いて、言葉を連ねればそれは優秀なオーディオプレイヤー。同時に誰かの意見と検証し合う為のブラウザも開くのなら、途方も無い大きさのディスプレイが君には相応しい。

先日開かせて頂いた自主企画『龍の住処』。

共演して頂いた方々は、各々大きなディスプレイが似合うなぁと全バンド楽しませて頂きました。あれだけジャンルレスであったにも関わらず多くの人に楽しんで頂けたのは、一重に各バンドの映し出すものが素敵だったからだろうと思います。

企画者として至上の喜びです。
この場を借りてですが、至らない点も多々あったと思いますが本当にありがとうございました。

さて次は7月15日。今度はLITE、DE DE MOUSE、avengers in sci-fi、と凄い面子の中でのライブです。
僕らに出来る最大限の映像を映し出してやろうと思います。