筏陟贰⒈摔槁沂坤渭樾邸
食わない。
「鼻糞売りがのさばりやがって」
と、敵愾心すら抱き始めている。
「大石殿の妹殿はお美しいですねえ。私はあそこまでお美しいとは思いもしませんでした。殿がご執心される気持ちもわかりますねえ、はい」
「なんだよ、お前。あーやは初めてじゃねえだろ。堺に来たことあんだろ。格さん助さんを手下にしたときよ」
「いえ、それはそうですが、そのとき殿は彩殿を一人占めしていたため、私はお顔を見かけられませんでした」
「一人占めってなんなんだっ! 人聞きの悪いこと言ってんじゃねえっ!」
湯のみを手にしたまま惚けている利兵衛の頭を牛太郎は八つ当たりも兼ねて叩いた。
弥八郎はカステラを恐る恐るちぎっている。
風呂を浴びて旅の垢を落とした牛太郎は、客間に通され、そこで梓の小袖をかぶりながら、うたた寝をして四郎次郎の帰りを待った。
お帰りなさいませ、という大合唱が聞こえてきて、牛太郎は跳ね起きた。ばちん、と、戸を叩き開け、小袖を引っ掛けたままなりふり構わず飛び出ていこうとしたが、弥八郎に手を掴まれてしまう。http://www.watchsremain.com
「簗田殿。中島殿にも考えがあるのでしょうから、あまり、大事にしないほうが」
利兵衛がこそこそと近づいてきて、牛太郎の肩から小袖を取り除く。そして、丁寧に折り畳み、桐の箱に戻す。
「むう。それはそうかもしれませんが」
弥八郎の言うことにはわりかし従う牛太郎は、不満そうながらも戸を閉め直し、むすっと腰を下ろした。
しばらくすると、閉めた戸がわずかだけ開いた。隙間から何者かが覗き込んでくる。
「テッメー」
「い、いや、だ、旦那様。じ、実は、旦那様専用の部屋もこしらえているんで、そ、そっちのほうで、お話を。新三殿と弥八殿はちょっとばかり待ってもらって」
「話だとお」
牛太郎専用の部屋というのは、いぐさの匂いこうばしい畳敷きの一室で、屋敷の奥にあった。壁を円に繰り抜いて格子で仕切られた窓からは、夕差し染まるひっそりとした裏庭が覗き込められる。床の間には掛け軸が垂らされており、牛太郎が高槻の地で叫んだ曹松の詩、
沢国江山入戦図 生民何計楽樵蘇 憑君莫話封侯事 一将功成万骨枯
が、掲げられている。
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牛太郎はこれに機嫌を良くした。どうやら、専用の部屋というのは四郎次郎の出まかせではなかったらしい。
主人が口許を緩めたものだから、いっそう肥え太った四郎次郎も手を揉みほぐす。
「あっしの物は旦那様の物。ここは旦那様のお屋敷でございます。お気に入りになるかどうか、少々不安でございましたが」
「まあ、気に入らないところはあるが、いいんじゃないのかな、シロジロ君」
「こちらの部屋も旦那様がいつでもお訪ねできるように毎朝掃除をさせております。あっしは旦那様がいつ堺に来てくれるか、今か今かと待ちわびていました」
「人をおだてるのもなかなか上手くなったようだね、シロジロ君」
「い、いやっ、滅相もないッス。旦那様をおだてるだなんて。あっしは本当に旦那様を待ちわびていたんスから」
四郎次郎は床の間に寄せてあった肘掛けの脇息を牛太郎の足元に滑り寄せ、牛太郎がそこに腰を下ろすと、今度は煙草盆を手元に押し出し、牛太郎が蓮絵巻の煙管に眺め入る間、戸の向こうに手を打って女中を招き入れ、牛太郎の膝元に煎茶を差し出した。
顎をそそり出しながら、ぷかぷかと煙をくゆらせる牛太郎に、四郎次郎は無言のまま扇子を渡す。ぱちっと開いてみると、山水の風景が水墨で描かれた、いかにも牛太郎が好む扇子であった。
「すべて旦那様のお品物ッス」
「さすがはシロジロだ」
と、扇子を動かしながら、すっかり上機嫌、大名気分であった。
「ただ、旦那様。ここの者はあっしが旦
「鼻糞売りがのさばりやがって」
と、敵愾心すら抱き始めている。
「大石殿の妹殿はお美しいですねえ。私はあそこまでお美しいとは思いもしませんでした。殿がご執心される気持ちもわかりますねえ、はい」
「なんだよ、お前。あーやは初めてじゃねえだろ。堺に来たことあんだろ。格さん助さんを手下にしたときよ」
「いえ、それはそうですが、そのとき殿は彩殿を一人占めしていたため、私はお顔を見かけられませんでした」
「一人占めってなんなんだっ! 人聞きの悪いこと言ってんじゃねえっ!」
湯のみを手にしたまま惚けている利兵衛の頭を牛太郎は八つ当たりも兼ねて叩いた。
弥八郎はカステラを恐る恐るちぎっている。
風呂を浴びて旅の垢を落とした牛太郎は、客間に通され、そこで梓の小袖をかぶりながら、うたた寝をして四郎次郎の帰りを待った。
お帰りなさいませ、という大合唱が聞こえてきて、牛太郎は跳ね起きた。ばちん、と、戸を叩き開け、小袖を引っ掛けたままなりふり構わず飛び出ていこうとしたが、弥八郎に手を掴まれてしまう。http://www.watchsremain.com
「簗田殿。中島殿にも考えがあるのでしょうから、あまり、大事にしないほうが」
利兵衛がこそこそと近づいてきて、牛太郎の肩から小袖を取り除く。そして、丁寧に折り畳み、桐の箱に戻す。
「むう。それはそうかもしれませんが」
弥八郎の言うことにはわりかし従う牛太郎は、不満そうながらも戸を閉め直し、むすっと腰を下ろした。
しばらくすると、閉めた戸がわずかだけ開いた。隙間から何者かが覗き込んでくる。
「テッメー」
「い、いや、だ、旦那様。じ、実は、旦那様専用の部屋もこしらえているんで、そ、そっちのほうで、お話を。新三殿と弥八殿はちょっとばかり待ってもらって」
「話だとお」
牛太郎専用の部屋というのは、いぐさの匂いこうばしい畳敷きの一室で、屋敷の奥にあった。壁を円に繰り抜いて格子で仕切られた窓からは、夕差し染まるひっそりとした裏庭が覗き込められる。床の間には掛け軸が垂らされており、牛太郎が高槻の地で叫んだ曹松の詩、
沢国江山入戦図 生民何計楽樵蘇 憑君莫話封侯事 一将功成万骨枯
が、掲げられている。
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牛太郎はこれに機嫌を良くした。どうやら、専用の部屋というのは四郎次郎の出まかせではなかったらしい。
主人が口許を緩めたものだから、いっそう肥え太った四郎次郎も手を揉みほぐす。
「あっしの物は旦那様の物。ここは旦那様のお屋敷でございます。お気に入りになるかどうか、少々不安でございましたが」
「まあ、気に入らないところはあるが、いいんじゃないのかな、シロジロ君」
「こちらの部屋も旦那様がいつでもお訪ねできるように毎朝掃除をさせております。あっしは旦那様がいつ堺に来てくれるか、今か今かと待ちわびていました」
「人をおだてるのもなかなか上手くなったようだね、シロジロ君」
「い、いやっ、滅相もないッス。旦那様をおだてるだなんて。あっしは本当に旦那様を待ちわびていたんスから」
四郎次郎は床の間に寄せてあった肘掛けの脇息を牛太郎の足元に滑り寄せ、牛太郎がそこに腰を下ろすと、今度は煙草盆を手元に押し出し、牛太郎が蓮絵巻の煙管に眺め入る間、戸の向こうに手を打って女中を招き入れ、牛太郎の膝元に煎茶を差し出した。
顎をそそり出しながら、ぷかぷかと煙をくゆらせる牛太郎に、四郎次郎は無言のまま扇子を渡す。ぱちっと開いてみると、山水の風景が水墨で描かれた、いかにも牛太郎が好む扇子であった。
「すべて旦那様のお品物ッス」
「さすがはシロジロだ」
と、扇子を動かしながら、すっかり上機嫌、大名気分であった。
「ただ、旦那様。ここの者はあっしが旦
於松はのこぎりを三郎左衛門の首すじに当てた。三郎左衛門は叫びとおした。頭を振
り乱し、涙を流し、大聖寺川の流れが静かに波立てる中、彼の叫びは冷たい空気を切り
裂いた。
しかし、彼と、彼の父親意外は、皆、沈黙している。
誰も、この所業を止めない。
於松がのこぎりを引いた。三郎左衛門の悲鳴が絶頂に達した。切れ味の悪いのこぎり
は彼の肉へえぐるように入り込んでいき、滲み出る血とともに肉片がこぼれた。
「ししし」
於松は一引きしただけでのこぎりを離し、三郎左衛門のもとからひょこひょこと去っ
た。次に出てきたのは七左衛門だった。七左衛門はもごもごと呻いている中務丞に向け
て笑みを見せたあと、泣き叫ぶ三郎左衛門の鼻づらを蹴り飛ばした。
「おい、七左。殺してやるなよ」
「これでも手加減したつもりですよ、旦那様」
三郎左衛門は鼻を潰されて、そこから下を真っ赤にしていた。蹴りこまれた衝撃で朦
朧としていたが、七左衛門がのこぎりを引くと、目覚めたように絶叫した。
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七左衛門は弟の治郎助にのこぎりを渡した。治郎助は冷え込んだ目で三郎左衛門に歩
み寄ってき、
「殿と同じ苦しみを味わえ」
のこぎりを思いきり引いた。
治郎助の言葉が兵卒たちを大いに湧かせた。酷すぎる所業に最初は固唾を飲み込んで
いた連中も、一人が堀江親子に罵倒を浴びせると、やんややんやと歓声のごとく騒ぎ始
めた。
又左衛門は腕を組んで黙っている。
「よいのですか、玄蕃殿」
孫三郎に訊ねられた玄蕃允。何も答えずにのこぎり引きを見つめている。
次に利兵衛が出てきた。利兵衛は獰猛な瞳で中務丞を睨みつけた。そのこけた丸顔に
は、小生意気で情けない利兵衛の面影はなかった。
「拙者どもは地獄より参った郎党だ。地獄には地獄のやり方がある。地獄の餓鬼のごと
く苦しめ」
利兵衛は細瞼をくわっと押し上げ、のこぎりを引いた。一引きならず、二度、三度と
押し引きする。三郎左衛門はそのつど金切り声を上げた。
利兵衛のその手を弥八郎が止めた。
「死んでしまいますぞ、利兵衛殿」
利兵衛は思い余って泣いていた。弥八郎は手ぬぐいを渡した。利兵衛は手ぬぐいで瞼
を押さえながら、おいおいと泣いた。治郎助が利兵衛の肩を抱いて、そこから連れ出し
ていく。
弥八郎はのこぎりを手にしたまま突っ立っている。中務丞を蔑むように見つめる。そ
して、
「南無三」
のこぎりを引いた。粗末なのこぎりはすでに血だらけであった。
その後、兵卒たちものこぎりを手にしていき、一人一人、堀江親子にこの世のものと
は思えぬ苦しみを与えていく。
牛太郎は、つむった瞼から涙を流している中務丞に言った。
「これが悪党の末路だ」
暗闘
簗田隊が解体されたのを理由にして、佐々権左衛門は自分を岐阜に戻してくれるよう
軍団長に願い出てくると前田又左衛門に言い残し、わずかな従者たちとともに大聖寺を
脱した。
真実は、簗田出羽守の冷酷非道ぶりを目の当たりにしたからである。
結局、堀江親子は三日三晩大聖寺川に晒された。太刀を突き刺されたままの中務丞と
、土中に埋められたままの三郎左衛門には三日中苦痛が与え続けられた。
最後には三郎左衛門は土中から引き出され、頭に蓑を被せられると、二頭の馬に引き
ずり回され、中務丞の目の前で股から真っ二つに引き裂かれた。
父親の中務丞は四ツのすべてをのこぎりで落とされると、肛門から槍を突き刺されて
絶命した。
父子ともども、首から上だけは無傷で、それを何事もなかったかのように岐阜に届け
た次第である。
まさに修羅だ。と、権左衛門は出羽守のやりように震えが止まらなかった。三日三晩
、ろくに眠れなかった。堀江三郎
尉を初め、将校一人一人の武勇というのはずば抜けており、兵卒は一糸乱れず敵に怯まず、勝利を確信している者たちでしか備えられない強さであった。
「それに比べて織田の兵卒は雑魚だ」
姉川の戦いで磯野員昌一隊に備えをことごとく突破された。そんな磯野に匹敵する将校、部隊が、武田には両手では数えられないほど揃っている。
「勝てるわけがない」
「ならば、なぜ」
と、弥八郎が珍しく身を乗り出してきた。
「長篠だったら勝算があるのですか」
「それは――」
牛太郎は懐を探って設楽ヶ原の戦図を取り出そうとした。しかし、半兵衛にくれてしまって持ち合わせていないことに気付き、治郎助を呼んで紙を持ってこさせると、筆で設楽ヶ原の地形を描いていった。予想される部隊の配置も半兵衛が言った通りに書いていく。
<i31377|2533>
「調べてきたのはおれだ。設楽ヶ原っていう。陣形配置を考えたのは竹中半兵衛だ」
「これは……」
官兵衛が戦図に凝視する。
「見にくいですな」
「見にくくねえだろ! 一生懸命書いたんだぞ!」
「簗田殿」
弥八郎が手を伸ばしてき、黒く塗りつぶされた箇所を差した。
「これはどういうことでしょうか」
渡河地点だと牛太郎は答える。連吾川は跨いで飛び越えられるほどの小さな川だが、この辺り一帯は水はけの悪い湿田のため、人馬が滞りなく進める地点はこの三箇所しかない。
「だから、時期としては梅雨時にやりたいんです。多分、来年か再来年ぐらい」
「銃というのは、火縄銃のことですか」
「そうです。織田軍は二千丁持っているから、これを各所の柵越しに配置して、突撃してくる武田軍を迎え撃つ」
「なるほど……」
弥八郎は乗り出していた体を起こし、喉を鳴らした。
「これなら勝算はあるやも」
官兵衛が頷くと、言った。
「まあ、これがこの通りに行くかどうかはともかく、まずはこの設楽ヶ原とやらに武田の軍勢を引きこまなければならないということですな」
「そうだ」
「いやあ……」
官兵衛は感嘆の息をつき、苦笑とも取れる笑みに口許を緩めながら、牛太郎を眺めてくる。
「まこと、姫路でくすぶっているのが悔しい。どうして、織田というのはこうもおもしろいんでしょうか。まさに血肉が湧き躍らんばかりに胸が滾りますわ」
そして、官兵衛は瞳を輝かせるまま、隣の弥八郎に目を向けた。
「ねえ、本多殿」
弥八郎は自重して目を伏せる。ただ、未来への好奇心を彼もまたどこかに潜ませているようで、ひっそりと笑んでいた。
祭には出たくない
宿屋兄弟を連れ出した昨秋までは、家事全般は四郎次郎と彩が行っていた。ところが、あれから半年余、堺の屋敷には人が三人増えており、どうやら四郎次郎の身の周りの世話をしている下人の男が一人、あとは食事、洗濯、掃除などに従事している年かさの女が二人。
四郎次郎は何もしていない。それと彩はなぜか不在である。
食事を済ますと、牛太郎は官兵衛を自室に呼び、酒を振る舞った。播磨の情勢を聞いたり、一連の織田包囲網打破の戦いを話したりした。
「石山本願寺のこともありましょうが」
官兵衛は牛太郎のお猪口に徳利を傾けながら言う。
「東海の雌雄に決着がつけば、いよいよ上総介殿は天下に手を掛けますな」
「どうだかな」
「すでに我が小寺家は、織田、毛利、どちらに付くか密かに検討しております。時が来れば我が家中も揉めるでしょう」
「今のうちに早くまとめといたほうがいいぞ。ごちゃごちゃしてくると、信長様も聞く耳もたなくなるからな」
「わかっております。だから、武田とのいくさは是非勝利していただきたい。さすれば、家中の者どもを説得できる口実になります」
燭台の火を照らし返
「それに比べて織田の兵卒は雑魚だ」
姉川の戦いで磯野員昌一隊に備えをことごとく突破された。そんな磯野に匹敵する将校、部隊が、武田には両手では数えられないほど揃っている。
「勝てるわけがない」
「ならば、なぜ」
と、弥八郎が珍しく身を乗り出してきた。
「長篠だったら勝算があるのですか」
「それは――」
牛太郎は懐を探って設楽ヶ原の戦図を取り出そうとした。しかし、半兵衛にくれてしまって持ち合わせていないことに気付き、治郎助を呼んで紙を持ってこさせると、筆で設楽ヶ原の地形を描いていった。予想される部隊の配置も半兵衛が言った通りに書いていく。
<i31377|2533>
「調べてきたのはおれだ。設楽ヶ原っていう。陣形配置を考えたのは竹中半兵衛だ」
「これは……」
官兵衛が戦図に凝視する。
「見にくいですな」
「見にくくねえだろ! 一生懸命書いたんだぞ!」
「簗田殿」
弥八郎が手を伸ばしてき、黒く塗りつぶされた箇所を差した。
「これはどういうことでしょうか」
渡河地点だと牛太郎は答える。連吾川は跨いで飛び越えられるほどの小さな川だが、この辺り一帯は水はけの悪い湿田のため、人馬が滞りなく進める地点はこの三箇所しかない。
「だから、時期としては梅雨時にやりたいんです。多分、来年か再来年ぐらい」
「銃というのは、火縄銃のことですか」
「そうです。織田軍は二千丁持っているから、これを各所の柵越しに配置して、突撃してくる武田軍を迎え撃つ」
「なるほど……」
弥八郎は乗り出していた体を起こし、喉を鳴らした。
「これなら勝算はあるやも」
官兵衛が頷くと、言った。
「まあ、これがこの通りに行くかどうかはともかく、まずはこの設楽ヶ原とやらに武田の軍勢を引きこまなければならないということですな」
「そうだ」
「いやあ……」
官兵衛は感嘆の息をつき、苦笑とも取れる笑みに口許を緩めながら、牛太郎を眺めてくる。
「まこと、姫路でくすぶっているのが悔しい。どうして、織田というのはこうもおもしろいんでしょうか。まさに血肉が湧き躍らんばかりに胸が滾りますわ」
そして、官兵衛は瞳を輝かせるまま、隣の弥八郎に目を向けた。
「ねえ、本多殿」
弥八郎は自重して目を伏せる。ただ、未来への好奇心を彼もまたどこかに潜ませているようで、ひっそりと笑んでいた。
祭には出たくない
宿屋兄弟を連れ出した昨秋までは、家事全般は四郎次郎と彩が行っていた。ところが、あれから半年余、堺の屋敷には人が三人増えており、どうやら四郎次郎の身の周りの世話をしている下人の男が一人、あとは食事、洗濯、掃除などに従事している年かさの女が二人。
四郎次郎は何もしていない。それと彩はなぜか不在である。
食事を済ますと、牛太郎は官兵衛を自室に呼び、酒を振る舞った。播磨の情勢を聞いたり、一連の織田包囲網打破の戦いを話したりした。
「石山本願寺のこともありましょうが」
官兵衛は牛太郎のお猪口に徳利を傾けながら言う。
「東海の雌雄に決着がつけば、いよいよ上総介殿は天下に手を掛けますな」
「どうだかな」
「すでに我が小寺家は、織田、毛利、どちらに付くか密かに検討しております。時が来れば我が家中も揉めるでしょう」
「今のうちに早くまとめといたほうがいいぞ。ごちゃごちゃしてくると、信長様も聞く耳もたなくなるからな」
「わかっております。だから、武田とのいくさは是非勝利していただきたい。さすれば、家中の者どもを説得できる口実になります」
燭台の火を照らし返
長いいくさになる。
と、上総介が言ったように、小谷城は連なる山々と天然の尾根を利用した一大城郭であり、力任せに押し潰せるような代物ではない。
昨夜の軍議で決定した通り、織田勢は小谷山南方に位置する標高二百米程度の低山、虎御前山と雲雀山に分かれて登り、それぞれ陣を張った。
「姉川のいくさのときはお見事でした」
と、玄蕃允が親子に歩み寄ってきてそう言った。
玄蕃允は姉川のとき柴田勢として参加していたが、大して活躍できなかった。
姉川の決戦前夜、虎御前山まで軍勢を進めた織田軍は、陣替えのために虎御前山を下りたのだが、浅井勢はここを急襲してきた。
このさい、しんがり役を務めたのが、黒母衣衆の佐々内蔵助と左衛門太郎である。軍勢を率いての本格的な野戦はこれが初めてであった左衛門太郎は、襲いくる浅井勢を虎御前山のふもとで食い止め、これを機に大いに名を上げた。
再び虎御前山に上がり、二年前、さほど武功を上げられなかった玄蕃允は、左衛門太郎の決死のいくさ振る舞いをも思い出し、期するものが湧いたのかもしれない。
「あのときとは違うだろ」
と、牛太郎は鼻の穴を膨らませている玄蕃允の若々しさに水を差す。
「あのときはもっとぎりぎりの戦いだった。今回は違う。余裕を持って戦えるだろ。そういういくさであんまりかっかすると、足元をすくわれるからな」
玄蕃允は牛太郎の言葉には何も反応せず、この太った凡将を忌々しそうに見つめる。
「父上のおっしゃる通りですよ、玄蕃殿。ただ、攻めるに当たってはかっかしなければならないときもあるでしょうから、そのときは槍を振るいましょうぞ」
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「かしこまりました」
玄蕃允は左衛門太郎には素直に頭を下げたが、ずかずかと立ち去ろうとして、一度、牛太郎に振り返って睨みつけてきた。
「なんなんだ、あの野郎は。だいたい、なんで、おれの手下になる奴はどいつもこいつも、こう反抗的なんだ。腹立つな」
「仕方ありません。父上は年賀の挨拶に岐阜に戻っても来なければ、家出をしたりして、評判が悪いのですから」
「評判が悪いなんて、聞いたことねえぞ」
「岐阜にいない父上に代わって、拙者が叱られているからです」
息子のしらりとした目が牛太郎に突き刺さり、牛太郎はその場からそそくさと逃げた。
虎御前山には砦が築かれることになった。その間、北近江の工作に勤しんできた藤吉郎を筆頭に、小谷城近在の攻略が開始される。
「牛もサルに付いていけ」
上総介の命が下り、精強な簗田勢は木下勢とともに戦野を駆けることとなった。
のどもと過ぎれば熱さもわすれる
小谷城の包囲。
まず、周囲の砦や支城の陥落が目的である。
だが、上総介は全軍を投入するわけにはいかない。
包囲網を組まれている状況にあって、敵は浅井だけではなく、摂津の諸勢力、松永弾正、越前朝倉、武田、果ては越後の上杉と、織田は一時の猶予もなく飛びまわらなければならない。
それを考慮すれば、一兵たりとも失いたくないのが本音であった。
小谷城を大軍で圧迫しつつ、外堀を埋めていく。
遊撃部隊にはいくさに巧みな者が求められた。
虎御前山を下りた木下勢及び簗田勢は、琵琶湖の方角へ進軍する。
「山本山を落とせ」casio 電子辞書
casio 電卓
上総介はそう命じたが、日暮れまでには虎御前山に戻ってこいとも付け足した。
「半日で落とせるわけがないだろ」
牛太郎は愚痴る。山本山は虎御前山と似たように、平地にぽこりと現れているなだらかな小山だが、柵や石垣、空堀などで城郭の様相を呈しているのが、虎御前山からでも見受けられた。
「本気でおやかた様が落とせと申していま
と、上総介が言ったように、小谷城は連なる山々と天然の尾根を利用した一大城郭であり、力任せに押し潰せるような代物ではない。
昨夜の軍議で決定した通り、織田勢は小谷山南方に位置する標高二百米程度の低山、虎御前山と雲雀山に分かれて登り、それぞれ陣を張った。
「姉川のいくさのときはお見事でした」
と、玄蕃允が親子に歩み寄ってきてそう言った。
玄蕃允は姉川のとき柴田勢として参加していたが、大して活躍できなかった。
姉川の決戦前夜、虎御前山まで軍勢を進めた織田軍は、陣替えのために虎御前山を下りたのだが、浅井勢はここを急襲してきた。
このさい、しんがり役を務めたのが、黒母衣衆の佐々内蔵助と左衛門太郎である。軍勢を率いての本格的な野戦はこれが初めてであった左衛門太郎は、襲いくる浅井勢を虎御前山のふもとで食い止め、これを機に大いに名を上げた。
再び虎御前山に上がり、二年前、さほど武功を上げられなかった玄蕃允は、左衛門太郎の決死のいくさ振る舞いをも思い出し、期するものが湧いたのかもしれない。
「あのときとは違うだろ」
と、牛太郎は鼻の穴を膨らませている玄蕃允の若々しさに水を差す。
「あのときはもっとぎりぎりの戦いだった。今回は違う。余裕を持って戦えるだろ。そういういくさであんまりかっかすると、足元をすくわれるからな」
玄蕃允は牛太郎の言葉には何も反応せず、この太った凡将を忌々しそうに見つめる。
「父上のおっしゃる通りですよ、玄蕃殿。ただ、攻めるに当たってはかっかしなければならないときもあるでしょうから、そのときは槍を振るいましょうぞ」
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「かしこまりました」
玄蕃允は左衛門太郎には素直に頭を下げたが、ずかずかと立ち去ろうとして、一度、牛太郎に振り返って睨みつけてきた。
「なんなんだ、あの野郎は。だいたい、なんで、おれの手下になる奴はどいつもこいつも、こう反抗的なんだ。腹立つな」
「仕方ありません。父上は年賀の挨拶に岐阜に戻っても来なければ、家出をしたりして、評判が悪いのですから」
「評判が悪いなんて、聞いたことねえぞ」
「岐阜にいない父上に代わって、拙者が叱られているからです」
息子のしらりとした目が牛太郎に突き刺さり、牛太郎はその場からそそくさと逃げた。
虎御前山には砦が築かれることになった。その間、北近江の工作に勤しんできた藤吉郎を筆頭に、小谷城近在の攻略が開始される。
「牛もサルに付いていけ」
上総介の命が下り、精強な簗田勢は木下勢とともに戦野を駆けることとなった。
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まず、周囲の砦や支城の陥落が目的である。
だが、上総介は全軍を投入するわけにはいかない。
包囲網を組まれている状況にあって、敵は浅井だけではなく、摂津の諸勢力、松永弾正、越前朝倉、武田、果ては越後の上杉と、織田は一時の猶予もなく飛びまわらなければならない。
それを考慮すれば、一兵たりとも失いたくないのが本音であった。
小谷城を大軍で圧迫しつつ、外堀を埋めていく。
遊撃部隊にはいくさに巧みな者が求められた。
虎御前山を下りた木下勢及び簗田勢は、琵琶湖の方角へ進軍する。
「山本山を落とせ」casio 電子辞書
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上総介はそう命じたが、日暮れまでには虎御前山に戻ってこいとも付け足した。
「半日で落とせるわけがないだろ」
牛太郎は愚痴る。山本山は虎御前山と似たように、平地にぽこりと現れているなだらかな小山だが、柵や石垣、空堀などで城郭の様相を呈しているのが、虎御前山からでも見受けられた。
「本気でおやかた様が落とせと申していま