都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
時には庭の花の写真、時にはテーマパークの写真。

靖國神社 〈桜の時期に参拝〉 

2024-04-15 19:12:35 | 都内散歩
靖国神社  靖國神社(正字による表記)  東京都千代田区

靖國神社参拝  令和4年12月  令和5年3月

靖国神社について
【住 所】 東京都千代田区九段北3-1-1 地図⇒ Mapion地図
【御祭神】 護国の英霊 246万6千余柱 (祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊)
【創 建】 明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社がはじまり
【靖國神社】 
明治12年(1879)6月4日には社号が「靖國神社」と改められ別格官幣社に列せられました。
明治天皇が命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」という意味で、靖國神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

靖国神社   令和6年4月10日参拝
  第一鳥居




大村益次郎像(近代日本陸軍の創設者で靖國神社の創建に尽力した大村益次郎の銅像は、明治26年(1893)建立)

銅像前の碑文を記載
 大村益次郎は文政七年(一八二四)、周防国鋳銭鈣錠司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、不府の講武所教授等を勤め蘭学者、関方医、兵学者としてそ の名を高めた。
ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応二年、第二次長州征伐の折に、石州口の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改める事を主合鳴したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治二年(一八六九) 九月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年十一月五日大阪にて没した。四十六歳。
 明治二年六月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖国神社)の創達に際し、社地選定のため同月十二日、 この地を視察したことも記録に見え、靖国神社創建者としての功績は大きく、明治十五年、伯爵山田頭義らにより調像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大藤氏廣に塑型の製作が委嘱された。
 大熊氏廣は明治九年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、イタリア人該部ラグーザの薫陶をうけ、同十五年に首席で卒業する。卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻製作に従事、明治十八年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。バリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらには巨匠モンテヴェルデに入門した、大藤氏廣の帰朝後、漸く明治二十六年にい だりこの地にわが国最初の西洋式刻像が建立された。
大熊はキヨソゾネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。陣羽癒をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。後に大熊は、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰親王などの彫像を制作し、文部省美術展覧会審査委員を務めた。

 第二鳥居


 手水舎


 神門


 菊の御紋






 中門鳥居 (神門の奥)




 拝殿



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