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防犯カメラの杜

防犯カメラや監視カメラなどをご紹介です。お探しの防犯カメラがここで見つかります。

子供達の遊び相手

2011-04-07 16:18:38 | 防犯カメラ
柴田町の仙台大(朴沢泰治学長)は6日、学生と教員で組織した「災害ボランティア」を東日本大震災で大きな被害を受けた亘理町などに派遣した。活動の第1弾として亘理町から要請を受け、中・高校生用のジャージーとTシャツを取引業者から調達。4、5両日にはジャージー5000着とTシャツ7000枚の仕分け作業を行った。
仙台大では03年4月、「ボランティアセンター」を設立。学生の登録を始めたり、継続して行ったボランティア活動を単位として認定する制度を導入した。09年度のボランティアで要請依頼は113件、延べ約1200人が活動した。
今回の大震災では個人の意思で災害ボランティアに登録し活動している学生も多いが、仙台大は「体育・健康福祉・栄養」など各分野を生かそうと「チーム仙台大災害ボランティア」として活動することにした。
当面は登録学生50人と、医師免許や看護師免許などを持つ教職員30人の計80人が参加。亘理町と東京電力福島第1原発の事故に伴う避難民を受け入れている柴田町で、(1)がれきの撤去作業(2)エコノミー症候群予防の運動指導(3)要援護者の見守り(4)子供の遊び相手と学習支援(5)支援物資・衣類など提供と仕分け作業--などに当たる。
朴沢学長は「1000年に1度とも言うべき大震災で、組織的ボランティアを立ち上げた。有意義な活動ができることを期待したい」と話した

子供達に絵画教室

2011-04-06 22:25:13 | 防犯カメラ
「支援したい気持ちのある人は、全員現地に行ったらええ」と言うのは、神戸に拠点をもつ、被災地NGO恊働センター代表の村井雅清さん。'95年の阪神・淡路大震災直後、全国から集まったボランティアを一日平均70人動員し、被災地支援を行った。「ただし、災害ごとに状況が違うので、すべてのケースに通じるわけではありません。特に今回は原発事故にも見舞われた。アクセルとブレーキの両方を踏まなければならない」と村井さんは釘をさす。

「支援したい、現地に行きたい」という気持ちと同時に、「ガソリンは調達できるか」「寝る場所を確保できるか」「放射能被曝から身を守れるか」といったブレーキをかけてみる。現地では食事やトイレを確保しなければいけないが、他人に迷惑をかけずに対応できるか。

「これらを見極めて、自分で判断するしかない。現地に行けない人は、信頼できる人や団体に託して、金銭面で支援したらいい」という。

「今、支援のリーダーをやっている人も、最初はみな素人だった。支援活動をしながら、やり方を覚えていく。そのうち、人の上に立って指示を出すのか、裏方で貢献するのか、自分に向いている役割が見えてくる」と村井さんは言う。

震災の翌日、被災地NGO恊働センターのスタッフ3人が現地入りした。このうち2人は大学生で、'07年の能登半島沖地震で初めてボランティアを始めた若者だった。数日後、避難所にいる子供たちが抱えているストレスに気づき、子供の心のケアのための絵画教室を行う「色彩楽園」に、現地入りを要請した。こうした現場のニーズは「被災者との会話の端々に出てくる」と村井さんは言う。

現地入りしてから3日目、NGO恊働センターは足湯を提供した。

「足湯につかりながら、お母さんたちがつぶやく言葉のなかに、子供のストレスを感じさせるシグナルがあったのでしょう」(村井さん)

多くのボランティアを見てきた村井さんはこう確信している。

「被災者との出会いや交流が人間を変えていく。誰でも最初は素人。現場が人間を育ててくれるのです」

▼被災地NGO恊働センターの足湯ボランティア。寄付金は郵便振替:01180-6-6855/口座名:被災地NGO恊働センターまで

子供達が助ける

2011-04-06 11:45:27 | 防犯カメラ
新年度に入り、東日本大震災で被災した子供たちの学校再開を目指す動きが広がってきた。海外の震災救援を行ってきた専門家は「できるだけ早く日常に近い生活を」と、早期の学校再開を呼びかける。しかし、津波で大きな被害を受けた被災地では厳しいのが現状だ。未曽有の大災害に直面した子供たちや教員たちをどう支えていけばいいのか。(村島有紀)

◆ゲームや運動
「子供自身が人を助けたり、役立ったりしたポジティブな体験を発信し共有することで、立ち上がる気力がわき上がってきます」

約200人が死亡・行方不明になるなど大きな被害を受けた宮城県多賀城市。3月19日に市教育委員会で開かれたミーティングルームで、教師ら約20人は英国在住のウニ・クリシュナンさん(インド国籍)の話に耳を傾けた。

クリシュナンさんは途上国の子供たちを支援する国際NGO「プラン」(本部・英国)の医師。昨年のハイチ地震などで子供たちの心のケアに当たった災害対策の専門家だ。同教委と連絡を取り、今月21日の学校再開に向けてアドバイスした。

クリシュナンさんによると、子供たちに必要なのは、安心できる人間関係▽温かい食べ物▽学校▽楽しく過ごせるゲームや運動といったアクティビティー▽日常に近い生活リズム-という。学校再開が遅れても避難所で友人と一緒に勉強したり、遊びの時間を設けたりすることで、心理的負担を軽減できるとする。

多賀城市では、避難所となっている文化センター1階に子供がくつろいだり遊んだりできるスペース「こどもランド」を設置。避難所の一角に敷物を敷き、子供たちは他の避難者に気兼ねなく寝ころんだり、ゲームをしたりできる。ボランティアによる読み聞かせなども行われている。

3月29日に物資を届けたプラン日本事務所(東京都世田谷区)の久保田恭代さんによると、子供たちはノートや鉛筆といった文具をとても喜んだという。

「子供には思い切り遊び、表現する場が必要。一時は(福島第1原子力発電所の)原発事故の影響で『外で遊んではいけないよ』と言われたこともあり、フラストレーションがたまっていたようだ」と話す。

子供達への支援

2011-04-05 23:03:43 | 防犯カメラ
歌手/デザイナーとして活躍するグウェン・ステファニー(Gwen Stefani)が、東北地方太平洋沖地震の被災地支援のため、子供を支援するNGO「セーブ・ザ・チルドレン(Save the Children)」の救急募金(Japan Earthquake-Tsunami Children in Emergency Fund)に100万ドル(約8100万円)を寄付した。

グウェンは声明で「私は長年日本にインスパイアされてきました。日本人やその文化を愛し、尊敬し、感謝の気持ちを持っています」「日本の災害は悲痛でたまらなく、私はできることを何でもしたいと思っています。この寄付ができるのは、ファンの皆さんの長年のサポートや愛があってこそです」とコメントしている。

また寄付以外にも、自身がデザインする「原宿ラバーズ(Harajuku Lovers)」の限定Tシャツをウェブサイトで発売。収益は全て支援活動に充てられる予定だ。(c)Bang Showbiz/MODE PRESS

子供達と本

2011-04-05 16:30:33 | 防犯カメラ
● 医学書院、学芸出版社、岩波書店などがすでに実施
震災発生後、著者の了解を得た上で、すでに自主的に取り組んでいた出版社もある。
医学書院では、同社発行の雑誌「病院」「公衆衛生」「助産雑誌」などから、震災関連記事をPDFで公開している。また、「救急マニュアル 第3版」「医学書院医学大辞典 第2版」などの書籍の内容をウェブで閲覧できる「今日の診療 WEB版 法人サービス」を医療従事者を対象に4月30日まで無償提供中だ。

学芸出版社では、震災後の都市計画やまちづくりなどに関する書籍を公開。岩波書店では、「育育児典CD-ROM版」病気編を6月末まで公開するほか、雑誌「世界」「科学」の中から、原子力発電に関する一部論文を公開している。講談社でも、新書「ブルーバックス」シリーズで2001年に発行された書籍「日本の原子力施設全データ」の一部を公開している。

医学書院の金原優代表取締役社長が書協の副理事長を務めていることもあり、今回、会員出版社に対して広く呼び掛けることにした。同様の取り組みは、一般社団法人日本医書出版協会、社団法人自然科学書協会でもすでに行っているという。

● 「被災地への公衆送信権の時限的制限」容認の姿勢も
書協ではまた、全国の図書館が出版物の複製物などをインターネットなどを使って被災地の施設に送信するといった活動について、会員出版社に対して理解を求めている。

これは、社団法人日本図書館協会から書協をはじめとする権利者団体などに対して協力依頼があったことを受けての対応だ。このような行為は本来、著作権者および出版権者の許諾が必要だという。しかし書協では事態の緊急性を考慮し、趣旨を理解した旨を日本図書館協会に対して回答するとともに、会員出版社に対して書協側から理解と協力を呼び掛けることにした。

日本図書館協会によると、被災地の救援や生活基盤の復旧のために必要な資料や情報を提供したり、読書のニーズに応えることは図書館が担うべき役割でもあるが、被災地の図書館ではこれが困難だという。そこで全国の図書館が、医療や法律、行政に関する情報のコピーを、被災地の図書館や病院などの公共施設、救援活動を行っている団体や個人などにメールやファックスで送信することを容認してほしいとしている。

さらに、子供への絵本の読み聞かせや高齢者向けのお話し会の実施および中継、それらを録画・録音したものの配信、絵本の版面の公衆送信なども挙げている。特に読み聞かせは子供の心的外傷性後ストレス障害の予防に役立つとされていることからも重要だと訴え、「被災地への公衆送信権の時限的制限」を容認する特別な配慮を権利者側に求めたかたちだ。

なお、こうした特別措置は、東日本大震災の被災により資料や情報の入手が困難な期間・地域に限定するものとし、復興がある程度なされた段階で複製物などは廃棄するとしている。

● 被災地へ本を寄贈、すでに3万冊、近く雑誌8000冊も
書協など出版業界団体による東日本大震災に対する取り組みとしては、「<大震災>出版対策本部」がある。

これは、書協、社団法人日本雑誌協会(雑協)、財団法人日本出版クラブの3団体が3月23日付で設置したもの。併せて、社団法人日本出版取次協会、日本書店商業組合連合会も参加する「<大震災>出版対策連絡協議会」も立ち上げ、支援活動などを推進している。

例えば、被災地への「図書寄贈プロジェクト」が日本出版クラブを中心として動いており、すでに3月24日、段ボール箱約600箱・約3万冊の図書を発送したという。雑協でも避難所に雑誌を寄贈するとしており、4月6日には約8000冊の雑誌をトラックで東京から送り出す予定。

子供達避難所クラブ

2011-04-04 21:41:56 | 防犯カメラ
■石巻高にこども避難所クラブ
東日本大震災と長引く避難生活による子供たちのストレスを緩和しようと、県立石巻高校に「石巻こども避難所クラブ」が開設された。風船遊びや紙芝居に子供たちからは笑顔が漏れ、避難所全体を明るくしている。(松岡朋枝)
同校トレーニングルームの一角に避難者らの毛布に囲まれるように2畳分ほどの「チャイルドスペース」がある。震災直後に設置され、同ルームには子供連れの被災者が多く身を寄せる。このスペースを利用して3月21日に活動を始めたのが「石巻こども避難所クラブ」だ。
運営するのは震災を機に設立されたNPO法人(特定非営利活動法人)「こども避難所クラブ」。代表を務める同市在住の画家、柴田滋紀さん(35)も被災し、同校に避難した。食料や水が安定的に届くようになり「自分には何ができるか」と考えたときに目に留まったのが、避難所にいる子供たちだった。
クラブでは、毎日約1時間、ボランティアスタッフや同校に避難している保育士らが紙芝居や手遊びを行う。参加する子供たちは2歳児から小学校高学年まで約20人。時間になると校内4カ所の避難所から続々と集まってくる。
石巻市立門脇小3年の亀山太陽君(9)も、校内の別の避難所からクラブに足を運ぶ。同小は震災で焼けてしまったが「避難所で仲良くなった友達もいる。楽しい」とにっこり。子供たちの笑顔に、避難所にいる大人からも笑みがこぼれる。谷村良子さん(68)は「子供たちから元気をもらえる」と、目を細めた。
徐々に笑顔を取り戻す子供たちだが、震災によって負った心の傷は深い。
3月26日の活動中、トレーニングルーム内にサイレンが響いた。笑顔で走り回っていた子供たちは立ち止まり、水を打ったように静かになった。「外へ出た方がいい?」。強ばった表情で問いかける子も。
「最初は泣いてばかりだったけど、今は大丈夫。ご飯も水もあるし、これで楽しくないなんてどれだけ欲張りだよ~って感じぃ」とおどける同小5年の佐藤耕佑君(11)だが、父親の行方が分からない。
柴田さんは「自分たちがどういう状況にいるのか分かっている。だからこそ、心のケアが必要なのです」と、強調する。しかし、子供たちすべてに手を差し伸べることはできないのが現状だ。「せめて避難所に1人、子供の相手をできる仲間がいれば」。柴田さんはボランティアを募集している。問い合わせは柴田さん(電)090・2909・2729。

子供達を休ませる

2011-04-03 19:20:10 | 防犯カメラ
心のケア 「頑張って」とは言わないで
東日本大震災による被災でPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人が増えている。とくに家族や家、財産を失い、避難所生活を強いられている被災者は集団生活のストレスも重なり、「手足の震えが止まらない」と訴える高齢者もいる。専門家は「まず、話を聞いてあげること。『頑張って』とは言わないで」と忠告する。(藤原保雄)

釜石市の旧市立釜石一中の体育館には約170人が避難している。災害ボランティアは「避難3日目から食料、水、灯油などの救援物資が続々と送られて助かっている。ここには赤十字の救護班もいて心強い」。ただ、「高齢者や子供らの心のケアをどうするか、課題が増えた」と明かした。

この避難所に設営された救護班では赤十字北海道支部から派遣された医師1人、看護師3人、事務員2人が医療や生活支援に当たっている。同支部によると、1チーム当たり6人編成の救護班を組み、北海道からの移動を含めて6日間交代で活動し、当面は第20次までの緊急派遣を予定しているという。

浦河赤十字病院看護専門学校の専任教師、齋藤慎子さん(39)は「心のケア」専門員として派遣された。「不安そうな人や孤独な高齢者に声かけをして、まずは話を聞いている」

壁際で一人、手にした診察券を震わせてみつめていた高橋秀夫さん(79)を見かけると、「どうかしましたか」と話しかけた。「来週、CT検査を受けなくちゃならない。でも、どのようにして病院に行ったらいいのか。主治医と連絡もとれない」とかぼそい声で高橋さんが語った。齋藤さんは「私が連絡してあげる。安心して」と告げると、救護班の事務員に手配した。

小笠原芳郎さん(72)は毛布をかぶってぼんやりとしていた。齋藤さんが尋ねると、家と漁船を失ったこと、一緒に暮らしていた妻は無事だったこと、息子2人が札幌市に住んでおり、息子たちと札幌で暮らしたいと考えていること-などを淡々と語った。

その後、「水に流された近所の人が柱につかまって頑張っていた。でも、最後は力尽きて…。私らだけが助かってしまった」。涙が目からこぼれた。齋藤さんは小笠原さんの背中をさすりながら、じっと耳を傾け、「大丈夫、ね、大丈夫だから」と手を握った。

齋藤さんによると、避難所では介護疲れもあって家族同士のいさかいが目立つようになってきたという。病気がちな高齢者を含め健常者の心のケアも必要だ。

齋藤さんは「心を深く傷つけたり、不安におびえている人に『頑張って』と言ってはいけない。その人の悲しみ、悩みを否定することにつながり、新たなストレスを与えることにもなる。寄り添って共感し、休ませてあげることが必要だ」と話した。



6000キロ先の子供達

2011-04-03 09:10:24 | 防犯カメラ
インドネシア・スマトラ島北端のアチェ州。2004年12月、マグニチュード(M)9.1のスマトラ島沖地震による大津波で約20万人が犠牲になったこの地の住民に、東日本大震災はかつての大惨事の記憶をよみがえらせた。6年が経過し、国際支援で立ち直った街は、日本の復興を願う思いで満ちあふれていた。

そのとき、宮城県から約6千キロ離れたジャカルタの地震・津波早期警報センターでは、警報音がけたたましく鳴り響いていた。正面のスクリーンには日本列島が映し出され、東北地方の太平洋沿岸部に緑色の△の印が点滅している。

日本などに設置された地震計のデータが、衛星通信システムで瞬時に、3年前にできたセンターへ送られてきたのだ。計25台のコンピューターは、インドネシアへの津波の到達予想時刻と地域などを割り出そうとフル稼働している。数分後、携帯メールやインターネットを通じ、最初の警報が全国に発信された。

「3月11日午後0時46分27秒発生(インドネシア時間)。M8・4。震源の深さ40キロ。津波の可能性」。その時点で実際の規模と震源の深さとは誤差があった。

そのころ、ジャカルタから北西へ約1800キロのバンダアチェの早期警報センターでは、震源地から伝わった地震波を感知していた。やがて日本での巨大地震と大津波を知った住民から「こちらに津波が来るのか。大丈夫なのか」という電話が殺到した。

「住民は日本での津波の映像を見てかつての恐怖がよみがえり、パニックに陥っている」。同センターのシャーナン所長はそう感じた。バンダアチェへの津波の到達は予想されていない-という情報が住民にラジオなどで伝えられた。

「日本も乗り越えて」 バンダアチェ、よみがえる6年前の恐怖

インドネシア・スマトラ島最北端アチェ州の州都バンダアチェ。運転手のファウジーさん(39)は3月11日、東日本大震災のテレビニュースを家族と見ながら「6年前を思いだしていた」。

揺れは自宅でシャワーを浴びているときにきた。海岸まで3キロ。半ズボンに大急ぎで足を突っ込み、外へ出てみると、津波が見えた。膝まで水がきてようやく、子供と妻の手を引っ張り一目散に走って逃げた。

「『Tsunami』を知らなかった」。途中で軍のトラックに飛び乗り、命拾いした。多数の親類が津波にのみ込まれた。

主婦のダリヤさん(30)は日本での津波を目にし、恐怖で鳥肌が立ち、そして涙が出てきた。「私たちも同じだった…」と。

海岸からわずか10メートルのところに住んでいた。妹や弟など家族6人を失った。亡骸(なきがら)はどこにあるかわからない。「街はめちゃめちゃで、遺体が散乱していた」。トラウマは消えない。

現在の自宅は海まで数キロ。世界銀行の援助で土地を買い、家を建てた。もっと安全な場所に住みたかったが、地価が高くて無理だった。「津波は怖いけど仕方がない」と思う。

日本が津波対策支援
復興した街にも、傷跡があちらこちらに残されている。港から5キロも流された大型船舶、朽ち果てた家屋の上に“座礁”したままの漁船、5万人の遺体が埋葬された無名墓地、点在する外壁だけの家々…。

津波対策も施された。日本の援助で4カ所に4階建ての津波避難棟が建てられ、5カ所にサイレン塔、6カ所に地震計、海には津波観測用のブイが設置された。国全体でも、2004年に32カ所だった地震計や津波観測ブイは、160カ所にまで増設された。

インドネシアは04年以降も、ほぼ毎年のようにマグニチュード(M)7、8級の地震に襲われ、数千人の犠牲者を出してきた。このため専門家育成も進められ、地震大国の日本で学ぶ者は多い。

ジャカルタの早期警報センターのラフマット・トリヨノ所長(39)もそのひとり。国際協力機構(JICA)の援助で東北大学で津波工学などを学んだ。それだけに「日本の被害に誰より衝撃を受けた。苦難に耐えてほしい」と願う。

災害と紛争から
アチェ州はインドネシアでイスラム教が最初に伝播(でんぱ)した地。ダリヤさんは、家の目と鼻の先の津波避難棟を見やると、やさしい表情を浮かべた。

「日本はずっと私たちを助けてくれた。私は貧しくてお金がなく、手伝いもできず申し訳ないと思う。その代わり、日本が震災を乗り越えて復興するよう心から(神に)祈ります」

津波に襲われたとき、アチェ州では30年間におよぶ独立紛争が続いていた。国軍の攻撃や拷問などで、独立派武装組織と住民の死者が数千人に上ったという紛争は、津波によって和平協定調印へと動かされた。

ファウジーさんの言葉が心に残った。
「津波で多くの住民が死んだ。また独立紛争となれば、多くの人が死ぬ。平和な方がいい」(バンダアチェ=インドネシア・アチェ州 青木伸行)

【用語解説】スマトラ島沖地震
2004年12月26日、インドネシア西部スマトラ沖のインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの境界付近で発生。巨大な津波を引き起こし、東南アジアだけでなくインド、アフリカなどにも被害を及ぼした。死者、行方不明者は22万人以上にのぼる。

子供達がんばれ。

2011-04-02 14:52:07 | 防犯カメラ
厚生労働省は1日、東日本大震災で両親を失った震災孤児について、岩手県で50人弱、宮城県で16人に上ると発表した。福島県は調査中で全容把握に至っていない。実際の孤児数はもっと多く、阪神大震災の68人を上回る可能性がある。
同省によると、岩手県内の避難所に身を寄せた子供を調べたところ、両親が死亡したり、行方不明になったりした孤児は、3月31日時点で50人弱だった。いずれも身近に世話をする人がおり、自治体による一時保護は見送られたという。
宮城県では、各市町村から報告された孤児は計16人に上った。調査できていない避難所もあり、厚労省は近く児童福祉司ら28人を派遣し、実態把握を急ぐ。
厚労省と文部科学省は1日、学校再開に合わせて安否確認を行い、孤児を見つけた場合は児童相談所に連絡するよう、都道府県などに通知した。


子供達の学習環境

2011-04-01 22:19:23 | 防犯カメラ
東日本大震災で被災した児童生徒の学習環境の確保に役立てようと、文部科学省は1日、インターネット上で「子どもの学び支援ポータルサイト」を開設した。
被災地などから支援要請を書き込んでもらう一方、各地の教育委員会やNPOなどからの支援の提案を掲載することで、子どもたちの転入学の受け入れや教職員の派遣、学用品の提供など、被災地の要望と支援を橋渡しする狙い。
アドレスは、http://manabishien.mext.go.jp/