防犯カメラの杜

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子供達を休ませる

2011-04-03 19:20:10 | 防犯カメラ
心のケア 「頑張って」とは言わないで
東日本大震災による被災でPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人が増えている。とくに家族や家、財産を失い、避難所生活を強いられている被災者は集団生活のストレスも重なり、「手足の震えが止まらない」と訴える高齢者もいる。専門家は「まず、話を聞いてあげること。『頑張って』とは言わないで」と忠告する。(藤原保雄)

釜石市の旧市立釜石一中の体育館には約170人が避難している。災害ボランティアは「避難3日目から食料、水、灯油などの救援物資が続々と送られて助かっている。ここには赤十字の救護班もいて心強い」。ただ、「高齢者や子供らの心のケアをどうするか、課題が増えた」と明かした。

この避難所に設営された救護班では赤十字北海道支部から派遣された医師1人、看護師3人、事務員2人が医療や生活支援に当たっている。同支部によると、1チーム当たり6人編成の救護班を組み、北海道からの移動を含めて6日間交代で活動し、当面は第20次までの緊急派遣を予定しているという。

浦河赤十字病院看護専門学校の専任教師、齋藤慎子さん(39)は「心のケア」専門員として派遣された。「不安そうな人や孤独な高齢者に声かけをして、まずは話を聞いている」

壁際で一人、手にした診察券を震わせてみつめていた高橋秀夫さん(79)を見かけると、「どうかしましたか」と話しかけた。「来週、CT検査を受けなくちゃならない。でも、どのようにして病院に行ったらいいのか。主治医と連絡もとれない」とかぼそい声で高橋さんが語った。齋藤さんは「私が連絡してあげる。安心して」と告げると、救護班の事務員に手配した。

小笠原芳郎さん(72)は毛布をかぶってぼんやりとしていた。齋藤さんが尋ねると、家と漁船を失ったこと、一緒に暮らしていた妻は無事だったこと、息子2人が札幌市に住んでおり、息子たちと札幌で暮らしたいと考えていること-などを淡々と語った。

その後、「水に流された近所の人が柱につかまって頑張っていた。でも、最後は力尽きて…。私らだけが助かってしまった」。涙が目からこぼれた。齋藤さんは小笠原さんの背中をさすりながら、じっと耳を傾け、「大丈夫、ね、大丈夫だから」と手を握った。

齋藤さんによると、避難所では介護疲れもあって家族同士のいさかいが目立つようになってきたという。病気がちな高齢者を含め健常者の心のケアも必要だ。

齋藤さんは「心を深く傷つけたり、不安におびえている人に『頑張って』と言ってはいけない。その人の悲しみ、悩みを否定することにつながり、新たなストレスを与えることにもなる。寄り添って共感し、休ませてあげることが必要だ」と話した。



6000キロ先の子供達

2011-04-03 09:10:24 | 防犯カメラ
インドネシア・スマトラ島北端のアチェ州。2004年12月、マグニチュード(M)9.1のスマトラ島沖地震による大津波で約20万人が犠牲になったこの地の住民に、東日本大震災はかつての大惨事の記憶をよみがえらせた。6年が経過し、国際支援で立ち直った街は、日本の復興を願う思いで満ちあふれていた。

そのとき、宮城県から約6千キロ離れたジャカルタの地震・津波早期警報センターでは、警報音がけたたましく鳴り響いていた。正面のスクリーンには日本列島が映し出され、東北地方の太平洋沿岸部に緑色の△の印が点滅している。

日本などに設置された地震計のデータが、衛星通信システムで瞬時に、3年前にできたセンターへ送られてきたのだ。計25台のコンピューターは、インドネシアへの津波の到達予想時刻と地域などを割り出そうとフル稼働している。数分後、携帯メールやインターネットを通じ、最初の警報が全国に発信された。

「3月11日午後0時46分27秒発生(インドネシア時間)。M8・4。震源の深さ40キロ。津波の可能性」。その時点で実際の規模と震源の深さとは誤差があった。

そのころ、ジャカルタから北西へ約1800キロのバンダアチェの早期警報センターでは、震源地から伝わった地震波を感知していた。やがて日本での巨大地震と大津波を知った住民から「こちらに津波が来るのか。大丈夫なのか」という電話が殺到した。

「住民は日本での津波の映像を見てかつての恐怖がよみがえり、パニックに陥っている」。同センターのシャーナン所長はそう感じた。バンダアチェへの津波の到達は予想されていない-という情報が住民にラジオなどで伝えられた。

「日本も乗り越えて」 バンダアチェ、よみがえる6年前の恐怖

インドネシア・スマトラ島最北端アチェ州の州都バンダアチェ。運転手のファウジーさん(39)は3月11日、東日本大震災のテレビニュースを家族と見ながら「6年前を思いだしていた」。

揺れは自宅でシャワーを浴びているときにきた。海岸まで3キロ。半ズボンに大急ぎで足を突っ込み、外へ出てみると、津波が見えた。膝まで水がきてようやく、子供と妻の手を引っ張り一目散に走って逃げた。

「『Tsunami』を知らなかった」。途中で軍のトラックに飛び乗り、命拾いした。多数の親類が津波にのみ込まれた。

主婦のダリヤさん(30)は日本での津波を目にし、恐怖で鳥肌が立ち、そして涙が出てきた。「私たちも同じだった…」と。

海岸からわずか10メートルのところに住んでいた。妹や弟など家族6人を失った。亡骸(なきがら)はどこにあるかわからない。「街はめちゃめちゃで、遺体が散乱していた」。トラウマは消えない。

現在の自宅は海まで数キロ。世界銀行の援助で土地を買い、家を建てた。もっと安全な場所に住みたかったが、地価が高くて無理だった。「津波は怖いけど仕方がない」と思う。

日本が津波対策支援
復興した街にも、傷跡があちらこちらに残されている。港から5キロも流された大型船舶、朽ち果てた家屋の上に“座礁”したままの漁船、5万人の遺体が埋葬された無名墓地、点在する外壁だけの家々…。

津波対策も施された。日本の援助で4カ所に4階建ての津波避難棟が建てられ、5カ所にサイレン塔、6カ所に地震計、海には津波観測用のブイが設置された。国全体でも、2004年に32カ所だった地震計や津波観測ブイは、160カ所にまで増設された。

インドネシアは04年以降も、ほぼ毎年のようにマグニチュード(M)7、8級の地震に襲われ、数千人の犠牲者を出してきた。このため専門家育成も進められ、地震大国の日本で学ぶ者は多い。

ジャカルタの早期警報センターのラフマット・トリヨノ所長(39)もそのひとり。国際協力機構(JICA)の援助で東北大学で津波工学などを学んだ。それだけに「日本の被害に誰より衝撃を受けた。苦難に耐えてほしい」と願う。

災害と紛争から
アチェ州はインドネシアでイスラム教が最初に伝播(でんぱ)した地。ダリヤさんは、家の目と鼻の先の津波避難棟を見やると、やさしい表情を浮かべた。

「日本はずっと私たちを助けてくれた。私は貧しくてお金がなく、手伝いもできず申し訳ないと思う。その代わり、日本が震災を乗り越えて復興するよう心から(神に)祈ります」

津波に襲われたとき、アチェ州では30年間におよぶ独立紛争が続いていた。国軍の攻撃や拷問などで、独立派武装組織と住民の死者が数千人に上ったという紛争は、津波によって和平協定調印へと動かされた。

ファウジーさんの言葉が心に残った。
「津波で多くの住民が死んだ。また独立紛争となれば、多くの人が死ぬ。平和な方がいい」(バンダアチェ=インドネシア・アチェ州 青木伸行)

【用語解説】スマトラ島沖地震
2004年12月26日、インドネシア西部スマトラ沖のインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの境界付近で発生。巨大な津波を引き起こし、東南アジアだけでなくインド、アフリカなどにも被害を及ぼした。死者、行方不明者は22万人以上にのぼる。