beer

beer飲みつつ今日もまた・・・
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あいかわらず

2005年10月22日 21時35分44秒 | Weblog
紙飛行機にあいかわらずはまっている。
広い場所でも100メートル以上飛び、何機かは水没したが笑って許せる程楽しめた。
そういえば滞空時間計るのわすれてた。・・・・ちくしょー!

ま、コレは良い遊びだと思う。

紙飛行機滞空時間更新

2005年10月15日 08時18分16秒 | Weblog
今朝7時20分過ぎに自己記録を更新!
34秒になりました。
しかも近所の公園で!
半径15m位の円周軌道を飛んでました。
昨夜の雨を朝日が照らして上昇気流が発生した感じでした。

カメラ持っていかなかったのが残念!

紙飛行機クラブ

2005年10月10日 21時50分00秒 | Weblog
そういえば、紙飛行機には思い出がある。
中学生のとき初めてハンググライダーを見た。

「人は空を飛べるんだ・・・」と無茶苦茶感動して学校の友達と空を飛ぶ計画を立てた。

当時は関西の竹の産地に住んでいたので、竹でハンググライダーを作ることにした。

学校に同好会申請をして早速制作に取り掛かった。
私は部長。

計画では校舎の屋上から初飛行を考えていたのだが、おもわぬトラブルが発生。
ハンググライダー製作用の竹を無断で取ってきたのがばれて計画の一部始終が発覚。
なぜか学校ではなく、PTAのおばさんたちに怒られて頓挫。
「そんな危険なことしてどうするの!」
「もっと中学生らしいことしなさい!!」
「そんなに空を飛びたかったら紙飛行機でも飛ばしていなさい!!!」と怒こられた。

仕方なく紙飛行機クラブへと変更し紙飛行機を飛ばしまくった。
しかしこれまた学校中にはやってしまい休み時間はみんな紙飛行機を飛ばすようになり紙飛行機のゴミ問題が発生。

またまたPTAのおばさんに怒られて言い訳に「いや、しかし仰せの通りにハングググライダーあきらめて紙飛行機にしたのですが・・」というと火に油を注いだらしく烈火のごとく怒られた。

なぜか私の親まで呼び出された。

母親が呼び出されてコテンパンにやられて紙飛行機クラブは廃部になった。
その後もしつこくPTAのオバサンにあれこれ文句を言われ続けていたのだがしばらくして親父が呼ばれた。

なぜか翌日紙飛行機クラブは復活。

そして親父が一言。
「迷惑をかけないように楽しめ!」そんな感じのことを言った。

やるな~と思ったが、一回消えた火は再燃せずそのまま紙飛行機は下火になった。






紙飛行機

2005年10月10日 15時33分42秒 | Weblog
最近息子達とハマッているのが紙飛行機つくり。

紙飛行機といっても本格的な奴でボディはバルサ材。
「ホワイトウイングス」という工学博士の二宮先生の設計された奴だ。
(詳しくはこちら→http://www.whitewings.com/japan/)


もちろん子供にはまだ正確には作れないので出来る部分を手伝わせる。
子供と一緒に設計図を見ながら慎重に造るので簡単なものでも1時間近くかかってしまうが楽しいことこの上なし!

しかもよく飛ぶ!!!!!

我が家の滞空レコードはまだ僅か26秒だが、この時間が永遠のように感じるくらい長い。

上手な人はどうやら2分以上滞空できるらしい。

ただ一つ困るのが場所探し。
近所の公園では高い木の上に3機も引っ掛けてしまった。
海岸でも水没2機。

今一番のお気に入りは吉野公園というだだっ広い芝生が広がる場所だ。

年内には滞空時間1分を越えたいものだ。大人にもお勧めです!!

一所懸命生きなければ

2005年10月08日 00時42分17秒 | Weblog
もう30年近く前の事をリアルに思い出してしまった。

仕事でたまたま隣県にある思春期の頃の彼女のお墓のすぐ側に行った。

当時まだお互い15歳、そして互いに入院患者同士。
そしてお互いまだ確実な治療法の確立されていない闘病中に知り合った。

彼女は5階、私は9階。

別な病棟だったが、同い年と言うこともあってよく話しをした。
すぐに恋愛感情が芽生えて、回診以外はいつも一緒にいて退院後の話をしていた。
おそらくだが、たぶん医者や看護婦さんもかなり大目に見ていてくれていたと思う。

でもその頃の私達の話は、お互いの有り得ない夢の話をしていたようなものだった。
たぶん生きては退院できない事を聞かされていたから。

話の内容はこうだ。
退院したら、映画に行こう。キャンプに行こう。一緒に楽器弾こう。海外旅行に行こう。
そしていつも一緒にいよう。
そんな話だった。

しばらくして、彼女は片腕を切断され、抗がん剤で髪の毛が抜けた。
頭髪はもちろん、睫毛も眉毛も。
作り物の左手をつけて、帽子をかぶるようになった。
私のほうも24時間点滴で、腕に板を巻きつけて点滴液をぶら下げながら病院中を歩いていた。

消灯前のロビーの公衆電話で互いの親や友人に電話しながらそれが終わると病棟の婦長が怒りに来るまで馬鹿な話をずっとしていた。

やがて彼女は転院した。彼女の自宅のそばの病院だ。
それが何を意味するのかは知っていたけど互いにそのことには触れなかった。

3カ月ほどたって私に外泊が許されたとき、私は自分の家に帰らず親にお願いして彼女の病院を訪ねた。今思えば私にしては随分親に素直だったと思う。
なぜなら、彼女が転院してからお互い毎日のように手紙を出し合っていたが、途中から彼女の字ではなくお母さんの字になっていたからだ。

列車に乗り2時間以上かけて久しぶりに再会した。

顔の骨格がはっきりわかるほど痩せて、お腹には腹水が溜まり僅かに腕を動かせるのが精一杯の姿になっていた。
彼女は膨らんだお腹を指して「みてほら、なんか赤ちゃんできたみたい」と軽口を叩いていた。

彼女のお母さんは「用事があるからちょっと出かけるね」といって部屋を出た。
すぐ側のロビーに居たみたいだ。
・・・トイレに行ったときにロビーに居たのを見てしまった。

帰りの列車の時間が来るまでずっと二人だけで一緒に居た。
相変わらず馬鹿な話をしながら手を握って話していた。
そして相変わらず退院してからのことをたくさん約束をした。
それだけの時間を過ごした。

ちょうど二日後が彼女の誕生日だったので持っていったギターでハッピーバースディーを唄った。
たぶん20回くらい唄ったかもしれない。

・・・2週間後彼女のお母さんから電話が入った。
「ありがとう」

不思議と涙は出なかった。
その二日後の葬儀に出席したがそれでも何故か涙は出なかった。
彼女の親族や同級生達が泣いているのを見ながらまるで哀しい気持ちにならなかった。
別な世界の出来事だったように思う。

その日、自分の入院先の病院に戻って夜中に目が覚めたとき、いきなり涙が出てきた。
私の状態があまりに酷いので、看護婦さんが気を使ってナースステーションに連れて行ってもらい仮眠室で過ごさせてもらった。


私はその後入退院を繰り返したが今こうして生きている。

当時の同室の人は皆亡くなられて私だけ生き残っている。

今あの頃の2倍の以上の年を重ねててもまだ価値のない自分に愕然とする。

いったい私はいつ大人になれるのだろうか。